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 戦後まもなくから宮崎県日南市の民家に保管されていた黒板が、戦艦大和で使われていたものだと判明した。縦40センチ、横55センチ。表面は色がはげているが、裏には「大和」の文字がくっきりと記されている。今年2月、大和ミュージアム(広島県呉市)に大和で使われていたものだと鑑定され、開催中の企画展で展示されている。

 黒板は、旧海軍「嵐部隊」の元特攻隊員で、2004年に82歳で亡くなった前田繁雄さん=日南市南郷町=が所有していた。亡くなる2年前、息子の茂さん(67)が自宅の蔵に入って木戸を閉めると、いきなり黒板が頭上から落ちてきた。焼酎製造をしていた時に使っていた醸造蔵。ホコリまみれだったが、裏面に筆文字で「軍艦大和」と書いてあった。

 当時、床に伏せっていた繁雄さんに聞くと、1947年春、共同経営していたカツオ一本釣り漁船が、鹿児島県の甑(こしき)島近くの海面に浮いているのを見つけたものだ、と説明した。45年4月に大和が沈没した鹿児島県沖の海域から200キロほど離れた地点だった。持ち帰った船員から繁雄さんが受け取ったという。

 繁雄さんは、鹿児島市の生まれ。海軍の第33突撃隊「嵐部隊」魚雷艇隊の艇長として南郷町(現日南市)に赴任し、生き残って終戦を迎えた。戦後、家業を継いだが、正月に親族が集まり、「同期の桜」を歌う鶴田浩二のモノマネに笑みを漏らすことはあっても、戦争のことを話すことは一度もなかったという。