東京レター
東京で暮らす外国人たちが、手紙スタイルでつづる「東京生活」
【社会】消される戦争の跡 「説明板、突然の撤去」体験者ら危機感2014年8月13日 07時10分 戦後六十九年を迎え、太平洋戦争体験者は日本の全人口の約二割にまで減った。戦争の加害や悲惨さなどを記した碑や説明板の撤去の動きが最近、相次ぐ。戦時中の施設など「戦争遺跡」の保存の動きも鈍い。「無言の証言者」が消えゆくことに、体験者は危機感を募らせる。(菊谷隆文、土門哲雄) 「地元で積み上げてきた調査に基づく説明板を、天理市は何の連絡もなく突然撤去した」。奈良市の藤原好雄さん(82)は話す。 太平洋戦争末期、奈良県天理市に造成された「大和海軍航空隊大和基地(通称・柳本飛行場)」。同市は跡地に一九九五年に設置した説明板を今年四月、撤去した。朝鮮人労働者や慰安所の女性が強制連行されたという記述に「根拠がない」などとして市に抗議の声が寄せられていた。並河健市長は「国全体で議論されている中、市の公式見解と受け止められるのは適当でない」と文書で見解を出した。 藤原さんは四三年か四四年ごろ、国民学校から飛行場の草刈りに駆り出された。湯を沸かすドラム缶のそばで、草色の服を着た朝鮮の青年が腕立て伏せをさせられ、顔から血を流しているのを見た。「背中には木の棒が五、六本。体が傾いて落とすと、海軍予科練習生がその木でたたいていた」。戦後、朝鮮人労働者の問題に取り組むきっかけとなった。 文献がない中、地元の市民団体「奈良・発掘する会」は九一年から五回にわたり訪韓。元労働者から「寝ているときに急に人が入ってきて連れていかれた」などの証言を集めた。飛行場を建設した日本の元建設事務所関係者などから朝鮮人労働者の数は二千〜三千人との話も聞いた。ただ強制的に連れて来られた人がどのぐらいに上るのかなどは不明で、市民団体の調査には限界があった。 説明板の撤去を藤原さんらが知ったのは、撤去を求めた団体の街頭演説だった。「市は撤去して終わりでなく、ちゃんと調査してほしい。歴史を伝えなければ死んでも死にきれない」 ◇ 四四年十一月二十四日昼、米軍による東京初の本格的な空襲で標的となった武蔵野市の中島飛行機武蔵製作所。跡地に唯一残る旧変電室は、都が今年三月、公園整備のため撤去を決めた。 当時、早稲田実業の学生で学徒動員されていた重原正三(しょうぞう)さん(87)=相模原市緑区=は、夜勤で被害を逃れた。「出勤したら、むき出しになった天井の鉄筋に、上の階の機械が引っ掛かってぶら下がっていた」 零式艦上戦闘機(ゼロ戦)などのエンジンを組み立てていた製作所は、九回の空襲に遭い、学生十七人を含む二百人以上が犠牲になった。 二十四時間三交代制の過酷な勤務。動員された学徒は約五千人といわれる。重原さんはひもじさと睡眠不足の中で働いた。三年前から変電室の保存運動に関わる。「子どもが戦争のために働くなんて二度とあってはならない。経験者が死んで学徒動員が忘れられることが一番嫌なんだ」 (東京新聞) PR情報
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