ファッションてなんかムカつくという人にこそ読んでもらいたい『vanitas No.003』
posted by Book News 編集:ナガタ / Category: 新刊情報 / Tags: 批評, 歴史, 美術・芸術, SF,
今回は、『vanitas No.003 | ファッションの批評誌
』をご紹介します。
オシャレになりたいというより、服を着るとはどういうことなのか、なんかファッションて気持ち悪いのでは、と思ってる人にこそオススメしたい一冊。「ファッションの批評誌」ということですが、服を着ること、服を作ること、服を着る肉体、社会における服飾の意味の分析など、扱われる内容やその扱い方は実に多様。
未邦訳のファッション関連書籍の紹介という最先端から、ジンメルの古典的な論考の翻訳まで、いまファッションについて批判的に考察するためにとりあえず手を付けるのに最良の入門書と言えるでしょう。

オシャレになりたいというより、服を着るとはどういうことなのか、なんかファッションて気持ち悪いのでは、と思ってる人にこそオススメしたい一冊。「ファッションの批評誌」ということですが、服を着ること、服を作ること、服を着る肉体、社会における服飾の意味の分析など、扱われる内容やその扱い方は実に多様。
未邦訳のファッション関連書籍の紹介という最先端から、ジンメルの古典的な論考の翻訳まで、いまファッションについて批判的に考察するためにとりあえず手を付けるのに最良の入門書と言えるでしょう。
ファッション門外漢にまず読んでほしいのは、Creative Commons Japan理事・Arts and Law代表理事など多彩な肩書を持つ弁護士の水野祐氏による、オープンソースやフリーカルチャーからファストファッションまでを論じる「ファッションにおける初音ミクは可能か?」という論考。
3Dプリンターや著作権と諸産業の経済規模など、ファッションに留まらない広い視野のなか、キャッチーなテーマでファッションを論じるというもの。ユニクロやH&Mといったファストファッションが、いわゆる「ファッション」として語られがちな高級なモードの文脈とどのように関係づけて論じられうるのか、参考になります。
そしてその次に読んでほしいのは、なんと19世紀後半から20世紀初頭に活躍した社会学の草分けゲオルク・ジンメルによる「モードの哲学」。階級社会の上流階級とそれ以外の緊張関係に代表される、異質な複数の集団のあいだで「流行」がどのように作り出され伝播され消費されていくのかについて論じられています。さきほどの「ファッションにおける初音ミクは可能か?」のあとにこれを読むと、上流階級向けの「モード」と、それ以外向けの「ファストファッション」の議論が100年以上も前に原理的に指摘されていたことに驚かされると思います。
さらに続けて読んでほしいのは、趙知海氏の「女性ファッション写真家たちー曖昧なイメージに込めるもの」、そして大久保美紀氏の「逆行する身体表象ー「復活」するマネキンあるいはマルカン」。どちらもファッションにおける「女性」が果たす現代的な「役割」をテーマにしています。
フェミニズム嫌いの読者には、多少の紋切り型の表現にウンザリする感じがあるかも知れませんが、さきほどのジンメル「モードの哲学」と読み合せるとき、単なる男女平等主義というありきたりの俗流フェミニズムの紋切り型ではない、男性と女性という現代にあってますます緊張を深める2つの社会集団のあいだでの「流行」がどう扱われてきたのかを、肉体という逃れられない条件と、その肉体をどう見せていくのかという「写真」をテーマに論じたものとして書かれていることがわかると思います。
なお、革新的で暴力的、スキャンダラスな作風で知られ、上掲の2人の論考でも名前が登場するギィ・ブルタンについては批評家の渡邊大輔氏による写真集の書評がオンラインで読めますので参考までにご覧ください。
参考URL:
人間と動物をめぐって――ギィ・ブルダン小論|限界小説研究会BLOG
http://ameblo.jp/genkaiken/entry-10619802631.html
「技術とファッション」という、「ファッションにおける初音ミクは可能か?」のテーマは、「テクノロジーと創造性について」や「Futuristic EleganceーIris van Herpen 試論」でも扱われています。服飾と技術について興味のある人はこちらもぜひ。
人が何かを批判する時、その対象をこき下ろし、否定し去ることだと考えられてしまうことは残念ながらほぼ一般的です。しかし、批判をすることは、別の側面では、批判対象をより深く理解したり、その対象の未来をより良くすることもあるのです。もっとも、そういった批判は結局のところ批判的な側面を持ちながらも対象を延命させてしまう、そういう問題も抱えていると言われます。
でも、批判が単なる対象の否定や破壊、あるいは断絶のためだけにあるのだとしたら、文化は無批判に登場する蛮勇の連続になり、批判はあたかもモグラ叩きのように、それらの蛮勇を見つけ出しては破壊しようとする、不毛なイタチごっこに終始することになります。批評という行為の歴史を知ろうとしたことのある人の多くは、この不毛なイタチごっこを目の当たりにして絶望してしまう。批評が不毛だと考えている人のほとんどは、この絶望をよく知っていると思います。それでもなお、たとえばファッションのように、人が服を着て人前に立つならば必ず発生してしまう文化においては、断続的な批評が現場で何度も呟かれてきました。不毛なイタチごっこに見える文化の創出と批判の応酬を掘り起こして連続的なものとして可視化する、それも批評の役割なのです。
本書の編集後記で触れられているように、批評の端緒はそのようなちょっとした素朴な批判のやり取りから始まります。本来、批評や批判は、生活のなかで生まれているものであり、それが本当に不毛なイタチごっこなのだとしたら、それは単に批判をする人たちがその現場の批判を断続的なままにして、連続性を見出さない、目を逸らしているからに過ぎないのです。
ファッションについて考えるというときに、単にデザイナーの考えを文字にするばかりではなく、人々の生活を席巻しているファストファッションや、最新の技術の応用について論じ、それを着る側の肉体にも着目し、あるいは文化の総体からファッションの流行を分析しようとした社会学の古典を紹介するのは、こういった生活や文化といった大きな枠組みのなかにファッションとその批評を位置付けようとする姿勢から来るものに違いありません。
楽しい我慢、我慢の愉しみ、それは楽しく遊ぶための不可欠な要因であり、自分自身の外見や、仲間うちでの外見について楽しむための要因でもあるでしょう。ファッションについて考えるということは、この楽しい我慢をどう扱うか、その技術を学び、楽しむことなのかも知れません。