いつか息子ができたなら酒を交わしたいと思った

電車で向かいの席に座る中学生ぐらいの男の子とその子のお父さん。

毎日通勤で電車に乗るのだが、男同士の親子を見た覚えがない。

男の子が持つトートバッグから花束が顔を出していた。何かのお祝いに使う花とは少し違う色味の花。恐らくお墓参りに行くのだろう。

 

今でも自分は子供の立場に近いと思いながらも日々お父さんに向かって歩んでいる。

いつかこうして自分の子供と電車に乗る事があるのだろうか。甲子園の高校球児を見てキャッチボールをする日がくるのだろうか。と想像を膨らませている。

 

僕は父さんとの思い出が中学校の頃で止まっている。

思春期だったのか反抗期だったのかは今でもわからないが、高校に進学した頃から家族と話す事が少なくなった。18歳で専門学校へ入学し、すぐに家を飛び出してからは帰ることも連絡を取ることもなくなり、久しぶりにゆっくり話したのは父さんが入院した時。

ベッドの上にいるのは僕の記憶にある父さんとは全く違う人だった。

肉体労働をしているにも関わらず身体は痩せ細っている、顔にはしわが増え、髪の毛はほとんど白髪。8年も会ってなければ老いていくのは当たり前だが、老いだけではないはず。

久しぶりに会った恥ずかしさと、その変わり果てた姿を現実として受け入れたくない気持ちでその日も上手く話せなかった。

 

次に会った時にはもう会話が成り立たなくなっていた。

強い薬の副作用による幻覚で意味のわからないことをひたすらつぶやき、僕が話しかけても耳には入っていないよう。そして、数日後に父さんは亡くなった。

 

 

家を出てから僕はずっとバンドをしていました。

家族にはバンドをやっていることを自分から一度も話したことはなかったが、昔実家に帰って家族共有で使っていたパソコンを起動させるとデスクトップには僕がしていたバンドのアーティスト写真が。嬉しさよりも恥ずかしさが強かったので自分からなんでと聞くことはしなかった。

その日、父さんから携帯の待ち受け画面上部に流れるニュースを消してくれと携帯を渡された。待ち受け画面もパソコンのデスクトップと同じ写真だった。

ライブにもこっそり見にきていたり、全国リリースした時にCDを大量購入し会社で配ってくれていたそうで、それをわざわざ僕に言ってくる事は無かったが家族で一番応援してくれていたのは父さんだったのかもしれない。

それでも僕はありがとうと言えなかった。

 

背中がむず痒くなるような言葉ではなく、いつか一緒にお酒が飲めるようになれたらなと思っていた。酒好きだった父さんへ大きくなってお酒が飲めるようになった姿を見せることが僕からできる恩返しのつもりでいた。

いつかいつかと思っているうちに、ありがとうすら言えなくなってしまった。

どこかで聞いてくれるのかもしれない、見てくれているのかもしれない。

けど、酒を交わす事ができなくなってしまった。

 

いつか息子ができたなら酒を交わしたい。

父さんよりも立派な父さんになって。

 

 

 

著者:吉本ユータヌキ (id:horahareta13)

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唐揚げと長澤まさみをこよなく愛す1986年製たぬき型人間。

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