玉砕の島:生還した元兵長 慰霊の旅「戦争は絶対いけん」
毎日新聞 2014年08月13日 07時30分(最終更新 08月13日 07時37分)
太平洋戦争の激戦地で「玉砕の島」と呼ばれた中部太平洋のテニアン島(米国の自治領)。70年前の1944年8月に組織的戦闘が終わった後も、旧日本軍は抗戦を続け、集団自決で多くの民間人が命を絶った。陥落後1年以上もジャングルに潜伏し、多くの同胞を見送った元海軍兵長、磯部利男さん(88)=鳥取市=は75年から慰霊を続け、現地を29回訪問している。「楽園のような島が地獄に変わった。戦闘が始まった6月になると、今も戦友らが呼ぶような気がするんです」
磯部さんは16歳で海軍に志願し、広島の海兵団での基礎教育後、戦艦大和に配属された。世界最強と呼ばれた大和への乗艦は誇らしく「この戦争は必ず日本が勝つ」と確信し、44年3月にテニアンへ渡った。サンゴ礁に囲まれた島は当時、日本の委任統治領で、砂糖の生産で栄え、1万人以上の一般邦人が暮らしていた。
ところが、3カ月後には米軍の大編隊が襲来。数日後には艦砲射撃も始まった。海峡をはさんだサイパン島は7月初めに陥落。米軍は同24日、テニアンに上陸し、わずか約10日で制圧した。
砲弾で傷を負った磯部さんは島南部へ敗走。そこで見たのは日本人が次々自決する姿だった。ジャングルで8人が輪になり、1人の男性が真ん中に置いた爆薬に着火。「待てっ」という叫びは届かず、遺体が散乱するのを目の当たりにした。海岸付近の岩陰には、自決した兵士の亡きがらが横たわっていた。
兵士5人で島南部の洞窟を転々。カタツムリ、ヤシガニ、オオトカゲ。「食べられるものは何でも食べた」。米軍の執拗(しつよう)な掃討作戦で、1人は撃たれて死んだ。洞窟にガス弾を投げ込まれた時には「もうこれまで」と覚悟し、自決しようと手投げ弾を使った。だが、不発。ガスで苦しみはしたが、死ななかった。
日本の敗戦は45年8月下旬、米軍がまいたチラシで知った。仲間と相談し、9月に白旗を掲げ投降。約8100人の日本兵で生き残ったのはひと握りと聞いた。広島、長崎を襲った原爆搭載機が島から飛び立ったことを知ったのも後のことだ。
遺骨収集の呼びかけに応じ、生還後初めて島へ渡ったのが75年。紺碧(こんぺき)の海に向かうと、戦友や島民らの面影が浮かんでは消えた。