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 民主党の枝野幸男元官房長官が、徴兵制についての自身の発言に対してコメントした。要旨は次の通り。

 朝日新聞は5月18日のデジタル版で、「自分の国を自分たちで守ることについてはモチベーションがあるので、個別的自衛権を行使するための軍隊は志願兵制度でも十分成り立つ。しかし中東の戦争に巻き込まれ、自衛隊の方が何十人と亡くなるということが起きた時に、今のようにちゃんと自衛隊員が集まってくれるのか真剣に考えないといけない。世界の警察をやるような軍隊をつくるには、志願制では困難というのが世界の常識だ。従って集団的自衛権を積極行使するようになれば、必然的に徴兵制にいかざるを得ないと思う」と(自身の発言を)詳細に引用しています。

 これらの報道に対して、ネット上で、まったく逆方向から2種類の批判がなされたのです。

 一つは、この記事から「枝野は徴兵制を採用する必要がある(あるいは、採用しよう)と主張している」と受け取った、ハト派や従来の護憲派と思われる方々からの批判です。

 もう一つは、「世界の警察をしている米国等は志願兵制だ」として、「基本的認識を間違えている」との、おそらく集団的自衛権行使を容認する立場からの批判です。

 まず明らかにしておきたいのは、私自身、「集団的自衛権を積極行使する」ことについて消極的な立場です。

 にもかかわらず、「枝野は集団的自衛権の積極行使に賛成で徴兵制を採用すべきと主張している」と勝手に判断して批判している方々がいます。

 集団的自衛権行使容認派からの批判は、そこまで単純ではありません。しかし、米国が志願兵制度であることは、安全保障を論じる上で常識であり、私も十分に認識しています。そして、志願兵制か徴兵制かという最終結論は、私が5月18日に論じた安全保障論だけで出るものではありません。多くの民主主義国では、政治的に徴兵制を採用することが困難であるし、現代の安全保障は、高い技術・技能、それを支える高度な訓練が必要であるため、徴兵制で人数だけ集めても機能し難い側面があります。米国もこれら要因の総合的帰結として、志願兵制になっていますが、一方では、「他国のために命を懸けるのか?」という疑問が、「世界の警察」として積極行動することへの障害の一つとなっています。それでも米国は、日本とは比較にならないほどの格差社会と言われており、大量に存在する、仕事を選べない若者の一部が供給源となることで、志願兵制の下でも「他国のために命をかけざるを得ない」若者によって(いわゆる「経済的徴兵制」)、「世界の警察」としての役割を一定程度果たしてきたとの指摘もあります。

 もちろん、日本国憲法の下で徴兵制は憲法違反ですし、憲法を変えて徴兵制にするなどということは、民意との関係でもリアリティーはないと思っています。それでも発言したのは、集団的自衛権の行使容認によって生じるであろう「他国のために命を懸ける」危険が高いほど、高い志を持った自衛官を集めることへの困難が大きくなるのではないか。これまでと同じように、高い志を持った自衛官を必要な人数採用することが困難になるリスクを、集団的自衛権行使積極派は、どう考えているのか。徴兵制も否定できないのではないか、という観点からの問題提起をする必要があると考えたからです。

 問題は、集団的自衛権行使容認で、日本の領土領海や日本人の生命財産とは直接かかわらない行動に命を懸けていただく可能性が、これまでのPKO等と比べて比較にならないくらい拡大したときに、どんな影響を生じるのかという点です。

 「集団的自衛権は行使できない」という現状を変更しようという主張をするには、現状と異なることによって生じうるリスクについて十分認識し、これに対応するか、リスクが大きくないことを説明する責任があります。容認派からの批判が、表面的で揚げ足取り的なものにとどまり、容認派なら当然考えていなければならないリスクに対して、本質的な説明がなされていないことを残念に思っています。

 ただ、今回、同じ報道に対してまったく逆方向からの批判がなされているというのは、この問題、つまり平和や憲法に対する両サイド(集団的自衛権行使容認派と反対派)の一部にある、特に声の大きい主張が持つ問題点や脆弱(ぜいじゃく)性を示していると考え、あえて反論することとしました。すなわち、自分と少しでも異なると思われる主張に対して、真摯(しんし)に受け止めるのでなく、思い込み、レッテル貼りや揚げ足取りで敵味方を分類し、壁を作って批判し合うという問題です。戦後70年近くにわたって、平和や憲法をめぐり両サイドの一部がこうした対応を繰り返してきた結果、地に足の着いた建設的な議論が深まりませんでした。集団的自衛権という他国の戦争に介入するかもしれないという問題、そして、立憲主義という国家の基本にかかわる問題について、より本質的で建設的な議論がなされるためには、何よりもこうした議論の仕方そのものを克服しなければなりません。