甲野善紀氏の剣道批判に疑問アリ
最初に申し上げておきますが、私はもう、甲野氏の批判をしたくはありません。散々、批判し続けて、そのお陰で知名度が上がったという事実もありますから、“お陰様”ということでの感謝の気持ちも持つべきだと考えているからです。
けれども、研究家の義務として、甲野氏に限らず、著名人の発言内容におかしな点があれば指摘せざるを得ません。難儀なことです・・・。
『コンバットマガジン』の甲野善紀氏の連載記事には、一応、毎回、ざっと目を通しているんですが、雑誌そのものを毎回買っている訳ではないので、流し読みすることの方が多いんですね。
それでも、ここ何回かは、例の「鐔の近くを両手を寄せて持つのが本来の日本刀の持ち方」だと主張する甲野氏の論が、どの程度の正当性を持つのか?という関心から、私も結構、実験してみました。
やっぱり、何事もやってみなければ解らないことはありますし、私は研究家として感情で論議したりはしたくありませんから・・・。
実践した上での所感を述べますと、取り敢えず、甲野氏の説く“両手を寄せて柄を持つ”ということのメリットは有ると言えるでしょう。
特に、“初心のうちの試し斬り”で斬撃力を集中させるには、柄の中に通っている茎(中心)を直接握るようなつもりで持つことは有効性があります。
居合を習われていた萬屋錦之介は刀をそう握っていましたが、恐らく試斬もされていたのではないか?と思いました。
両手を寄せて持つということは、腕が絞られて胴体により密着するんですね。そうすると、胴体(体幹部)の動きを直接剣に伝えやすくなる・・・つまり、体捌きの動きが剣の捌きに直結しやすくなるという特徴はある訳です。
ですから、溝口派一刀流の左右転化出身の秘太刀・・・みたいな体捌きしながらの剣体一致の刀法なんかはやりやすくなるでしょう。
ただ、柄の鐔元と端っこを両手を離して持つやり方より、“やりやすいから正しい”という考え方は問題です。
何事もメリットに拘れば近視眼的になるものです。“これが正しい”という論理は、それ以外は間違いだという論理を生じます。
メリットは視点を変えればデメリットも見えてきます。具体的に言えば、誰にでも解るデメリットもあるんですね。
まず、“両手を寄せて握る”という点にのみ拘れば、片手打ちを捨ててしまうことになりますね。
剣道で上段からの片手面打ち・・・で優勝した人もいましたよね? ああいう技を捨ててしまうのは馬鹿げていますよね?
そもそも、両手を寄せて柄を持てば、柄の長さを利用した新陰流系統に伝わる秘訣“八寸の延べ金(小笠原長治の秘技として有名)”などの柄の握りを滑らせて剣の到達距離を延ばす技などが使えなくなってしまいます。
それと併せて、突き技も両手を寄せて握っていれば、伸びが出ません。
第一、鐔元に両手を寄せて握れば、通常八寸以上ある柄の三寸くらいは余ることになりますが、これは攻防時の自在な操刀の時に邪魔にこそなれ、益するところがありません。
両手を寄せて握るのが正しいのであれば、最初からその寸法の長さの柄が作られていた筈でしょう。
現に、脇差の柄は短いものですが、これは片手で用いることが前提だからです。
日本刀に限らず、道具の部分部分の寸法や形状というものは、用途に応じて適正なものとして工夫されたものである筈です。両手で握って、余る寸法でわざわざ作られているというのは、不合理極まりなく、考えにくいことです。
「柄当てに用いればいいではないか」と言う人もいるかも知れませんが、武術の技の本質を理解していない者の考えですね。
柄頭で当てる技は古武術に広く使われていますが、本来、柄頭を掌の中に包むように握って隠しておくところから、突然に滑らせて繰り出すから効果がある技(これは杖術の秘訣でもあります)なのです。
そのため、滑らしの分も含めて柄の長さは決定されている筈です。
例えば、鎌倉時代以前の日本刀の柄は刀身の反りの深さと同様に茎(中心)も反っており、柄も反っていました。
実際に、そういう形状の拵えも作ってみましたが、グルカナイフのように、片手操法ですっぽ抜けるのを防ぐ滑り留めの意味があったと考えられます。
日本刀の両手操法は、長巻や薙刀、大太刀から発展したものではないか?と私は類推していますが、香取神道流、新陰流、駒川改心流といった古くから形を変えずに伝わっていると思われる流儀のいずれもが、甲野氏の主張するような両手を寄せて柄を握るということをしていません。
これを、「明治期に変わった」と考えるのは極めておかしなことなのです。
何故なら、こうした古流の名門流儀は、昔から伝わる形を「一切、変えない」ということを“大前提”としているからであり、時代の趨勢とはまったく無関係であり、柄の持ち方という技の前提となる要素を変更する道理がないからです。
もしも、甲野氏の説が正しいのであれば、それは最低限、口伝の形で必ず伝えられてきた筈で、途中で変わることなど絶対に考えられません。
もちろん、私も実践してみた限り、甲野氏の説を全面的に否定するものではありませんが、当然ながら全面的に支持することもできません。
そもそも、「これが正しくて、これが間違い」というのは武術に関してはあり得ないと言っても言い過ぎではありません。
何故なら、相手の予想もしない技を使うからこそ勝てるからです。有効性があれば、どんな技を使っても正しい。それが武術の根本原理です。
一つのやり方だけを正しいものであるかのように決めつけて論じるのは、物事の表裏を考えない幼稚な考えでしかありません。
そもそも、甲野氏の論説は、「江戸時代以前の日本人は動物性タンパク質を取っていなかった」といった、あまりにも極端な論をたてて注目を浴びようとする問題点がありました。
論じるのも馬鹿馬鹿しいことですが、魚や貝、山鳥、猪、鹿などを食べなかった筈がありません。木を見て森を見ない傾向があるのが、甲野氏の最大の問題点でしょう。
以上、甲野氏の論への疑問としておきます。
しかし、それにしても、今回の甲野氏の論述は、あまりにも独善的に過ぎていて、現代剣道への強烈な憎悪の感情すら感じられてしまいました。
馬鹿げていると言ってしまえば、それまでですが、「自分が教えた者が剣道の大会で優勝した」とかいった論理的な根拠も示さず、ただ自分の周囲の支持者が具合が良いと認めてくれている・・・というだけで、現代剣道を「滑稽に見える」だの何だのと見下した書き方をしていることには、およそ客観性が無く、論理破綻という以上に偏執的な異常さすら感じられてなりません。
そもそも、最早、まったく別物である現代剣道と古流剣術とを比べて、どちらが正しいの正しくないのと論じることそのものが、甚だしく馬鹿げていますし、甲野氏は自身が学んだ古流剣術流儀でさえ正誤を論じています。
鹿島神流時代からの盟友に教えて「30年以上無駄なことをしてたね」と感想を言われたということも紹介していますが、これまた随分と失礼なことではないでしょうか。
これでは、鹿島神流のやり方が間違っていると言うに等しいでしょう。しかも、自分の言葉でなく友人の感想として紹介している点に、より悪質さを感じてしまいます。
百歩譲って、私も、剣道や空手道といった現代武道が、本来的な武術性を理解しないまま競技試合に引きずられた技術論をしているのはいかがなものか?という気持ちは確かにあります。
ですが、それはスポーツ競技として武術とは違う方向に進んで、その世界では発展している訳ですから、自分がその世界でやっているならともかく、部外者である身で良いの悪いのと公刊されている雑誌の中で非難すべきことではないでしょう。
それこそ、“恥知らず”、“分を弁えない”というものです。
もし、甲野氏があくまでも現代剣道を批判したいのであれば、御自分が剣道の全日本大会に出場して完膚無きまでに現代剣道の猛者を打ち破って見せてから、思う存分、批判すればいいのです。
それをやらずに信奉者を相手に技を使って己の技の優秀性を主張するのは、地方の草相撲大会で優勝した者が大相撲の横綱を馬鹿にするに等しく、単なる誇大妄想としか言えないでしょう。
甲野氏は、「武の世界は、あくまでも身体を通してそこで行われる事で説得力を持つ」と書いており、あるいは編集者が意訳して書いたのかもしれませんが、“武の世界は、実力を通して行われる事でのみ説得力を持つ”と書かれています。
私は、この言葉を甲野氏自身がもう一度、自分に照らして、よくよく考えられることを祈りたいと思います。
どういう意味かと申しますと、かつて甲野氏は筑波大学の剣道五段の先生と防具を付けて試合し、30分間、ずうっと打ちまくられて何もできなかった・・・という経験があるからです。
あるいはまた、私のところに習いに来ていた剣道二段の会員が、甲野氏の公開稽古会に参加した時に、袋竹刀で一方的に打ち込んで甲野氏は一発も返すことができなかった・・・ということもあります。
さらにまた、友人が主宰する剣術の稽古会を尋ねた甲野氏が、そこの師範代と竹刀を合わせたまま、打とうとした寸前に竹刀を素手で奪われる・・・ということもあったそうです。
まだまだ、このような冗談のような惨敗話は無数にあります。これで、何の説得力があると主張したいのでしょうか? 「私は誇大妄想狂ですから、信用しないでくれ」とでも言いたいのでしょうか?
このような負け方は、通常ではあり得ないことです。甲野氏を本物と信じている人達にとっては、とても信じがたいことでしょうが、「どうも、おかしいな~」と思って、本気で倒すつもりで攻撃したら、あっけなく打ち倒してしまった・・・という事例が非常に多い(私も体験済み)のです。
つまり、条件設定に守られた“現実には通用しない空虚な武術パフォーマンス”を演じているうちに、自らの現実が見えなくなってしまった哀しい武術マニア・・・それが甲野善紀氏の偽りのない真相である・・・と断言する以外にありません。
記事中、剣道家及び武道家一般を侮蔑する対象として、「このような滑稽な人間にだけはなるまい」と書いている甲野氏自身、外ならぬ自分自身がそういう“滑稽な人間”である現実を、一刻も早く認識され、武術武道の世界から身を引かれることを、かつての弟子として心より祈らずにはおれませんでした。
未だに、こんな馬鹿げたことを主張しているようでは、多くの人の見ている前で、誰かに打ちのめされて、大詐欺師のレッテルを貼られてしまうでしょうに・・・。
いや・・・もしかして、甲野氏自身、心の底では誰かに完膚無きまでに叩きのめされて武術家としての命脈を絶ってもらいたいのかもしれません。そうとでも考えない限り、いつまでも分を弁えずに武道界を挑発し続ける理由がありませんが・・・。
最後に、これだけは申し述べておきたいと思います。
世の中には、武道・武術・格闘技に真摯に取り組んでいる人が沢山います。確かにくだらない権威主義者もいますが、真剣にやっている人も少なくありません。私は、そういう人達に無数に会いました。そういう真剣にやっている人達を惑わすような無責任な虚言を弄することは絶対にしないでもらいたい。
甲野先生。自分の分を知ってください。既存の権威を非難することで自分の権威を築こうとするのは、人として最も恥ずべき愚劣なやり方です。所詮、同類の権威主義者であることには何も変わりがない。
世の中の様々な分野の著名な人と交流していることで世間的な知名度と評価を高めてきた身としては、武術の世界に詳しくない世間の人達からは“斯界の第一人者”という視点で見られるでしょう。
しかし、それは同時に、いつ何時、馬脚を顕して大詐欺師として奈落の底に沈みかねない危うさを孕んでいる・・・ということです。
その点を考えて、注目を集めたいだけの思いつきの論を主張し現代武道批判をするのは慎まれたが良いでしょう。
“雉も鳴かずば撃たれまい”・・・です。
けれども、研究家の義務として、甲野氏に限らず、著名人の発言内容におかしな点があれば指摘せざるを得ません。難儀なことです・・・。
『コンバットマガジン』の甲野善紀氏の連載記事には、一応、毎回、ざっと目を通しているんですが、雑誌そのものを毎回買っている訳ではないので、流し読みすることの方が多いんですね。
それでも、ここ何回かは、例の「鐔の近くを両手を寄せて持つのが本来の日本刀の持ち方」だと主張する甲野氏の論が、どの程度の正当性を持つのか?という関心から、私も結構、実験してみました。
やっぱり、何事もやってみなければ解らないことはありますし、私は研究家として感情で論議したりはしたくありませんから・・・。
実践した上での所感を述べますと、取り敢えず、甲野氏の説く“両手を寄せて柄を持つ”ということのメリットは有ると言えるでしょう。
特に、“初心のうちの試し斬り”で斬撃力を集中させるには、柄の中に通っている茎(中心)を直接握るようなつもりで持つことは有効性があります。
居合を習われていた萬屋錦之介は刀をそう握っていましたが、恐らく試斬もされていたのではないか?と思いました。
両手を寄せて持つということは、腕が絞られて胴体により密着するんですね。そうすると、胴体(体幹部)の動きを直接剣に伝えやすくなる・・・つまり、体捌きの動きが剣の捌きに直結しやすくなるという特徴はある訳です。
ですから、溝口派一刀流の左右転化出身の秘太刀・・・みたいな体捌きしながらの剣体一致の刀法なんかはやりやすくなるでしょう。
ただ、柄の鐔元と端っこを両手を離して持つやり方より、“やりやすいから正しい”という考え方は問題です。
何事もメリットに拘れば近視眼的になるものです。“これが正しい”という論理は、それ以外は間違いだという論理を生じます。
メリットは視点を変えればデメリットも見えてきます。具体的に言えば、誰にでも解るデメリットもあるんですね。
まず、“両手を寄せて握る”という点にのみ拘れば、片手打ちを捨ててしまうことになりますね。
剣道で上段からの片手面打ち・・・で優勝した人もいましたよね? ああいう技を捨ててしまうのは馬鹿げていますよね?
そもそも、両手を寄せて柄を持てば、柄の長さを利用した新陰流系統に伝わる秘訣“八寸の延べ金(小笠原長治の秘技として有名)”などの柄の握りを滑らせて剣の到達距離を延ばす技などが使えなくなってしまいます。
それと併せて、突き技も両手を寄せて握っていれば、伸びが出ません。
第一、鐔元に両手を寄せて握れば、通常八寸以上ある柄の三寸くらいは余ることになりますが、これは攻防時の自在な操刀の時に邪魔にこそなれ、益するところがありません。
両手を寄せて握るのが正しいのであれば、最初からその寸法の長さの柄が作られていた筈でしょう。
現に、脇差の柄は短いものですが、これは片手で用いることが前提だからです。
日本刀に限らず、道具の部分部分の寸法や形状というものは、用途に応じて適正なものとして工夫されたものである筈です。両手で握って、余る寸法でわざわざ作られているというのは、不合理極まりなく、考えにくいことです。
「柄当てに用いればいいではないか」と言う人もいるかも知れませんが、武術の技の本質を理解していない者の考えですね。
柄頭で当てる技は古武術に広く使われていますが、本来、柄頭を掌の中に包むように握って隠しておくところから、突然に滑らせて繰り出すから効果がある技(これは杖術の秘訣でもあります)なのです。
そのため、滑らしの分も含めて柄の長さは決定されている筈です。
例えば、鎌倉時代以前の日本刀の柄は刀身の反りの深さと同様に茎(中心)も反っており、柄も反っていました。
実際に、そういう形状の拵えも作ってみましたが、グルカナイフのように、片手操法ですっぽ抜けるのを防ぐ滑り留めの意味があったと考えられます。
日本刀の両手操法は、長巻や薙刀、大太刀から発展したものではないか?と私は類推していますが、香取神道流、新陰流、駒川改心流といった古くから形を変えずに伝わっていると思われる流儀のいずれもが、甲野氏の主張するような両手を寄せて柄を握るということをしていません。
これを、「明治期に変わった」と考えるのは極めておかしなことなのです。
何故なら、こうした古流の名門流儀は、昔から伝わる形を「一切、変えない」ということを“大前提”としているからであり、時代の趨勢とはまったく無関係であり、柄の持ち方という技の前提となる要素を変更する道理がないからです。
もしも、甲野氏の説が正しいのであれば、それは最低限、口伝の形で必ず伝えられてきた筈で、途中で変わることなど絶対に考えられません。
もちろん、私も実践してみた限り、甲野氏の説を全面的に否定するものではありませんが、当然ながら全面的に支持することもできません。
そもそも、「これが正しくて、これが間違い」というのは武術に関してはあり得ないと言っても言い過ぎではありません。
何故なら、相手の予想もしない技を使うからこそ勝てるからです。有効性があれば、どんな技を使っても正しい。それが武術の根本原理です。
一つのやり方だけを正しいものであるかのように決めつけて論じるのは、物事の表裏を考えない幼稚な考えでしかありません。
そもそも、甲野氏の論説は、「江戸時代以前の日本人は動物性タンパク質を取っていなかった」といった、あまりにも極端な論をたてて注目を浴びようとする問題点がありました。
論じるのも馬鹿馬鹿しいことですが、魚や貝、山鳥、猪、鹿などを食べなかった筈がありません。木を見て森を見ない傾向があるのが、甲野氏の最大の問題点でしょう。
以上、甲野氏の論への疑問としておきます。
しかし、それにしても、今回の甲野氏の論述は、あまりにも独善的に過ぎていて、現代剣道への強烈な憎悪の感情すら感じられてしまいました。
馬鹿げていると言ってしまえば、それまでですが、「自分が教えた者が剣道の大会で優勝した」とかいった論理的な根拠も示さず、ただ自分の周囲の支持者が具合が良いと認めてくれている・・・というだけで、現代剣道を「滑稽に見える」だの何だのと見下した書き方をしていることには、およそ客観性が無く、論理破綻という以上に偏執的な異常さすら感じられてなりません。
そもそも、最早、まったく別物である現代剣道と古流剣術とを比べて、どちらが正しいの正しくないのと論じることそのものが、甚だしく馬鹿げていますし、甲野氏は自身が学んだ古流剣術流儀でさえ正誤を論じています。
鹿島神流時代からの盟友に教えて「30年以上無駄なことをしてたね」と感想を言われたということも紹介していますが、これまた随分と失礼なことではないでしょうか。
これでは、鹿島神流のやり方が間違っていると言うに等しいでしょう。しかも、自分の言葉でなく友人の感想として紹介している点に、より悪質さを感じてしまいます。
百歩譲って、私も、剣道や空手道といった現代武道が、本来的な武術性を理解しないまま競技試合に引きずられた技術論をしているのはいかがなものか?という気持ちは確かにあります。
ですが、それはスポーツ競技として武術とは違う方向に進んで、その世界では発展している訳ですから、自分がその世界でやっているならともかく、部外者である身で良いの悪いのと公刊されている雑誌の中で非難すべきことではないでしょう。
それこそ、“恥知らず”、“分を弁えない”というものです。
もし、甲野氏があくまでも現代剣道を批判したいのであれば、御自分が剣道の全日本大会に出場して完膚無きまでに現代剣道の猛者を打ち破って見せてから、思う存分、批判すればいいのです。
それをやらずに信奉者を相手に技を使って己の技の優秀性を主張するのは、地方の草相撲大会で優勝した者が大相撲の横綱を馬鹿にするに等しく、単なる誇大妄想としか言えないでしょう。
甲野氏は、「武の世界は、あくまでも身体を通してそこで行われる事で説得力を持つ」と書いており、あるいは編集者が意訳して書いたのかもしれませんが、“武の世界は、実力を通して行われる事でのみ説得力を持つ”と書かれています。
私は、この言葉を甲野氏自身がもう一度、自分に照らして、よくよく考えられることを祈りたいと思います。
どういう意味かと申しますと、かつて甲野氏は筑波大学の剣道五段の先生と防具を付けて試合し、30分間、ずうっと打ちまくられて何もできなかった・・・という経験があるからです。
あるいはまた、私のところに習いに来ていた剣道二段の会員が、甲野氏の公開稽古会に参加した時に、袋竹刀で一方的に打ち込んで甲野氏は一発も返すことができなかった・・・ということもあります。
さらにまた、友人が主宰する剣術の稽古会を尋ねた甲野氏が、そこの師範代と竹刀を合わせたまま、打とうとした寸前に竹刀を素手で奪われる・・・ということもあったそうです。
まだまだ、このような冗談のような惨敗話は無数にあります。これで、何の説得力があると主張したいのでしょうか? 「私は誇大妄想狂ですから、信用しないでくれ」とでも言いたいのでしょうか?
このような負け方は、通常ではあり得ないことです。甲野氏を本物と信じている人達にとっては、とても信じがたいことでしょうが、「どうも、おかしいな~」と思って、本気で倒すつもりで攻撃したら、あっけなく打ち倒してしまった・・・という事例が非常に多い(私も体験済み)のです。
つまり、条件設定に守られた“現実には通用しない空虚な武術パフォーマンス”を演じているうちに、自らの現実が見えなくなってしまった哀しい武術マニア・・・それが甲野善紀氏の偽りのない真相である・・・と断言する以外にありません。
記事中、剣道家及び武道家一般を侮蔑する対象として、「このような滑稽な人間にだけはなるまい」と書いている甲野氏自身、外ならぬ自分自身がそういう“滑稽な人間”である現実を、一刻も早く認識され、武術武道の世界から身を引かれることを、かつての弟子として心より祈らずにはおれませんでした。
未だに、こんな馬鹿げたことを主張しているようでは、多くの人の見ている前で、誰かに打ちのめされて、大詐欺師のレッテルを貼られてしまうでしょうに・・・。
いや・・・もしかして、甲野氏自身、心の底では誰かに完膚無きまでに叩きのめされて武術家としての命脈を絶ってもらいたいのかもしれません。そうとでも考えない限り、いつまでも分を弁えずに武道界を挑発し続ける理由がありませんが・・・。
最後に、これだけは申し述べておきたいと思います。
世の中には、武道・武術・格闘技に真摯に取り組んでいる人が沢山います。確かにくだらない権威主義者もいますが、真剣にやっている人も少なくありません。私は、そういう人達に無数に会いました。そういう真剣にやっている人達を惑わすような無責任な虚言を弄することは絶対にしないでもらいたい。
甲野先生。自分の分を知ってください。既存の権威を非難することで自分の権威を築こうとするのは、人として最も恥ずべき愚劣なやり方です。所詮、同類の権威主義者であることには何も変わりがない。
世の中の様々な分野の著名な人と交流していることで世間的な知名度と評価を高めてきた身としては、武術の世界に詳しくない世間の人達からは“斯界の第一人者”という視点で見られるでしょう。
しかし、それは同時に、いつ何時、馬脚を顕して大詐欺師として奈落の底に沈みかねない危うさを孕んでいる・・・ということです。
その点を考えて、注目を集めたいだけの思いつきの論を主張し現代武道批判をするのは慎まれたが良いでしょう。
“雉も鳴かずば撃たれまい”・・・です。
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