フォトエッセイ
図表を作る、眼を創る─科学人類学者のまなざし
科学とはなにか
科学とはなにか。いくつかの「モハンカイトウ」を並べてみよう。観察を通じて事実を発見すること。実験を通じて仮説を検証あるいは反証すること。物質の振る舞いや現象を数学的・理論的モデルによって説明すること。自然界の普遍的な真理を探究すること。正しい知識を生み出し、蓄積すること。
学者たちは、長い間「科学とはなにか」という問いを考え続けてきた。科学者の活動を説明するために、「観察」とか「実験」とか「事実」とか「真理」といった、難しい専門用語をいっぱい発明してきた。たとえば科学哲学者と呼ばれる人びとは、こうした実践や概念が科学において持つ意味について一生懸命考えてきた。結果として、僕らは実際の科学者の活動を見に行かなくても、上のような言葉で「科学とはなにか」をイメージできるようになった。
こうした科学のイメージは、確かに科学についてほとんど何も知らない人が科学をイメージする助けにはなるのだが、全く問題がないというわけでもない。問題点をふたつほど挙げてみよう。
第一に、科学者は「知識」を生み出しているというが、ここで言われている「知識」とは具体的には何のことだろう?「科学的知識」といえば、典型的には「重力加速度は○○m/s2である」とか、「プレートテクトニクス理論によれば、日本列島は毎年△△cmの速さでハワイに近づいている」といったような、「教科書に載っているような事実」が思い浮かぶのではないかと思う。科学について考えてきた学者たちも、そういう歴史に残るような事実の発見こそが科学の醍醐味だと考えてきた。しかしもちろん、科学者の誰もが教科書に載るような「知識」を生産しているわけではないし、またそのような知識を生み出す科学者であっても、いつでもそうした「知識」を生み出しているわけでもない。
つまり、「知識を生み出し、蓄積すること」という科学モデルは、教科書に載るような偉大な発見について考える視点としては悪くないかもしれないが、そうした「偉大な発見」以外の活動を描き出す視点としては、あまり役に立たないのだ。それどころかこうした視点は、科学者が運良くそうした「大発見」を成し遂げる以外の時間に関わっているほとんどの事柄、すなわち科学者が日常的に携わっている仕事に対して「大発見に比べると取るに足らないつまらない発見」をしているとか、あるいは「大発見のための単なる準備作業」をしているかのような印象すら与えてしまう。
でも、ほんとうに科学者は普段そうした「つまらない日常」を過ごしているのだろうか。たぶんそうではないだろう。しかし、多くの人は科学者が日常をどのように過ごしているのかということについてほとんど何も知らないし、またそれをイメージする言葉も持たないのではないだろうか。
第二に、冒頭のような定義からは「社会的な存在としての科学者」という視点、もっと平たくいえば「科学者がほかの科学者といかなる仕方でかかわっているか」という視点が抜け落ちている。「孤高の科学者」などという言い回しに見られるように、善い科学者は他人の意見に流されず、孤独に・客観的に自然と向き合い、不偏不党の立場から理性的に物事を判断するべきだ、と考えられがちだ。
冒頭で述べたような科学観も、実はこうした「孤高の科学者」をモデルにしている。「観察」「実験」「検証」といった言葉は、「人が自然現象や研究対象とどのような仕方で関わっているか」ということについて説明する概念だ。こうした概念を通じて理解される科学観からは、たとえば「相談」「討議」「協力」といった言葉からイメージされるような、「人と人とがどのような仕方でかかわっているか」ということの理解がすっぽり抜け落ちている。すなわち冒頭のような科学観において暗黙の内に前提されているのは、それぞれの科学者が個人個人で自然と向き合い、自然の真理を発見するという科学者像なのである。
しかしもちろん、科学者にとって「相談」「討議」「協力」といった活動が重要でないわけではない。この点で、最初に述べたような科学の描像は、あまりにも孤独な科学者像を想定しすぎてきたとはいえないだろうか。そして、それによって見落とされてきたことがあるのではないだろうか。
以下ではこのふたつの問題について、少しだけ考えてみたい。
「君は画家か何かか?」─「図表」を作る測地学者
科学人類学者とは、科学者の生活を実際に観察することを通じて、「科学とはなにか」「科学者とは何者なのか」と問い、その理解を批判したり刷新したり、あるいはまったく新しい見方を唱えてみたりする人たちだ。
僕は京都大学にある「測地学」という分野の研究室でフィールドワークをしている。多くの人には耳慣れない分野の名前なのか、八割方の人に「えっと・・・地質学の人類学をやっていらっしゃるんでしたっけ?」と聞き返される。一緒に山登って石拾ってきたりするんですか、とか。まあ確かに測地学と呼ぶくらいだから「地学」の一分野ではあるのだけれど、岩石と格闘しているよりは数式をこねくり回してコンピュータでプログラムを書くタイプの科学だ。あとで述べるように、彼らは山に登っても石を拾ってくるのではなく、ハイテクな観測機器を設置してくる。
さて、彼らは何をやっているのだろう。頭で考えるよりも目で見てみたい。
写真の手前側の学生が、彼の作業スペースの前で顎に手を当てて座っている。男性の周囲には印刷された紙やパソコンのディスプレイに映される、色とりどりの地図のようなものが見える。右側のモニターに映っている地図は彼が作成したもので、彼は机の前に座って彼自身が作った「図表」と他の論文に載せられた「図表」とを見比べながら唸っている。左のパーティションにも、右のラックに載ったパソコンの上にも、机の上にも、さまざまな「図表」が転がっている。
最初にどの科学者も日常的に「知識」を生み出しているわけではないと述べたが、測地学者はふだん「知識を生み出している」というよりは「論文を書いている」というほうが適切である。しかしそれはつまらない物言いかもしれない。もっと驚くべき発見は、彼らは「論文を書いている」と言いつつも、文章を書いているのは僅かな時間であり、多くの時間をせっせと「図表を作る」ことに勤しんでいるということだろう。彼らはいろいろな種類の「図表」を作り、あるいはさまざまな論文から似たような「図表」を集めてきて、研究時間の大半を、こうした「図表」とにらめっこしながら過ごしている。
僕はこうしたさまざまな「図表を作る」ことが、測地学者にとって最も基本的な活動のひとつだ、と思っている。じっさい異分野の偉い先生に「君は画家か何かか?」なんて皮肉を言われたことがあると、僕に教えてくれた人もいた。写真に映る彼は、さながら図表の林立する森のなかに迷いこんでしまって、途方に暮れているかのようだ。
ゼミ(週に一度行なわれるミーティングで、測地学の学生が自らの研究の進捗状況を発表する)の時間になると、発表者の学生は準備した図表を同僚や教員に見せる。彼らのゼミでの発表では、パワーポイントを利用しない発表はまずありえない。彼らの発表では図表を見せることが何より重要だからだ。ゼミには発表の時間と質疑応答の時間があるのだが、質疑応答の時間には、多くの場合発表者が作ってきた絵をスクリーンに映しながら、活発な議論が交わされる。「図表を用いた討議」は、彼らの実践の重要なひとコマを占めている。
さて、彼らはどのようにしてそうした図表を「作る」のだろうか。僕があえて図表を「描く」と言わず、図表を「作る」と言うのには意味がある。画家とは違って、彼らは自らの手で(あるいは手に握られた絵筆で)図表を「描く」ことはしない。絵を描く担い手は他にいるのだ。といっても、それは人ではない─「コンピュータ」や「観測装置」と呼ばれる存在である。彼らが図表を作るお作法については、残念ながらすべてを詳しく説明する紙幅の余裕がないので、ここではひとつだけ事例を挙げるに留めたい。というわけで次の節では、測地学者が「観測装置」を使って図表を「作る」様子を簡単に眺めることを通じて、科学者がどのように実践のなかで「協力」しているかについて検討してみよう。
「観測」を読み替える─協働し、「眼を創る」作業として
「観測」というと、望遠鏡で星を見たりする活動(天文「観測」)なんかを思い浮かべるだろう。彗星の発見や新たな天体の発見は望遠鏡という技術の発明とともに進められてきた。科学史などにおいて「観測」が問題となる場合、たとえばこうした「発見」と技術的な「発明」の関係といったものに焦点が当てられることだろう。
それに対して僕がここで描き出したいと考えているのは、科学者がいかに「協働」するか、ということだ。より正確にいえば、それは従来「まだ『見ぬ』存在を『発見』するための活動」としてみなされてきたもの─その実践を「観測」と呼ぶこと自体が、その実践を「科学者が『見る』活動である」とみなしているということである─を、科学者が「協働する活動」として読み替えることを試みたいのである。
さて、測地学者の関心のひとつは、日本の活断層まわりの大地がどのように動いているかについて調べることだ。よく知られているように日本は活断層大国であり、地震が頻発している。測地学者はこの活断層まわりの大地の動きを調べるためにさまざまな「観測」を行っている。
彼らが観測に用いる装置のひとつはGPSである。最近ではカーナビやスマホに入っているからほとんどの人はよくご存知だろう。平たく言うと、衛星からの信号を受信することで、受信機が地球上のどこにあるか(座標)を非常に高い精度で調べる技術だ。とても精度が高いので、年に数センチしか動かない大地の動きすらもきっちり検出することができる。
GPSは受信機さえ設置すれば自動で測定できることが大きな利点なのだが、いかんせん受信機を設置した点の座標しか分からないという欠点がある(別の観測装置には、写真を撮るように点ではなく面で地面の動きを検出できるものもある)。測地学者はこの欠点を、大量の受信機をばら撒くという手段によって解決する。ばら撒く方法(=「観測」の形態)はいくつかあるのだが、僕が同行させてもらったのは「キャンペーン観測」と呼ばれるものだった。この観測形態は日本中の大学から研究者が集まり、数日のうちに広範囲にわたって観測装置を展開し、一定の期間ののちに回収するという華々しいものである。僕が参加した「キャンペーン観測」は、全国の14の大学・研究機関から49名の学者・技術者が参加し、2日のうちに約80kmにわたる計50ヶ所の観測点にGPSを設置し、2ヶ月後に回収するというものだった。
この「キャンペーン観測」はそれ自体が研究者の交流の場としても機能していた。この2日間の観測の間、日本中に点在する大学・研究機関に所属するGPSの専門家が一堂に会し、泊まりがけで話し合う。さらには学生どうしも別の大学の学生と同じ宿の部屋を割り当てられたり、研究紹介の場が設けられたりして、交流を促す場が整えられる。ある学生は、観測はもちろんだが、こうして集まること自体が大事なことだと思うと僕に話してくれた。
このようにして設置されたGPS受信機はどのような図表を生み出すのだろう。図に描かれた矢印は、受信機が設置された観測点(観測点の名前は図内の4文字のアルファベットや、数字で表現されている)が、設置されていた2ヶ月の間にどの程度動いたか、ということを示すものである。ひとつひとつの「矢印」は受信機が置かれたそれぞれの場所の移動方向と移動量を示すにすぎないが、複数の観測装置が設置されることによって、あたり一帯の地面が動いている様子が可視化されることとなる。
それはさながら、研究者みんなが協働してGPSを設置することを通じて、80kmという広大な空間を見渡す巨大な「眼」を生み出す作業のようだ。それゆえこうした営みは「観測」、すなわち対象を「見る」活動というよりも、「眼を創る」活動、あえて術語風に表現するならば「創眼」の営みとでも呼ばれるべきものであろう。
さて、この文章の冒頭ではふたつのことを問題にした。ひとつは、科学者はふだんから「知識」を生み出しているというわけではないが、では日常的には何をしているのかと問われると、あまりうまい答えが見つからないように思われること。ふたつめは、従来の科学観には「科学者がほかの科学者といかなる仕方でかかわっているか」という視点が欠けているように見えるということ。これらの問題に対して、本論では研究者たちが「協働しつつ眼を創り、図表を作る」存在であるという視点を示してきた。
冒頭に掲げた「知識を蓄積する孤高の科学者像」は、科学の発展史を「『偉大な発見』の積み重ねにより時を追って縦に伸びてゆく年表」のようなものとして理解してきたところがある。それは、科学を「個人個人の生を超えて、永遠の未来へと続く知の蓄積の営み」であるとみなしているということだ。こうした見方の功罪についてここで論じることはしないが、この短いエッセーでは、そうした「偉大な発見史観」によって空洞化してしまう実践の時間スケールに意味を与えることを試みた。すなわち「人が生きている限られた時間の中で、科学者は何を行なうのか」ということを問題とし、そうした営みを単なる「知識生産の一過程」に還元するのではなく、それ自体が魅惑的なひとつの活動であると論じることのできる言葉を生み出そうと努めた。
科学者を、孤独に知識を生み出す人びとではなく、同僚と討議・協働しながら「眼」や「図表」を作る人びととして見ること。この視点は、科学者を「自然界の摂理を紐解く孤高の存在」として神秘化することなく、私たちと同じように他人と人間関係を築き上げながら、日々の生活を営む存在として理解するうえで、必要なものだと僕は思う。
参考文献 *森下さんの研究内容についてもっと知りたい方はこちらへ
鷺谷威 (2013) 「3 GPS観測による詳細なひずみ分布の解明」『ひずみ集中帯の重点的調査観測・研究プロジェクト 総括成果報告書』