2014年8月12日23時40分
命を救うための従軍だった。だが、あまりにも多くの人が目の前で死んでいった。故郷から遠く離れた地で――。
69年前の1945年8月9日未明、日本の勢力下にあった満州国(現・中国東北部)東部の佳木斯(ジャムス)市に爆音が響いた。前日に日本に宣戦布告したソ連による空爆だった。
「また空襲だ」「伏せろ!」。市郊外にあった「佳木斯第一陸軍病院」も攻撃に連日さらされた。各地の戦線で負傷し、運び込まれていた日本兵の手当てができなくなり、衛生兵や看護婦は満州の内陸部へ逃げることになった。
出発直前、従軍看護婦になって2年目の井上ともゑ(87)=堺市=は先輩の看護婦に聞いた。「あの子たちはどうなるのですか」。重い結核にかかった数十人の少年兵のことだった。18歳だった井上と同年代。井上の問いに、先輩看護婦は注射器を見せながら「処分します」と答えた。安楽死させるという意味だった。
10人ほどの別の日本兵は担架で外に運び出され、地面に掘った深さ3メートルの穴に入れられた。重篤な容体で声も上げない。「連れて行けないから仕方がない」。井上は69年たった今も、同僚の無念そうな言葉が忘れられない。
井上ら看護婦と電話交換手ら女性約150人は日本兵らと輸送船に乗り、佳木斯市を流れる松花江(しょうかこう)から南をめざした。港に着き、しばらくして敗戦を知った。「日本が負けたんや」。信じられなかった。
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