今年は日清戦争の開戦から120年にあたる。東アジアの平和が破られたその時、1894年7月29日付の東京朝日新聞朝刊は、歓迎する社説を掲げた。「戦争は災害ではなくむしろ進歩の方法」「清国は日本に大敗すれば反省するだろう」

 富強を目指す国同士が戦うのを当然視した時代だった。火砲の発達がもたらす残虐さに対する意識も薄かったかもしれない。実際には将兵、一般人を含め犠牲者が多数にのぼった。

 その後、二つの世界大戦の経験を通じて各国は、戦争を基本的にやってはいけないこととみなした。武力行使を慎むと規定する国連憲章、平和主義を掲げる日本国憲法とも、その延長線上にある。

 版図拡大と破綻(はたん)を経験した日本人自身の心にも、戦争の何たるかが刻まれた。だが戦後69年も経てば記憶は風化する。どう伝えていけばいいだろう。

■書き換えられる物語

 歴史は、ときに忘れられ、忘却からよみがえり、書き換えられる。それが古代ギリシャの時代からあったと、英国の歴史学者、R・オズボーン氏が指摘している。(刀水書房刊「ギリシアの古代」による)

 紀元前510年、アテネが独裁者ヒッピアスを追放し、民主政に道を開いたのはスパルタの協力によってであった。ところがアテネでは、その4年前にヒッピアスではなく、その弟を殺したアテネ人の偉業という話にすり替わり、像が建てられた。それはアテネとスパルタが敵対関係に入ったためだった。

 連想されるのは中国である。日本による侵略と戦った歴史を語ることは、友好関係を最優先とした80年代まで抑えられていたが、90年代以降、強調するようになった。関係が悪化した最近はなおさらだ。中国の発展に日本が貢献したことなど、なかなか触れられることはない。

 そんなやり方にうんざりする向きもあろう。だが相手に注文をつける前に、まずは、わが国について省みよう。

 安倍首相は昨年4月、サンフランシスコ講和条約発効を記念する主権回復式典を初めて催した。「国破れ、まさしく山河だけが残ったのが、昭和20年夏、わが国の姿でありました」。敗戦の悲惨を語り、その後の復興をたたえた。

 一方で4カ月後、8月15日の全国戦没者追悼式では、アジア諸国への加害についていっさい言及しなかった。

 「屈辱から栄光へ」という受け入れられやすい物語を強調し、不都合な史実には触れない。必ずしもうそではない。しかし、歴史書き換えの一歩が潜んでいるのではないか。

 もちろん、自国にもたらされた戦争被害を思い出すのは、平和思想の起点として大事だ。

■平和を尊ぶために

 だが、当時の日本軍がアジア諸国に戦火を広げ、市民を巻き込んだ歴史を忘れるわけにはいかない。平和を何よりも大事にする者としての義務である。

 それを自虐史観と呼ぶのは愚かである。表面的な国の威信を気にして過去をごまかすのは、恥ずべきことだ。過去から教訓を正しく引き出してこそ、誇りある国だろう。

 加害の歴史を記憶していくのは、よほど自覚しないと難しい。手を下した当事者は口をつぐむ。聞くほうもつらい。被害者やその遺族の居場所は、ほとんどが国外だ。

 そして69年が過ぎた。特攻隊の物語はベストセラーになるが、戦争加害を正面から扱う文学で読み継がれているものが、どれほどあるだろう。

 後代の者の務めは、忘れがちな歴史を忘れないと、折に触れ内外に示すことだ。だからこそ8月15日、歴代首相が戦没者追悼とともに加害責任に触れる慣例が、意義を持ったのだ。

 安倍首相も、第1次政権の07年は「アジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えた」と述べた。にもかかわらず、昨年は異なる選択をした。今年こそ、日本国民を代表して再び言うべきである。

■日清戦争の教訓とは

 先月、中国では日清戦争を回顧した論評がいくつか発表された。当時は弱いから負けた、ならばいま、どうすればいいか、という問題意識だ。

 中国共産党機関紙・人民日報(海外版)は「我々は海軍を基本とする強大な海上権を確立し、国家の主権、安全を守る能力を高め、甲午戦争(日清戦争)の悲劇が繰り返されないようにすべきだ」と論じた。

 しかし昨今の軍備拡張の正当化のために歴史を利用するのでは、方向性を間違えている。120年前と同様、力と力の衝突を肯定するかのような議論は、むしろ歴史を踏まえていないものだ。

 そのような議論に、こちらのほうから現実味を与えるわけにはいかない。そのためにも、69年前の反省をきちんと掲げ続けなくてはならないのである。