今朝一番に、このビデオと出会った。
50分の、長いものですが、どうしても記録として残しておきたくて、家事や仕事の合間を縫って、ほぼ一日かかって文字起こしした。
わたしは、この『焼き場に立つ少年』の写真を、先日、迷彩色の軍服を着て、うれしそうに戦車に乗ってた男に突きつけたい。
その男は権力者で、我々を権力(者)から守るために生まれ、権力者の上に立ち、権力者に歯止めをかける憲法を、いじりたくて必死になってる。
まず、96条をいじり、その後、自分らの都合のいいように変えていくつもりでいる。
特に、平和憲法と呼ばれてる9条は、暴力の連鎖を断ち切り、人類の進むべき道を指し示す、世界にも誇れるもの。
それが、戦争という状況を作り、指揮官をやってみたくてたまらずにいるあの男らのような輩にはだから、9条は邪魔で邪魔でしようがない。
わたしたち主権者にとって、今ほどしっかりしなくてはならない時があるだろうか。
この今をうっかり過ごしてしまったら、過ちをまたくり返すことになる。
歴史の中には、往々にして、そういう繰り返しが存在してるけれども、
くり返していいことと、絶対にくり返してはいけないことがある。
戦争に向かわされること。
知らないうちに、あるいは知らないふりしているうちに、すっかり巻き込まれてしまうこと。
もうそんな、世にも愚かな、悲しいことにならないよう、『焼き場に立つ少年』の写真を、心に血がにじむまで、刻み込んでほしい。
報道写真家 ジョー・オダネル撮影 「焼き場に立つ少年」 (1945年長崎の爆心地にて)
佐世保から長崎に入った私は、小高い丘の上から下を眺めていました。
すると、白いマスクをかけた男達が目に入りました。
男達は、60センチ程の深さにえぐった穴のそばで、作業をしていました。
荷車に山積みにした死体を、石灰の燃える穴の中に、次々と入れていたのです。
10歳ぐらいの少年が、歩いてくるのが目に留まりました。
おんぶひもをたすきにかけて、幼子を背中に背負っています。
弟や妹をおんぶしたまま、広っぱで遊んでいる子供の姿は、当時の日本でよく目にする光景でした。
しかし、この少年の様子は、はっきりと違っています。
重大な目的を持ってこの焼き場にやってきたという、強い意志が感じられました。
しかも裸足です。
少年は、焼き場のふちまで来ると、硬い表情で、目を凝らして立ち尽くしています。
背中の赤ん坊は、ぐっすり眠っているのか、首を後ろにのけぞらせたままです。
少年は焼き場のふちに、5分か10分、立っていたでしょうか。
白いマスクの男達がおもむろに近づき、ゆっくりとおんぶひもを解き始めました。
この時私は、背中の幼子が既に死んでいる事に、初めて気付いたのです。
男達は、幼子の手と足を持つと、ゆっくりと葬るように、焼き場の熱い灰の上に横たえました。
まず幼い肉体が火に溶ける、ジューという音がしました。
それから、まばゆい程の炎が、さっと舞い立ちました。
真っ赤な夕日のような炎は、直立不動の少年のまだあどけない頬を、赤く照らしました。
その時です。
炎を食い入るように見つめる少年の唇に、血がにじんでいるのに気が付いたのは。
少年が、あまりきつく噛み締めている為、唇の血は流れる事もなく、ただ少年の下唇に、赤くにじんでいました。
夕日のような炎が静まると、少年はくるりときびすを返し、沈黙のまま、焼き場を去っていきました。
(インタビュー・上田勢子)[朝日新聞創刊120周年記念写真展より抜粋]
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ぜひ、ビデオの中の現実を、みなさんの目で見てください。
お手間をかけてすみませんが、よろしくお願いします。
解かされた封印 〜米軍カメラマンが見たNAGASAKI Dailymotion
NHKスペシャル
解かされた封印〜米軍カメラマンが見たNAGASAKI
語り 柴田祐規子
一枚の原爆の写真が今、注目を集めています。
皇后陛下が、去年亡くなったひとりのカメラマンと、その写真について述べられたのです。
宮内庁ホームページより
『焼き場に立つ少年』と題し、死んだ弟を背負い、しっかりと直立姿勢をとって立つ、幼い少年。
その姿が、今も目に残っています。
今から63年前、長崎の火葬場で撮影された、ひとりの少年。
背負っているのは、原爆で死んだ弟です。
弟を焼く順番を待ちながら、悲しみに耐える少年。
歯を食いしばるその唇には、血がにじんでいたといいます。
撮影したのは、アメリカ海兵隊第5師団に属していた、ジョー・オダネル軍曹。
去年の夏、85才でこの世を去りました。
1945年、8月9日、一発の原子爆弾が、長崎を焼き尽くし、7万4千人が死亡しました。
占領軍として長崎に入ったオダネルの任務は、原爆の破壊力を記録することでした。
この時オダネルは、軍の命令に背き、密かに、30枚の写真を撮影していました。
しかし、写真はその後、長い間公表されることなく、封印されてきました。
写真が隠されていたトランク。
オダネルは晩年、ここから突然写真を取り出し、公表を始めます。
なぜ封印していた写真を公表したのか?
その思いを告白したテープが、今年、遺品の中から見つかりました。
オダネルの30枚の写真が、今、わたしたちに、戦争の意味を問いかけています。
オダネルのテープより
『アメリカはきのこ雲を見て、戦争は終ったと思っていた。
でもそれは、この50年に渡る、生き残った日本人にとっての苦しみの始まりだったのだ』
アメリカ・ネバダ州での収録
長崎の写真を残したジョー・オダネル。
その息子の、タイグ・オダネル(38)さんです。
ホテルで働き、写真とは無縁の生活を送っていたタイグさん。
去年父が亡くなり、遺品として、写真を引き継ぐことになりました。
父は、軍隊で使っていたトランクを屋根裏部屋に置き、家族には、絶対に開けるな、と告げていました。
しかし、アメリカに帰国してから43年後、父は67才の時、突然トランクを開けたのです。
そこには、軍の規則に違反して撮影された、長崎の写真が隠されていました。
当時アメリカ軍は、決められたカメラでしか撮影を許していませんでした。
しかし、父オダネルは、密かに持ち込んだ自分のカメラで、撮影を続けていたのです。
残された30枚のネガには、破壊された長崎の町と、瓦礫の中で生きる日本人の姿がとらえられていました。
なぜ父は、命令に背いて写真を撮影したのか。
タイグさんは、父の死をきっかけに、その思いに迫ろうとしています。
タイグ氏:
「どうして撮影したのか、なぜ43年間も隠したのか、父は何も話さなかった。僕はその真相を知りたいんです」
今年タイグさんは、遺品の中に、父の肉声を録音したテープを見つけました。
それは5年前、地元の図書館の学芸員が、戦争体験を集めるために聞き取っていたものでした。
長崎で何があったのか。
父オダネルは、軍隊に志願した理由から語り始めていました。
テープより
「突然の日本軍による真珠湾攻撃。私は復讐心に燃え、海兵隊に志願した。
日本人に怒り、日本人を殺すために、軍隊に入ったのだ。
日本への憎しみから兵士に志願したオダネル。
19才の冬、海兵隊に入隊し、写真記録班に配属されました。
1945年8月、初めて原爆投下のニュースを聞いた時の心境を、手記に残していました。
『新型兵器が日本に落とされた。10万人くらい死んだらしい。
はじめは、あのクソったれ日本人との対決を鼓舞するプロパガンダかと思ったが、本当らしい。
とにかくこれで、戦争は終わりだ』
終戦から一ヵ月が過ぎた、9月22日。
オダネルの所属する海兵隊第5師団は、占領軍として、長崎県佐世保市に上陸しました。
被害の様子を撮影しながら、オダネルは、原爆が落とされた長崎の爆心地へと向かって行きました。
テープより
「昨日のことのように思い出される。
1945年、私は、原爆の破壊状況を記録する任務で、長崎に入った」
長崎に足を踏み入れたオダネルは、その光景に衝撃を受けます。
爆心地からおよそ1キロの、三菱製鋼所。
千人を超す従業員が、亡くなっていました。
爆心地から500メートル、130人の生徒が死亡した、鎮西学院です。
オダネルは一歩ずつ、爆心地に近づきながら、任務に従い、その破壊力を記録していきました。
辿り着いた爆心地です。
アメリカ兵たちは、その場所を、グラウンド・ゼロ(爆心地)と呼んでいました。
新型兵器としか聞いていなかったオダネルにとって、目の前の現実は、想像をはるかに超えたものでした。
テープより
「私は、灰と瓦礫につまづきながら、爆心地を見渡した。
衝撃的だった。
そこには、人が暮らした文明の跡形も無かった。
自分が地球に立っているとは思えないほどの破壊だった」
爆心地のそばにアメリカ軍が立てた看板です。
アトミック・フィールド(ATOMICFIELD)
それは、軍が瓦礫の中に作った、飛行場のことでした。
父の写真を調べていた息子タイグさん、写真の変化に気づきました。
タイグ氏:
「人が写ってるみたいだ」
アトミック・フィールドの瓦礫の奥に、人影が写っていたのです。
それは、遺骨を抱えた家族の姿でした。
タイグ氏:
「また一人、人が写っている」
許可無く日本人を撮ってはいけないという、軍の命令に背き、オダネルは、そこに生きる人々を密かに撮影し始めたのです。
爆心地の近くで撮影された写真です。
この少年は、チョコレートを持っていたオダネルの後を、ついてきました。
周りに親の姿は見当たらず、背中に、傷ついた赤ん坊を背負っていました。
テープより
「多くの子どもが、戦場か原爆で、親を亡くしていた。
生き延びた子どもは、幼い弟や妹を、親代わりとなって支えていた」
オダネルが出会った、幼い兄弟です。
瓦礫の中にたたずむ3人に、オダネルは、持っていたリンゴを差し出しました。
テープより
「年上の子どもが、私の手からりんごをもぎ取った。
彼らは飢えていた。
3人で分け、皮どころか、芯まで食べ尽くした」
オダネルは廃墟の町で、祝いの衣装に身を包んだ少女に出会いました。
写真を撮った後、近づいてきた母親が、オダネルに言いました。
「この子は、爆音で耳が聞こえなくなったのです」
日本人の撮影を続けていたオダネルは、被爆者が治療を受ける救護所へ向かいました。
そして、原爆が人間にもたらす現実を、目の当たりにします。
日本の映画会社が撮影した、臨時救護所の映像です。
オダネルは、ここを訪れていました。
そこで出会ったひとりの被爆者について、語っています。
テープより
「私が見たその人は、これまで出会ったけが人と、全く違っていた。
彼には髪の毛が無かった。眉も鼻も耳も無かった。
顔といえる原型はなく、肉の塊だった。
彼は私にこう言った。
『あなたは敵でしょう。殺してください』
私は逃げるように彼から離れ、別の患者に向き直った。
部屋を去るとき、再び彼を見た。
まだ『殺してくれ』と言っていた。
自分にできることなど何も無かった。
その時、肉の塊にしか見えなかった彼の両目から、涙が流れていた」
あの被爆者はどうなったのか。
その夜、オダネルは眠ることができませんでした。
翌日救護所を訪ねると、ベッドにその被爆者の姿はもうありませんでした。
ここでオダネルは、1枚だけ写真を撮影しています。
熱線でやけどを負い、死線を彷徨っていた、別の少年の背中でした。
テープより
「この世のものとは思えないものを見た。
それは本当に酷かった。
死んだ人、子どもたち、その母親、間もなく死ぬ人、飢えている人、そして原爆症……。
あまりにも多くの傷ついた人々を撮影しているうちに、日本人に持っていた憎しみが消えていった。
憎しみから哀れみに変わった。
なぜ人間が、同じ人間に、こんな恐ろしいことをしてしまったのか。
私には理解できない」
父はどのような気持ちで撮影を続けたのか。
息子のタイグさんは、同じ任務についていた、元アメリカ軍のカメラマンを訪ねました。
ノーマン・ハッチさん(アメリカ海兵隊・元少佐)、87才です。
1945年の9月以降、GHQは、原爆報道の規制を強化していました。
記録班は、個人の感情を捨て、記録に徹しなければならなかったといいます。
ハッチ氏:
「私は、撮影対象との接触を避けた。
たとえその人が傷ついていても、死んでいたとしてもだ。
記録班が感傷的になる必要はないのだ。
私用のカメラなど許されない」
タイグ氏:
「あなたは、記録班は感傷的になってはいけないと言ったが、僕は、父は日本人の姿に心が動いたのだと思う。
確かに父は、軍人として失格かもしれない。
でも父は、感情を捨てきれなかった」
爆心地周辺。
オダネルが、最も多く撮影した場所があります。
廃墟の町を見下ろす丘に、辛うじて建つ建物でした。
浦上天主堂です。
原爆投下によって、8500人の信者が、長崎で亡くなりました。
熱線に焼かれた彫像。
オダネルは、その目線の先を追いました。
そこに広がっていたのは、見渡す限りの焦土と化した、長崎の町でした。
長崎を南北に貫く浦上川。
そのほとりに降りて行ったオダネルは、生涯忘れられない光景と出会います。
そこは、火葬場でした。
焼け野原を、ひとりの少年が歩いて来ました。
少年は、背中に小さな弟の亡骸を背負っていました。
テープより
「ひとりの少年が現れた。
背中に、幼い弟を背負っているようだった。
火葬場にいた2人の男が、弟を背中から外し、そっと炎の中に置いた。
彼は黙って立ち続けていた。
まるで、敬礼をしているかのように。
裸足だった。
炎が、彼の頬を赤く染めていた。
彼は泣かず、ただ唇を噛みしめていた。
そして何も言わず、立ち去っていった」
オダネルは、長崎や佐世保などの地域を、7ヵ月に渡って撮影しました。
任務として撮影したネガは、軍に提出。
密かに撮影した個人のネガは、開封禁止と書かれた箱に入れ、未使用のフィルムに見せかけ、アメリカに持ち帰っていったのです。
帰国後オダネルは、長崎での記憶に、精神を苛まれます。
テープより
「被爆者たちの体をうごめくウジ、助けを求める声、鼻をつく異臭。
私は、長崎で見た悪夢のような光景を、思い出すまいとした。
しかしその光景は頭から離れず、私を苛み続けた。
あの時のアメリカの決断は、正しかったと言えるだろうか。
眠ろうとしても眠れない。
悪夢が終らないのだ。
写真を見たくなかった。
見ると、あの1945年の時に引き戻されて、長崎の悪夢がよみがえってしまう。
見ないという他に、私にはなにもできなかった」
苦しみから逃れるため、オダネルは、すべての写真をトランクに封印しました。
屋根裏部屋に隠し、以後43年間、開けることはありませんでした。
アメリカに帰国後、オダネルは、長崎での記憶を語ることなく、新たな生活を始めました。
軍を退役してから結婚、妻エレンさんとの間には、ジェニファーさん、タイグさんという二人の子どもに恵まれ、幸せな家庭を築きました。
タイグ氏:
「優しい父親でした。良い家族を築こうとしていました。
よく、ディズニーランドに連れていってくれた。
いつも家族一緒でした。
その家族が、唯一禁じられていたことがありました。
タイグ氏:
「とにかく緑の軍のトランクだけには、何があっても絶対に触るなと、いつも言われていたんです」
中に何が入っているのか、家族に知らされることはありませんでした。
帰国して3年後の1949年、オダネルはアメリカ情報局に勤務しました。
大統領の専属カメラマンに抜擢され、ホワイトハウスで働き始めたのです。
最初に担当したのは、日本に原爆投下の決定を下した、トルーマン大統領でした。
アメリカは、原爆投下を正当化し、核戦略を強化していました。
トルーマン大統領:
「原爆投下は、戦争を早く終らせるためだ。
多くの若いアメリカ兵の、命を救うためだった」
核実験の成功を伝えるニュース映像
核実験が砂漠で始まってから、経済効果も上がり、ラスベガスは盛況。
アイドル”ミス原爆”も登場。
日本に原爆を落としたことをどう思っているのか。
オダネルは一度だけ、自分の思いを、トルーマン大統領にぶつけました。
それは、トルーマン大統領が、朝鮮戦争を指揮していたマッカーサー司令官と会談した、1950年のできごとでした。
テープより
「『大統領、私は長崎と広島で、写真を撮っていました。
あなたは、日本に原爆を落としたことを、後悔したことはありませんか?』
彼は動揺し、顔を真っ赤にしてこう言った。
『当然それはある。しかし、原爆投下は、私のアイディアではない。私は前の大統領から、単に引き継いだだけだ』」
母国アメリカが推し進める核戦略と、長崎で見た、原爆が人間にもたらす現実。
オダネルは、苦悩を深めていきました。
陸軍!海軍!沿岸警備隊!海兵隊!空軍!
これがアメリカ!
毎年5月、ワシントンでは、退役軍人による記念パレードが行われます。
アメリカは、第二次大戦で敵国日本と戦った、オダネルたち退役軍人を讃えてきました。
高齢となった退役軍人は、その多くが、今なお、原爆投下の正当性を信じています。
退役軍人:
「原爆は、日本の真珠湾攻撃と比べても悪くないだろう」
別の退役軍人:
「原爆は必要だった。ははは、何の罪悪感も無いよ」
オダネルの体を、異変が襲います。
背骨の痛みと変形、さらに皮膚ガン。
オダネルは、原爆による症状だと確信しました。
テープより
「体のあちこちに異変が起きた。25回も手術することになった。
爆心地に送り込んでおきながら、軍は何も情報をくれなかった。
かなりひどい放射能汚染があったというのに、何も知らないまま、とてもたくさんの時間、長崎の爆心地にいた」
オダネルは、原爆による被害だと、アメリカ政府に補償を求めましたが、その訴えは却下されました。
1989年、オダネルの運命が変わります。
オダネルは、偶然立ち寄った修道院で、そこに飾られていた、反核運動の彫像に出会います。
その全身には、被爆者の写真が貼られていました。
腰には、爆心地を彷徨うふたり。
右腕には、列を成す傷ついた人々の姿がありました。
テープより
「私は、彫像を見て衝撃を受けた。
罪のない被爆者たちの写真が、彫像の全身に貼られていたのだ。
その多くは、女性であり、子どもたちだった。
それを見た時の気持ちは、言い表せない。
長崎の記憶がよみがえり、とても苦しくなった。
しかし私は、何かしなければと痛烈に感じた。
まさに啓示だった。
自分も、撮影した真実を、世界に伝えなければならないと」
オダネルは屋根裏部屋に行き、43年ぶりに、トランクを開けました。
長崎と題されたネガは、朽ち果てることなく、当時のまま残っていました。
トランクを開け、原爆の写真を並べ始めたオダネルの姿に、家族は衝撃を受けます。
タイグ氏:
「ある日、母が家に帰ってきたら、トランクを開けた父が、台所に原爆の写真を並べていたんです。
被爆者や爆心地の写真から、母は目を背けました。
母にはショックが大き過ぎたんです」
1990年、オダネルは長崎の写真を引き延ばして、アメリカの各地で写真展を試みました。
しかし、原爆の写真を受け入れる施設は、ほとんどありませんでした。
本に掲載してもらおうと、全米の出版社を回りましたが、回った35社、すべてに断られました。
終戦から50年目の1995年、スミソニアン航空宇宙博物館でようやく決まった写真の展示も、地元の退役軍人の激しい反対で、中止に追い込まれました。
家には嫌がらせの手紙が来るようになり、地元の新聞には、オダネルを批判する投書も目立つようになりました。
幸せだった家族は、トランクを開けてから一気に崩壊、妻エレンさんは、夫の行動を理解できず離婚しました。
原爆投下が戦争を終らせ、犠牲者を減らした。
母国アメリカの正義を前に、オダネルは孤立を深めていきました。
テープより
「どうか誤解しないでほしい。
私はアメリカ人だ。
アメリカを愛しているし、国のために戦った。
しかし、母国の過ちを、無かったことにできなかった。
退役軍人は、私のことを理解してくれないだろう。
私は、あの場所で居て、死の灰の上を歩き、この目で惨状を見たのだ。
確かに日本軍は、中国や韓国に対してひどいことをした。
しかし、あの小さな子どもたちが、何かしただろうか。
戦争に勝つために、本当に、彼らの母親を殺す必要があっただろうか。
1945年、あの原爆は、やはり間違っていた。
それは、100年経っても、間違いであり続ける。
絶対に間違っている。絶対に。
歴史はくり返すと言うが、くり返してはいけない歴史もあるはずだ」
封印していた写真と、再び向き合ったオダネル。
70才を過ぎてから、日本でも写真を公開し、体験を語る活動を始めました。
息子のタイグさんは、当時父の通訳をしていた人が、アメリカに居ると聞いて訪ねました。
リチャード・ラマーズさん(84)です。
父は長崎を訪れ、撮影した被爆者との再会を果たしていました。
救護所で撮影した少年は、一命をとりとめていたのです。
オダネルは、その少年、谷口稜嘩さんと十年に渡って交流し、共に日本で、原爆の過ちを訴えて回りました。
オダネルが最も気にかけていたのは、焼き場に立つ少年でした。
谷口さんのように再会できないか。
日本でその行方を探していたと言います。
ラマーズ氏:
「オダネルは、この写真の少年に、とても思い入れがあった。
あの時、少年の肩を抱き、なにか励ましの言葉をかけたかったと、いつも話していた。
しかし、できなかったと」
日本で写真展を開きながら、オダネルは、少年の行方を探し続けました。
誰か知っている人はいないか、家族は生きていないかと、全国各地を訪ねて回りました。
テープより
「私は、少年を必死に捜した。
日本の新聞にも『この少年を知りませんか』と載せてもらった。
少年はあの後、ひとりで生きていったのだろうか。
ついに、彼に会うことができなかった」
行方を捜して十年。
しかし、少年の消息をつかむことは、ついにできませんでした。
日本とアメリカを行き来する生活する中で、オダネルの病状は悪化していきます。
背骨の痛みは深刻になり、皮膚ガンは全身に転移していました。
そして去年の夏、ジョー・オダネルは、85才で息を引き取りました。
その日は奇しくも、長崎に原爆が落ちたのと同じ、8月9日でした。
残されたテープを聞いていく中で、息子タイグさんは、その思いを知ることになります。
テープより
「アメリカ人が好むと好まざるとに関わらず、8月6日と9日は毎年やってくる。
嫌がらせの手紙や投稿が、どんどん集まってくる。
『お前は裏切り者だ』
『アメリカが嫌なら日本に行け』と。
ある時、娘が教えてくれた。
『お父さんの活動に、味方する投稿がひとつだけあるよ。
それはとってもポジティブな内容で、お父さんは正しいことをしたって言ってる』と。
その投稿は、私への批判の声に、反論してくれていたのだ。
『オダネルを批判する人たちに言いたい。
まず図書館に行け。私がしたように。
原爆とは何だったのか、何をしたのか、図書館に行って、歴史を勉強してから批判しろ。
図書館に行け。あなた方は教えを受けるだろう』
私はそれを読み、こりゃすばらしいと思い、名前を見ると、それは私の息子だった。
息子が、私が日本に居た時と同じ、23才の頃だった。
その後、息子はこう言ってくれた。
『50年経って、僕がお父さんくらいになったら、僕が日本に行って、お父さんのやろうとしたことを引き継ぐよ。
平和のために、命をかけて、写真を伝えていくよ』」
タイグ氏:
「僕は、父の苦しみを理解しきれていなかった。
父の写真は、アメリカに、複雑な感情を抱かせる。
けれど父は、目撃してしまった。
その記憶に突き動かされたのだ。
もしあの頃に戻れるなら、父の支えになってあげたかった」
母国アメリカに、原爆投下の意味を問い続けた父。
その遺志をくみ、タイグさんは去年、全米に向けて、父の写真を公開しました。
写真に、批判の声が集まり始めます。
『広島と長崎への原爆投下は、必要だった』
『謝る必要なんてない』
しかし、父の時代には見られなかった声も、寄せられています。
『長崎の少年を見ました。
悲しみに耐えている姿に、胸が締めつけられました。
原爆の写真で、こんなに心を動かされたことはありませんでした』
イラク帰還兵からの声です。
『この写真は、戦争の現実を伝えている。
もしこれがイラクで写された写真だったら、アメリカ人は、イラクへの駐留を考え直したかもしれない』
写真を公開して8ヵ月、タイグさんの元に、思いがけない人から意見が届きました。
母、エレンからのものでした。
離婚して13年、父との連絡を絶っていた母が、その胸の内を語っていました。
『お父さんの写真のことで、忙しくしていると聞きました。
私は、ジョーが亡くなってから、彼の行動の意味を考えています。
しかし私にはまだ、ジョーがなぜトランクを開け、母国を告発したのか、わからないままです。
ただ、これだけは確かです。
彼の写真が、多くの人に影響を与えていること。
そしてその写真を引き継いだあなたを、ジョーが誇りに思っていることです』
タイグ氏:
「母は、父が遺した写真が、多くの人に何かを感じさせていることは、理解してくれています。
時間が経ち、アメリカは、十年前と少し変わってきています。
写真のような過去を見つめ、違った受け入れ方をする人も、増えているんだと思うんです」
ジョー・オダネルの死から、まもなく1年。
この夏、長崎(長崎原爆資料館)で、初の写真展が開催されました。
タイグさんも、遺族として招かれました。
会場で、被爆者の谷口稜嘩さん(79)と、初めて会うことになりました。
父オダネルが、63年前に撮影した、谷口さんの背中です。
「今現在の背中です。
新しいあとは、去年手術したんです」
タイグ氏:
「まだずっと、手術されているんですね」
タイグさんは父の足跡を辿り、写真に記録された場所を回りました。
(浦上天主堂の)彫像の目線の先に、かつて父は、焼け野原の長崎を目撃しました。
あれから63年。
長崎で、タイグさんは、子どもたちが遊ぶ姿にレンズを向けました。
それは生前、父が願っていた思いを、実現するためでした。
タイグ氏:
「父は死ぬ前に言っていました。『あの日の長崎には笑顔が無かった』と。
『いつか長崎で、笑顔の子どもを撮りたい』と。
それに応えたいと思ったんです」
原爆を目撃してしまったアメリカ人のカメラマンが、苦しみの末に封印を解いた、長崎。
30枚の写真は、今もなお、核の脅威に揺れる現代に、戦争の現実と、それを伝え続ける尊さを、訴えています。
テープより
「たとえ小さな石であっても、池に投げ入れたら、波紋は広がっていく。
それは少しずつ広がり、いつか陸に届くはずだ。
アメリカという陸にも、届く日が来る。
誰かが続いてくれれば、波紋はさらに広がっていく。
そしていつか、誰もが平和を実感できる日が来ると、信じている」
50分の、長いものですが、どうしても記録として残しておきたくて、家事や仕事の合間を縫って、ほぼ一日かかって文字起こしした。
わたしは、この『焼き場に立つ少年』の写真を、先日、迷彩色の軍服を着て、うれしそうに戦車に乗ってた男に突きつけたい。
その男は権力者で、我々を権力(者)から守るために生まれ、権力者の上に立ち、権力者に歯止めをかける憲法を、いじりたくて必死になってる。
まず、96条をいじり、その後、自分らの都合のいいように変えていくつもりでいる。
特に、平和憲法と呼ばれてる9条は、暴力の連鎖を断ち切り、人類の進むべき道を指し示す、世界にも誇れるもの。
それが、戦争という状況を作り、指揮官をやってみたくてたまらずにいるあの男らのような輩にはだから、9条は邪魔で邪魔でしようがない。
わたしたち主権者にとって、今ほどしっかりしなくてはならない時があるだろうか。
この今をうっかり過ごしてしまったら、過ちをまたくり返すことになる。
歴史の中には、往々にして、そういう繰り返しが存在してるけれども、
くり返していいことと、絶対にくり返してはいけないことがある。
戦争に向かわされること。
知らないうちに、あるいは知らないふりしているうちに、すっかり巻き込まれてしまうこと。
もうそんな、世にも愚かな、悲しいことにならないよう、『焼き場に立つ少年』の写真を、心に血がにじむまで、刻み込んでほしい。
報道写真家 ジョー・オダネル撮影 「焼き場に立つ少年」 (1945年長崎の爆心地にて)
佐世保から長崎に入った私は、小高い丘の上から下を眺めていました。
すると、白いマスクをかけた男達が目に入りました。
男達は、60センチ程の深さにえぐった穴のそばで、作業をしていました。
荷車に山積みにした死体を、石灰の燃える穴の中に、次々と入れていたのです。
10歳ぐらいの少年が、歩いてくるのが目に留まりました。
おんぶひもをたすきにかけて、幼子を背中に背負っています。
弟や妹をおんぶしたまま、広っぱで遊んでいる子供の姿は、当時の日本でよく目にする光景でした。
しかし、この少年の様子は、はっきりと違っています。
重大な目的を持ってこの焼き場にやってきたという、強い意志が感じられました。
しかも裸足です。
少年は、焼き場のふちまで来ると、硬い表情で、目を凝らして立ち尽くしています。
背中の赤ん坊は、ぐっすり眠っているのか、首を後ろにのけぞらせたままです。
少年は焼き場のふちに、5分か10分、立っていたでしょうか。
白いマスクの男達がおもむろに近づき、ゆっくりとおんぶひもを解き始めました。
この時私は、背中の幼子が既に死んでいる事に、初めて気付いたのです。
男達は、幼子の手と足を持つと、ゆっくりと葬るように、焼き場の熱い灰の上に横たえました。
まず幼い肉体が火に溶ける、ジューという音がしました。
それから、まばゆい程の炎が、さっと舞い立ちました。
真っ赤な夕日のような炎は、直立不動の少年のまだあどけない頬を、赤く照らしました。
その時です。
炎を食い入るように見つめる少年の唇に、血がにじんでいるのに気が付いたのは。
少年が、あまりきつく噛み締めている為、唇の血は流れる事もなく、ただ少年の下唇に、赤くにじんでいました。
夕日のような炎が静まると、少年はくるりときびすを返し、沈黙のまま、焼き場を去っていきました。
(インタビュー・上田勢子)[朝日新聞創刊120周年記念写真展より抜粋]
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お手間をかけてすみませんが、よろしくお願いします。
解かされた封印 〜米軍カメラマンが見たNAGASAKI Dailymotion
NHKスペシャル
解かされた封印〜米軍カメラマンが見たNAGASAKI
語り 柴田祐規子
一枚の原爆の写真が今、注目を集めています。
皇后陛下が、去年亡くなったひとりのカメラマンと、その写真について述べられたのです。
宮内庁ホームページより
『焼き場に立つ少年』と題し、死んだ弟を背負い、しっかりと直立姿勢をとって立つ、幼い少年。
その姿が、今も目に残っています。
今から63年前、長崎の火葬場で撮影された、ひとりの少年。
背負っているのは、原爆で死んだ弟です。
弟を焼く順番を待ちながら、悲しみに耐える少年。
歯を食いしばるその唇には、血がにじんでいたといいます。
撮影したのは、アメリカ海兵隊第5師団に属していた、ジョー・オダネル軍曹。
去年の夏、85才でこの世を去りました。
1945年、8月9日、一発の原子爆弾が、長崎を焼き尽くし、7万4千人が死亡しました。
占領軍として長崎に入ったオダネルの任務は、原爆の破壊力を記録することでした。
この時オダネルは、軍の命令に背き、密かに、30枚の写真を撮影していました。
しかし、写真はその後、長い間公表されることなく、封印されてきました。
写真が隠されていたトランク。
オダネルは晩年、ここから突然写真を取り出し、公表を始めます。
なぜ封印していた写真を公表したのか?
その思いを告白したテープが、今年、遺品の中から見つかりました。
オダネルの30枚の写真が、今、わたしたちに、戦争の意味を問いかけています。
オダネルのテープより
『アメリカはきのこ雲を見て、戦争は終ったと思っていた。
でもそれは、この50年に渡る、生き残った日本人にとっての苦しみの始まりだったのだ』
アメリカ・ネバダ州での収録
長崎の写真を残したジョー・オダネル。
その息子の、タイグ・オダネル(38)さんです。
ホテルで働き、写真とは無縁の生活を送っていたタイグさん。
去年父が亡くなり、遺品として、写真を引き継ぐことになりました。
父は、軍隊で使っていたトランクを屋根裏部屋に置き、家族には、絶対に開けるな、と告げていました。
しかし、アメリカに帰国してから43年後、父は67才の時、突然トランクを開けたのです。
そこには、軍の規則に違反して撮影された、長崎の写真が隠されていました。
当時アメリカ軍は、決められたカメラでしか撮影を許していませんでした。
しかし、父オダネルは、密かに持ち込んだ自分のカメラで、撮影を続けていたのです。
残された30枚のネガには、破壊された長崎の町と、瓦礫の中で生きる日本人の姿がとらえられていました。
なぜ父は、命令に背いて写真を撮影したのか。
タイグさんは、父の死をきっかけに、その思いに迫ろうとしています。
タイグ氏:
「どうして撮影したのか、なぜ43年間も隠したのか、父は何も話さなかった。僕はその真相を知りたいんです」
今年タイグさんは、遺品の中に、父の肉声を録音したテープを見つけました。
それは5年前、地元の図書館の学芸員が、戦争体験を集めるために聞き取っていたものでした。
長崎で何があったのか。
父オダネルは、軍隊に志願した理由から語り始めていました。
テープより
「突然の日本軍による真珠湾攻撃。私は復讐心に燃え、海兵隊に志願した。
日本人に怒り、日本人を殺すために、軍隊に入ったのだ。
日本への憎しみから兵士に志願したオダネル。
19才の冬、海兵隊に入隊し、写真記録班に配属されました。
1945年8月、初めて原爆投下のニュースを聞いた時の心境を、手記に残していました。
『新型兵器が日本に落とされた。10万人くらい死んだらしい。
はじめは、あのクソったれ日本人との対決を鼓舞するプロパガンダかと思ったが、本当らしい。
とにかくこれで、戦争は終わりだ』
終戦から一ヵ月が過ぎた、9月22日。
オダネルの所属する海兵隊第5師団は、占領軍として、長崎県佐世保市に上陸しました。
被害の様子を撮影しながら、オダネルは、原爆が落とされた長崎の爆心地へと向かって行きました。
テープより
「昨日のことのように思い出される。
1945年、私は、原爆の破壊状況を記録する任務で、長崎に入った」
長崎に足を踏み入れたオダネルは、その光景に衝撃を受けます。
爆心地からおよそ1キロの、三菱製鋼所。
千人を超す従業員が、亡くなっていました。
爆心地から500メートル、130人の生徒が死亡した、鎮西学院です。
オダネルは一歩ずつ、爆心地に近づきながら、任務に従い、その破壊力を記録していきました。
辿り着いた爆心地です。
アメリカ兵たちは、その場所を、グラウンド・ゼロ(爆心地)と呼んでいました。
新型兵器としか聞いていなかったオダネルにとって、目の前の現実は、想像をはるかに超えたものでした。
テープより
「私は、灰と瓦礫につまづきながら、爆心地を見渡した。
衝撃的だった。
そこには、人が暮らした文明の跡形も無かった。
自分が地球に立っているとは思えないほどの破壊だった」
爆心地のそばにアメリカ軍が立てた看板です。
アトミック・フィールド(ATOMICFIELD)
それは、軍が瓦礫の中に作った、飛行場のことでした。
父の写真を調べていた息子タイグさん、写真の変化に気づきました。
タイグ氏:
「人が写ってるみたいだ」
アトミック・フィールドの瓦礫の奥に、人影が写っていたのです。
それは、遺骨を抱えた家族の姿でした。
タイグ氏:
「また一人、人が写っている」
許可無く日本人を撮ってはいけないという、軍の命令に背き、オダネルは、そこに生きる人々を密かに撮影し始めたのです。
爆心地の近くで撮影された写真です。
この少年は、チョコレートを持っていたオダネルの後を、ついてきました。
周りに親の姿は見当たらず、背中に、傷ついた赤ん坊を背負っていました。
テープより
「多くの子どもが、戦場か原爆で、親を亡くしていた。
生き延びた子どもは、幼い弟や妹を、親代わりとなって支えていた」
オダネルが出会った、幼い兄弟です。
瓦礫の中にたたずむ3人に、オダネルは、持っていたリンゴを差し出しました。
テープより
「年上の子どもが、私の手からりんごをもぎ取った。
彼らは飢えていた。
3人で分け、皮どころか、芯まで食べ尽くした」
オダネルは廃墟の町で、祝いの衣装に身を包んだ少女に出会いました。
写真を撮った後、近づいてきた母親が、オダネルに言いました。
「この子は、爆音で耳が聞こえなくなったのです」
日本人の撮影を続けていたオダネルは、被爆者が治療を受ける救護所へ向かいました。
そして、原爆が人間にもたらす現実を、目の当たりにします。
日本の映画会社が撮影した、臨時救護所の映像です。
オダネルは、ここを訪れていました。
そこで出会ったひとりの被爆者について、語っています。
テープより
「私が見たその人は、これまで出会ったけが人と、全く違っていた。
彼には髪の毛が無かった。眉も鼻も耳も無かった。
顔といえる原型はなく、肉の塊だった。
彼は私にこう言った。
『あなたは敵でしょう。殺してください』
私は逃げるように彼から離れ、別の患者に向き直った。
部屋を去るとき、再び彼を見た。
まだ『殺してくれ』と言っていた。
自分にできることなど何も無かった。
その時、肉の塊にしか見えなかった彼の両目から、涙が流れていた」
あの被爆者はどうなったのか。
その夜、オダネルは眠ることができませんでした。
翌日救護所を訪ねると、ベッドにその被爆者の姿はもうありませんでした。
ここでオダネルは、1枚だけ写真を撮影しています。
熱線でやけどを負い、死線を彷徨っていた、別の少年の背中でした。
テープより
「この世のものとは思えないものを見た。
それは本当に酷かった。
死んだ人、子どもたち、その母親、間もなく死ぬ人、飢えている人、そして原爆症……。
あまりにも多くの傷ついた人々を撮影しているうちに、日本人に持っていた憎しみが消えていった。
憎しみから哀れみに変わった。
なぜ人間が、同じ人間に、こんな恐ろしいことをしてしまったのか。
私には理解できない」
父はどのような気持ちで撮影を続けたのか。
息子のタイグさんは、同じ任務についていた、元アメリカ軍のカメラマンを訪ねました。
ノーマン・ハッチさん(アメリカ海兵隊・元少佐)、87才です。
1945年の9月以降、GHQは、原爆報道の規制を強化していました。
記録班は、個人の感情を捨て、記録に徹しなければならなかったといいます。
ハッチ氏:
「私は、撮影対象との接触を避けた。
たとえその人が傷ついていても、死んでいたとしてもだ。
記録班が感傷的になる必要はないのだ。
私用のカメラなど許されない」
タイグ氏:
「あなたは、記録班は感傷的になってはいけないと言ったが、僕は、父は日本人の姿に心が動いたのだと思う。
確かに父は、軍人として失格かもしれない。
でも父は、感情を捨てきれなかった」
爆心地周辺。
オダネルが、最も多く撮影した場所があります。
廃墟の町を見下ろす丘に、辛うじて建つ建物でした。
浦上天主堂です。
原爆投下によって、8500人の信者が、長崎で亡くなりました。
熱線に焼かれた彫像。
オダネルは、その目線の先を追いました。
そこに広がっていたのは、見渡す限りの焦土と化した、長崎の町でした。
長崎を南北に貫く浦上川。
そのほとりに降りて行ったオダネルは、生涯忘れられない光景と出会います。
そこは、火葬場でした。
焼け野原を、ひとりの少年が歩いて来ました。
少年は、背中に小さな弟の亡骸を背負っていました。
テープより
「ひとりの少年が現れた。
背中に、幼い弟を背負っているようだった。
火葬場にいた2人の男が、弟を背中から外し、そっと炎の中に置いた。
彼は黙って立ち続けていた。
まるで、敬礼をしているかのように。
裸足だった。
炎が、彼の頬を赤く染めていた。
彼は泣かず、ただ唇を噛みしめていた。
そして何も言わず、立ち去っていった」
オダネルは、長崎や佐世保などの地域を、7ヵ月に渡って撮影しました。
任務として撮影したネガは、軍に提出。
密かに撮影した個人のネガは、開封禁止と書かれた箱に入れ、未使用のフィルムに見せかけ、アメリカに持ち帰っていったのです。
帰国後オダネルは、長崎での記憶に、精神を苛まれます。
テープより
「被爆者たちの体をうごめくウジ、助けを求める声、鼻をつく異臭。
私は、長崎で見た悪夢のような光景を、思い出すまいとした。
しかしその光景は頭から離れず、私を苛み続けた。
あの時のアメリカの決断は、正しかったと言えるだろうか。
眠ろうとしても眠れない。
悪夢が終らないのだ。
写真を見たくなかった。
見ると、あの1945年の時に引き戻されて、長崎の悪夢がよみがえってしまう。
見ないという他に、私にはなにもできなかった」
苦しみから逃れるため、オダネルは、すべての写真をトランクに封印しました。
屋根裏部屋に隠し、以後43年間、開けることはありませんでした。
アメリカに帰国後、オダネルは、長崎での記憶を語ることなく、新たな生活を始めました。
軍を退役してから結婚、妻エレンさんとの間には、ジェニファーさん、タイグさんという二人の子どもに恵まれ、幸せな家庭を築きました。
タイグ氏:
「優しい父親でした。良い家族を築こうとしていました。
よく、ディズニーランドに連れていってくれた。
いつも家族一緒でした。
その家族が、唯一禁じられていたことがありました。
タイグ氏:
「とにかく緑の軍のトランクだけには、何があっても絶対に触るなと、いつも言われていたんです」
中に何が入っているのか、家族に知らされることはありませんでした。
帰国して3年後の1949年、オダネルはアメリカ情報局に勤務しました。
大統領の専属カメラマンに抜擢され、ホワイトハウスで働き始めたのです。
最初に担当したのは、日本に原爆投下の決定を下した、トルーマン大統領でした。
アメリカは、原爆投下を正当化し、核戦略を強化していました。
トルーマン大統領:
「原爆投下は、戦争を早く終らせるためだ。
多くの若いアメリカ兵の、命を救うためだった」
核実験の成功を伝えるニュース映像
核実験が砂漠で始まってから、経済効果も上がり、ラスベガスは盛況。
アイドル”ミス原爆”も登場。
日本に原爆を落としたことをどう思っているのか。
オダネルは一度だけ、自分の思いを、トルーマン大統領にぶつけました。
それは、トルーマン大統領が、朝鮮戦争を指揮していたマッカーサー司令官と会談した、1950年のできごとでした。
テープより
「『大統領、私は長崎と広島で、写真を撮っていました。
あなたは、日本に原爆を落としたことを、後悔したことはありませんか?』
彼は動揺し、顔を真っ赤にしてこう言った。
『当然それはある。しかし、原爆投下は、私のアイディアではない。私は前の大統領から、単に引き継いだだけだ』」
母国アメリカが推し進める核戦略と、長崎で見た、原爆が人間にもたらす現実。
オダネルは、苦悩を深めていきました。
陸軍!海軍!沿岸警備隊!海兵隊!空軍!
これがアメリカ!
毎年5月、ワシントンでは、退役軍人による記念パレードが行われます。
アメリカは、第二次大戦で敵国日本と戦った、オダネルたち退役軍人を讃えてきました。
高齢となった退役軍人は、その多くが、今なお、原爆投下の正当性を信じています。
退役軍人:
「原爆は、日本の真珠湾攻撃と比べても悪くないだろう」
別の退役軍人:
「原爆は必要だった。ははは、何の罪悪感も無いよ」
オダネルの体を、異変が襲います。
背骨の痛みと変形、さらに皮膚ガン。
オダネルは、原爆による症状だと確信しました。
テープより
「体のあちこちに異変が起きた。25回も手術することになった。
爆心地に送り込んでおきながら、軍は何も情報をくれなかった。
かなりひどい放射能汚染があったというのに、何も知らないまま、とてもたくさんの時間、長崎の爆心地にいた」
オダネルは、原爆による被害だと、アメリカ政府に補償を求めましたが、その訴えは却下されました。
1989年、オダネルの運命が変わります。
オダネルは、偶然立ち寄った修道院で、そこに飾られていた、反核運動の彫像に出会います。
その全身には、被爆者の写真が貼られていました。
腰には、爆心地を彷徨うふたり。
右腕には、列を成す傷ついた人々の姿がありました。
テープより
「私は、彫像を見て衝撃を受けた。
罪のない被爆者たちの写真が、彫像の全身に貼られていたのだ。
その多くは、女性であり、子どもたちだった。
それを見た時の気持ちは、言い表せない。
長崎の記憶がよみがえり、とても苦しくなった。
しかし私は、何かしなければと痛烈に感じた。
まさに啓示だった。
自分も、撮影した真実を、世界に伝えなければならないと」
オダネルは屋根裏部屋に行き、43年ぶりに、トランクを開けました。
長崎と題されたネガは、朽ち果てることなく、当時のまま残っていました。
トランクを開け、原爆の写真を並べ始めたオダネルの姿に、家族は衝撃を受けます。
タイグ氏:
「ある日、母が家に帰ってきたら、トランクを開けた父が、台所に原爆の写真を並べていたんです。
被爆者や爆心地の写真から、母は目を背けました。
母にはショックが大き過ぎたんです」
1990年、オダネルは長崎の写真を引き延ばして、アメリカの各地で写真展を試みました。
しかし、原爆の写真を受け入れる施設は、ほとんどありませんでした。
本に掲載してもらおうと、全米の出版社を回りましたが、回った35社、すべてに断られました。
終戦から50年目の1995年、スミソニアン航空宇宙博物館でようやく決まった写真の展示も、地元の退役軍人の激しい反対で、中止に追い込まれました。
家には嫌がらせの手紙が来るようになり、地元の新聞には、オダネルを批判する投書も目立つようになりました。
幸せだった家族は、トランクを開けてから一気に崩壊、妻エレンさんは、夫の行動を理解できず離婚しました。
原爆投下が戦争を終らせ、犠牲者を減らした。
母国アメリカの正義を前に、オダネルは孤立を深めていきました。
テープより
「どうか誤解しないでほしい。
私はアメリカ人だ。
アメリカを愛しているし、国のために戦った。
しかし、母国の過ちを、無かったことにできなかった。
退役軍人は、私のことを理解してくれないだろう。
私は、あの場所で居て、死の灰の上を歩き、この目で惨状を見たのだ。
確かに日本軍は、中国や韓国に対してひどいことをした。
しかし、あの小さな子どもたちが、何かしただろうか。
戦争に勝つために、本当に、彼らの母親を殺す必要があっただろうか。
1945年、あの原爆は、やはり間違っていた。
それは、100年経っても、間違いであり続ける。
絶対に間違っている。絶対に。
歴史はくり返すと言うが、くり返してはいけない歴史もあるはずだ」
封印していた写真と、再び向き合ったオダネル。
70才を過ぎてから、日本でも写真を公開し、体験を語る活動を始めました。
息子のタイグさんは、当時父の通訳をしていた人が、アメリカに居ると聞いて訪ねました。
リチャード・ラマーズさん(84)です。
父は長崎を訪れ、撮影した被爆者との再会を果たしていました。
救護所で撮影した少年は、一命をとりとめていたのです。
オダネルは、その少年、谷口稜嘩さんと十年に渡って交流し、共に日本で、原爆の過ちを訴えて回りました。
オダネルが最も気にかけていたのは、焼き場に立つ少年でした。
谷口さんのように再会できないか。
日本でその行方を探していたと言います。
ラマーズ氏:
「オダネルは、この写真の少年に、とても思い入れがあった。
あの時、少年の肩を抱き、なにか励ましの言葉をかけたかったと、いつも話していた。
しかし、できなかったと」
日本で写真展を開きながら、オダネルは、少年の行方を探し続けました。
誰か知っている人はいないか、家族は生きていないかと、全国各地を訪ねて回りました。
テープより
「私は、少年を必死に捜した。
日本の新聞にも『この少年を知りませんか』と載せてもらった。
少年はあの後、ひとりで生きていったのだろうか。
ついに、彼に会うことができなかった」
行方を捜して十年。
しかし、少年の消息をつかむことは、ついにできませんでした。
日本とアメリカを行き来する生活する中で、オダネルの病状は悪化していきます。
背骨の痛みは深刻になり、皮膚ガンは全身に転移していました。
そして去年の夏、ジョー・オダネルは、85才で息を引き取りました。
その日は奇しくも、長崎に原爆が落ちたのと同じ、8月9日でした。
残されたテープを聞いていく中で、息子タイグさんは、その思いを知ることになります。
テープより
「アメリカ人が好むと好まざるとに関わらず、8月6日と9日は毎年やってくる。
嫌がらせの手紙や投稿が、どんどん集まってくる。
『お前は裏切り者だ』
『アメリカが嫌なら日本に行け』と。
ある時、娘が教えてくれた。
『お父さんの活動に、味方する投稿がひとつだけあるよ。
それはとってもポジティブな内容で、お父さんは正しいことをしたって言ってる』と。
その投稿は、私への批判の声に、反論してくれていたのだ。
『オダネルを批判する人たちに言いたい。
まず図書館に行け。私がしたように。
原爆とは何だったのか、何をしたのか、図書館に行って、歴史を勉強してから批判しろ。
図書館に行け。あなた方は教えを受けるだろう』
私はそれを読み、こりゃすばらしいと思い、名前を見ると、それは私の息子だった。
息子が、私が日本に居た時と同じ、23才の頃だった。
その後、息子はこう言ってくれた。
『50年経って、僕がお父さんくらいになったら、僕が日本に行って、お父さんのやろうとしたことを引き継ぐよ。
平和のために、命をかけて、写真を伝えていくよ』」
タイグ氏:
「僕は、父の苦しみを理解しきれていなかった。
父の写真は、アメリカに、複雑な感情を抱かせる。
けれど父は、目撃してしまった。
その記憶に突き動かされたのだ。
もしあの頃に戻れるなら、父の支えになってあげたかった」
母国アメリカに、原爆投下の意味を問い続けた父。
その遺志をくみ、タイグさんは去年、全米に向けて、父の写真を公開しました。
写真に、批判の声が集まり始めます。
『広島と長崎への原爆投下は、必要だった』
『謝る必要なんてない』
しかし、父の時代には見られなかった声も、寄せられています。
『長崎の少年を見ました。
悲しみに耐えている姿に、胸が締めつけられました。
原爆の写真で、こんなに心を動かされたことはありませんでした』
イラク帰還兵からの声です。
『この写真は、戦争の現実を伝えている。
もしこれがイラクで写された写真だったら、アメリカ人は、イラクへの駐留を考え直したかもしれない』
写真を公開して8ヵ月、タイグさんの元に、思いがけない人から意見が届きました。
母、エレンからのものでした。
離婚して13年、父との連絡を絶っていた母が、その胸の内を語っていました。
『お父さんの写真のことで、忙しくしていると聞きました。
私は、ジョーが亡くなってから、彼の行動の意味を考えています。
しかし私にはまだ、ジョーがなぜトランクを開け、母国を告発したのか、わからないままです。
ただ、これだけは確かです。
彼の写真が、多くの人に影響を与えていること。
そしてその写真を引き継いだあなたを、ジョーが誇りに思っていることです』
タイグ氏:
「母は、父が遺した写真が、多くの人に何かを感じさせていることは、理解してくれています。
時間が経ち、アメリカは、十年前と少し変わってきています。
写真のような過去を見つめ、違った受け入れ方をする人も、増えているんだと思うんです」
ジョー・オダネルの死から、まもなく1年。
この夏、長崎(長崎原爆資料館)で、初の写真展が開催されました。
タイグさんも、遺族として招かれました。
会場で、被爆者の谷口稜嘩さん(79)と、初めて会うことになりました。
父オダネルが、63年前に撮影した、谷口さんの背中です。
「今現在の背中です。
新しいあとは、去年手術したんです」
タイグ氏:
「まだずっと、手術されているんですね」
タイグさんは父の足跡を辿り、写真に記録された場所を回りました。
(浦上天主堂の)彫像の目線の先に、かつて父は、焼け野原の長崎を目撃しました。
あれから63年。
長崎で、タイグさんは、子どもたちが遊ぶ姿にレンズを向けました。
それは生前、父が願っていた思いを、実現するためでした。
タイグ氏:
「父は死ぬ前に言っていました。『あの日の長崎には笑顔が無かった』と。
『いつか長崎で、笑顔の子どもを撮りたい』と。
それに応えたいと思ったんです」
原爆を目撃してしまったアメリカ人のカメラマンが、苦しみの末に封印を解いた、長崎。
30枚の写真は、今もなお、核の脅威に揺れる現代に、戦争の現実と、それを伝え続ける尊さを、訴えています。
テープより
「たとえ小さな石であっても、池に投げ入れたら、波紋は広がっていく。
それは少しずつ広がり、いつか陸に届くはずだ。
アメリカという陸にも、届く日が来る。
誰かが続いてくれれば、波紋はさらに広がっていく。
そしていつか、誰もが平和を実感できる日が来ると、信じている」
涙した。
たいへんな文字量を起こしてくださりありがとうございます。
私はこのことを広めます。
野田首相が言った「心から、心から」という言葉と一緒、なんという軽い言葉でしょう。
福島原発事故の犯人の一人(と私は思っています)でもある男。
事故が収束もしていないのに日本の原発技術は優秀と、世界中にトップセールスをしている男。
この男は今でも原発が「絶対に安全」と思っているのでしょう、何も学習していない人です。
一日がかりの文字起こし、ありがとうございます。
ブログで紹介させていただきます。
少年の姿が目に浮かぶようです。
素直にこの内容を色眼鏡無しに受け取ることが出来ました。ありがとうございました。
北米にお住まいとのことでが、日本人で、アメリカから発信されていて、ご主人がアメリカ人の方であることの全てが、良い意味で何だかこの記事内容を発信されているという行為や意義、注目度を一層、自然な感じで高めているように感じました。
今の憲法改憲論議のさなかとてもタイムリーで、日本人一人一人が自分の心に向き合い真剣に静かに問うて欲しいと思います。
今後もハートのこもった温かい記事を期待しております。
少年の、そして赤ん坊の、そして撮ったオダネル氏の顔が、浮かんでは消え、浮かんでは消えした夜でした。
この現実は、戦争というものがもたらす地獄の、ほんの一部のことであり、こういう事柄が数えきれないほど存在していることを想像すらできずに、
自分は全く傷つかない、痛みを受けない立場の人間が、戦争をあおり立て、実行させていくのですね。
絶対に許せません。
そうなんですね、あの男は、絶対に絶対にって言うのが口癖なんですね。
なんとまあ、軽い絶対やこと……。
sarahちゃん、わたしも同じく、あの男を犯人のひとりやと思てますよ。
実際に、国会の質疑応答で、堂々とええ加減なこと答えてたんですから。
あの男が他に、どんな良いことをしようが、この国の破壊に加担し続けてきたこと、今もまだ反省もせず、責任もとらず、続けようとしてることを、絶対に許したらあかんと思います。
紹介をありがとうございます!
米国人を伴侶に持って21年、こちらに越してきて13年、
特にあの事故の後、いろいろと我が家でも混乱がありました。
もちろん今もあるのですが、お互いに相手の立ち位置を認め合えつつあるところまできたと思っています。
それでもやはり、憲法のこと、原爆のこと、それから戦争のことについて意見を交わすことは、なかなか大変です。
彼は、日本に10年いて、文化にも慣習にも溶け込み、理解しようとし、日本語も流暢に話せるのですが、
戦争のすべてが間違っているとは思わない、と言います。
自国に爆弾を落とされたことがない、他国への侵略を繰り返し、核兵器に執着し、そして、世界を牛耳る1%が一番多く存在し、贅沢に慣れている国を母国として持つ人達は、痛みを自分のことのように感じることが難しいのかもしれません。
けれども一方で、この国の成り立ちのユニークさから、市井の人々がとてもすばらしいのです。
国という権力の象徴が、いらない争いを作るのだと思います。そしてそのことで被害を被るのはいつも市井の人々なのですね。
ツイッターで紹介されていたのを見て読ませて頂きました。
私のブログでも紹介させて下さい。
http://blog.goo.ne.jp/t-i801025
実は、重版されたジョー・オダネルの写真集を持っています。
火葬場に立つ少年の写真はあらゆる人の心を打ち、
問いを投げかけます。
戦争の正義とは何か。
現代に生きる私達は放射能が人体にどの様な影響を及ぼすか知っています。
オダネル氏が再会した、背中を焼かれた少年が生き延びていたのは信じ難い奇跡です。
火葬場に立っていた少年は、
背中で息絶えた弟や多くの犠牲者と同じように原爆症で
おそらく苦しんで亡くなったに違いありません。
占領軍兵士であったオダネル氏自身も同じように生涯苦しんだ事を
この写真集から感じます。
わたしも以前NHKのBSハイビジョンだったかで、2回ほどこの番組を観たことがあります。HDDにもしっかり保存しています。
その後「トランクの中の日本」というジョー・オダネル氏の写真集を買いました。少年をここまで追い込んだ戦争というものの狂気を感じます。
今後は憲法を変えて「人一人の命より国の方が大切だ」と思う子供たちを量産する気でいるのでしょうか。自分の子供の頃は平和憲法に守られてぬくぬくと生きてきたのに、後の時代のことは関係ないって思ってる大人が多すぎますね。もっと大人は目先の自分のことだけじゃなく、他人の子供のことも優先して考えるべきですね。東電原発事故でも被害者は、これっぽっちも責任のない子供たちですね。
隣国との領土問題、ミサイル、空母のことはお忘れですか?
日本の首相を絶対悪とするために利用されたこの少年が可哀想です。
責めるべきは、今の首相ではなくWWU+2161時に暴走した軍と米国だということを忘れてはいけません。
どうりで炎上ネタが多いわけだ。
在米の貴女に言われたくありません。
日本が現在どのような状況にあるか理解してらっしゃいますか?
過激な行動を取る隣国により日々危険に晒されています。
中国は日を置かずして領海侵犯。
日々日本の領海を守る海上自衛隊は鋭利な銛で突かれるなど、他国では中国の横暴により死傷者も出ています。
分かりますか?現在形です。
今貴方がこれを読んでいる今もそのような事が繰り広げられているのです。
韓国は日本人の住んでいた竹島を一方的な李承晩ライン(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E6%89%BF%E6%99%A9%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%B3)をもって武力支配し、44名もの尊い日本人が犠牲になりました。
貴方の持ち出した写真の少年と同じです。
理不尽な理由で犠牲になったのです。
どうでしょう?
在日米軍はありながらも米国は「中立」という立場を取り、どっちつかずで放置状態です。
日本は自分たちで自国を守らざるを得ない状況に追い込まれているのです。
遠く安全な場所から批判だけするのは大変狡いと思いますし不愉快です。
それと、96条に関して大きな勘違いをしてらっしゃいますが、96条は憲法改正に関する条項ですが、これは権力者だけではなく、国民がもっと法に関われるようにするための改案です。
日本は民主主義国家ですので、当然ではないでしょうか?
もっとお勉強なさって下さい。
安倍総理がよほどお嫌いなようですね(笑)
あの写真は戦車に乗る事が楽しくて笑っているのでは無いと思いますよ(笑)
そのような思考に至るのは貴方自身の心情がそうさせているのでしょう(笑)
日々国のために努力する隊員を労ってとは考えられませんかね?隊員も大切な国民の一人です。
前の方も仰っておりますが、貴方の主張のために利用されたこの少年が可哀想でなりません。
失礼ですよ、血が滲むまで胸に刻んで下さい。
いい年して平和ボケ止めてください。
こういう悲惨な日本にしないための憲法改正なんですから!
よく憲法を勉強しましたか?
あなたのブログははっきりいって腹が立ちました。
出来なければこの写真のような『日本人の子供が』再び大量に出るでしょう。
それと例え話で恐縮ですが、野球の試合に行って
「勝ち負けを決める争いなど嫌だ。負けた側が可哀相」と言って、道具やユニフォームを持参せず不戦敗を選ぶような人は、そもそも同じグラウンドに立つ資格が無いと言えます。
つまり、国際社会の世論では『薄気味悪い異常者』と捉えられる事をご理解下さい。
一言で言えば『お花畑』『電波系』でしょうか。
最後に、繰り返しになりますが、皆さんが世界中の国々(日本以外の全ての国)に憲法9条と同じものを持たせる運動を『始める事を』心待ちにしております。
だがそれだけに、日本の憲法9条改正反対の出汁にするなと言いたい。
現在は軍事バランスを保つ事が、写真の少年とその妹のような惨劇を出さない最適の手段なのだ。
まして安倍は全く関係ない。
イベントで戦車に乗った首脳など腐るほど居る。
哀しい事が嫌なセンチメンタルは判るが、再度言わせて貰う。
軍事バランスを保ち、戦争や無差別虐殺を防ぐ為の憲法改正に反対する理由に、
『子供を出汁に使うな』
実は、軽いぎっくり腰になってしまい、軽いといってもなかなかの痛みで、今朝まで散々な時間を過ごしておりました。
これから、我が家の鍼灸師に鍼を打ってもらおうというところです。
さて、井上さんのブログを読ませていただきました。おとうさまの介護についての様々な問題を、しっかりと受け止め、対処しておられる井上さんの強さと温かさ。自分にできるだろうかと思いを馳せながら読ませていただきました。
ここの記事は、どうぞ、いつでも使ってください。
正義という言葉を、戦争に使うことは間違っていると思います。
戦争に正義などありません。
相方は、ヒットラーや他の、悪魔のような支配に対しての攻撃は正義であると言います。
わたしはそれでも、ならば、その悪魔だけを捕らえて制裁を与える方法があるのではないかと思っています。
戦争で傷つき、命を落としていくのは、若者と、戦場となった場所で暮らしている市民です。
戦争を起こす人間は、たいてい安全な場所で居て、その戦争によってなんらかの利潤を得ている。こんな愚かしいことはありません。
オダネル氏にとっては、トランクの中の悪夢だったのでしょうね。
自分が実際に目にした、どんな正義の上に立っていても、言い訳のしようのない暴力を、よりにもよって、祖国が犯し、その一端を自分も担っていたということに、彼は本当に苦しんだと思います。
このビデオがユーチューブにアップされたのが、この憲法記念日の数日前のことで、わたしは偶然それを、憲法記念日の前日に目にしたのですが、
アップされた方も、平和憲法への思いを持ちながら、このタイミングで載せられたのではないかと思っています。
憲法については、いろいろな意見が下↓にずらりと並んでいますね。
さて、どうしたものか……。
返事がそのために遅れ、申し訳ありませんでした。
戦争、敵国、自衛……。
未来永劫、戦争はしない。軍隊を持たない。
そうやって60年以上過ぎました。
最近特にキナ臭い話が、マスコミをにぎわせていますが、その本当の実態を、いったいどれだけの者が知っているのでしょうか。
戦争には、いろんな役者が必要です。
悪者をまず作り、それにはどんな破壊と殺戮を行っても良いのだという正義を作り、市井の人間たちには恐怖心を据え付け、敵国も含めた舞台作りがどんどん進んでいきます。
人は時に間違い、惑わされ、流されていきます。
国や政府という、権力そのものが、その流れを作ってしまった場合は、それを止めることなどできません。
その流れの行き着く先に、どんな事柄が待っていようとです。
そして一番覚えておかなければならないのは、流れを作る人間は必ず安全な場所に居て、流されていく間に傷ついたり死んだりする国民を、捨て駒のように扱い、なんの責任も取らぬまま安泰な余生を送るのです。
96条は、そういう国家権力(者)の暴走を防ぐ最後の砦です。
日本国憲法として、加えるべきこと、改正の必要のあるものの可能性はあるかもしれません。
けれども、96条を改めることだけは認めてはいけません。
そもそも憲法は、人間を疑い、間違いを犯す危険な人間の出現を見越して作られたものです。
なので、改正ということについて、ここまで厳しく制定されているのです。
その人間は、なにも権力者だけでなく、国民も含まれています。
国民もその時々の都合や利益に流されたり、恐怖に駆られたりして、間違った判断をします。
国会という、国民の代表者たちが集まる組織の中で、国会議員それぞれが、きちんと学び、何を主張したいのかを吟味し、それを質の良い議論の場で発表し合い、その様子を国民がしっかりと見守り、自らの意思を固めていく。
改めたい内容の条項があれば、それをそうやって時間をかけて論議し、国民投票にかけるべきですが、
そういうことができるほどに、大人それぞれの意識が成熟しているか、そこがかなり疑わしいとは思いますが。
権力者も国民も、そして報道されている各々の情報も、すべて丸ごと信用してはならない。
これが96条の思想だと思います。
日本に暮らしていないという理由で、◯◯してはいけない、などと決めつけないでください。
わたしは、43年間暮らした祖国日本を、心から大切に思う日本人です。
今の世の中で、世界で、危険に晒されず、平和ボケして生きていられるような場所は、稀にしかありません。
毎回、長いトンネルを走るたびに、爆破を試みている者は居ないかと心配したり、人が多く集まっている場所に行かなければならない時は、周りの様子をしっかりと確認したりするのは、習慣になりつつあります。
愚かな組織『いつでも攻撃可能な軍』を持ち、実際に侵略と破壊と殺人をくり返している国だからこその現実ですが、市井の人間がそんなことを望んでいるとは全く思えません。
自衛はするが攻撃はしない。
この断固とした態度こそが、一番の自己防衛だと思います。
「焼き場に立つ少年」、何度となく見た写真です。このビデオを文字に起こして掲載していただいたことを大変感謝しています。
今夜の内にまうみさんのこの記事を私のブログでも紹介させていただきたいと思っています。よろしくお願い致します。
この写真を初めて見、写真の内容を読んだ時の衝撃を再び思い出しました
写真と写真の背景しか知らなかったので、撮影された方の心情や活動を長文で細かく取り上げて頂き、ありがとうございます
改めて戦争の恐ろしさ、平和憲法の大切さ実感しました
先人達の苦痛や沢山の涙が、戦争の無い今の日本を築いているのだと考えさせられます
世界が平和になることを願って止みません
今やっと、座れるような状況になったところです。
実は、ぎっくり腰やと思っていたのが、あばら骨が一本、ずれたかヒビがいったか、それで酷い痛みが発生していたのでした。
ここに載せた記事は、どうぞ、いつでも使ってください。遠慮などいりません。
今夜の内に、ということでしたので、ついさっき花てぼさんのブログにお邪魔させていただきました。
紹介をありがとうございました。これからもよろしくお願いしますね。
すみません、タイミング悪く、奇妙な不調にぶつかってしまい、お返事が遅れてしまいました。
わたしも、きなこさんと同じく、何回も見たこの写真の背景と、撮影をした方の人生を知ることができ、心が突き動かされました。
この写真を利用して、などと言う人がいますが、そういう物の見方があることが、わたしには理解できません。
平和というものは、簡単に実現するものではありません。
特にこの、混沌とした世の中においては、市民ひとりひとりの、平和への強い意思と行動が必要だし、力となっていくと思います。
きなこさんのその願いの強さも、その力のうちのひとつになるのですよね。
余裕がなくなってたようです。
何人かのコメントにあるように、文字起こしのご努力に敬服いたしました。
ブログでも紹介したいとおもっています。
薔薇、または陽だまりの猫さんの記事の豊富さ、多さには、いつも感嘆しております。
読むことすら追いつきません。
自分のために文字起こししたことにより、たくさんの方々の心に触れることができ、とてもありがたく思っています。
ブログでの紹介、ありがとうございました。
ありがとうございます
第二次世界対戦で受けた傷は、まだじくじくと血を流し続けているというのに、
さらに新しい傷を増やそうとしているかのような政策をとっている今の日本政府
所詮傷を受けたのは、庶民
だから、その傷をつくる原因を引きおこした政治家は痛くも痒くもなく
よって懲りることもなく、日本のためと装い、愚行をつづけるのですよね
一度あの想像さえおよばない業火にその身を焼かれてみればよい
この映像は、戦争を容認するいかなる理由も存在しないと語っているのに
安倍擁護のコメントが投稿されていることに、驚きます
誰が政権を握っているか?が 、主題ではなく 誰が政権につこうが、決して行ってはいけない。繰り返してはいけないことがある。
とあらためて心に深く刻みつけること だと考えます
今なお苦しんでいるかたたちの心と身体の傷が少しでも癒えることを、
そして、亡くなっていった方たちのご冥福を祈ります
『一度あの想像さえおよばない業火にその身を焼かれてみればよい』
本当にそうですね。
そういう、想像ができない、想像しようとしない、まるで違う価値観の中で生きている人間が、ああいう戦争という愚行を引き起こすのですね。
そして、それに巻き込まれ、傷つき死んでいくのは、戦争など全く望んでいない市民です。
その、かけがえのない大切な命や暮らしが、数のひとつとして奪われていく。
そして忘れられていく。
本当に、いかなる理由も存在しません。
そこに正義などもありません。
愚行の中の愚行を、どの政治家においても、くり返させてはならない。
それはもう、日本人としての、最低限の使命だと思います。
この平和への祈りを、junkoさんとともに、わたしも強く持ち続けたいと思っています。
こんなに詳しく載せて下さいまして、本当にありがとうございます。
この写真には触れたことがありますが、カメラマンの思いまではしりませんでした。
有難うございました。
ようこそおいでくださいました。
こちらこそ、読んでくださり、ありがとうございます。
書き起こしの疲れが吹っ飛びます。
わたしも同じく、この写真を知ってはいましたし、とても心を動かされましたが、詳しい事情や撮影者の心情までは知らず、このビデオに出会えたことに感謝しています。
またいつでも遊びに来てください。
そして、ここに掲載した記事は、どうぞ、お好きなようになさってください。
記事は最後迄読ませて頂きました。
私は敗戦の時七歳でした。家も空襲で焼かれ、
防空壕で暮らした経験もあります。 伯父は戦死
しました。夫の弟もピルマで戦死しました。
戦争は惨く悲惨です。
弟の亡骸を背負って焼き場を訪れた少年の映像は
悲し過ぎます。 出来るだけの多くの人の目にこの映像と記事が届く事を願っております。
人間はなかなか学習出来ない動物らしいです。
戦争を体験した人なら絶対戦争は反対の筈です。
戦後生まれのわたしには、ひたすら想像することでしかない悲惨な世界は、marshaさんにとってはまぎれもない現実なのですね。
今の国会には、戦争を知らない人間がほとんどだと聞きました。
学習するどころか、その体験を踏みにじるようなことをしたり、知識を得ようともしないナマケモノだらけ。
この『戦争放棄』の信念を、一部の愚か者たちによって消されてたまるか、と心の底から思います。
どうか、どうか、伝える手伝いをお願いします。
大変な文字起こし作業ありがとうございました。読み終っても涙が止まりません。この写真を見て、この記事を読んでもまだ戦争を肯定する人がいるなんて全く理解できません。この少年のような体験をもう二度と誰にもさせてはいけません。ほんとうに平和を願ってやみません。
ぎっしり腰、辛いですよね。一度やるとまたなりやすいと聞きます。どうかご自愛くださいね。
いやもう、ここでも散々なことを言われてたなあと、懐かしい思いがしたりして……。
人間というのは、いろんな考え方をする生き物ですけれども、やはり、どうしても相容れられないことってありますよね。
それでも同じ地球で生きているし、生きていかなければなりません。
だからこそ、もっともっと話し合わないと。
今回の選挙で、少しでも、狂人たちの巣窟自民党に、喝を入れることができるよう、心の底の底から祈っています。
ぎっくり腰、幸いにして、あれからまだ再発していません。
もうほんとに、あの痛みはこりごりです。
ご心配ありがとうございます!
市民は誰も、人を殺したくないし、人に殺されたくありません。
なのに、犠牲になるのは必ず、子どもを含む市民です。軍はまず町を破壊し、子どもを殺し、人々に暴行を働き、ついでに軍同士で争う。
戦争をそれほどしたいのならば、戦争を決めた人間たちがまず、前線で、生身の敵と撃ち合いなり刺し合いなりして殺し合えばいいのです。
そのあとで、市民がそれに続くかどうか、決めたらいい。
ゲームじゃあるまいし、二度とリセットできない命を蔑ろにせよと、他人から命令される理不尽に、もっともっと反抗するべきだと思います。
是非安倍首相にこの写真を突きつけてやってください!
あのアベシンタローです。
突きつけたりましょう!みんなの手に持って!
戦争に正義はありません。
どのような戦争も犠牲になるのは市井の人々、権力者は背後で命ずるだけ。
いま日本では戦中の歴史を美化し、肯定する若者がいます。
戦後すぐ島県広に生まれ生まれた私は、まだ敗戦の陰を見て育ち、身内に被爆後なくなった者もいます。
反対意見の中に、九条を世界に広げる運動をすればいいんだ・・・・と、出来るわけもないのに・・まるで揶揄するように受け取れる書き込みがありますが、アメリカのマサチューセッツ工科大学教授『オーバービー博士』は、九条を世界に広げようと運動されていますよ!
私もその端っこで、『宗教者九条の和』に参加しています。
私はプロテスタントのクリスチャンですが、この会には
仏教者・神道など超教派で世界中から武器を無くし
日本の九条を世界に広げようと運動をしています。
剣を持つ者は、剣によって滅びる。
聖書にある言葉です。
宗教を持つものであっても、神を畏れぬ人があることは、残念でなりません。
これが人間の罪深いところです。
どのような人も決して間違いや罪からは逃れられません。
だからこそ、憲法で権力を縛っておかなければいけないのです。
人の持つ弱さは、間違った道に進む恐れが多分にあるからです。
転載させていただきます。
が、9条が日本国を守ってくれるとは思いません。
そして96条改正は、より国民が憲法に近づける案だと思いますが、この辺はどうお考えなのでしょうか?
綺麗事だけでは国は守れません。
いみじくも貴女が『人間を疑い、間違いを犯す危険な人間の出現を見越して』と仰ったとおり、隣国がその様な間違いを犯し暴挙に出た場合、9条は私の友人や家族をその脅威から守ってくれるのでしょうか?スイスの永久中立国としての基盤も、その強い軍事力から来ていることをご存知でしょうか?
改めて言いますが、私は戦争には断固反対です。
しかし軍を持たずに米国に頼りきりで、有事の際に何もできない、自分たちを守ってくれない国というのもどうかと思います。
戦争放棄という決意を憲法に盛り込んだ、時の首相であった幣原喜重郎氏の手記から抜粋します。
わたしは、この方の信念に心から賛同する者です。
言葉をお借りして、ここに、お返事として載せさせていただきます。
『原子爆弾というものができた以上、世界の事情は根本的に変わってしまった。
世界は真剣に、戦争をやめることを考えなければならない。
そして、戦争をやめるには、武器を持たないことが一番の保証になる。
軍縮交渉とは、形を変えた戦争。
返
軍縮とは、平和の名をもってする別個の戦争であって、円滑な合意に達する可能性など、初めから無い。
原子爆弾が登場した以上、一刻も早く、軍拡競争を止めなければならぬとわかっていても、それは不可能。
集団自殺の先陣争いと知りつつも、一歩でも前へ出ずにはいられない、鼠の大群と似た光景―それが軍拡競争の果ての姿。
戦争をやめるには、武器を持たないことが一番の保証になる。
しかし、実際問題として、世界中が武器を持たないという真空状態を、考えることはできない。
世界は結局、一つにならなければならない。
何らかの形における。世界の連合方式というものが、絶対に必要である。
凡そ、人間と人間、国家と国家の間の紛争は、最後は腕づくで解決する外はないから、どうしても武力は必要。
しかし、その武力は、一個に統一されなければならない。
何らかの国際機関が、やがて世界同盟とでも言うべきものに発展し、その同盟が、国際的に統一された武力を所有して、世界警察としての行為を行う。
軍縮は不可能である。
絶望とはこのことであろう。
唯、もし軍縮を可能にする方法があるとすれば、一つだけ方法がある。
それは、世界が一斉に、一切の軍備を廃止することである。
一、二、三の掛け声もろとも、すべての国が兵器を海に投ずるならば、忽ち軍縮は完成するだろう。
そんなことは、もちろん不可能である。
それが不可能なら、不可能なのだ。
ここまで考えを進めてきたときに、九条というものが思い浮かんだ。
敵が、口実をつけて侵略したら。
その場合でも、この精神を貫くべきだ、と僕は信じている。
そうでなければ、今までの戦争の歴史を繰り返すだけ。
強大な武力と対抗する陸海空軍というものは、有害無益我国の自衛は、徹頭徹尾、正義の力でなければならないと思う。
その正義とは、日本だけの主観的な独断ではなく、世界の、公平な与論によって、裏付けされたものでなければならない。
そうした与論が、国際的に形成されるように必ずなる。
世界の秩序を破壊する恐れがあるとすれば、それによって脅威を受ける第三国は、黙っていない。
その第三国との特定の保護条約の有無にかかわらず、その第三国は当然、日本の安全のために必要な努力をする。
だからこそ、死中に活がある。
日本民族は、幾世紀もの間、戦争に勝ち続け、最も戦闘的に戦いを追求する、神の民族と信じてきた。
神の信条は、武力である。
その神は、今や一挙に、下界に墜落した訳だが、
僕は、第九条によって、日本民族は依然として、神の民族だと思う。
何故なら、武力は神でなくなったからである。
神でないばかりか、原子爆弾という武力は、悪魔である。
日本人は、その悪魔を投げ捨てることによって、再び神の民族になるのだ。
すなわち日本は、この神の声を、世界に宣言するのだ。
それが、歴史の大道である。
悠々と、この大道を行けばよい。
死中に活というのは、その意味である。
世界は今、一人の狂人を必要としているということである。
何人かが、自ら買って出て、狂人とならない限り、世界は、軍拡競争の蟻地獄から、抜け出すことができないのである。
これは、素晴らしい狂人である。
世界史の扉を開く狂人である。
その歴史的使命を、日本が果たすのだ。
幣原喜重郎氏の手紙、恥ずかしいことながら初めて知りました。
正に九条の存在の意味は、氏のおっしゃる通りです。
素晴らしい狂人
世界史の扉を開く狂人のひとりでありたいです。
たとえば武器を持った人間が目の前で自らの家族に危害を加えようとしても一家の主は抵抗せずに平和を説き続け、別の家族に守ってもらう。
私は美しい自己犠牲は他人の家族のために戦って命を落とした人の行為ではないかと思います。
攻め込まれたらどうすんの?自衛隊が都合よく守ってくれると思うの?あんたら反対派のせいで一発も発砲できないんじゃないのか?
わたしは戦後の生まれで、戦争は想像の世界でしかありません。
子どもの頃から、そういう書物を選んで読むようなところがありましたが、それでもやはり、物語や映画のようなもので、実際に戦争というものによって、肌や骨、心を傷つけられた経験はありません。
けれども、ここに暮らしていて、普段は表現の自由だの民主主義だのと言っている国と国民が、
コロコロと急な坂を転げ落ちるように戦争に向かっていく有り様を間近に観て、
これが本当の戦争の恐さなのだと痛感しました。
それでもここの国民は、戦争を知りません。
よその国に侵攻していくのが専門だからです。
痛みを知りません。
実際に前線に立ち、人を殺めたり傷つけたりした者は、戻ってきてから全員といっていいほどに、精神を病んでいます。
戦争を知らない人間が、戦争のことを知ったような顔して話すことのおかしさが、それを語っている本人にはわからないのです。
あなた自身にですか?
それとも、見ず知らずの、たとえその人たちがどんなふうに傷つけられても殺されても、あなたは全く痛みを感じない他人ですか?
あなたは、実際に、ナイフなり銃なりを突きつけられたことがありますか?
そのようなことをされている人を間近に見たことがありますか?
戦争のことなど、デレビ画面や映画や、小説の世界でしか知らないのではないですか?
それともあなたは、戦争を経験された戦中生まれの方ですか?
美しい自己犠牲、などという言葉を読んで、わたしは寒気がしました。
このアメリカには、世界でも最も愚かだと評判の、人殺し&破壊屋を訓練する組織、そして、ありとあらゆる非道を尽くした武器を考え、量産し、それを売って儲けようとする組織がのさばっています。
その連中は、なんとかして、その武器を使えるように、もっと残忍な物を作れるように、ガンガン売れるように、世界中を精査して、あることないことをふっかけて巻き込んでいます。
その一番の小間使い役が日本です。
けれども、戦後からこれまで、平和憲法が足枷となって、なかなか派手にはできませんでした。
派手にはできなかっただけで、陰ではいろいろと潤着を整えているようですけれども。
わたしも、自分の目の前で、自分の最愛の家族が傷つけられるようなことが起こった時に、だまって眺めていることなどできません。
けれども、このことと、国と国の間で、というか、国などというものではなく、戦争をしたがっている者達の間で、勝手に作られた話と企画を押し付けられる戦争とを、ごちゃ混ぜにして話すことはできません。
人同士が傷つけ合う以前に、それまでの暮らしが一気に制限され、監視され、普通に持てていた自由が無くなり、愚かな選択だとわかっているのに、流れを止めることができなくなり、気がついたら空から爆弾が落ちていた、というのが戦争です。
軍を持つ。
そのことが、自衛のためにあなたを攻撃します、という理由を相手に与えてしまう一番大きな愚行だと思います。
攻撃をしたくてウズウズしている連中は、日本が一日も早く、戦争放棄をとりやめ、自衛隊を軍にすることを願っているのではありませんか?
わざわざなぜ、攻撃オッケーですよ、という許可を、与えなければならないのか、それがわたしにはわかりません。
たくさん、質問の形でお話させていただきましたが、答を求めているのではありません。
これはわたしが、自分で話しながら自分にも問うていることですので、気にしないでください。
>攻め込まれたらどうすんの?自衛隊が都合よく守ってくれると思うの?あんたら反対派のせいで一発も発砲できないんじゃないのか?
攻め込まれたら、防衛するでしょ。なんのための自衛隊よ??
「自衛隊が都合よく守ってくれると思うの?あんたら反対派のせいで一発も発砲できないんじゃないのか?」
ってどういう事?
自衛隊が守らなかったら誰も守る人いないでしょ?あなた達ネトウヨは戦争の悲惨さも理解しようとしない口だけクンだから、実際の戦場ではまったく期待できないと確信している。
攻め込まれたら一発も発砲しないってのが意味不明なんですけど・・・
何も知らないようだけど、反戦派も色々いる事をちょっと学んだほうがいいよ。
過激な反戦派は無血開城を考えるけど、こちらから戦争を仕掛けない防衛はするってのが多数派だよ。
何も知らないくせに「反戦派」をレッテル貼って批判しないでね。
2chで「レッテル貼り」はアホな行為だって学ばなかった?
が、9条が日本国を守ってくれるとは思いません。
改正後の9条は日本を守ってくれるの?
改正したって守ってくれないと思うけど・・・
今の9条でも、自衛隊は日本を守るよ?
理論が崩壊している。
>そして96条改正は、より国民が憲法に近づける案だと思いますが、この辺はどうお考えなのでしょうか?
そんなコロコロと憲法変えられてたまるか。
外国は2/3でも憲法変えてるけど、その辺どうお考えなのでしょうか?
2/3の賛同も得られないで憲法変えてどうする?
2/3の賛同を得て96条を変更できるなら、他の憲法も2/3の賛同を得て変えればいいじゃないか。
96条を変更できて、他の条文を変更できないわけがないでしょ。
憲法改正に反対なんじゃない、憲法9条改正に反対なのだ。
環境権追加など、あってしかるべき条文はどんどん追加すれば良い。
環境権なんて2/3の賛同得られるでしょ。
96条改正より簡単だよ
>だがそれだけに、日本の憲法9条改正反対の出汁にするなと言いたい。
>現在は軍事バランスを保つ事が、写真の少年とその妹のような惨劇を出さない最適の手段なのだ。
またまた綺麗事を言うんだから・・・
貴方の同志達は竹島奪還を願ってるでしょ。
現在、実効支配されちゃってるからね。
竹島奪還って事は、韓国と戦争になるよ?
>軍事バランスを保ち、戦争や無差別虐殺を防ぐ為の憲法改正に反対する理由に・・・・
この発言うそでしょ?
竹島に攻め込んで、逆に実効支配したいんでしょ?
竹島に軍隊送り込んだら、100%韓国軍と衝突する事になりますが??
「軍事バランスを保ち、戦争や無差別虐殺を防ぐ為の・・・」
ネトウヨさんの願望は竹島支配であって、軍隊派遣したいんでしょ?
そしたら、韓国と戦争起きるじゃん・・・
戦争を防ぐためなんて考えてないでしょうが。
まだ何が正しくて正しくないのか判断できない年齢なので皆さんの発言は私にとってとても重く意味のある物になっています。
世界中から戦争がなくなる日が早く来ますように
深く考えられます
この記事紹介させてください
その間に、ぱつぱつぱつっと、気持ちの良いコメントを入れてくださり、本当にありがとうございます!
選挙が終わり、とんでもない結果が出てきて、けれども別に驚きもせず、さてどうしたものかと、次の作戦を考えている最中なのですけれども、
なんでも自民党が、新聞テレビの言うてた通りに、というか、最初っから決まってたかのように、過半数を超えてしまったんですよね。
国民投票というものを、絶対に実施させないよう、
というか、どうしても実施するなら、国民全員による投票でないと実施できないように、なんとかもっていきたいと思っています。
戦争やの防衛やの、ネトウヨは人種差別するから嫌いさんがおっしゃるとおりで、今のまんまでいったいどこがあかんというのか、わたしにはさっぱりわかりませんし、
今の、それでなくても弱ってきた日本が、戦争放棄を放棄し、軍という名前に変えるなど、狂気の沙汰としか思えません。
武器商人から大量の武器を買わされ、あちこちからの要求をのまされ、結局は儲けたい悪党どもの戦争ゴッコに巻き込まれて、さらに弱っていくだけなのに……アホですか?としか言えません。
戦争などという、世界でも指折りの愚行に巻き込まれたら、日本は多分もう立ち直れません。
また、いつでもここに来て、ぱつぱつっとコメントをお願いします。
元気が出ました。ありがとう!
この自由を奪われたら、わたしはもう、日本は終ってしまうと思っています。
過半数を奪われてしまった今となっては、その恐ろしい世界はうんと現実味を帯びてきました。
憲法をとにかく、自民党のよいように変えさせないよう、選挙時よりももっと具体的で実戦的な方法を考えないといけません。
護りましょうね!!
誰も、一度も、攻撃を受けたことがないのですから。
空から爆弾が落ちてくることも、突然通りのむこうから銃弾が飛んでくることもないのですから。
真珠湾攻撃もテロも、映画の中の話のような感覚の人が多いのです。
自分のこととして考える。自分の痛みのように思う。
そういう教育を徹底的にしていかないと、人間はいつか、自分の手で首を締めて滅んでいくのだと思っています。
たまきさんがおっしゃるように、どこの国からも、戦争というものを無くしてしまいたい。
そのためにも、時の日本の首相の熟考によって授けられた戦争放棄の信条を、現代の日本人はよく考えて受け止めてほしいと思っています。
外出をしていて、返事が遅れてしまいました。
ここに掲載した記事は、どうぞ、いつでも使ってください。
こちらこそ、読んでくださり、ありがとうございます!
一番大きな愚行だと思います。 ???
あなたは防犯ブザーや護身用武器を持っている人を『自衛の為に攻撃しないと!』と思い攻撃しますか?
そしてあなたは夜道を防犯ブザーや護身用武器を持っている人を狙って暴漢が襲ってくると思いますか?
何も持っていない人より狙われると?
3月11日の東日本大震災の時にロシアと中国の戦闘機が日本上空を領空侵犯をし、自衛隊とアメリカの戦闘機
数百機が余震の続く中、日本上空でそれらの戦闘機の侵入を抑えていました。
9月9日には野田首相が東京電力福島第1原発を視察する時間帯に合わせ、ロシア爆撃機が福島県沖を飛行し
そのまま日本を一周して飛んでいきました。
今年2013年の3月16日もロシア爆撃機が日本を一周しました。
震災後の弱った日本への中国、ロシアの領空侵犯に対する自衛隊戦闘機のスクランブル出動数は凄い数でした
(自衛隊のホームページで誰でも見れます)
ロシアや中国は今の日本の9条では直ぐに自分達を攻撃出来ないのを知っていますし
今の9条では実際に爆弾を落とされたとしても手続きが多すぎて、国から反撃許可が出る頃には
爆撃機はロシアに帰っていることでしょう。攻撃されるのがわかっていても、被害が出るまで反撃出来ないのです。
もともと「憲法九条」は戦後日本の復讐を恐れたアメリカが、日本が二度と復讐出来ないように作った
「平和憲法」なのです。
デモをしている団体は、長年住む地元の人も知らない人達だと言っていました。
そして現沖縄県知事はウィキにも書いてありますが中国帰化人(蔡家)です。前沖縄県知事も中国帰化人(毛沢東家系)です。
米軍を追い出して何をしようとしているか考えて下さい。
そして韓国人は今、対馬に来ては歩道に植えてある花を抜き、代わりに韓国の花という”むくげ”を植えて帰っていくそうです。
そして『対馬は韓国のものだ!』と唱え、対馬の土地を不動産買収しています。このままだとどうなりますか?
竹島を占拠する時に、韓国軍は日本漁船328隻を拿捕し、日本人44人を死傷(うち5人が死亡)させ、3,929人を抑留しました。
韓国側からの海上保安庁巡視船への銃撃等の事件は15件におよび、
16隻が攻撃されました。
海外に住んでいらっしゃると分からないかと思いますが、今は日本のテレビ、新聞等のマスコミ、芸能、大手代理店のトップ、
学校の教師までもが殆ど在日朝鮮人です。なんと反韓、反中を叫ぶ右翼団体員の6割も在日朝鮮人です。
それどころか今の自民党に戻るまでは党員の半分以上が在日の民主党でした。
なんと総理大臣まで。(『日本は日本人だけのものじゃないんです!』と言っていた鳩山さんも韓国人の妻を持ち自分も半分そうですよね)
そのおかげで日本は被災していたにも関わらず、日本のお金が朝鮮に流され、日本はすっかり韓流ブームにされ、テレビ、CM全て
在日タレントと韓国人タレントになりました。
フランス、カナダなどでは輸入禁止になっている韓国製キムチを、日本では大腸菌などの輸入検査も無くし、どんどん韓国から輸入しました。
韓国人による犯罪や、反日運動など韓国のイメージを悪くする報道はほとんど日本のテレビでは流しません。
大震災の数ヶ月後には日本名水と言われている水源や、赤坂の一等地、新潟の土地は民主党によって中国政府などに売られてしまいました。
原発被災地で出来た米は、生産地を表記しなくて良い 米粉(米粉パン)、米こうじ にして日本全国に販売されています。
(元気な方まで被災させようとしているのでしょうか?)
やっと日本人の政権(自民党)に戻ったとは言えこのように日本は今このように近隣国によって土地(資源)が狙われているとても危ない状態です。
国内にも日本を解体しようとしている団体、人間がたくさんいます。
そういう人間は、右翼を嫌い、人種差別を唱え、9条改正を恐れています。
安倍総理は『日本を取り戻す』と言って選挙を戦っていましたが、国内に『それは人種差別だ!』と言う○○人がいるので
『○○人から日本を取り戻す』とはしていませんが、わかる方にはわかると思います。
私は『戦争はバカと欲の深い人間がする事』だと思います。
永世中立国のスイスのように兵役、各家庭に自動小銃と手榴弾と核シェルターを義務化、とまでは勿論言いませんが、
綺麗ごとでは無い本当の平和を叫ぶなら実用性のある憲法と装備が無くては国民を守れると思いません。
警察署に強盗に入る人間がいますか?拳銃を持っているからと言って警官が一般人を襲いますか?
私は今の日本にとって守備体制をしっかり整えることは戦争をしない為の一番の近道だと思います。
3月11日の震災時の日本人の行動を見ましたか。混乱の中でも冷静に秩序を持ち、弱っている他人をいたわり、
自分の家族が行方不明の状態でも外国人留学生や労働者を一番に安全な場所に避難させている方もいました。
あの時私はまだまだ日本人も捨てたものじゃないと思いました。
そんな日本人が『戦争はしょうがない』と考えていると思いますか?
憲法九条改正を『右翼化している!』と本気で反対し恐れているのは本当は誰だと思われますか?
>竹島を占拠する時に、韓国軍は日本漁船328隻を拿捕し、日本人44人を死傷(うち5人が死亡)させ、3,929人を抑留しました。
こんなひどいことがあったんですね。
全く知らなかったです。
日本の悪い点ばかり見るのではなく様々な背景を知る必要があるのだなと考えさせられました。
竹島、尖閣が現状で危機にさらされているのですもんね。平和憲法があるにもかかわらず。
とても勉強になりました。
戦争について考えると日中・太平洋戦争は何か変だ。
それまでの戦争って人がいない場所で両軍が戦うものであったはず。軍隊と軍隊の戦いが戦争。民間人を殺してはいけないはず。なぜ、絨毯爆撃や原爆を日本は、やられたのだろうか?狙いは民間人だよね。それがおかしい。あまりにも非人道的じゃないのかな。それを肯定するために南京事件 当初1万程度の兵を処刑した。という中国側の話が途中から30万人殺したにかわる。原爆の犠牲者34万人だからじゃないの?アメリカの原爆を擁護するために、日本はナチスと同じように無差別多量殺人をしたと言いたいのではないか。つまり、悲惨な東京空襲や原爆は、戦争じゃない。ただは、ただの大量虐殺。戦争じゃない。また、日本・中国間の戦争でよく市民を日本人が殺していると報じられるが。中国は、便衣兵(平服を着た兵士)が多量にいたために殺すと民間人に見える。ただし、重慶爆撃で日中間で絨毯爆撃をしたの日本が先のようだ。日本が悪い。自分で自分の首絞めたね。
街に立てこもる戦い方をするから市民がつらい思いをするのだね。誰だこんな市街戦を考えた奴は・・・。
武力で乗っ取られたことを日本国民はあまり知りません。
日本のテレビ、新聞、などマスコミはその組織体制により
中国と、特に韓国の悪い部分は隠蔽し報道することはありません。
日本の悪いところばかり報道するのが常です。
過去の日本の戦争についても何故その戦争をしたか
しなくてはいけなかったかを話せる日本人は殆どいないと思います。
どんな戦争でも肯定出来る戦争などあるとは思いません。
ただ何故戦争になったか、その真意、真実をしっかり知ることは
とても大切なことだと思います。
それが次の戦争を抑止する本当の力にになるのではないかと私は思います。
一部ですが以下は中国についての動画です。
国が軍事面での強化を考えている理由が少し分かるかもしれません。
中国が日本の核攻撃を視野に入れてる
http://www.youtube.com/watch?v=FDUlOIFaCvw
「十年以内に日本を核攻撃」と中国軍トップが発言
http://www.youtube.com/watch?v=YP6F8AuiHDM
「迫りくる! 中国の侵略から沖縄を守れ」 石 平氏・ 恵 隆之介氏
http://www.youtube.com/watch?v=tQkCbMDPNkU
思えば何故その背景を今まであまり疑問に思わなかったのか不思議でなりません。
物事には必ず背景があるのに、それなのに戦争になった、原爆を落とされたという結果以上のことを知ろうとしなかった。
仕事でトラブルが起きたときに結果だけでなく経緯と原因を突き詰めた上で対策を考えることは当たり前にやってるのになんで疑問に思わなかったのでしょう。
韓国は歴史を反省しろというけれど、そういった背景も含め歴史の事実を検証し、これまでの日本の対応が適切であったかもしっかり反省する時期なのかもしれませんね。
中国に関してはもうはっきりと威嚇をしている状況かと思いますからやはり対策はしないとならないと思います。
実際にチベットなどの例もありますし、おそらく理屈や綺麗事だけではいざというとき対処できないのではないかと危機感を覚えています。
ひどい嘘だね。竹島でそんな事が起きた事実はないから。
これほどの大事件であれば、簡単に検索できると思いますので、馬鹿なネトウヨの嘘だと思います。
『戦争はバカと欲の深い人間が、あることないことを適当に作り上げ、自国の一般市民に武器を持たせ、他国の一般市民を殺させ、町を破壊させる事です』
そしてその戦争という、世にも愚かで無意味なことができるようにするために、
そのバカと欲の深い人間は、時間をかけ、こつこつと法律や条令を整え、恐怖を煽り、差別をさらに強化し、非常に暮らしにくい環境を作り、こんなことなら、兵隊にでも入った方がマシだと思わせるように、虎視眈々と準備を重ねていくのです。
それにまんまと引っかかった一般市民の生き残りの方々が、もう二度と同じ過ちはくり返してはならないとおっしゃるのですから、わたしはその先人の言葉を信じ、尊重したいと思います。
戦争を経験したことがないわたしたちが、いったいなにを知り、なにができるというのか。
自分たちが武器を持つ。
銃社会のここにいて、そのことがいかに、逆の意味で社会を恐怖に陥れているのか、それを目の当たりにしています。
誰も銃を持たなくてもよい社会にすること。
それがどんなに難しく、途方も無く時間がかかることであっても、誰かが、どこかの国が始めないといけないのです。
わたしは日本こそが、日本人こそが、世界平和を先導するに値する、すばらしい信念を持てる国であり、国民だと信じています。
終った戦争については、いろんな記事が書かれています。
その記事はやはり、書き手がどういう立場にいる者であるかで、内容が少しずつ変化しています。
そして我々もまた、そのような記事を読む際に、ついつい、自分が読み易いものを選んでしまいます。
過去にいったい何があったのか。
戦争というものには、人間の尊厳を破壊する、破壊されるような物事がついてまわります。
その話が真実であっても虚偽であっても、戦争というものはこの世に存在すべきものではない、ということは、厳然たる真実だと思います。
どのようなものであるかを実験する際にも、原爆を生み出す大きなきっかけを作った科学者が、どんなことをしてでも止めようとしたけれども、それを嫌った軍部と政治家、そしてもちろん武器商人たちの画策によって叶わぬまま、落とされてしまいました。
そこには深い思索も苦悩もなかった。
狂った者たちによって、事前に避難させる通達もなく、原爆を突如市街地に落としたアメリカの罪は、未来永劫許されるものではありません。
このことを世界はもっと、考えなければなりません。
戦争はもう、軍同士でやれるようなものではなく、指一本で大勢の一般市民を殺戮し、町を破壊する、人道上許し難い形態になっています。
だからこそ、世界は、戦争という行為を止めていくことに、真剣に取り組まないといけないと思います。
http://ja.wikipedia.org/wiki/李承晩ライン
【竹島】はこうして奪われた「日本の漁民を片っ端から収容所に」1960年頃(拿捕された船員)+竹島研究
http://matome.naver.jp/odai/2134606090088701501
これで検索しても約44,300件ヒットします。
↓
『韓国軍は日本漁を拿捕し、日本人44人を死傷』
日韓基本条約締結の際の日韓漁業協定の成立(1965年)により、ラインが廃止されるまでの13年間に、韓国による日本人抑留者は3929人、拿捕された船舶数は328隻、死傷者は44人を数えた[3]。抑留者は6畳ほどの板の間に30人も押し込まれ、僅かな食料と30人がおけ1杯の水で1日を過ごさなければならないなどの劣悪な抑留生活を強いられた。共産主義者だと判ると抑留期間も数年間におよんだ[4]。
>竹島を占拠する時に、韓国軍は日本漁船328隻を拿捕し、日本人44人を死傷(うち5人が死亡)させ、3,929人を抑留しました。
だけど、これはひどい。
日本人を馬鹿にしてるんじゃないのか。
生憎日本人はこの程度のプロパガンダに騙されるほど馬鹿じゃないんでね。
私自身、憲法を改善する改憲はしてもいいんじゃないかと思ってきたが、こんな連中とは改憲を議論する気になれないね。
日本人を焚きつけて戦争したがる連中が撲滅されてから改憲を考えることにしたい。
与えられる情報というのは手軽に手に入るけれど誰かの意見が混ざっていることがある。
わからないことやわかろうとしないことはたまたま目にした情報だけで早急に判断する必要はない。
自分の中で保留にしておけばいい。
ある事柄に感情を動かされるのはよいけれどそこから導かれる主張には注意深くあってほしい。
少なくとも情報はいろいろあるのだから個々人が自分で調べて主張と事実を切り分けながら自分の判断をしてほしいと思う。
そういう人が増えてゆくことを願う。
日本人ならもっと冷静になって下さい。
プロパガンダでは無く殺された家族や
友人の発言や動画もちゃんとありますよ?
以前日本ではNHKで放送もされました。
ちなみに私は日本の自然と日本人が大好きで
戦争が大嫌いなごく普通の平凡な日本人です。
まあ日本では日本人や日本の国を大切に想う人は
何故かみんなウヨクと言われますから
間違ってはいないかもしれませんが(笑)
しかし北米ではどうか知りませんが日本国内で
『ネトウヨ』だなんて言っているのは日本人になりすまして
オスプレイ反対デモ、反原発デモ、憲法改正反対デモをして
日本人になりすましている在日韓国人くらいです。
なぜなら今韓国は日本が自衛力を強化したり、経済回復するのを
とても恐れているからだそうです。
オスプレイ配備反対、反原発、憲法改正反対などのデモ、すべて在日韓国人主導!?
http://join-a.jugem.jp/?eid=1054
日本人ならもっと冷静に、という意味は全くわかりませんが……。
それに、ウヨクとかネトウヨとかいう言葉は、わたしは使ったことがありませんし、そういう観念も持ち合わせていません。
そして、あなたが、日本の自然と人が大好きで、戦争が大嫌いな方だということも、前々から理解していますから安心してください。
北米では、日本では、中国では、韓国ではと、あなたはおっしゃいますが、そういうふうに国名で括って断言する話し方を、わたしは好みません。
ただそれだけです。
あなたが信じておられる事件の真意が、あなたほど確信をもてない、というのがわたしの返事です。
50代後半ですから五十路。くのいちというのは、女という漢字を習う時に、国語の先生がおっしゃっていたのが忘れられなくて書きました。
とりあえず、あなたの、在日韓国人の方々についての捉え方は、充分聞かせていただきました。
この記事に関してのコメントとしては、少しズレが生じてきていると思います。
ですので、これでキリにさせていただきます。ご了承ください。
これでキリにします。
竹島は返して欲しいとは思うけれども、デタラメな主張は止めて欲しい。
李承晩ラインで拿捕された漁船の大半は済州島方面で竹島は関係有りません。
そして、公平を期するならば、漁船の公海への立入を禁止していたのは、韓国だけじゃなく、ロシアもアメリカも禁止していたのです。
講和条約でアラスカで北洋漁業ができると期待していたが、1953年の条約で結局は締め出されました。当時朝日新聞とかが主張した「公海の自由」なんて結局の所どこにもなかったのです。これが敗戦国の現実です。
大事なのは国民ひとりひとりが関心を持って事実を知り判断することだと思います。
誰かが書いた嘘の情報が多いからと、それが正しいとは思わない方が良いです。
皇后様のお言葉(宮内庁サイトより転載)
勝手に境界線を線引き
↓
1952〜1962年まで
竹島付近の日本人漁民を拿捕、殺害
抑留者数:3929人
拿捕船舶:328隻
死傷者数:44人
↓
※アメリカやイギリスは韓国の横暴を非難
※日本は敗戦で軍隊を持っていなかったため何も出来ず
※日本は国際司法裁判所に提訴したが韓国側は拒否
↓
韓国:捕まえた日本人漁師を人質に
「拿捕した日本人約4000人を返して欲しかったら・・・
条件1.
「日本で逮捕されている韓国朝鮮人の犯罪者472名を日本で釈放しろ!」
条件2.
「日本に住んでる韓国朝鮮人に永住許可を与えろ!」
「子々孫々まで永久に永住権を与えろ」
条件3
「金をよこせ」
↓
日本 「軍隊もないし、人命には変えられない」
・韓国朝鮮人の犯罪者472名を釈放
・韓国朝鮮人の子々孫々にまで永住許可を与えた
できたら、簡単なものでいいので、こちらが呼ばせていただける名前を残してくださるとありがたいです。
わたしがキリにすると申し上げたのは、特定の方のコメントに対してですので、もしも、これは伝えておきたいというものがありましたら、どうぞ書き込んでください。
物事について、自分なりにきちんと調べる。
調べる際には、偏らないように気をつけて、色々な方面からの資料を読む。
その上で、自分としてはどう感じ、どう考えるか、自分以外の人たちと言葉を交わしながら煮詰めていく。
わたしは、こういう行為が全く乏しいまま大人になってしまっていました。
社会のニュースを見聞きしてはいましたけれども、いつも他人事で、何日か経つとすっかり忘れて、自分の生活を大切にすることにかまけていました。
そのことの悔いと反省を土台に、この世にさよならをする日まで、生きる姿勢を整え続けていきたいと思っています。
皇后様のお言葉の中の「世界各地に生活する邦人の安全を〜」の部分を読んだ時、胸がジーンと熱くなりました。ありがたいと思います。
歴史に学ばないといけない、とわたしも思います。
けれども日本の子ども(わたしも含めて)は、歴史を学ばせないように仕組まれた教育を受けてきました。
そのことの異様さを、今こそわたしたちの声を集めて、訂正していかなければならないと思います。
こんにちは。とても感動しました。シェアさせてください。
アメリカの、退役軍人が原爆は正しかったと思っていることもあまりしらなかったのですけど、何かの動画で、原子爆弾を作った人が来日して、原爆資料館を見学して「すごい!すごい威力だ!」って感激していたのをつい最近見てしまったんですよね。日本人の被爆者とも対談したけど、全然悪びれていなくて。ああ、こういう風にアメリカの人って思っているんだ…って思ってしまったのですが。
オダネルさんのような原爆を目の当たりにしたアメリカ人が、あれはやるべきではなかったと心動いていたことに少しほっとしました。そして彼らが動き出したおかげで、他のアメリカの人々の心が動いていることも。
私もやっと、本気で世界を平和にするために行動しないと危ないところまできているんだ、とここ2、3年で気づいて動き始めました。
アメリカにいったことが動機の一つです。
アメリカってどっか狂ってる…、そして、日本をでて、外から見た事で、日本がどれだけ素晴らしいものを持つ国か気づきました。そしてそれが、失われそうになっていることも。
まうみさんの真摯な姿勢に勇気づけられました。
戦わないで向き合って、とことん話して、笑って変えていけたらいいですよね。
長々失礼しました、ありがとうございました。
8月9日にシェアしたいと思います。
今日の朝焼き場に立つ少年の写真を初めて見て
胸が詰まる思いになり、関連記事を調べてたどりつきました。とっても丁寧に書き起こして下さりありがとうございます。私のブログにも今日是非紹介したいと思いコメントさせていただきました。
絶対に繰り返してはいけない歴史がある!
その通りだと思います。
何人かのかたも書かれていますが、
こんなにも大変な作業を
ありがとうございます。
FBのほうでシェアさせて頂きました。
長文をありがとうございます、とても感銘を受けました。原爆を正当化しているアメリカにおいて、オダネルさんのように実際の目撃者がその悲惨さを痛感していたことを思っても、やはり現実の惨状は人間の良心に訴えるものがあるのですね。
アメリカも、日本も、そして世界のいかなる国も、原爆による悲劇を繰り返してはいけませんね。
また、寄せられている多くのコメントも拝見しました。今日本が危機に晒されているとよく云いますが、そんな時だからこそ、平和主義を貫けるかどうかが試されているように思います。
憲法9条を国防的な観点から見るなら…
軍事バランスを保ち〜というようなコメントがありましたが、今の現状こそがバランスだとも言えます。ここで日本が軍を持つようだと、逆に中国等に軍備増強の口実を与えてしまう。別の言い方をすれば、日本が軍を持ってこなかったことが、他国に侵略をさせにくくしていた(昔と違って国際社会の目が大きいですから、無防備な国をあからさまに攻めるのは問題ですしね)とも考えられます。
改めて、素敵なブログをありがとうございました。幣原氏の言葉、大切ですね。平和を叫ぶ狂人で居続けることを誇りに感じたいものです。こちらのブログをRTで広めさせて頂きたく思います。
最後に。「(世界の国々に)憲法9条と同じものを持たせる運動」という言葉を9条死守への揶揄として使っている方がいらっしゃいましたが…
9条を世界基準にしたい。それが大学生である私の将来の夢です。きっと、実現できます^^
長稚乱文、失礼いたしました。
ここに載せている記事はみな、自由に移すなり使うなりしてください。
ひとりでも多くの方に読んでいただけたらと思っているので、こちらこそありがたいです。
さて、アメリカにおられたのですね。
どの州かでかなり印象が違う国ですから、多分、marinonさんの言葉から察するに、保守的な州だったのかもしれませんね。
わたしが暮らす東海岸の人たちは、わたしが知っている範囲なのでごく限られていますけれども、原爆が正しかったなどと考えている人はひとりも会ったことがありません。
小学校から高校までの歴史教育でも、そういうふうに教えているようには思えません。
パールハーバーでさえ、あの奇襲についてはすでに、米軍内部では知られていた、というふうに学んでいるようです。
アメリカも日本も、そして多分中国も韓国も、どの国の市民も、すばらしい人がいっぱいなのだと思います。
けれども困ったことに、政治家や大企業の人間は、狂っている人が多いのに、それを見抜けないまま支持したりしてしまう、社会人として考えると愚かな人もいっぱいいるということが、過ちの始まりなのだと思っています。
アメリカはもう相当に狂っています。
市民がいくら必死に訴えても、その狂気はなかなか弱まらないばかりか、どんどん増殖しているようです。
日本はこの時をなんとか踏ん張って、そのアメリカの呪縛を解くこと、
そのためには、中国や韓国とつながり、東洋独自の深い知恵を出し合い、それぞれの良いところを認め合う関係を築かなければならないと、強く強く感じています。
ブログを読ませていただきました。
あらためてまた、いろいろと考えることができました。
ありがとうございます!
これからもまた、よろしく!
返事がこんなに遅れてしまい、すみませんでした。
ブログをさきほど読ませていただきました。
ていねいにまとめてくださり、ありがとうございます。
あの時に、わたしの胸をいっぱいにした思いがまた、蘇ってきました。
本当に、繰り返してはいけないことというものがあります。
それでも、愚かな者達の起こす渦に巻き込まれ、流されていってしまうのが世の常だというのも事実です。
日本は今、その世の常を断ち切らなければいけません。
本当に危ない時に差し掛かっています。
一緒に声を上げていきましょうね!
返事がこんなに遅くなってしまい、本当にすみませんでした。
フェイスブックへのシェア、ありがとうございました。
あの日、あの写真を見つけ、ビデオに辿り着き、知った現実に胸を押しつぶされそうになりながら、文字起こしをしていた自分を思い出しました。
ねこままゆうゆさんの温かな言葉に、作業の疲れがすうっと消えていくような気がします。
こちらこそ、読んでくださり、ありがとうございました。
そして、ここに寄せられたコメントの数々までも読んでくださったのですね。
いろんな考え方の人がいますが、わたしはhasuさんの意見に賛成です。
平和を叫ぶ狂人によって生まれた憲法9条。
わたしもhasuさん同様、平和を叫ぶ狂人となり、平和憲法を守ることに必死になりたいと思っています。
hasuさんは大学生なんですね。
そのことが殊更嬉しいのです。
若い人たちが、しっかりとした考えを持ち、それをもとに行動しようとしてくれること。
親の代のわたしたちにとって、これほど心強いことはありません。
こんな社会にしてしまったことの罪を償うためにも、hasuさんたちのような若い人たちを、全力で支えていきたいと思っています。
真の平和は、すべての人の手が武器を捨てる事。
武器などという物を、この世から消し去ること。
夢はデカいほど持ち甲斐があります。
hasuさんの夢の実現、わたしにもお手伝いさせてください!
これからもよろしくお願いします。
世界中ウォーズ, 近代戦, 民事国,人種差別と, 多くの他のイベントは、ちょうどイタリア人だったそして、すべての政治家, キャスト, シンガーズ,サウンド&ビジョンスタッフ, そして他の人はプログラムの一部である 彼らはただだった 彼らの目的は、唯一の戦争である 彼らがそうであるように戦争や災害の6000年 年間で徐々にセクシーで世界中意志 すべてのものは、以下のことを証明
マップを参照してください 国の一部は小さい 国内の一部の国ではある ほとんどの国は、分析されている 彼らは完全に言語またはスクリプトを変更した いくつかのレースは国を去った 境界と名前は​​何か他の国である 国の本当の名前を知るために 世界地図 国の名前 または都市 町の名前のような 国または名前 近所です そして隣国の名前 その都市のまたは1つ。別の国のようなものです どこ または周囲の海の名前や湖や川 国のようですバンコクのような(タイ),ラングーンに似て(ミャンマーの都市)ですミャンマーでは、 Sytvhという町がありますこの名前は、シベリアに似ていますシベリアでSytvh呼ば湖がありますこの名前はタイに似ていますその本当の名前です. 一部の国の本当の名前を検索するには, 自分の名前や自分たちの都市別の国のようなものですのようなenhamna (チャド),カナダに似ています カナダ北部でバックと呼ばれる川がありますこの名前は、チャドに似ていますその本当の名前です
一部の国の本当の名前彼らは周囲に残っているノルウェーのようなその周りバルト海では、バイキングに似ていますその本当の名前です. (ポイント: 名前がスタンしている国カザフスタンのような, スタンは、それらを削除する上記によれば本当の名前を見つける
真の境界を知るために, 国の名前または町都市似た名前国の名前近所です. [ポイント: フロンティアの名前を検索するには, いくつかの名前は一緒にいくつかの単語に似ているであるタンゴのような(韓国), パダン(インドネシア)]
イスラム教では、コーランと呼ばれる本ですどこについて何を行うことができます, 宗教の概念 , ターゲット&その他. アラビア語、ペルシア語の言葉が意味している意味する言葉の部分と合計数の概念一般的な概念を持っている言葉ペルシア語と非常によく似ています詩はポジティブに変換されますしかし、概念があります詩のいくつかを理解するためにそれは前のページを読んでいる必要がありますの対象とすべきである
意見や社会的行動しばしば誤さいくつかの国では、少数のエラーがあるアイデアがされているすべての方法あきらめるとゼロ, ワイズリー, 正しい, フルとすべての側面に関して態度や行動そして、あなたが考えることができる任意の他の問題. いくつかのケースでは、複雑であるまたはあなたが好きな可能性のあると思うそれが正しい選択です定数はどこに言及, あなたのために固定すべてが可能であることを知っている. このテキストは、世界中で送信されますとの一部であるものトピックは、読みあなたがミスリードしたい彼らの専門家を欺くしないでください. 記載されている項目の固定後お友達にコンテンツ, 市内で, 警察, 軍事的とインターネットお住まいの地域に移動する.
戦争は軍隊や、ましてや自衛隊が行うのではありません。
はっきり申し上げたい。
あなた方一般の国民が私達に戦争をさせるのです。
あたかも一般市民が被害者であるかのような「妄想」はおやめください。
あなた方の総意によって我々は戦場に赴き、「あなた方の代わりに我々が」戦争をするのであって、あなた方は加害者でもあるのです。
戦争が始まれば、真っ先に命の危険に身を晒すのは兵士です。
何が嬉しくてそんな所に行きたいものですか。
しかし、どんなに我々の事を「暴力装置だ!」と言う人が居ても、そんな下衆の為に盾になる事が、我々に与えられた使命です。
勘違いしないでください。 一番戦争をしたくないのは、弾がめったに飛んでこない場所でグダグダ言っているあなた方ではなくて、我々兵士です。
個人的な感情から言えば、我々を「戦争好きな武闘集団だ」という奴を、先ず我々の盾に使いたいですがね。 きっと平和裏に事を収めてくれるでしょうから。
戦争をするべきでないのは、誰もが知っている事ですよ。
そんな当たり前の事を100万回言ったところで、行動しない限り何の解決にもなりません。本気で止めようと思うのなら、同士を募って当事国の政府に直談判にでも行ってください。我々に比べれば大した苦労では無いはずです。
結局、そんな事すら、あなた方国民はしようとしないんですよ。
本気で戦争を止めたいなら、国会の前で100万人くらいのデモをやってみてください。
それをやらないなら、戦争も止まりません。
それができないなら、戦争は無くなりません。
妄想だけの「自慰行為」はうんざりですよ。
そういう、国民の総意という形で、戦争というものが引き起こされないように、そういう形で、兵士の方々が戦場に立たされないように、
国民ひとりひとりが、自分が置かれた状況を把握し、理解し、考え、行動するような社会になるにはまず、気づいた者が根気よく伝え続けることが必要だと思っています。
今日は911ですが、あの事件後、雪崩のように戦争に向かった数年間も、まるでアメリカ国民の総意のようにプロパガンダされた映像が、数えきれないほど流れました。
戦争を国民が支持している、という偽りのイメージを作るのは、戦争で私腹を肥やす人間たちであり、戦争に反対し、やってはならないと、必死に食い止めようとしている人間は、決して少なくありません。
けれども、あなたがおっしゃるように、その規模は100万人には到底及ばず、だから戦争は止まらず無くならない。
その歯痒さと無念さは、デモに出ている人間すべてが共有しているものだと思います。
こちらでは、兵士の方々が、戦争には行かないという意思を表明し始めました。
イラクやアフガンから戻ってきた兵士の方々が、戦争というものは何の解決にもならない、ただの人殺しだと公言しています。
もちろん、まだまだ少数ですが、わたしたち市民は、彼らを支えていかなければなりません。
人殺しや町の破壊をしたい、させたいという人が、軍隊という組織を動かせるほどいるとは思えません。
戦争は、兵器商人、軍隊上層部、戦争によって大きな利益を得るほんの一部の権力者たちの意向と策略を、報道という、本来ならば、そういう輩に向き合って闘わなければならない機関が、逆に追従していることで、兵士を含むすべての人間を巻き込ませるのだと思います。
もちろん、あなたのおっしゃるように、兵士という立場におられる方々の巻き込まれ方は、一般市民のそれとは全く意味合いが違います。危険の度合いも異なります。
戦争はなにも解決しない。ただの人殺し。
そんなものに巻き込まれる国にならせてたまるか。
同朋の人を行かせてなるものか。
起こしてなるものか。
だから気がついてほしい。
自分が置かれている状況に、注意を払ってほしい。
そういう気持ちをもとに、この記事を書きました。
他の方たちのコメントまで全て読ませて頂きました。
戦争、原爆、憲法、とてもとても考えさせられます。
何か、私の中で眠っていた日本人の精神のようなものに働きかけてくるものを感じました。
貴方のブログの他の記事、今後の記事も読ませて頂きたいと想います。
色々と大変だと思いますが、これからも頑張ってください。
そして、記事だけではなく、こんなたくさんの量のコメントまで、全部読んでくださり、本当にありがとうございました!
いやもう、たま〜にですが、ここにはたくさんの、わたしの主観とはまるでかけ離れた方々からのコメントが入ります。
そういう方々と意見を交わす時にこそ、もっと学びがあり、気づきがあることに支えられて、とりあえず会話が成り立っているのですが、時にはその言葉使いの無神経さに腹を立て、傷つき、一日が壊れてしまうこともあったりします。
でも、えむさんの中に眠っていた、日本人の精神のようなものに働きかけてくるものを感じるきっかけになれたのなら、そんな光栄で嬉しいことはありません。
教えてくださり、本当にありがとうございます。
これからも、こちらこそよろしくお願いします。
我先に米軍兵士に、股開いていたのが日本の女達
管理人の旦那もアメリカ人でしたっけ?w
是非チベットやウイグルを不法占拠している中国や竹島を武力で奪った韓国にも同じ事を言って下さいね!
それでこそ平和主義者ですよ!
戦争たのっしいいいいいいいいいwwwwwwwwwwwwwwwww
戦闘ヘリからズババババババババババババwwwwwwwwwwwwwwwwwww
軍隊は戦争をするために持つものではなく、他国からの侵略を抑止するために持つものです。平和に対するものは戦争ではなく無秩序。戦争に対するものは外交です。そして軍事力の伴わない外交などありません。日本は軍隊を持たなければしっかりした外交ができません。したがって憲法改正は急務です。中国、北朝鮮、といった人権もへったくれもない隣国が核を持っているのに、正規軍を持たずにそれにどうやって対抗するのでしょう。日本は歴史的に秩序のある平和を愛する立派な民主国家です。軍隊を侵略に使ったことはありません。
多くの日本人が、自虐史観と憲法9条という観念論だけのからっぽなおとめごかしから覚醒し始めています。
1年ほど前にされたHenry Stolksのスピーチの動画をどうかご覧になってください。http://www.youtube.com/watch?v=cKHKYaJba6g
スピーチの前文はここですー>
http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n220284
その上で、ニ三、申し上げたいことがあります。
そしてこれは、わたし個人の考えであり、ちひろさんに理解を求めるものでも、押し付けようというものでもありません。
ですから、聞き流してください。
先に、スピーチの件より検索した『日本はアジアの希望の光だ』の一部を転載させていただきます。
前略
『列席していたインドネシアのアリ・ムルトポ准将(後に中将)は韓国の軍人に向かって次のように日本を擁護した。アリ・ムルトポ将軍はASEAN結成の仕掛け人であり、当時、内外政治担当の大統領特別補佐官で、インドネシアのCIAといわれる情報庁(バッキン)の副長官であった。
〈日本はアジアの光である。大東亜戦争は欧米人にアジア人の勇敢さを示したもので、チンギス・ハーンとともに、アジア人の誇りである。我々は軍人だから、人類は絶滅する日まで戦争は続くと考えて、日本の軍人から、ハワイ空襲戦やシンガポール攻略戦を聞こうではないか。私はシンガポールのリー・クワンユー首相の「日本に学べ」運動は素晴らしい政治戦略だと思っている。
ここで、インドネシアの日本民族の価値についての見方を申し上げる。
今、忽然として日本民族がこの地球上から消えたら、アジアとアフリカは非常に困る。その時に韓国が一番困ると思う。韓国は工業大国の日本と競争したから、立派な工業国になれたのである。近くに強力な競争相手がいるということは素晴らしいものだ。世界は韓国と日本を同民族で同能力の持ち主と見ている。
ベトナム戦争当時に「韓国軍は(大東亜戦争当時の)日本軍と同じで勇猛果敢だ」と評判が立ち、中ソ連合軍が緊張したことがある。もし日本がシンガポールの地点にあったら、インドネシア人は少なくとも百万人が日本に住み、日本人と同等の教育を受けるから、その人間関係から日本の技術、市場、金融、スタッフ等を活用することができる。だから企業の成功は容易である。つまり日本の近いところに位置していることは幸運なのだ。経済的支援を連続的に受けていると言ってもよいぐらいだ。
インドネシアが日本に近ければ、今のような貧弱なインドネシアではない。
ロッテのような韓国の大実業家は、顔も日本人と同じ、日本語も日本人と同じ、発想法も日本人と同じ、一切が同じだから羨ましい。
つまり、我々インドネシア人は「日本は何もしてくれなくてもよい」と考えている。日本は欧米と肩を並べて進歩しているだけで十分アジア・アフリカに尽している。日本は存在するだけで十分にアジア・アフリカに尽している、と考えている。だから、我々アジア人は外交面に弱い日本を支援したいと思っている。
日本から援助をもらうだけで応援しないのでは運命共同体の一員とは言えないし、対等のパートナーとも言えないのではないか。〉
ASEANの中に、日韓関係をこのように見ている識者がいることを私たち日本人も韓国人も知っておいた方がいいのではないだろうか』
↑以上転載おわり
以上のスピーチは、わたしには、軍人の威勢の良い、そして調子の良いスピーチとしか思えません。いわゆるリップサービスの類いです。
前置きが長くなって申し訳ありませんでした。
ちひろさんは、他国からの侵略を抑止するために軍隊を持つとおっしゃる。
他国からの侵略はだから、軍隊を持つ国にのみ行われるのですよね。
そうでなければ、国際法に違反しますから。
日本には、世界でも三本の指に入る軍事力を持つ自衛隊を所持しているのですよね。
そして、島の周りには、ぐるりと、特に中国、北朝鮮側に、核施設が建てられています。
第二次世界大戦の頃とは、全く違う状況の中で、戦争というものを語らなければならないと思います。
日本が外交に疎いのは、軍事力うんぬんが原因ではなく、為政者が愚かだからと思っています。
そして、敗戦国政府を長年牛耳ってきた自民党が、米国の属国となるべく、自ら進んで、ありとあらゆる条約や条令によって雁字搦めにされ、それを断ち切る度量と人格を持つ政治家が居なかったからだと思っています。
試みた人間はすべて潰されてしまいましたし。
最後に、日本人は、すばらしい資質を持った優れた民族だと思いますが、日本国は立派は民主国家などではありません。
それは、今回のみならず、これまでの大きな災難が起こるたびに、しっかりと見せつけられてきたのではありませんか?
まだそのような、立派な民主国家だ、などと思っておられるのなら、それこそ現実をしっかりと見ていただきたいと思います。
このブログをジックリ見させていただきます。
このブログ内の記事を読んでくださるのでしたら、どうぞよろしくお願いします。
とても感動しましたし、戦争の醜さを改めて実感させられました。確かにアメリカは長崎と広島に世界で唯一原爆を落としました。ですが日本だってアメリカを攻撃し、罪のない人間の命を奪ったのです。日本とアメリカ、どちらにだって反省すべきことはあります。過去は戻らない。だからこれからの平和な世界に近づく方法を考えるべきだと思います。人を思いやるとか、身近にいる困ってる人を助けることもその方法のひとつではないでしょうか?
戦争というのは、人に殺し合いをさせ、町や自然を破壊し、生きものを殺し、
さらに未来永劫続いていく汚染による病を発生させる、
この世に存在することが間違っている物です。
sakiさんがおっしゃるように、戦争に追いやられる我々市民が、しっかりと両足を踏ん張って立ち上がり、
わたしたちは戦争などしない!
思いやり、助け合っていく!と、
戦争の黒幕たちに、世界的規模で立ち向かっていかなければならないと思います。
そんな世の中になることを、強くイメージしながら、声を上げ続けていきたいです。
そして今我々が選んだ「安倍政権」を常にwatchし自分らの選択に間違いはないのかしつこいくらいに「自己否定」しないといけないと思います。
中韓には報道だけではなく色々やられているのは確かですが常にそれをやり続ける事だと思います。
粘り強くやるしかないのです。考えるのを止めた時に「人」でなくなるのですから。
教育、教育って・・・きっとあの方達には、まともに教育しない事が教育なんでしょうね。
哀しいけど、私たちにとって大切な事って支配層の人間達にはどうでもいい事なんでしょうね。
先日また、8月を迎え、この記事を読み返してくださる方がちらほらと出てきましたので、写真を加え、再掲させていただきました。
このビデオを文字起こししていた時の気持ちが、またふつふつと蘇ってきました。
みなさんがそれぞれに受け止めてくださり、考えていただけたらと願っています。
この記事を読む事ができて本当に良かったです。
大したブログじゃないので申し訳ありませんが紹介させていただきます。
ありがとうございます!
長崎県は、この8月9日が、夏休み中にもかかわらず、登校日になっていて、そして子どもたちは、原爆というものがもたらす大変に理不尽で惨い現実を、小さな頃から見つめているのですね。
知りませんでした。
日本は今、本当に妙な方向に舵を向けられてしまっています。
この今こそ、被爆国日本から、世界に向けて、強い平和の信念を伝えていかなければなりませんね。
日本人ならともかく、アメリカ人の方がこのような活動をさえておられる事に驚かされると同時に
理屈ではなく、心で人間としてやっては行けない事を感じる重要性を感じます。
昔の事、遠い世界の事ではなく自らの事として考え、明日にも私たちに降り掛かることとして考える必要があります。
きっかかを与えていただいてありがとうございます。
観光バスのガイドさんは、とても若い女性でしたが、長崎が被った様々な試練を、しみじみと語ってくださいました。
幼稚園の敷地内に、そのようなお地蔵さまが立っておられて、毎朝園児たちが、そのお地蔵様に小さな手を合わせて黙想をする、という習慣がある。
長崎ならでは、の風景なのでしょうね。
でも、再掲の記事にコメントしてくださった長崎の方にも申し上げたのですが、これをひとつの地域の行事にしてはいけない、日本全国で受け止め、考えていかなくてはならないと、また心を新たに強く思っています。
わたしもせっちゃんさんと同じく、母親として、これからの未来を背負う若者たちに、堂々と手渡せる社会にすべく、できることをやっていこうと思っています。
こちらではやはりまだ、あの原爆は仕方がなかった、という考えが主流です。
けれども、小学校などでも、最近では、理由などない、悪いものは悪い、間違っていることは間違っているというふうな論調で、教科書に載り始めました。
大変なショックを受けたと言って、泣きそうになりながら、わたしに話してくれたりします。
自分のこととして考える。
このことがいかに大切で必要なことか。
わたしもこんな年になって、しみじみと考えています。
読んでくださり、本当にありがとうございました。
長崎県民として、胸が苦しくなる思いで読ませていただきました。
私も掲載されている写真をみました。
幼稚園のころから原爆の恐ろしさ、戦争の残酷さ等、この日を迎える度に学んで来たことを思い出します。実際に、被爆者へ話を聞きに行った事もありました。その話は幼い私には衝撃を受けるものでした。69年経過した今でも苦しんでいる人達が居ること、二度と過ちをくりかえさないよう被曝県以外の方々、世界の人に伝えて行きたいと思います。長文失礼しました。
あの写真を見つけた時の衝撃を、今も覚えています。
本当の写真を間近に見たら、いったいその衝撃はどれほどのものになるでしょう。
わたしは、長崎にも広島にも、つい最近まで、一度も訪れたことがなかったのですが、
幼い頃から、図書館に通っては、長崎、広島の苦しみを書いた本や写真集を、たくさん読んできました。
けれどもやはり、クロスケぬこさんのように、その地で生まれ育った方の、肌で感じ、肌で受け取ってこられたものとは、比べ物にならないと思います。
日本と日本人は、原爆というもの、生きものを殺傷する兵器や、それを使うことを当たり前とする軍を、世界から無くそうという声明を、声高らかに、世界に向かって宣言するべき国であり、市民であると信じています。
コメントをありがとうございました!
9条は進駐軍が作った憲法なのを忘れないでください。
日本人が日本の為に作った憲法ではないことを。
原爆投下は、戦勝国であったが故に裁かれない非人道的な人体実験であったことも。
この痛ましい戦争のおこした災いを
ぜひ一人でも多くの方に知っていただきたいと
つたないブログですが勝手ながら、リンクさせていただきました。
ノーモア。ウォー・・・・改めて叫びたいですね
子どもの頃から、戦争をなくすために私は何かをしなくてはならない、と思っているのに、何もできていません。
娘や夫にこの記事読んでみない?といっても,関心無いようです。(普段からそんなことばかり言っているので飽きられているのもありますが)
デモに行く勇気もありません。
私も、気になることは、テープ起こししてみることにします。
ありがとうございました。
戦争の延長線上にあるものではない。
戦争は国家の権力であり、原爆投下は犯罪である。
原爆と原発を同列で論じるのはアホ。
自動車を、人をひき殺せる道具だから廃止に、と言ってるようなもの。
だから自分の4人の子供たちにはヒロシマの英語版本を与えて予備知識をつけ、原爆記念館に行くためだけに帰国しました。主人は今でも「あれのおかげでアメリカ人数万人の命が救われたんだ」と言いますが、子供たちはただ涙を流します。
私と子供たちで主人とその両親を教育しなおしています。
今までに、何度か見たことがあります。
そして、その度に深い悲しみが湧いてきます。
今日も、テレビで戦争特集のドラマを放映していて
中国の戦闘機を日本軍が撃ち落とし、中国軍人が亡くなるというシーンが流れたのですが、とても悲しかったです。
戦争で人が亡くなるのに何人だろうと関係ありません。
あるヒーラーさんのお話を少し転用させて下さい。
【8月8日、8並びの今日は、天空の獅子座の門(ライオンゲート)が開かれる特別な日
今日を境に、宇宙からの強力なエネルギーが大量に地球へと流入するようですね。
そのため、今までは様々な思いや願いを宇宙に発してもなかなか届かなかったり、叶わなかったりした人でも、宇宙と私たちをふさいでいた壁が今日を境にどんどん取り払われて薄くなり、なくなっていくわけですから、宇宙との交信や宇宙エネルギー(宇宙からの恩恵)の受け入れがしやすくなるということなのです。
それはすなわち、あなたの考えたことや思ったこと、意識のベクトルを向けたことやイメージしたことが現実化しやすくなる&現実に向けての流れが早まりやすくなるということ。】
このような事を仰られていました。
なので私は「この世から戦争というものが無くなり
宗教や文化や習慣という垣根を超えて、人々が協力しあって生きていけますように」と願い続けています。
きっと叶うと信じています。
Facebookで知り、このページに辿り着きました。
この動画にサブタイトルをつけるとすれば「長崎の原爆投下の犠牲になったアメリカ人」でしょうか。
人は動物として人に生まれても、人間になれるかどうかは教育と本人次第ですよね。