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日中戦争で旧日本軍が毒ガス使用

2091回で8万人以上死傷




1992年8月13日(中日新聞)

日中戦争 旧日本軍が毒ガス使用
2091回で8万人以上死傷 民間人へ人体実験も
中国側資料で明らかに


【北京12日共同】日中戦争の旧日本軍による毒ガス戦について、中国軍部がまとめた詳細な内部研究がこのほど明らかになった。研究では、盧溝橋事件の起きた1937年から日本敗戦の45年までの8年間に、共産党ゲリラ掃討作戦を含め少なくとも2091回毒ガスが使用され、民間人を含む死傷者は8万人以上に上ったことを突き止めている。毒ガス戦の全体像に迫る中国の研究成果が明るみに出たのは初めてである。
人民解放軍化学防御指揮工程学院研究室が、公文書館で見つかった当時の軍事電報や日本兵捕虜の供述、報道などの新資料と、発見済みの旧日本軍や国民党側の資料を照合し再検証したもので、昨年6月、軍の内部発行研究書「化学戦史」に掲載された。
同書によると、旧日本軍は華北地方を中心とした「三光作戦」(焼き、殺し、奪い尽くす)を含むゲリラ掃討作戦でも少なくとも423回にわたって毒ガスを使用し、3万3000人以上の兵士・民間人が死傷していたことが初めて判明した。正規戦での毒ガス戦は少なくとも1668回、中国側軍人の被害は4万7000人以上でこのうち約6000人が死亡した、と推計している。
これまでの研究では、正規戦の毒ガス使用は1312回、死傷者数は3万6968人とする1946年の国民党軍政部資料が見つかっていたが、今回の中国側の包括的な研究で、この数字をはるかに上回る被害が判明した。
毒ガスが多用された掃討戦として五台包囲攻撃など5例を詳述、百団作戦、太行抗日根拠地掃討、5・1大掃討ではイペリットなど致死性ガスが使用されたことが確認された。正規戦では晋南粛正戦、南昌作戦、〓湘(こうしょう)会戦などで大規模に毒ガスが使用され、武漢会戦と宜昌、常徳、長衡の各作戦では催涙ガスなど刺激性ガスとともに致死性ガスが使われたと指摘している。
また毒ガス使用件数の中には、中国兵捕虜や民間人への人体実験や実戦訓練も39回の実例が確認され、計3000人余りが中毒死したという。
毒ガスの種類が判明している671例のうち、イペリットなど致死性猛毒ガスの使用は約2割の125例で、その他約8割はくしゃみ性や催涙性の刺激剤。しかし、中国側には防毒マスクなどの装備がほとんどなく「日本軍は少量の刺激剤だけでも、大きな軍事的効果を上げた」と分析している。
化学防御指揮工程学院は化学兵器防御の専門要員を養成したり、関連の研究をするための組織。同書は第1次大戦からイラン・イラク戦争までの化学兵器使用例を詳述したもので、全581ページのうち半分以上を旧日本軍の記述に当てている。

<毒ガス兵器> 第1次大戦中、ドイツなど欧州諸国で初めて使用された。日本では1929年(昭和4年)、広島県・大久野島で製造が始まり、日中戦争で実戦使用された。旧日本軍の使用した毒ガスには致死性のイペリット(マスタードガス)、ルイサイト、青酸ガスのほか、くしゃみ性のジフェニールシアンアルシン、催涙性の臭化ベンジルなどがある。毒ガス使用は1925年のジュネーブ議定書で禁止されていた。極東国際軍事裁判で毒ガス戦に対する責任追及を免れて以来、日本政府は毒ガス使用を認めていないが、旧日本軍の遺留毒ガス兵器が中国各地で大量に見つかり、昨年から日中間で処理問題が協議されている。


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1995年7月20日(中日新聞)

日中戦争 毒ガス死傷者9万4000人 旧日本軍使用
中国が資料初公表


【北京19日共同】日中戦争中、旧日本軍の毒ガス兵器で死傷した中国人は少なくとも9万4000人に上り、このうち1万500人以上が死亡した、とする中国軍の研究書『日本の対中侵略戦争の化学戦』(軍事訳文出版社)がこのほど出版された。
「抗日戦争勝利50周年」を記念し、軍の化学防御指揮工程学院の研究者グループがまとめた。死傷者数は、8万人以上とする同グループの過去の内部研究結果に八路軍の死傷者を上積み修正し、演習や生体実験による被害者も加えたため、1万4000人増えた。
毒ガス戦の詳しい被害状況が中国で公表されたのは初めて。中国や日本などで発見された新旧の資料を綿密に照合、分析しており、未解明だった毒ガス戦の全体像を再現する本格的研究として注目される。
同書によると、旧日本軍は1937年から45年までの8年間に正面戦場で1668回、ゲリラ掃討戦で423回、計2000回以上、イペリット(マスタードガス、致死性)やくしゃみガスなどの毒ガス兵器を使用したほか、毒ガスを使った演習や捕虜への生休実験を数多く実施。
死傷者の内訳は(1)国民党兵士4万7000人(死者6000人)(2)八路軍(共産党)兵士3万7000人(同1500人)(3)民間人・捕虜1万人(同3000人)──としている。
しかし、八路軍総司令部の統計資料は41―45年分が欠けているほか、新四軍(共産党)の被害統計は全く残っておらず、死傷者の実数はさらに多いと推計している。
同書はまた91年5月、河北省藁城市の中学で、宿舎の拡張工事中、猛毒ガスやホスゲン入り砲弾約50発が出土し、生徒ら二十数人が中毒を起こすなど、放置された毒ガス弾で戦後も2000人以上の死傷者が出たことを詳述している。
中国には現在も約200万発の毒ガス弾が未処理のまま残されている。日本政府は今年2月からの本格調査により、吉林省などで旧日本軍の毒ガス弾の存在を確認したが、処理実施の見通しはまだ立っていない。

歴史的な意義高い

粟谷憲太郎・立教大学教授の話 旧日本軍と中国の資料を綿密に照合し、多数の毒ガス戦を検証したもので、非常に歴史的な意義が高い。戦後50年に当たり、日本政府は中国での毒ガス戦の事実をはっきりと認め、遺棄毒ガス弾の処理を真剣に考えなければならない。オウム・サリン事件で毒ガスが話題になっているが、日本が中国で大規模な毒ガス戦を行ったことを日本国民はきちんと認識すべきだ。



【関連記事】

旧海軍毒ガス開発 詳細に 終戦時、陸軍超す生産量
米軍報告書で新事実浮かぶ
これまでベールに包まれていた第2次大戦中の日本海軍の毒ガス兵器研究、生産などについて全容をまとめた米軍の報告書が、6日までにワシントンの米国立公文書館から見つかった。致死性のびらん性ガスであるイペリットの年間生産量は終戦前の時点で、陸軍より海軍の方が多く、国内には本土決戦に備えて相当量の毒ガス爆弾を貯蔵していたほか、占領直前に海軍司令部の指示で、保管していた大量のガス爆弾を廃棄したことなども明らかになった。資料は占領期間中に米国側が当時の日本軍関係者らの尋問をもとに作成したもので、海軍の毒ガス開発、製造について詳細な資料が見つかったのは初めて。
資料の表題は「日本の化学戦についての情報報告」で、常石敬一・神奈川大教授(科学史)と、長島修・立命館大数授(日本経済史)が、それぞれ研究資料を調査中に、報告書とその基になった尋問書を見つけた。毒ガスの開発研究、生産、戦場への補給システムと貯蔵設備、化学戦訓練などにわかれ、全体量はA5判のリポート用紙で約650ページ以上。いずれも昭和21年5月までに米太平洋陸軍総司令部が作成、「部外秘」扱いにしていた。
報告書によると、海軍では技術局の機関として大正12年(1923)に東京・築地に最初の化学兵器研究所を設立した。その後、神奈川・平塚の海軍火薬工場敷地内に施設を移し、昭和6年の満州事変ぼっ発後、研究規模を拡大。戦局にかげりが見えだした18年に毒ガス製造の拠点となる相模海軍工廠となった。
同工廠の化学兵器研究部門は終戦時、300人が勤務していた。ガスマスクや防護服、汚染除去剤のほか、びらん性、くしゃみ性の各種ガス、催涙ガスなどを製造。陸軍の毒ガス製造所だった広島・大久野島が最盛期5000人の従業員を抱えていたのに比べると、規模は小さいが、致死性のびらん性ガス「イペリット」の生産能力は月間80トンで、19年には海軍司令部の要請でイペリット爆弾4万3000個を製造している。
敷地の見取り図では、コンクリート壁に囲まれた約800メートル四方に、14の実験室のほか毒液貯蔵室、ガスタンク、爆弾貯蔵庫などがびっしり並ぶ。主な実験室には毒液輸送などのために線路が敷かれていた。
化学戦で広く使われた猛毒のイペリットの年間製造量を陸、海軍で比較すると、昭和17年以前で、陸軍1262トンに対し、海軍30トンだったのが、19年には陸軍157トン、海軍190トンと逆転した。

日本の毒ガス作戦に詳しい粟屋憲太郎・立教大学教授(日本現代史)の話 海軍の毒ガス研究については関係者らが口を閉ざし、霧に包まれていた。まとまった報告書が見つかったのは初耳で、海軍側の解明の糸口となる基礎資料だ。日本軍の毒ガス戦を米国側がどう見ていたかを知るうえでも、参考になる。(朝日新聞 1989/04/07)

旧日本軍が毒薬人体実験 帝銀事件捜査資料に研究員証言
弁護団解読『平沢氏無罪の根拠』
戦後史のナゾの1つといわれる帝銀事件で、昭和62年に獄中死した平沢貞通元死刑囚=当時(95)=の再審を請求し続けている弁護団が18日までに、これまで判読不能で“幻の資料”といわれた、当時の警視庁捜査官の捜査日誌を解読した。日誌には、旧軍関係者の証言で旧陸軍特殊部隊による中国、ロシア人捕虜などに対する毒薬人体実験の実態が生々しくつづられており、大きな反響を呼びそうだ。
捜査日誌は、昭和23年の事件発生当時、警視庁捜査1課係長だった甲斐文助警部(55年死去)が、陸軍技術研究所の元研究員や元特務機関員らに捜査員が事情聴取した内容を記録したもの。「甲斐日誌」とも呼ばれ、全12冊、約3000ページに及ぶ。
甲斐氏が帝銀事件研究家に提供したものを弁護団が借り受けたが、独特の字体で書かれ読めなかったため、平沢元死刑囚の養子の武彦さん(33)らと2年半がかりで解読した。
日誌によると、元陸軍第6技術研究所の運用班員=当時(66)=は次のように証言している。(原文のまま)「人物実験を満州で行った/(略)ガスの漏れぬコムバッキングの中に入れてスイッチを捻(ひね)ると青酸ガスがすぐ出てくる/(略)人間には荷札を付けて 一号何分(注=何分で死んだかということ) 二号何分と外で見ている/処分は特設火葬場/電気仕掛けでミジンも残らないようにして仕舞う/(略)何一つ残らぬ」
昭和15年ごろ、南京の特務機関にいた人物も「三カ月いる間に青酸加里(カリ)で三人 人を殺した/(略)殺したら後は日本人の人力車が之(これ)にのせて所定の場所に行き埋める」と毒殺を告白している。
捜査は、中国人やロシア人捕虜らに細菌実験をしたとされる旧関東軍731(石井)部隊の関係者にも及んだ。ある軍医=当時(43)=は「十年十一月頃(ごろ) ハルビン郊外/精油工場で人体実験の立ち会いをした/(略)当時の薬は青酸加里をビールに入れて呑(の)ませて殺した」。別の部隊関係者も「十九年春頃 七棟の二階に捕虜がいて/七十人位(看守の鍵=かぎ=を取り)が革命歌を歌って騒ぎ出した/之を全部殺した(ガスで殺した)」と捕虜殺人の様子を証言している。
また、同日誌によると、陸軍第9技術研究所の元技術大尉=当時(36)=は「若(も)し青酸加里を使ふ場合よく青酸加里の特徴を研究した大家か、若(もし)くは全く素人がやる以外一般化学者はそういう即効性のもので十六人も殺すことはできない(危険で)青酸ニトリールの方がやり良い」と証言。弁護団は、事件で使われた毒物は、確定判決で認定された青酸カリでなかった、としている。
日誌の全容を解読した弁護団では「甲斐手記は平沢氏の無罪の証明だけでなく旧日本軍の過去の罪の告発でもある」と話している。

<帝銀事件> 昭和23年1月、東京都豊島区の帝国銀行支店に中年の男が訪れ「近くでチフスが発生したので、予防薬を飲んでほしい」と行員に薬液を飲ませ、12人が青酸中毒で死亡。男は現金16万円余りを奪って逃げた。
捜査当局は犯人が残した名刺などからテンペラ画家平沢貞通元死刑囚を強盗殺人罪などで起訴。平沢元死刑囚は公判では否認したが最高裁で死刑が確定。病死後も弁護団が再審請求を続けている。同事件では毒物を使った手口などから、旧軍関係者も事情聴取の対象となっていた。(中日新聞 1992/01/19)

旧日本軍放置の化学兵器 中国の高校敷地から52発
処理中に頭痛・嘔吐 中国側が被害証言
【北京1日=五十川倫義】日中戦争の際に中国大陸に残され、その処理が両国政府の懸案になっている旧日本軍の化学兵器問題に関し、中国側が特に危険性を訴えていた河北省の高校の状況が、現地関係者の証言などで明らかになった。関係者からは賠償を求める声もある。1月に日中両国が化学兵器禁止条約に調印しているが、中国側は早期解決に積極的な姿勢を見せており、日本政府は新たな対応を迫られそうだ。

中国側によると、発見されたまま処理されていない化学兵器は、砲弾200万発、毒性化学剤100トン、また、放置された化学兵器で直接の犠牲者が2000人以上にのぼる(昨年2月、ジュネーブの国連軍縮会議に提出された文書「ある外国によって中国に放置され、発見された化学兵器に関する情報」)。2月末の衆院予算委員会でもこの問題が取り上げられ、河野洋平官房長官は「我が国が残してきた可能性が大きいとの認識だ。誠実に調査し、結果を踏まえて処理することを考えたい」との方針を示した。
河北省の高校は、省都石家荘市から東へ約30キロの藁城市にある藁城高等中学(陳英華校長、教師・生徒約2500人)。
2月中句、朝日新聞記者の取材を受けた陳校長(56)らによると、1991年5月、寮建設のため、土を掘り返したところ、深さ1.5メートルのあたりから、18発の砲弾を発見。その後も合わせて、計52発が見つかった。
砲弾は裸のまま数列に並び、頭と胴体が分離したものもあった。1発の表面に「大阪」の文字があったという。建設作業員、公安関係者ら百数十人で、約150メートル先の倉庫へ素手で運び込んだ。このうちの1発から液体が漏れていて、運搬後に多くの人が頭痛、嘔吐(おうと)などの症状を訴えた。
同校職員、武慶玉さん(43)は「手のひらの皮膚が割れ、2、3日たって皮がむけた。その後、息苦しくなり、よくなるまで十数日かかった」と訴えた。
別の同校職員、牛平方さん(33)は「掘り出す時は何のにおいかと思った。翌日、頭痛がし、5、6日続いた」と話す。陳校長によると、中国側専門家は「光気弾」(毒ガス弾の一種ホスゲン弾)と鑑定した、という。
同校は「戦争中、この場所に日本軍の訓練所があった」ことから、日本大使館に連絡。翌月の6月21日、同大使館員と4人の専門家が来て調べた。陳校長は「この調査で、日中戦争のころ残されたものであることを確認した」といっている。それ以降、日本側からは音さたがないという。これらの砲弾は人民解放軍が運び去った。
高校側は「ほかにも埋まっているのかどうか、教えてほしい。資料が提供してもらえないなら、学校を移転するしかない」「その場合は、移転費用3000万元(約6億3000万円)を出してほしい」と訴えている。
同校とともに、中国側が「自然環境や人命への危険」を強く指摘しているのは、吉林省ハルバ嶺にある水源地。今年2月、政府系防災組織の機関紙、中国減災報が現場のルポ記事を紹介した。取材は昨年3月に行われたが、今年1月の化学兵器禁止条約調印の後、掲載が可能になった。
現場は「四排樹溝」と呼ばれる山中。47年に近くで砲弾が発見されたものが、人里離れた四排樹溝に移され、放置された。「日遺毒弾埋蔵処 敦化県人民政府一九五四年四月三日」の石碑が立っているという。

中国公表のリスト

【北京支局1日】中国がジュネーブの国連軍縮会諸に提出した残留化学兵器のリストは次の通り。

【中国により破壊か予備的に処置された】
黒竜江省尚志市(20万発以上の化学砲弾など)▽同省牡丹江市(マスタードガス400キログラム以上を82年に化学処理)など▽吉林省長春市、遼寧省瀋陽市など(10.8トンの様々な有毒薬品を73―86年に破壊)▽山西省太原市、大同市など(1万発以上の化学砲弾を80年までに完全に破壊)

【関係情報はあるが、破壊されていない】
河北省藁城市(50発の化学砲弾)▽吉林省梅河口地区(74トンののマスタードガス=石灰で凝固)▽南京市(同ガスが6樽(たる)あったが、漏れ始めたため、90年までに2樽を処理)▽内モンゴル自治区フホホト市(同ガス3樽)ほか

【正確な量が不明】
吉林省敦化市など

【準備的調査により、化学兵器が埋められているとみられる】
黒竜江省ハルビン市▽吉林省琿春市ほか

被害の補償すべきだ

旧日本軍の毒ガス戦に詳しい吉見義明・中央大学教授(日本現代史)の話 旧日本軍が1937年(昭和12年)から、中国大陸の戦場で中国軍に対し、毒ガス兵器を使用したことは、日本側の資料でも明白な事実だ。実戦で使われ、大きな効果を上げていた。全容は明らかでないが、当時の中国の国民党軍も所有していたものの、旧日本軍のほうが圧倒的だった。国際的に禁止された毒ガスの使用が発覚しないように、旧日本軍は戦後、土中に埋めたり、河川に捨てたりして遺棄した。日本政府は毒ガスの使用を認めたがらないが、まず認めるべきである。戦後処理のひとつとして、放置された化学弾の処理、被害があればその補償をきちんとすべきだと思う。(朝日新聞 1993/03/02)

旧ソ連、毒ガスも投棄 大戦後から40年代末
日本海に3万トン 容器腐食進み流出の恐れ
【モスクワ10日=渥美好司】旧ソ連、ロシア軍による海洋汚染問題を調査しているロシア政府委員会のテンギズ・ボリソフ委員長は10日、朝日新聞社のインタビューに対し、旧ソ連が、日本海に計3万トンを超す毒ガスの「イペリット」が入った兵器やコンテナを大量投棄した事実を明らかにした。第2次世界大戦後に捨てられ、容器は腐食が進んでいる。同委員会は、海洋に放出されると、人間にも危険が及ぶ恐れがあるとしている。モスクワで11日に開く、核廃棄物の日本海投棄問題を話し合う日本・ロシア両政府の合同作業部会で、ボリソフ氏は、毒ガス兵器の海洋投棄調査と対策の緊急性を訴え、日本側の協力を求める。

同委員会が、これまでひそかに進めてきた旧ソ連軍の毒ガス兵器処理班からの聞き取り調査などによると、日本海には第2次世界大戦直後から、1940年代末にかけて投棄された。
捨てられたイペリットの総量は、最低でも約3万トンになる。シベリアの北方海域にも2トン近くを捨てたとされている。これらは爆弾や砲弾、箱形のコンテナやボンベなどで、イペリットはそれらの容器の中に液体で残っている。
投棄場所や投棄量など詳しいデータは、まだ調査中とみられ、ボリソフ氏はインタビューで「いまはいえない」と答えた。
これらのイペリットは、旧ソ連が製造したが、旧ソ連軍は、実戦ではほとんど使用しなかったという。
ロシアの専門家の予測によると、イペリットの入った金属容器の海水による腐食は、1年間で約0.2ミリ。大量のイペリットを含む爆弾の場合は、容器の厚さは約10ミリと厚く、中身が放出されるのは数年後とみている。
第2次世界大戦直後、旧ドイツ軍から押収した同種の毒ガスを、旧ソ連軍がバルト海に大量投棄していたことも、最近明らかにされている。ボリソフ氏によると、バルト海周辺の漁民が漁網などからの汚染が原因で、皮膚のかいよう、肺のむくみによる呼吸障害などの被害が出ている。
同委員会は、今後、KGB資料館の未公開文書などを調べ、核廃棄物で作成した海洋汚染白書のような報告書をつくる方針だ。

状態把握せず引き上げ危険

化学兵器を研究している常石敬一・神奈川大教授(科学史)の話 漁業などで思いがけず毒ガス容器が引き上げられるのが、最も危険だ。それを防ぐためには最低限、どこに、どれだけ、どんな状態で捨てられたかを把握する必要がある。ただ、処理のために引き上げることが、むしろ危険を伴う可能性もあるので、どうするかの判断は難しい。旧日本軍が中国に残した化学兵器も残されたままで、人間が大量殺戮(さつりく)兵器を作り続けたつけが回ってきた。

<イペリット> 強い毒性をもち、カラシ臭があることからマスタードガスとも呼ばれる。化学兵器の中でも、ひどいやけどのような症状を起こす「びらん剤」に分類される。皮膚の炎症だけでなく、吸い込むと肺や気管が侵され死亡する。血球や骨髄などへの障害も指摘されている。約15度以上では液体で、兵器として使用される時は噴霧され、皮膚から浸透させる。
毒ガス兵器としては第1次大戦中の1917年、ドイツ軍が最初。近年のイラン・イラク戦争などでも使われた。日本も日中戦争時に、中国大陸で使用した記録が見つかっている。(朝日新聞 1993/05/11)

旧日本軍 毒ガス生産200万発 防衛研に記録 中国の遺棄弾裏付け
日中戦争で実戦使用された毒ガス兵器を、旧日本軍が最低でも200万発生産していたことが共同通信社の調べで、10日までに明らかになった。防衛庁防衛研究所図書館(東京都目黒区)に保存されている陸軍資料に記載されていた。
昨年2月、化学兵器禁止条約を検討していた国連ジュネーブ軍縮会議で中国は「国内に200万発の毒ガス弾が遺棄きれている」と発表、資料はこれを裏付ける形になっている。日本政府は旧日本軍の毒ガス使用を認めていないが、新事実はガス弾の処理をめぐって現在行われている日中間協議にも影響を与えそうだ。
今回裏付けられた毒ガス兵器生産量は9年間で約207万発。生産量が記されていたのは、軍の兵器生産を統括していた造兵廠(しょう)などの極秘記録「主要ナル兵器其(そ)ノ他物品ノ竣工(しゅんこう)数量」。昭和7―14年度の「陸軍造兵廠歴史」と16年度の「陸軍兵器廠歴史」にファイルされていた。
資料には、毒ガス兵器の種類と生産数量が他の通常兵器と交ざって細かく記載されている。毒ガス兵器の記載には符丁が使われ、致死性猛毒のイペリットは「きい」と呼ばれている。
当時の主要毒ガス兵器は投下弾などの毒ガス弾のほか、発煙筒式の毒ガス筒があった。毒ガス兵器の生産量は、最盛期の16年度には約60万発。生産は終戦前の19年度まで続いていたとされ、生産総数はさらに増えるとみられる。

200万発生産は初耳

外務省中国課の話 200万発以上の毒ガス兵器が造られたと聞くのは初めてだ。遺棄弾については現在、中国との間で協議を重ねており、今後も専門的な意見交換と実態調査を行い、問題解決のため誠実に対応していきたい。(中日新聞 1993/07/11)

旧日本軍 同胞の子20人以上虐殺 比で敗走中「足手まとい」
【マニラ13日=共同】第2次(朝日新聞 1989/04/07)大戦末期の1945年にフィリピン中部セブ島で、旧日本軍部隊が敗走中、同行していた日本の民間人の子供少なくとも21人を足手まといになるとして虐殺したことが13日までに明らかになった。フィリピン国立公文書館に保管されていた太平洋米軍司令部戦争犯罪局の終戦直後の調査記録に記されていた。
記録によると、虐殺を行ったのは南方軍直属の野戦貨物廠(しょう)の部隊。虐殺は4月15日ごろにセブ市に近い町ティエンサンと5月26日ごろその北方の山間部で2度にわたって行われた。
1回目は10歳以下の子供11人が対象となり、兵士が野営地近くの洞穴に子供だけを集め、毒物を混ぜたミルクを飲ませて殺し、遺体を付近に埋めた。2回目は対象年齢を13歳以下に引き上げ、さらに10人以上を毒物と銃剣によって殺した。部隊指揮官らは「子供たちが泣き声を上げたりすると敵に所在地を知られるため」などと殺害理由について供述している。
調査記録によると、米軍は虐殺を事実と認定した上で、日本国民に対する犯罪であるため「日本政府に裁きをゆだねるべきだ」と結論付け、戦争犯罪としての起訴などは見送った。調査は45年11月から翌年の2月にかけてフィリピンのレイテ収容所で行われた。(朝日新聞 1993/08/14)

旧日本軍の毒ガス弾と断定
中国ハルバ嶺大量遺棄弾 日中研究者が発掘
「旧日本軍が残した化学兵器」として、中国政府が日本に処理を求めている吉林省敦化市近郊ハルバ嶺の現場を、神奈川大学の常石敬一教授ら日本の民間グループが今月19日から3日間、黒竜江省社会科学院と合同調査した。砲弾を一部掘り出した常石教授は形状や住民の証言などから、遺棄されている砲弾の中に致死性のイペリット(マスタードガス)入りの毒ガス弾が含まれているとみている。
現場は、敦化市街から東に25キロ以上離れた沼地のまん中にある。「日遣毒弾埋蔵処 一九五四年四月」の石碑が建ち、雪を取り除くと、大小数種類の砲弾が出てきた。
常石教授らが今回掘り起こした砲弾の1つは、基底の直径が10.5センチ、長さ61センチの紡錘形の金属製。1センチ幅の黄色の帯がベルト状に塗装してあった。
常石教授が入手した敦化市の内部資料には、過去の経緯も記されていたという。それによると砲弾は旧日本軍の毒ガス弾で、敦化県(当時)が1951年から処理委員会を設けて各地に残されていたものを回収した。ハルバ嶺に縦10メートル、横20メートル、深さ10メートル前後の穴を2つ掘ってそれらを埋めたという。
回収前の47年に近くの森で残留砲弾による被害を受けた人の証言も得たという。砲弾は今回掘り出した物とほぼ同じ大きさ。先端から出た液体が右足にかかり、ヒリヒリするので水で洗ったところ、ただれが広がった。医師から毒ガスと判断され、右太ももを切開されたという。
常石教授は「被害を受けた時期や症状、今回掘り起こした砲弾の形状、黄色の帯を総合的に判断すると、日本軍の『きい弾』と呼ばれたイペリット入りの毒ガス兵器と断定できる。ヒ素が含まれている可能性が高く、処理しないと危険だ。砲弾の数は、穴の大きさから単純計算すると100万発近い」と語っている。(朝日新聞 1994/01/26)

日中戦争で毒ガス使用 大本営命令だった
未公開の文書で裏付け
日中戦争の時、天皇に直属する最高の統帥部である大本営が、イペリットなどの致死性毒ガスの使用命令を出していたことが分かった。防衛庁防衛研究所(東京都目黒区)が保管する未公開のマイクロフィルムに写されていた極秘文書から裏付けられた。研究者たちによると、これまで致死性ではないおう吐性や催涙性ガスの使用命令は確認されていたが、日本軍の中枢からの命令によって猛毒ガスが使用されていたことが明らかになったのは初めてだという。
見つかったのは、大本営陸軍部から中国の北支那方面軍司令官にあてて、1939年(昭和14年)5月13日付で出された「大陸指第四百五十二号」という文書。B4判の大きさの紙に墨字で書かれ、軍事極秘という判が押されている。
同文書は「現占拠地域内ノ作戦ニ方リ黄剤等ノ特種資材ヲ使用シ其作戦上ノ価値ヲ研究スヘシ」と毒ガスの使用を参謀総長の名で現地の司令官に命令している。この「黄(きい)剤」と呼ばれるのが、致死性の毒ガスの秘匿名で、日本軍にはイペリットとルイサイトの2種類があった。
毒ガス戦に詳しい吉見義明・中央大学教授は「『作戦上ノ価値ヲ研究』というのは、実戦訓練という意味にとればよい。日本軍は第1次大戦で毒ガス戦を経験していなかったため、将来の対ソ戦に備え、中国軍相手に実験や実戦での習熟をしたかった。それがやがて中国側の反攻に悩まされるようになって、頻繁に毒ガスを使うようになった」と説明する。
また、「事実ノ秘匿ニ関シテハ万般ノ処置ヲ講ス」などと毒ガス使用の事実が漏れないように指示している。特に「第三国人(中国人以外を指す)」に対する被害は絶対にないようにし、使用は秘匿しやすい山西省の辺地に限定したうえ、試験研究の目的を達成するだけの最小限にするように、飛行機からの散布は行わないようにと命令。25年の「ジュネーブ議定書」などで毒ガス使用が国際法上禁止されていることを意識しているのがうかがわれる。
この命令書は「大陸命第二百四十一号」に基づいて指示すると書かれている。大陸命は天皇の裁可を受けて出されるが、大陸指は形式上いらない。しかし複数の研究者によれば、大陸命の細項を指示する大陸指は天皇の了承を得るのが慣例になっていたという。
中国軍部がまとめた資料によると、日中戦争が始まった37年から終戦までの8年間に、日本軍は少なくとも各種の毒ガスを2091回使用した。死傷者は民間人を含む8万人以上になったという。(朝日新聞 1994/08/13)

中国で毒ガス確認 旧日本軍化学兵器 政府調査団が発表
【北京13日沢木範久】旧日本軍が中国に残した化学兵器の処理のため、初の本格的な現地調査を行っていた日本政府調査団(団長・小川和也・外務省総合外交政策局総務課企画官)は13日、北京で記者会見し、旧日本軍の残したドラム缶(140キロ)3本の中に、致死性の高いマスタードガス(イペリット)などが含まれていたことを確認したことを明らかにした。
旧日本軍の毒ガス兵器の遺棄物が確認されたのは初めてで、同団長は今後、大量の化学兵器が残されているとされる東北地方などでの調査を行い、最終的な処理方法を中国側と協議したいとしている。
調査団は外務省、防衛庁、化学薬品メーカーなどの関係者19人で構成。2月26日から、浙江省杭州市、安徽省〓州市、江蘇省南京市の3カ所を調査した。
このうち、〓州市では中国側が自ら収集したドラム缶3本の中身が、旧日本軍が使用していたびらん性のマスタード、ルイサイトの混合物と同様だと確認した。ドラム缶の上部には製造番号らしいカタカナと数字が刻まれていた。
杭州市では75ミリ砲弾29発を鑑定し、うち10発がくしゃみ性ガスの化学砲弾の可能性が高いと分かった。腐食が激しく、旧日本軍の刻印などは発見できなかったが、成分は旧日本軍が使用していた化学剤と同様。残り19発は黄リン発煙弾だった。さらに南京では工場に埋まっていた金属筒(長さ約30センチ)3000本のうち、サンプルの3本の成分が杭州の化学砲弾と同じだと確認した。
中国側は旧日本軍が遺棄した化学兵器が砲弾200万発、化学剤100トンに上るとし、撤去を求めている。日本も加入する化学兵器禁止条約が近く発効すれば、10年以内に遺棄した国が処理の義務を負うことになる。
小川団長は「今後の処理に貴重な情報が得られ、密封処理により、住民の不安も取り除くことができた」としている。(中日新聞 1995/03/14)

518万発の毒ガス弾製造 旧陸軍資料を発見
旧陸軍による毒ガス兵器製造の実態を記録し、終戦時に連合国軍総司令部(GHQ)へ提出した日本側の極秘報告書の複製を、神奈川大の常石敬一教授(科学史)が24日までに、旧陸軍関係者から入手した。広島県竹原市の大久野島や北九州市小倉南区の旧曽根地区で当時、約518万発の毒ガス弾が製造されていたことが、初めて日本側資料で裏付けられた。
米軍の調査報告書から既に日本の毒ガス製造の規模が判明しているが、GHQへ提出した原資料が見つかったのは初めて。生産・製造量などが米側記録とほぼ一致しており、戦後、中国に残された毒ガス遺棄弾の実態解明に向け、貴重な資料となりそうだ。
入手したのは、終戦処理の際、日本側の連絡窓口となった「有末機関」(委員長・有末精三元陸軍中将)がGHQへ提出した化学兵器に関する報告書10枚。旧陸軍関係者=東京都在住=が戦後、自宅に保存していたもので、「旧軍が(有末機関を通じ)米軍へ提出した」と説明している。それによると、旧陸軍は1931年から終戦まで大久野島でびらん性のイペリット、ルイサイトなど合計約6100トンの毒ガスを生産。これを使って同島で、発煙筒型の毒ガス兵器約370万発、曽根工場で砲弾約148万発が製造された。(中日新聞 1995/05/25)

国内にも残る「毒ガス問題」
旧日本軍製造、8カ所の海域に投棄のまま
事故の報告もなくなり「条約対象外」と未回収
「地下鉄サリン事件」などで毒ガスへの関心が高まっていた今春、「化学兵器禁止条約」の批准が国会で承認された。発効すれば、旧日本軍が中国大陸に大量に放置した毒ガス弾などを10年以内に処理しなければならなくなる。瀬戸内の孤島などで「極秘」に量産された毒ガスは、環境庁の調査で高知県沖や銚子沖など全国8カ所の海域に投棄されたこともわかっているが、「条約の対象外」「事故がない」などの理由で回収されないままだ。戦後50年を経てなお、「毒ガス問題」は国内外に影を落としている。(社会部・安永拓史)

地図から消えた島

広島県竹原市の忠海港から連絡船で15分。瀬戸内海に浮かぶ周囲4キロの大久野島は、キャンプや海水浴の家族連れでにぎわっている。
かつては青酸ガスなどをつくる陸軍の毒ガス工場で埋め尽くされ、地図からも消された極秘の島だった。戦後、国民休暇村に生まれ変わった島に毒ガス資料館が建って7年。年間5万人の見学者が訪れる。
毒ガス工場の作業員だった村上初一館長(69)の元に最近、1本のビデオが届いた。差出人は中国・黒竜江省社会科学院の歩平・副院長。1974年10月、同省東部の都市、佳木斯(チャムス)で起きた事故の記録だった。
しゅんせつ船のポンプに詰まった砲弾の除去作業でイペリットなどが漏れ、作業員の多くが気管の異常を訴えた。直接触れた3人は手足の筋肉が腐り、1人は皮膚の潰瘍(かいよう)に苦しんで12回の手術を受けた。「痛さに耐え切れず、何度も自殺を試みた」と言う。
中国は92年、「化学兵器禁止条約」の多国間協議で、日本軍の残した毒ガス兵器は砲弾約200万発、化学剤約100トンと指摘した。遺棄地点は10カ所以上。黒竜江省、吉林省など東北部に集中する。

処理義務生じない

広島県は今年2月、広島市南区の公園で環境基準値の350倍のヒ素化合物を検出した、と公表した。かつて大久野島でつくられていたくしゃみ性ガスの原料120トンの一部が地中のコンクリート槽から漏れたのが原因だった。原料は戦後、民間業者に払い下げられたが、野積みのまま放置され、引き取った広島県が73年に現地に埋設していた。
大久野島にはコンクリートで密閉された19の防空ごうが残り、中には「くしゃみ性ガス」が埋まったままだ。
これまでに31カ国が批准した「化学兵器禁止条約」は、65カ国が批准した後に発効する。しかし、致死性の低いくしゃみ性ガスは条約の規定外で、外務省軍縮課も「条約の適用は受けない」との解釈だ。
終戦当時、大久野島を含め国内18カ所に保管してあった化学砲弾などの毒ガス兵器は連合国軍総司令部(GHQ)の指示で焼却されたり、国内8カ所の海域で無毒化されないまま投棄された。環境庁によると、漁網に引っ掛かったり、海岸に漂着したことなどによる事故は戦後24件あった。「死者4人、負傷者129人」という調査結果が73年の参院予算委員会に報告されている。
最近では92年2月に、8カ所の海域の1つ、千葉県銚子沖で、地元の底引き網漁船がイペリット液の入った缶を引き揚げた。水産庁によると、こうした「事故」はこの10年間に11件、起きている。いずれも缶は網ごと海上保安部の巡視艇に引き渡され、沖合の深海に再投棄されてきた。引き揚げた漁民には、「網代」などの名目で水産庁と県から計42万円が払われている。
条約の発効で政府は国外に遺棄した毒ガス兵器の処理を義務づけられる。しかし、国内分については、85年以前に投棄されたものであれば処理義務は生じないことが、条約に明記されている。
環境庁はこの規定や、73年以降に人身事故の報告がないことを理由に、「国内分の再調査や回収は考えていない。問題が起きれば、個別に対応する」(官房総務課)と話すのみだ。

黒竜江省へ展示物

黒竜江省・ハルビン市にある「侵華日軍731部隊罪証陳列館」から昨年暮れ、毒ガス資料館に展示物を貸し出してほしい、との要請があった。資料館側は、当時の毒ガス製造器具や、旧陸軍の機密資料だった「化学戦例集」など25点を近く送るつもりだ。
一方、資料館は8月2日から戦後50年の特別パネル展を開く。「被爆50年の広島と同時に、大久野島にも足をのばし、資料館や島内の防空ごうも見て回ってほしい。毒ガス問題は中国大陸だけでなく、国内にもあるのです」と村上館長は話す。

<大久野島> 1929年、農家を強制的に立ち退かせ、陸軍の毒ガス工場を建設した。正規作業員のほか、学徒動員の女生徒ら約6500人が働き、青酸、イペリット(マスタード)など8種類の毒ガスを生産。63年に島全体が国民休暇村に指定された。

<化学兵器禁止条約> 1992年9月、ジュネーブでの国連軍縮会議で採択された。(1)保有する化学兵器、その製造施設の廃棄計画などを条約の発効後、30日以内に申告し、原則として10年以内に破壊する(2)化学兵器の製造に転用可能な化学物質の生産実績などを毎年申告し、申告内容を確認する検証を受ける──などを義務づけている。(朝日新聞 1995/07/22)

本土決戦へ「学徒義勇隊」の少年ら毒ガス攻撃訓練
模擬弾使い“特攻” くしゃみガスの実体験も
太平洋戦争末期の昭和20年、本土決戦に備えて中学生らを“少年特攻兵”に仕立てる「学徒義勇隊」の軍事訓練で、毒ガス攻撃の訓練もかなり行われていたことが9日までに、初めて明らかになった。戦車に接近し、チビと呼ばれた致死性の青酸ガス兵器に見たてた球を投げる訓練のほか、日本軍が中国で使用した嘔吐(おうと)性の「くしゃみガス」の“実毒体験”もあった。当時、軍は報復を恐れて本土決戦での毒ガス使用を断念したとされるが、専門家は実際に国内で毒ガス攻撃の訓練をしていた事実に注目している。

毒ガス訓練は、「'95あいち・平和のための戦争展実行委員会」代表の佐藤明夫さん(64)=愛知県半田市=が本土決戦について調べる中で、学徒義勇隊の参加者の証言から分かった。
チビは、対戦車用に陸軍が昭和19年に開発した、即効致死性の毒ガス兵器。防毒マスクを着けずに、戦車に肉薄して砲塔に投げる“決死”の武器で、片手で握れるほどの丸いガラス瓶。中の液体の青酸が気化して窒息死させる。
陸軍の久居連隊(三重県久居市)で昭和20年6月ごろ参加した黒川茂さん(67)=愛知県一宮市九品町=は、チビについて「戦車に見立てた物にほふく前進しながら、ボールのような模擬物を手で投げる訓練をした」と証言する。同年4月に愛知県豊橋市の陸軍第1予備士官学校で訓練を受けた池田芳雄さん(66)=同県豊川市諏訪町=も、教官がチビを新型兵器だと紹介したことを覚えている。
くしゃみガスは、中国では実際に、毒ガスを吸って苦しんでいる中国兵士を銃剣で刺し殺す戦法で使われたが、学徒たちは実際にガスの中を走らされた。
三重県・千種村(現・三重郡菰野町)の陸軍菰野演習場で同年6月22日から7月5日まで行われた訓練に参加した児玉猛さん(65)=岐阜県本荘中ノ町=は「ガスを充満させた馬小屋の中を走らされた。走り抜けた後、胸が痛くなり、鼻水やせきが出て涙がとまらなかった」と話す。当時の児玉さんの日記には「実毒体験。苦しさは筆舌につくしがたし」とあるが、何の目的だったのか今も分からないという。
毒ガスは、第1次世界大戦のヨーロッパ戦線で大量に使われた反省から、ジュネーブ議定書(1925年)で使用が禁止されたが、日本は批准せず、逆に開発を進めていた。
学徒義勇隊の軍事訓練は、敵の上陸時に学徒を率いる幹部養成が目的。戦車に体当たりし、地雷などを仕掛ける対戦車肉薄攻撃と、敵陣に少数で切り込む挺(てい)身奇襲の玉砕戦法が中心。東海軍管区(東海3県)では中学3、4年生の各クラスから1人程度を選抜し、4月から8月まで何度も実施されていた。
得られた証言は東海3県の26人。うち8人が毒ガスに触れた。佐藤さんは「学徒義勇隊の資料自体残っておらず、証言がなければ毒ガス訓練は闇(やみ)の中だった』という。15日から名古屋市中村区名駅4の県中小企業センターで開く「'95あいち・平和のための戦争展」で紹介する。

実態示す貴重な証言

日本軍の毒ガス兵器に詳しい常石敬一・神奈川大教授(生物化学兵器軍縮)の話 陸軍は昭和20年5月、本土防衛で青酸ガスを沿岸に大規模にまく方針を、米軍の毒ガス報復を恐れたのと量産が間に合わなかった理由で断念しているが、実際には毒ガスを使用しようとしていた実態が暴露されたといえる貴重な証言だ。民間人である学徒に訓練させていたことから、軍はかなり切羽詰まっていたのではないか。くしゃみガスも、実戦時の戦闘能力を高めるため、ガスマスクを着けずに慣れる訓練だったとみられる。(中日新聞 1995/08/10)

旧日本軍「516部隊」 毒ガス戦演習 資料あった
昭和14年中国で放射、防護…詳細に 岐阜の収集家が所有
中国・黒龍江省チチハル市にあった旧日本軍毒ガス兵器研究実験部隊「516部隊」の毒ガス戦演習計画書がこのほど、岐阜市長良雄総、軍事資料収集家辻田文雄さん(48)が集めた資料の中から見つかった。昭和14年6月の演習内容が詳細に記述されており、現代史研究家は「516部隊の演習計画書はこれまで発見されておらず、実態がよく分かっていなかった。関東軍が対ソ戦に備え、大規模な毒ガス戦演習を行っていたことを示す貴重な資料」と注目している。
この計画書はB4判の用紙95枚を2つ折りにとじたもので、表紙には「関東軍各隊教育主任瓦斯(ガス)防護教育現地教育」と書いてある。市民団体の「『戦後50年』問題栃木県連絡会」(手塚愛一郎事務局長)が7月に宇都宮市で開く「毒ガス展」のため、辻田さんから借りた資料の中から発見した。辻田さんは「5、6年前に東京の古本屋で購入した」という。
計画書によると、演習は昭和14年6月10日から16日まで、チチハル駅東側にあった「勝村部隊」と「明石部隊」の施設と隊員などを使って行われ、関東軍各部隊から教育担当将校82人も参加した。勝村部隊は関東軍技術部のことで、演習直後の同年8月には部内にあった化学兵器班が独立し「関東軍化学部・516部隊」となった。
演習に使用された毒ガスは、びらん性毒ガスの「きい1号」「きい2号」、くしゃみ性毒ガスの「あか筒」「あか弾」、窒息性毒ガスの「あお」など。実施にあたっての人員配置、ガスの放射地点については詳細な図面もつけている。
参加者はガスマスク、防毒服を着用するか携帯し、「あか筒」の演習では、隊員がガスマスクを着けてガスの中に入る訓練を実施。「きい」の演習では、毒ガスをまいてからの時間や地形、気象による拡散状態の変化を体験し、解毒方法も訓練した。ウサギを使った毒ガス効果の確認も予定に入っていた。
中央大学の吉見義明教授(日本現代史)は「時期からみて、『きい』の散毒地域を突破することなどを想定したもの。ちょうどこの年から、それまで使っていた『あか』に加え、致死性の高い『きい』が実戦で使用された。5月13日に当時の参謀総長が『きい』の作戦上の価値の研究を指示しており、それを受けた演習かもしれない」と、この計画書がこれまでの研究と合致していることを指摘している。
計画書を提供した辻田さんは、全日本軍装研究会(会員250人)の代表。「演習の部隊編成、参加した将校の階級まで具体的に記されており、1級の機密書頬とは分かっていたが、それほど貴重なものだったとは…」と話している。

<516部隊と毒ガス兵器> 昭和14年に設置され、細菌戦部隊「731部隊」と協力、毒ガス兵器の人体実験を行ったとされるが、詳しいことは明らかになっていない。旧日本軍は、昭和12年から始まった日中戦争で、国際条約に違反して毒ガス兵器を使用したとされる。敗戦後、主に中国東北部に残された大量の毒ガス弾、化学剤が現地の人々に被害を与えており、政府は遺棄毒ガス弾処理について中国政府と協議を続けている。(中日新聞 1996/04/30)

旧日本軍 毒ガス知識教育 資料発見 武漢攻略戦を題材
日中戦争最大の作戦といわれる1938年(昭和13年)の武漢攻略戦での毒ガス戦の記録を材料に、毒ガス戦にはかかわらなかった一般の部隊でも、作戦の進め方を学んでいたとみられる資料が、元将校の遺品から見つかった。武漢戦部隊の末端の動きまで詳細に記されており、当時、軍が毒ガス戦の知識普及に取り組んでいたことがうかがえる。7日から、宇都宮市で学者や市民グループが開く「みつめよう、語りつごう戦争の歴史 毒ガス展」でコピーが展示される。
見つかったのは「武漢攻略戦間ニ於ケル化学戦戦例集(其一)」と題するB4判、24ページの冊子。岐阜市に住む軍事資料収集家の辻田文雄さん(48)が、旧日本軍歩兵第68連隊の元将校の遺品の中から見つけた。
表紙には「極秘」の赤印が押されており、38年8月から10月までの15の戦闘が図入りで記録され、中には作戦命令書もあった。余白には「煙中射撃ハ絶対ニ不可」などと、より具体的な注意事項を記した鉛筆書きのメモも残っていた。
その中で8月22日付の命令書には、「あか筒」と呼ばれた毒ガスを、小隊が3分隊に分かれで計420個使うように命じている。この毒ガスは、呼吸器に作用して激しいくしゃみや吐き気を引き起こし、無力化させるジフェニールシアンアルシン。発煙筒の配置や盛り土で隠すことを図で説明したり、発煙筒の点火はらっぱと信号弾打ち上げを合図にして行うこと、命令の伝達は夕暮れ時に口頭で行うことなど、作戦の進め方が詳しく記されている。
第68連隊は、36年までは旧満州(現在の中国東北部)の警備にあたり、その後中国各地を転戦した。防衛庁防衛研究所によると「武漢攻略戦は第11軍が主力で、第2軍に属した68連隊は、直接攻撃には参加していない」(原剛主任研究官)とされる。
日本軍の毒ガス使用に詳しい立教大の粟屋憲太郎教授(日本現代史)は「毒ガス戦に直接関係のなかった部隊でも、これだけ実戦的な教育をしていたとは驚きだ。当時、日本軍は南方での毒ガス使用も考えており、そのためにも広く各部隊に毒ガス使用の知識を普及させる必要があったのではないか」と話している。

毒ガス戦の教科書か

吉見義明・中央大教授(日本現代史) 毒ガス戦の手順をこんなに詳しく示す命令資料が見つかったのは初めてだ。実戦的な内容やメモ書きを見ると、部隊将校を対象にした毒ガス戦の教科書として使われたと考えられる。(中日新聞 1996/07/03)

人体実験あったと聞いた 登戸研究所元技師が毒ガス製造証言
謀略用に青酸研究
第2次大戦中、川崎市にあった旧陸軍の秘密研究機関「第9陸軍技術研究所」(通称・登戸研究所)の毒ガス製造に関する資料が静岡大学工学部図書館から見付かったことについて、元同研究所の技師Aさん(89)=東京都多摩市=が13日までの本紙の取材に対し「幹部が焼却しようとしたものを持ち出した」「青酸を中心とする毒ガス・毒物を製造した。人体実験をやったとも聞いた」と、同研究所で毒ガス兵器の開発が行われていたことを証言した。Aさんは青酸化合物が使われた「帝銀事件」で警察の事情聴取を受けたこともあると述べた。
Aさんは浜松高等工業学校(現・静岡大学工学部)を卒業後、東京・新宿の「陸軍科学研究所」(科研)に技師として就職。一時、満州へ渡った後、1942(昭和17)年、科研の「秘密戦資材研究室」(篠田研究室)から独立した「登戸研究所」に戻った。
Aさんは当初、毒ガスの研究・開発部門に所属。後に製造部門に移り、44年に長野県・上伊那(現・駒ケ根市)に組織ごと戦時疎開した。
終戦直後、戦争犯罪の訴追を恐れた幹部職員らが毒ガス製造にかかわる資料を焼却処分しようとした際、Aさんは「貴重な資料だから」と直訴、米軍が来る前に母校に運び込む了解を取り付けた。資料の一部はAさん自身が運び出したが、残りは「大学側が取りに来るなどした」という。
運んだ時期については「終戦の年の秋、米軍がやって来る前」というが、静大工学部図書館の「図書出納簿」によると「49年4月」を中心に寄贈されたことになっている。資料はドイツ語、仏語、英語などで書かれた化学兵器関連図書など約1000点。しかし、静大側には当時を知る職員が存在せず、寄贈者欄に記載された「大比良正」という人物も不明。Aさんも「覚えていない」という。
Aさんによると、登戸研究所では無色透明で無味・無臭の青酸化合物「青酸ニトリール」の研究と製造を続けていた。元来は「即効性」である青酸を「遅効性」の液体青酸に改良、使用の現場が目撃されにくいことなどから、謀略戦にはうってつけの薬物だったという。Aさん自身、前線の部隊のために効果的な使用方法や管理方法を記した説明書を作成したという。
48年1月、東京・豊島区の帝国銀行椎名町支店で行員ら12人が毒物によって殺害された「帝銀事件」では、遅効性の「青酸ニトリール」が疑われ、Aさんも複数の元所員とともに捜査当局の事情聴取を受けた。その後、事件とは無関係とされたが、Aさんらが負った心の傷は深かった。
「終戦直後、参謀本部や陸軍省が『自殺用にほしい』といって青酸ニトリールのアンプルを取りに来た。かなりの量が旧軍関係者に流れたはず」という。戦後史に残る奇怪な事件に巻き込まれたAさんは、それだけ言うと言葉をのみ込んだ。

一問一答 ホスゲン・イペリット・笑いタケ成分… 自分が実験台になることもあった

旧陸軍の「登戸研究所」の毒ガス兵器開発・製造に関する資料を焼却される前に静岡大工学部図書館に運び込んだという元同研究所技師Aさん(89)は、毒ガス製造の実態などについて次のように語った。

──「登戸研究所」は、国内最大の秘密機関といわれるが
「日本で初めてスパイ戦を研究した旧陸軍・篠田研究室が前身。1939(昭和14)年に川崎市の登戸に移ってからは、所員数が数百人に上る巨大組織に成長したが、秘密保持のため陸軍の分掌規定に名前さえ載っていなかった」

──ほかの秘密機関との関係はあったのか
「(スパイ学校の)『陸軍中野学校』との関係は深く、こちらから先生を派遣していた。『731部隊』の方は関東軍の実行部隊だったので、ほとんど関係がなかった。登戸研究所は参謀本部に直結していたので、戦局が悪化するまで研究費や器材費はいくらでも取れた」

──登戸研究所で開発・製造した毒ガスは何種類ぐらいか
「数え切れないほどだ。第1次大戦でドイツ軍が使ったホスゲンやイペリット、それに青酸ニトリール。笑いタケの成分・ムスカリンの合成にも成功した。ムスカリンを注射すると、瞬間的にこん睡状態に陥る。効果の速い毒物だった」

──資料の中に毒ガスの人体に及ぼす作用が記されている。人体実験をやったのか
「上海で捕虜を使ったという話を聞いた。開発段階では所員が実験台になることもあった。ガラス張りの部屋に入ってガスを吸い、すぐに飛び出すやり方だ。自分自身、(実験台になり)目や鼻が痛くなったことがある」

──毒ガス以外で記憶に残る研究は
「ある班が植物や作物を破壊するもの(枯れ葉剤か)を開発していた。ほかに、中国の偽造紙幣を作る班もあったが、そこだけは高い塀で固まれ極秘扱いだったのを覚えている」

信ぴょう性高い

登戸研究所の組織の一部が疎開した長野県駒ケ根市で元所員らの聞き取り調査を続けている高校教諭・木下健蔵さん(軍事史学会員)の話 Aさんは毒ガスの研究・製造部門にいた陸軍技師(高等官)の1人だったと聞いている。終戦時に青酸ニトリールの管理責任者だったため帝銀事件での事情聴取を受けたようだ。研究所については関係資料の大半が処分されてしまい、不明な点が多いだけに、Aさんの証言は貴重だ。他の元所員の話や史実と一致する部分も多く信ぴょう性は高い。静岡大工学部図書館で見つかった資料類の分析が急がれる。(東京新聞 1998/08/14)

旧陸軍「蒋介石毒殺」を計画 登戸研究所で薬物開発
帝銀事件捜査手記に嘱託獣医の証言「何千人も」人体実験
戦前、川崎市内にあった秘密研究機関「陸軍第9技術研究所」(通称・登戸研究所)が中国国民党の蒋介石暗殺を狙った「個人テロ用の毒物」を開発していたことが30日、警視庁捜査関係者の資料などで分かった。日中戦争前後、謀略戦を重視した旧陸軍は旧満州の軍閥・張作霖の爆殺などを実行。この方針に伴い同研究所は中国での人体実験を通して青酸やハブ、キノコなど毒物研究を続け暗殺実行役の特務機関員を指導したといい、対中国謀略戦の一端が浮き彫りになった。
資料は警視庁捜査1課元係長・甲斐文助氏(故人)の「帝銀事件捜査手記」。1948(昭和23)年に12人が毒殺された「帝銀事件」の捜査状況をわら半紙約3000枚に記録している。それによると、事件発生当初、捜査当局は登戸研究所が開発した遅効性の「青酸ニトリール」に注目し、同研究所の元技師や、満州で細菌戦を研究した「731部隊」、旧陸軍のスパイ養成学校「中野学校」関係者らへの聞き込み捜査を精力的に続けている。
事情聴取を受けた元技師らは「青酸ニトリールは青酸ガスを冷却した無色無臭の液体青酸」「紅茶や酒に溶け死因がつかめない毒物兵器」と説明。その上で使用目的について、毒物研究担当の嘱託獣医が「蒋介石をどうして殺すか研究した」と答えている。元技師らの証言は、蒋介石の側近に潜り込んだスパイが、紅茶など飲み物に毒物を仕込んで暗殺するという謀略計画にまで及んでいる。
捜査手記によると、元技師らは毒物の効果を調査するため41年から44年にかけて、南京と上海で大規模な人体実験を実施。中国人捕虜に毒物を加えた紅茶や牛乳、ウイスキーを飲ませたり、注射するなどして服用方法や致死量を調べた。ある元技師は「何千人の試験をやった」と供述。上海での人体実験では、中野学校出身の特務機関員を直接指導したという。
捜査手記は88年、甲斐氏の遺族から関係者を通して「帝銀事件」弁護団長の遠藤誠弁護士の手に渡った。遠藤氏は翌89年、この手記をもとに東京高裁に再審請求を提出している。
毒物製造班の責任者だったという東京都多摩市の元技師(89)は帝銀事件で事情聴取を受けた1人。本紙の取材に対して「青酸ニトリール(2ccアンプル入り)は私が書いた使用説明書を付けて参謀本部に渡した。その後、中野学校の生徒や憲兵が中国に運んだと聞いている。実際にどう使われたのかは知らないが、要人テロ向けだったことは間違いない」と話している。

<蒋介石(1887―1975)> 中国国民党の最高指導者で中華民国総統。1926年、中国統一のため北伐を開始し27年に南京に国民政府を樹立。その後、共産党との内戦に入ったが、日中戦争が始まると国共合作に成功し抗日民族統一戦線を結成した。第2次大戦後、共産党との内戦に敗れ台湾に逃れた。

暗殺計画あって不思議ない 秘密戦知る第一級資料

登戸研究所の調査を続けている渡辺賢ニ・法政2高教諭の話 捜査手記の内容は私が聞き取り調査した登戸研究所の元技師らの証言とも一致しており、資料価値は高い。日中戦争当時、中国には特務機関のスパイ網が張り巡らされ蒋介石に対する工作機関もあった。蒋介石暗殺計画があったとしても不思議はない。実際、側近が謀殺されている。
蒋介石暗殺は反日感情を高める結果になると考え、実行しなかったのではないか。

旧日本軍の毒ガス資料を発掘している粟屋憲太郎・立教大学文学部教授(日本近現代史)の話 甲斐氏の捜査手記は帝銀事件関係者の間では知られているが、登戸研究所など旧陸軍科学研究に関する内容はあまり紹介されていない。多数の元技師らが毒物製造や人体実験について詳しく証言しており、旧陸軍の秘密戦の実態を知る上で第一級資料だ。蒋介石暗殺についてはほかに文献がなく詳しいことは分からない。(東京新聞 1998/08/31)

毒ガス実験場確認 中国東北部 731部隊 対ソ戦念頭に設置
細菌兵器や毒ガスの研究をしていた旧関東軍防疫給水部(731部隊)が演習場に使った跡とみられる複数の穴を、名古屋市見晴台考古資料館学芸員の伊藤厚史さん(41)=愛知県豊橋市植田町=と、軍事研究家で会社社長の辻田文雄さん(54)=岐阜市長良雄総=らが、中国東北部の海拉爾(ハイラル)近郊のバエンハン地区で確認した。
実験場跡とみられる遺構は中国東北部でこれまでに2カ所見つかっている。バエンハンにも部隊の支部があり「実験用の穴を掘ったらしい」との現地の人の証言は残っていたが、遺構が確認されたのはこれが初めて。
731部隊の本部は中国東北部の哈爾浜(ハルビン)にあった。細菌兵器や毒ガスの実験では、中国人の捕虜や馬や牛などの動物をくいに縛り付け、ペスト菌などを入れた爆弾を近くで破裂させて菌に感染するかを調べていた、とされる。
伊藤さんらは、その証言を裏付けようと2000年5月に調査を実施し、結果をことし6月、専門誌に公表した。
それによると、草原の中から多数の穴が見つかった。このうち50カ所について、大きさや向きなどを計測したところ、軍隊が陣地に使う塹壕(ざんごう)と同じタイプの穴と確認できた。穴に軍馬などを入れ、細菌兵器や毒ガスの効果を試したとみている。
伊藤さんは「バエンハンの穴は、寒冷地の敵陣地を想定した実験場で、対ソ連の野戦を念頭に置いていたのではないか」と分析している。(中日新聞 2002/08/11)

毒ガス、嘔吐剤3900トン 旧日本軍、終戦時に保管 環境省発表
神奈川、茨城両県で旧日本軍の毒ガスが原因とみられる被害が相次ぐ中、環境省は21日、旧日本軍が終戦当時、全国の軍施設で保管していた毒ガス、嘔吐(おうと)剤などが約3900トンあり、不明なままの青酸が13トンに上ることを明らかにした。政府が1972年に実施した全国調査の際の手書きの報告書(全17ページ)が環境省の倉庫に保管されていたが、非公表だった。
報告書によると、当時保管されていたのは、皮膚をただれさせるイペリット(マスタードガス)とルイサイトが計2799トン。青酸が13トン、嘔吐剤のジフェニルシアノアルシンが1059トン。毒物を弾頭に装てんするためとみられる砲弾も1万8000発あった。
保管場所は束京都の陸軍技術研究所、富山県の同高岡出張所、福岡県の海軍航空廠(しょう)博多工場など18カ所。
大半の3875トンが銚子沖や相模沖、浜名湖などに投棄されたとされるが、青酸13トンは不明となっている。
報告書は作成の基になる原票などの基礎資料が散逸した状態で、同省は地元自治体や戦中、戦後の事情を知る関係者から聞き取り調査する方針。新たに毒ガスなどが発見された場合、化学兵器禁止条約事務局に報告し、分解処理を行う。
茨城県神栖町では、井戸水から水質基準の450倍のヒ素を検出、嘔吐剤の分解物質の可能性が指摘されており、ボーリング調査などを行い、分析する予定。(中日新聞 2003/04/22)

毒ガスで2人危篤状態に 中国の旧日本軍毒ガス事故
【北京10日共同】新華社電によると、中国黒竜江省チチハル市で起きた旧日本軍が遺棄したとみられる毒ガスによる事故で、現地の軍病院は10日、入院患者が3人増えて32人となり、うち2人が危篤状態、8人が重症であることを明らかにした。
同電は9日、被害者は計36人で、うち29人が入院中と伝えていた。被害者総数が増えたのかどうかは不明。中国側は日本に対し被害者への賠償などを要請したという。(共同通信 2003/08/10)

中国の毒ガス弾に回収義務 被害の中国人側が全面勝訴
旧日本軍が中国に残した毒ガス弾などで戦後被害を受け、死亡したり健康を損なったりしたとして、被害者の中国人や遺族計13人が国に総額2億円の損害賠償を求めた訴訟の判決で、東京地裁は29日、ほぼ請求通り約1億9000万円の支払いを命じた。
片山良広裁判長は「主権が及ばない中国であっても中国政府に回収を申し出るか、遺棄状況などの情報を提供して被害を防ぐ義務があった」と認定。「日中国交回復後も回収を怠り、放置した行為にはわずかの正当性もない」と国の不作為を違法とした。
遺棄兵器による戦後の被害に、国の賠償責任を認めた判決は初めて。中国の被害者は2000人以上ともいわれ、今年8月にも黒竜江省で毒ガスによる死者が出たばかり。一貫して補償を拒んできた国は、新たな対応を迫られそうだ。
片山裁判長は判決理由で、毒ガス兵器の遺棄について「国際的非難を避けるため、組織的に隠ぺい、隠匿を実行した」と日本軍の違法行為を認定した。
その上で「軍関係者の話や資料を調べれば、遺棄状況を相当程度把握でき、住民らに重大な危険が及ぶことが予想できた」と国の予見可能性を認め「危険な状態をつくり出した国には解消する義務がある」と指摘。1972年の日中共同声明による国交回復で回収義務が履行可能になっても、責任を果たさなかったと結論付けた。
国は「共同声明で中国側は戦争賠償請求権を放棄した」と主張したが、片山裁判長は「問題となっているのは、戦争中の行為ではなく共同声明以降の不作為」と退けた。
一部の被害は、不法行為から20年で賠償請求権が消滅する「除斥期間」の扱いも争点となったが、片山裁判長は「正義、公平の理念に反する」と適用しなかった。
判決によると、被害は3件で被害者は元作業員計10人。74―95年、黒竜江省内で工事中などに見つかったマスタードガスなどの毒ガス弾や通常砲弾で3人が死亡、7人がやけどや手足の機能障害などの後遺症で苦痛を強いられた。
原告側は被害者1人当たり2000万円の賠償を請求。片山裁判長は砲弾事故による負傷者1人は1000万円とし、ほかは全額認めた。
同様の訴訟では今年5月、東京地裁の別の裁判長が「主権の及ばない中国での回収は困難」として請求を棄却。原告側が控訴し東京高裁で審理が続いている。(共同)(U.S. FrontLine 2003/09/30)

旧日本軍、豪兵に毒ガス人体実験
太平洋戦争末期の1944年 効力試す

太平洋戦争中の1944年11月、旧日本軍が捕虜のオーストラリア軍兵士らに対し、南太平洋のカイ諸島で猛毒の青酸を使った毒ガス兵器の人体実験を行っていたことが26日、オーストラリア国立公文書館(キャンベラ)で見つかった戦後のBC級裁判の記録文書から明らかになった。
中央大の吉見義明教授(日本近現代史)が発見し、田中利幸・広島市立大教授の協力を得て入手した。
関東軍防疫給水部(731部隊)が中国東北部で中国人らに生物・化学兵器の人体実験をしていたことは広く知られるが、吉見教授によると、オーストラリア軍兵士に対する人体実験の詳細が判明したのは初めて。旧日本軍が最終兵器と位置付けていた青酸ガスの効力検査が目的で、連合国軍の攻勢に対抗するため毒ガス兵器を重視していた実態が明らかになった。
文書は、終戦から約3年後の48年7月15日に香港で行われたオーストラリア軍による戦犯裁判の記録で、英文の判決文や日本語の供述書など計約400ページ。
それによると、第5師団(広島)の毒ガス兵器担当の中尉は44年11月、上官の中佐の命令で、師団が保有していた青酸ガス兵器の効力が保たれているかを調べるため、オーストラリア軍兵士の捕虜ら2人に対戦車用の青酸入り手投げ瓶を投げ付けた。2人はその場で倒れ、憲兵が銃剣で刺殺した。
実験目的について中尉は47年4月17日付の供述書で、青酸ガス兵器が製造から約4年を経過し変質が見られたためとし、実験後「効果はあります」と報告したと述べた。中尉と中佐は裁判で絞首刑の判決を受けた。
当時、カイ諸島東方の日本の占領地ニューギニア島に、オーストラリアやニューギニア西部から連合国軍の進攻が予想されるなど戦況が緊迫していた。今回の新事実が盛り込まれた著書「毒ガス戦と日本軍」(岩波書店)は28日刊行される。

兵器使用の意思明確

粟屋憲太郎・立教大教授(日本近現代史)の話 旧日本軍がオーストラリア軍兵士に青酸ガスの人体実験をしていた事実を聞いたのは初めてで驚いた。日本の中国での毒ガス使用に対し、報復も辞さぬと警告を発したルーズベルト米大統領(当時)の声明発表後であり、連合国軍兵士に対し実験を行ったリスクは高かったはずだ。当時、青酸入り手投げ瓶は敵の戦車正面の小窓を目指して至近距離から投げる自爆攻撃を想定していた。人体実験は、敗勢が高まる中、実際に青酸ガス兵器を使用する意思を担当将校が明確に持っていたことを示しており、最後の戦いで使うつもりだったのではないか。

<旧日本軍の毒ガス兵器> 1929年、陸軍が竹原市の大久野島で製造を始め、後に海軍も神奈川県寒川町に工場を建設した。旧軍は毒ガスの種類を色で識別。猛毒の青酸ガスを「ちゃ」、致死性のイペリットとルイサイトを「きい」、嘔吐(おうと)性ガスのジフェニールシアンアルシンを「あか」、催涙ガスを「みどり」と呼んだ。米軍の調査報告書によると、旧日本軍は計約750万発の毒ガス兵器を製造。中国では大量の毒ガス兵器が遺棄されたままで、日中両政府が廃棄処分を目指し協議中。(共同)(中国新聞 2004/07/27)

遺棄化学兵器訴訟 東京高裁で旧日本兵が証言
日本の東京高裁で審理が行われている旧日本軍の遺棄化学兵器賠償訴訟で2日、83歳の旧日本兵が原告側証人として出廷し、旧日本軍が当時、中国東北地方に大量の毒ガス弾を埋めたことを証言した。同証人も上官の命令で、自ら毒ガス弾を埋めたとしている。
日本の報道によると、旧日本兵が原告側証人として出廷したのは初めて。同証人が所属する補給部隊は当時吉林省に駐留し、大量の毒ガス弾を保有していた。同証人は1945年8月末に上官の命令で毒ガス弾多数を埋めたと証言し、現場の地形図や遺棄場所なども明示している。証言後の取材では、これらの毒ガス弾がいずれ人に危害を与える恐れがあることも、当時からわかっていたと語り、日本政府による被害者への賠償を望むとした。
同訴訟は、旧日本軍の遺棄化学兵器から漏れた毒ガスで深刻な健康被害を受けた中国人5人が、日本政府による賠償を求め1997年10月に東京地裁に提訴。同地裁は2003年5月15日の判決で、遺棄化学兵器の危険性は予見できたとしたものの、「主権の及ばない中国での回収は困難」として賠償請求を棄却した。原告側はこれを不服として控訴し、東京高裁での審理が続いている。(編集NA)(人民日報 2004/11/03)

毒ガスが人生奪う
旧日本軍遺棄 日中の被害、政府追及へ結束

旧日本軍が終戦前後、国内と中国に捨てた毒ガス兵器の被害が両国で拡大している。漏出物質に触れたり、汚染水を飲んだりした市民が、深刻な神経障害ややけどに苦しむ。生活補償や医療支援に対する日本政府の腰は重く、2つの訴訟へ発展した。両国の被害者を支援する3弁護団は初めて、毒ガス兵器の製造工場があった広島県の島に集まり、連携して国の責任を追及する方針を確認した。(社会部・鬼木洋一)

瀬戸内海に浮かぶ周囲約4キロの大久野島。旧日本陸軍がここで製造した毒ガスが九州などで砲弾に詰められた。製造は終戦まで極秘裏に続いた。
現在はリゾート地になっている島のホテルで16、17の両日、中国人被害者が原告となった訴訟を担当する弁護団と、まだ提訴していない日本人や中国人被害者の補償交渉を支援する弁護士ら約40人が参加して合同勉強会が開かれた。
弁護団の招きで講演した広島県竹原市の忠海病院元院長行武正刀(ゆくたけ・まさと)氏(70)の説明に、参加者たちは表情を曇らせた。行武氏は戦時中に毒ガス製造にかかわった元工員らの診察を長年、続けてきた。患者は重い慢性気管支炎や肺気腫などの後遺症に今も苦しむ。
「日中の被害者は、毒ガスと分かって作業した戦時中の工員らの被害とは状況が異なる。日常生活の中で突然、毒ガスを浴びた中国人被害者の汚染量ははるかに大きいはずだ」
内閣府によると、中国本土に残された毒ガス弾は約70万本。日本政府による廃棄処理は遅々として進んでいない。
2003年8月には黒竜江省チチハル市で、1人が死亡、43人が皮膚がただれるなどの重軽傷を負う事故が起きた。吉林省敦化市でも昨年7月、小川で遊んでいた子供2人が漏出した液体に触れて負傷した。
国内でも03年、茨城県神栖町で汚染された井戸水を飲んだ少なくとも135人が被害を受けていることが分かった。神奈川県寒川町でも遺棄された毒ガスが見つかった。
各弁護団が共通して心配するのが、被害者たちの後遺症が、これからどう進行するかだ。
チチハル市の事故で日本政府は、被害者への治療費などで中国政府に3億円を支払ったが、個人補償はしない立場。神栖町の井戸水汚染では、有機ヒ素を検出した住民に医療手帳を交付したが、失職などに対する補償は行われていない。
参加した小野寺利孝弁護士は「被害者には若い世代も多く、後遺症が将来にわたるので一時金のようなものでは償いきれない」と指摘。水俣病などと同様、恒久的な対策の必要性を強調する。

■3歳長男に深刻後遺症 『将来が台無しにされた』

「これから先、どうなるのか」。弁護団に補償交渉を託す茨城県神栖町の主婦青塚美幸さん(27)は、3歳4カ月になる長男の顔を心配そうにのぞき込んだ。
家族4人は、有機ヒ素に汚染された井戸水を飲んで、次々と体調を崩した。原因は旧日本軍の毒ガスの可能性が高い。井戸水で溶いたミルクを飲んだ長男には、深刻な後遺症が残った。
生後半年で医師から発達障害を指摘された。今も「ママ、パパ」「バイバイ」といった単語を口にするだけで、会話はできない。同い年の子どもは今春から幼稚園に通うようになるが、長男の入園は断念した。
「面接に行ったら、長男がパニックを起こし、壁や床に頭を打ちつけ始めたんです。びっくりした幼稚園側から『息子さんがけがをしても責任は負えません』と言われました」
チチハル市で毒ガス漏出事故に巻き込まれ、足などに重傷を負った11歳の中国人少女親子が昨夏に来日、青塚さんは2人を自宅へ招いた。手紙やビデオレターをやりとりする交流が今も続く。
「同じ苦しみを背負った親子の気持ちは分かる。台無しにされた子どもの将来について、日本政府に責任を取ってもらいたいのは同じです」(東京新聞 2005/01/19)

◆毒ガス兵器被害をめぐる主な動き

【1997年】
4月 化学兵器禁止条約が発効
【2000年】
9月 旧日本軍が中国で捨てた毒ガス兵器の発掘・回収作業を日本政府が開始
【2003年】
3月 茨城県神栖町の井戸水から毒ガス兵器の成分とみられる高濃度のヒ素が検出される
5月 1950−80年代に毒ガス兵器の被害を受けた中国人ら5人が、日本政府に8000万円の賠償を求めた訴訟の判決。東京地裁が請求を棄却(中国人側が控訴)
6月 環境省が神栖町の被害住民らに対する医療費補償の救済策を発表
8月 中国黒竜江省チチハル市の建設現場で毒ガス缶が見つかり1人死亡、40人以上が負傷
9月 遺棄毒ガス兵器で70−90年代に被害を受けた中国人ら13人が、日本政府に2億円の賠償を求めた訴訟の判決。東京地裁がほぼ請求通り1億9000万円の支払いを命じる(政府側が控訴)
10月 チチハル市の毒ガス漏出事故で、日本政府が中国政府に3億円を支払うことで合意
【2005年】
1月 神栖町の井戸水汚染問題で、環境省が同町の地中から高濃度の有機ヒ素を含むコンクリートの塊を発見

中国毒ガス訴訟:元日本軍属の男性が法廷での証言決意
旧日本軍が中国国内に残した毒ガス弾などで死傷した中国人住民の遺族や被害者が、日本政府に損害賠償を求めている訴訟の控訴審で、実際に化学兵器遺棄に携わったとする元日本軍属の男性(77)を証人申請した。採用されれば、近く東京高裁の法廷に立つことになる。訴訟は旧日本軍による組織的遺棄の有無が争点で、弁護団は「戦後60年を経て証言者が減る中、貴重な証人」と重視している。
男性は宮崎県出身で、現在も同県在住。中学卒業後、1942年に旧満州(現・中国東北部)の黒竜江省に渡り、学びながら開拓に従事した。43年10月ごろ、軍属としてハルビン市郊外の関東軍駐屯地に派遣され、兵士と一緒に弾薬庫の警備にあたった。
男性の話では、45年8月ごろ、上官の命令で兵士たちとともに赤や黄の目印がついた毒ガス弾を弾薬庫内から選び出し、敷地内の古井戸に木箱ごと投げ入れた。宿舎に暦がなかったため日付は不明だが、遺棄の数日後にソ連軍が進駐したため、終戦前後だったとみられる。男性はシベリアの捕虜収容所に抑留され47年に帰国した。
03年8月、黒竜江省チチハル市で見つかったドラム缶から毒ガスが漏れ、現地の人が負傷する事故が発生。「自分が捨てた毒ガス弾は処理されているのか」と心配になった。昨年9月、中国の毒ガス被害を描いた映画「にがい涙の大地から」を新聞で知り、監督を務めた海南友子さん(34)に連絡を取った。
男性は同11月、海南さんらとともに駐屯地跡を訪ね、遺棄した古井戸などを探したが、当時の建物などは確認できなかったという。男性は「つらい記憶が多く、戦争体験を話すことを避けてきた」と法廷での証言をためらってきたが、最終的には弁護団の説得に応じ、「証言を事故防止につなげたい」と決意した。
訴訟は96年12月、遺族や被害者計13人が日本政府を相手取り、総額約2億円の損害賠償を求めて東京地裁に提訴。03年9月の1審判決は「日中国交回復後、日本政府は可能な限り情報を収集し被害を防ぐ義務があった」と国の責任を認め、国側は不服として控訴した。【吉永磨美】

<旧日本軍遺棄化学兵器> 皮膚をただれさせる「マスタード」や「くしゃみ剤」など数種類があり、日本政府は計約70万発と推定。日中両国は91年6月から調査し、既に3万7000発を発掘・回収した。中国人の被害は03年8月のチチハル、昨年7月に吉林省敦化で起きた事故だけで死者1人、負傷者45人。(毎日新聞 2005/05/14)

旧日本軍の遺棄化学兵器、中国各地に処理施設着工へ
日中両政府は、中国吉林省敦化市郊外のハルバ嶺に建設する旧日本軍の遺棄化学兵器の大規模処理施設とは別に、中国各地に複数の小規模処理施設を新設する方向で検討に入った。政府筋が14日、明らかにした。各地に点在する化学兵器を安全かつ効率的に処理するには、施設を分散する必要があると判断した。ハルバ嶺の施設については、今夏にも着工することを目指している。
日中両政府は4月25〜28日に北京で専門家会合などを開き、チチハル、ハルビン、北京、南京など12か所の遺棄化学兵器の保管庫周辺に、複数の小規模処理施設の建設を検討することで一致した。 遺棄化学兵器はこれまでに、中国東北部を中心に、約3万7000発が発掘・回収されている。当初は、北朝鮮国境近くのハルバ嶺の施設ですべて処理する予定だった。だが、化学兵器を長距離輸送する際の爆発や化学物質の漏えいの危険性を指摘する声が出たため、複数の施設で起爆装置の取り外しなどの事前処理をしたうえで、ハルバ嶺に運び、最終処理する案が有力になった。
遺棄兵器の約9割が埋設されているとされるハルバ嶺には、回収施設や保管施設、化学兵器を種類別に無害化する燃焼処理施設、警備・消防施設、作業員宿舎などを建設する。費用は日本が全額負担し、当面、2008年度までに回収施設建設費など約780億円を計上する見通しだ。政府は当初、2004年度までに建設する方針だったが、日中の法体系の違いや、中国の関係機関が多く、調整が複雑なことが障害となり、着工が遅れていた。
最近も新たな遺棄兵器が見つかり、一部には、「日中関係が悪い中で、新たな化学兵器の存在が明らかになれば、地元住民の反日感情をあおるのではないか」との懸念もある。しかし、政府は、「高度な技術と巨額の費用がかかる作業を日本がしっかり実行すれば、関係改善にも貢献できる」として、遺棄兵器の処理に前向きに取り組む考えだ。

<遺棄化学兵器> 旧日本軍が終戦時に中国国内に残した化学兵器。毒性の強いびらん剤(マスタードガス)や窒息剤(ホスゲン)などがある。日本側の推計で約70万発が残っているとされる。腐食が激しく、化学物質による土壌汚染も懸念される。1997年発効の化学兵器禁止条約で、日本政府がすべてを廃棄する義務を負っている。(読売新聞 2005/05/15)

内蒙古に旧日本軍の毒ガス実験場 世界最大級
黒竜江省ハルビン市社会科学院の専門家が、長年の調査研究のすえ、内蒙古自治区ホロンバイル市で、現在知られているものとしては世界最大という、第2次大戦中の日本軍の毒ガス実験場が発見されていることを確認した。
バインハンと名付けられたこの毒ガス実験場は、ホロンバイル市エベンキ族自治旗バイントハイ鎮内の草原にある。実地測量の結果、実験場は東西の幅約9キロ、南北の長さ約13キロで、総面積は110平方キロ余りある。いまでもこの草原では、大小さまざまな、形の異なる多くの土坑がみられる。
ハルビン市社会科学院特別招請研究員、ホロンバイル市侵華日軍細菌毒ガス戦研究者の徐占江氏によると、これらの土坑は軍事掩体(遮蔽物)で、当時日本軍はさまざまの掩体内に隠した人間や動物に向けて各種の独ガス弾を発射し、殺傷力のテストをしていた。
徐氏はこう語った。日本軍が当時ここに生物化学兵器の実験場を設けたのには、主に2つの理由がある。1つは日本軍が当時、旧ソ連を侵攻対象としており、ホロンバイル地区の気候や自然環境が旧ソ連の多くの地域と似ていたこと、もう1つは、当時ここは人跡まれで、秘密を守りやすかったこと。
侵華日軍バインハン毒ガス実験場の状況については、かつての日本兵が書いた「満州雪原の恐怖の化学戦」で言及されていた。また、1920年生まれのモンゴル族の老人アビドさんは、1940年にバインハン地区から来たあるモンゴル人が「一団の日本兵がバインハンの草原に穴を掘り、人間を入れた後、爆弾を投げ込んだ」とこっそり話したと回想している。1941年の春、バインハン地区の牧畜民は、よく鼻を刺すような匂いをかぎ、人間や家畜が疫病にかかり始めたという。
毒ガス実験場を保護するため、ホロンバイル市の文化部局はすでに、ここを自治区の重点保護文化財に指定するための申請を行った。(新華社通信 2005/07/03)

「毒ガス弾、井戸に捨てた」 旧満州派遣の元軍属が証言
旧日本軍によって中国各地に遺棄された毒ガス兵器などで死傷した中国人やその遺族が日本政府に損害賠償を求めた訴訟の控訴審が14日、東京高裁で開かれた。元日本軍属の男性(77)は「上官の命令で毒ガス弾を井戸に捨てた」と組織的遺棄があったことを証言、そのうえで「被害を広げないためにも情報提供しなければ」と、証人となった理由を説明した。
証言によると、男性は15歳で満蒙開拓青少年義勇軍に入隊、旧満州(中国東北部)に派遣された。ハルビン北方の興隆鎮の関東軍弾薬庫を警備していた45年8月上旬、部隊長の少尉から「弾薬庫の中から指示された砲弾を運び出し、穴を深く掘って埋めよ」と命令されたが、地盤が固く、班長の指示で3日間にわたって、砲弾を古井戸に次々と投棄した。
砲弾には赤や黄色の線が入っていたといい、男性は弁護団が指し示した資料で旧日本軍の毒ガス弾と同種のものと確認した。 当時、一緒に作業した兵士らが「国際条約に違反した毒ガス弾だから捨てることになった」と話していた、などとも証言した。
作業4日目に隊長から「日本は無条件降伏した。数時間後にはソ連軍がやってくる」と告げられ、途中で武装解除。男性はそのまま2年間シベリアに抑留され、その後帰国したという。男性は証言の最後で「帰国時から現在にいたるまで、日本政府から毒ガス弾の遺棄状況について聞かれたことは一切ない。もし聞かれていたら、事実を話したし、1つでも多くの毒ガス事故を防げたと思う」と話した。(朝日新聞 2005/09/14)

旧ソ連想定 毒ガス訓練 赤城山で旧陸軍専門部隊 防衛研に資料
第2次大戦中、日本国内で初めての毒ガス戦車門部隊として編成された「迫撃第1連隊」(群馬県沼田市)の初年兵教育や演習マニュアルに使われた冊子「参考綴(つづり)」が見つかり、同部隊が旧ソ連を相手にした毒ガス戦を想定した実戦訓練をしていたことが分かった。実際に毒ガスを使用し、負傷者が出たとみられる記述もあった。国内の化学戦部隊の実態はほとんど分かっていなかったが、今回の発見は秘められた歴史を解明する手がかりになりそうだ。
参考綴は、群馬県埋蔵文化財調査事業団の菊池実専門員(50)が2000年、戦史史料を収集・保管している防衛庁防衛研究所の図書館(東京都目黒区)で見つけた。
全部で約150ページ分あり、毒ガス戦を行う迫撃連隊であることを隠すための別名「東部第41部隊」と表紙に書かれていた。中には訓練用地図や演習方法などが詳細に記されている。
「『ソ』箪化学戦の概要」の項目では、旧陸軍が入手していたとみられる旧ソ連軍化学戦部隊の指揮系統表や戦力分析、攻撃・防御装備一覧などを4章にわたって記載。これにより、国内の毒ガス戦部隊もソ連戦を想定して訓練を行っていたことが明らかになった。
訓練結果を報告した個所では毒ガスを実際に運んだことを示す記述があった。数十人の傷病者が出たことを示す記録もあり、沼田市にあった陸軍病院の日誌にあった「ただれ」などの症状との照合により毒ガスのイペリットが使われた可能性が高いことも読み取れる。
参考綴は、1942(昭和17)年から43年にかけて書かれたとみられる。
旧陸軍では、対ソ化学戦を目的に国内外に毒ガス戦を担当する部隊が作られた。関東軍化学部など、中国での実験や演習については調査研究が進んでいるが、国内の部隊の実態はほとんど明らかになっていない。
迫撃第1連隊は、40年、松江市の連隊に国内初の化学戦専門部隊として新設され、翌41年12月、群馬県沼田市に移駐。同県の赤城山北面のふもとを演習場としていた。保管されていた毒ガスが処理されたとの記録は見つかっておらず、菊池専門員は「(毒ガスが)演習場だった赤城山中に埋められた可能性が高い」と話している。(中日新聞 2005/10/17)

「毒ガス部隊」新資料 端緒は砲弾破片と信管
群馬県の名山、赤城山のふもとに毒ガス部隊があったことを示す機密資料が見つかった。旧陸軍が国内に初めて編成した毒ガス戦専門部隊「迫撃第1連隊」の教育・演習マニュアル「参考綴(つづり)」。表紙に「東部第41部隊」と書き、その存在をカムフラージュした冊子には、旧ソ連軍との毒ガス戦も想定した生々しい訓練内容などが示されていた。
1985(昭和60)年。赤城山ろくで採石をしていた狩野松之助さん(80)は、軽石を持ち帰った作業場で奇妙な鉄くずが混じっているのに気が付いた。「軽石に刺さっててね、掘り出した時には気付かなかったけど、なんだこりゃって思ったよ」
見つかったのは、大量の砲弾の破片と3個の信管。これが「幻の毒ガス部隊」の資料が見つかるきっかけとなった。
狩野さんは破片などを地元の歴史資料館に寄贈。砲弾はその後も倉庫で眠り続けたが、99年に群馬県埋蔵文化財調査事業団の菊池実専門員(50)の手に渡り、初めて調査が始まった。
菊池専門員は、東京都目黒区の防衛庁研究所の図書室に通い、関連資料を探索。2000年になって「東部第41部隊」と付記された「参考綴」を発見した。
菊池専門員は驚き「これでかなりのことが分かる」と感じたという。
実際、この資料により国内毒ガス部隊の実態が浮かび上がってきた。
「瓦斯(ガス)使用方式及(および)運用ノ大要」の項では、旧ソ連軍について「平時ヨリ化学戦ニ関スル統制機関、化学戦部隊ヲ常置シ(中略)化学戦準備ヲ整ヘテ(中略)特ニ国境ニ近ク多数ノ化学戦部隊及資材ヲ準備シテイル」と危機感を強調。「瓦斯ヲ大規模ニ用ヒル企図ヲ有シ(中略)防御及退却戦闘デ屡々(しばしば)之(これ)ヲ用ヒル様デアル」と、ソ連の戦術を分析していた。
訓練中に傷病者が数十人単位で出て、陸軍沼田病院に最長81日間、入院したという記録も。同病院の日誌によると、中には「ただれ」を起こしたものがあり、両者を照合することで、訓練に使った毒ガスで負傷した可能性が浮上した。
多くの項目には「マル秘」や「用済焼却」の印が押されている。菊池専門員は「本来なら、敗戦時に焼却されてしまっているはず。なぜ残されていたかは分からない」と首をかしげる。
資料はまだ分析途中。松江市から宮城県に移駐するはずだった迫撃第1連隊が沼田市に来た理由も、訓練に使われたとみられる毒ガス兵器の遺棄場所も不明だが、菊池専門員は「できるだけ早く分析したい」と話す。(中日新聞 2005/10/17)

米軍 毒ガス海洋投棄 戦中戦後に70カ所 流出の懸念も
【ロサンゼルス24日共同】第2次世界大戦で旧日本軍や米国、ドイツなどが貯蔵していた毒ガスなど化学兵器を、米軍が戦中から戦後にかけ、世界各地の海に大量投棄していた実態が24日までに、米軍の調査報告書で明らかになった。投棄場所は日本近海を含め70カ所。容器の腐食で毒ガス流出が懸念され「海の時限爆弾」(米環境保護団体)になりかねない状況が浮き彫りになった。
当時、保管場所や処理に窮した米軍が投棄していたことは断片的に知られてきたが、全体像が示されたのは初めて。報告書は2001年に作成され、一般に知られていなかったが、バージニア州の地方紙「デーリー・プレス」が昨年10月に概要を報道。共同通信もこのほど報告書を入手した。
報告書によると、米軍は戦中から日本近海を含む太平洋や大西洋、インド洋、北海、メキシコ湾など計70カ所の海上で投棄を実行。1970年が最後で、米議会は72年に海洋投棄を禁じた。
投棄された化学兵器はマスタードガスや神経ガスのVXなど少なくとも10種類。マスタードガスだけでも砲弾約45万発、容器などに入った状態で少なくとも8万1000トンに上る。ただ、内容や量が不明な投棄記録も多く、戦前には海洋投棄がより一般的だったため、実際には報告書をかなり上回る量が投棄されたとみられる。
日本近海では、主に旧日本軍が製造した嘔吐(おうと)性ガス弾11万発などを、計6カ所で45年から46年にかけ投棄。ハワイ・オアフ島のわずか約8キロ沖にマスタードガス弾1万6000発が投棄されたことも記録されている。
特異な例では60―64年に大西洋で、少なくとも190トンの放射性廃棄物が化学兵器とともに捨てられた。北海での投棄は大半が旧ドイツ軍のマスタードガスだが、サリンなど神経ガスも大量投棄されたとされる。(西日本新聞 2006/05/25)

風船爆弾 元海軍研究員が開発手記 「極秘の新兵器」本気で米国攻撃
太平洋戦争で米国に向けて放たれた日本陸軍の兵器「風船爆弾」。その海軍版の開発にかかわった元研究員の手記が、「戦時下の小田原地方を記録する会」が発行する「小田原と風船爆弾」に掲載された。陸軍製に敗れて実用化されなかったとはいえ、開発の詳細は分かっておらず、貴重な証言として注目されそうだ。(橋本誠)

手記を出したのは、当時神奈川県平塚市にあった海軍技術研究所化学実験部の元研究員志村泰一さん(80)=同県藤沢市。50代のころから記憶を頼りに書き始めてまとめた。
手記などによると、志村さんは1943年10月、風船爆弾の開発を専門に行う第4科研究室に配属。極秘の新兵器であるため、親兄弟にも仕事の内容を話さない、と宣誓書に署名押印した。
志村さんはこの開発が始まった理由について「研究所では毒ガスを研究していたが、人道上、使えない。ほかに開発できるものはないか、と考えたのではないか」と推測する。
ゴムで加工した絹布を2−3枚重ね、強度を計測。裁断してミシンで張り合わせ、空気を注入して圧力に耐えられるかも調べた。爆弾を投下する起爆切り離し装置や、高度が下がった場合のバラスト(砂袋)投下装置の実験も、繰り返された。
志村さんは陸軍が風船爆弾の開発を行っていた登戸研究所(川崎市)にも行き、部品などを運んだ。
試作品は直径6メートル。最初の実験は同年11月、小田原市の酒匂川河口で行われた。志村さんらは約50本の水素ボンベを並べ、慎重に気球に注入した。
技術者らは、気球から送られてくる高度や気圧のデータを伝える無線機の周りに集まって、「高度8000メートル、気温零下30度」という報告に、喝采(かっさい)を上げた。
2回目の飛行実験は、電波の雑音が少ない千葉県の一宮海岸で実施されたが、夜になると通信が途絶えた。海中に落下したのか、機器の不調か分からず、より観測範囲が広い大分県の基地から東に飛ばし、国内の通信施設で信号を計測。44年4月には、さらに西の中国・青島から気球を飛ばした。
《日本各地の海軍基地や気象観測所で電信音をキャッチする態勢が取られた。各装置も精度が綿密にテストされ、気球も念入りに検査され、水素を充てんし格納庫に係留され、一晩浮力の減少を見ることにした。その夜は二人あて交代で不寝番に立った》
青島での実験で、気球が2日間は飛び続けていることが分かったが、その後、材料が安価で大量に集まる陸軍製の採用が決定。海軍の実験データはすべて陸軍に提供された。志村さんは同年6月に徴兵され、「本土決戦に備えて鳥取県の海岸に移動したところで終戦を迎えた。
陸軍の風船爆弾は9000個以上飛ばされ、米国の山林でピクニック中の子どもら6人が爆死したが、志村さんには知りようもなかった。
「米国を直接攻撃できると張り切っていたが、後で聞いたら幼稚なもの。今考えれば、もっと早く戦争を終わらせれば良かったが、当時は本当の報道もなく、下々の者には分からなかった」と振り返る。(中日新聞 2006/08/18)

毒ガス被害に逆転敗訴 中国遺棄兵器で東京高裁
旧日本軍が中国に遺棄した毒ガス兵器や砲弾で戦後に被害を受けたとして、中国人被害者と遺族計13人が国に2億円の損害賠償を求めた訴訟の控訴審判決で、東京高裁は18日、約1億9000万円の支払いを命じた一審判決を取り消し、原告逆転敗訴とした。
小林克已裁判長は「日本政府が、遺棄兵器の情報を収集し、中国に提供したり、兵器の調査、回収を申し出ていたとしても、被害を防止できた高度の蓋然(がいぜん)性は認められない」と判断した。
判決によると、被害を受けたのは計10人。黒竜江省で1974年と82年、工事中に発見した毒ガス弾などの液体に触るなどした作業員7人が中毒になり、手足の機能障害などの後遺症を負い、うち1人は17年後に死亡した。95年には同省の工事現場で見つかった砲弾が爆発、2人が死亡、1人が重傷を負った。
2003年9月の東京地裁判決は「中国に毒ガス兵器の配備状況などの情報を提供すれば、事故を回避できた可能性があった」として、国の不作為を違法と認定していた。(共同通信 2007/07/18)

伊藤ハム工場近くに「毒ガス室」 シアン化合物 旧日本軍跡から漏出か
伊藤ハム東京工場(千葉県柏市)の井戸水から基準値を超えるシアン化合物が検出された問題で、かつて同工場の約300メートル東に旧日本軍の「毒ガス室」と呼ばれた施設が存在したことが28日、分かった。環境省が全国の旧日本軍施設の管理状態を調べる中で、平成18年に明らかになった。施設跡から漏れたシアン化合物が、井戸水から検出された可能性があり、柏市保健所などが関係を調べる。
環境省によると、旧日本軍が開発した毒ガス弾の1つに、青酸ガス(シアン化水素)を瓶詰めしたものがあるという。同省は平成15年に茨城県神栖町(現神栖市)で地中に旧日本軍の毒ガス成分が染み出し、近隣の井戸水を飲んだ周辺住民に健康被害が出た問題を受け、各地で調査していた。
同省の資料や当時の部隊関係者によると、工場東側の一帯は終戦まで軍用地で、兵舎や弾薬庫などがあった。駐留部隊の少尉だった男性が作成した見取図にも「毒ガス室」の存在が記載され、部隊で勤務した男性(83)は取材に、「『ガス講堂』と呼ばれ、ごく一部の兵が攻撃や防御の教育を受けるための施設があった」と証言した。
シアン化合物はメッキ工場の工程で使用されるケースもあるが、伊藤ハムや柏市保健所は、現在まで周辺にシアン化合物を用いた工場は確認していない。同社は「工場は昭和43年にできたが、周辺の『毒ガス室』は初耳」(広報・IR部)としている。
伊藤ハムは28日、原因究明のため、同工場の操業を29日から停止すると明らかにした。(産経新聞 2008/10/29)

遺棄毒ガス訴訟:中国人遺族らの賠償請求棄却 東京地裁
中国黒竜江省チチハル市で起きた旧日本軍の遺棄毒ガスによる事故(03年8月)を巡り、死亡した男性の遺族5人と負傷者43人が「被害を防ぐ義務を怠った」として日本政府に計14億3440万円の賠償を求めた訴訟の判決で、東京地裁は24日、請求を棄却した。山田俊雄裁判長は「原告らの精神的・肉体的苦痛は極めて大きい」としたものの、国が調査・回収を行って事故を防ぐ義務はなかったと結論付けた。原告側は控訴する方針。
山田裁判長は旧日本軍が毒ガス兵器を遺棄したと認定。「遺棄化学兵器を日本が処理する」との日中間の覚書(99年)などをふまえ「国はチチハルなど旧日本軍駐屯地付近に毒ガス兵器があることや、住民に危害が及ぶことを予見できた」との判断を示した。
一方で「毒ガス兵器が中国の広範囲に遺棄・隠匿されていた」と指摘。「事故までにすべてを調べるのは極めて難しかった」などと述べ、国の賠償責任を否定した。(毎日新聞 2010/05/24)

旧日本軍毒ガス演習場 発見 旧満州で日中民間調査団
太平洋戦争中、旧日本軍が旧満州国(現在の中国東北地方)に設けた毒ガス演習場の跡を、日中の共同調査団が発見した。旧日本軍の地図を基に、グーグルがインターネットで公表している衛星写真で場所を推定。現地で井戸や塹壕(ざんごう)などの施設跡を確認した。こうした手法で場所を特定するのは珍しい。
旧満州国の軍事施設跡を調べている民間団体「国境軍事要塞(ようさい)群 日中共同学術調査団」が、中国のハルビン市社会科学院と昨年10月末に調査した。
2006年に日本の研究者が見つけた「満州第九五部隊」の化学兵器訓練の実施要領の資料を基に調べた。資料は6ページで、表紙に「第一回実物演習」「極秘 用済廃棄」などと記載。1942(昭和17)年の6月16〜19日に、撒(さん)毒小隊が毒ガスを散布し、消毒分隊や制毒分隊が対処する訓練計画が書かれていた。
猛毒のイペリット剤「きい一号」計700キロを使うとあり、演習場の建物の配置図や、近辺の地図を記載。場内の井戸水については「絶対飲用ニ適セサルヲ以テ雑用ノ外使用ヲ禁ス」とあった。
調査団は地図に「愛河」という駅が書かれていることに着目。黒竜江省牡丹江市の東側に現存する「愛河駅」と推測し、地図とグーグルの衛星写真を照らし合わせて演習場を探した。地図の縮尺が誤っていたが、鮮明な衛星写真を頼りに地形から場所を特定した。
現地に行くと、井戸や古い塹壕跡が配置図通りに見つかり、資料に書かれた演習場と断定した。地元の古老への聞き取り調査でも、戦時中に一帯を旧日本軍が占拠していたことが分かった。
調査団長の岡崎久弥さん(49)は「抗日中国人ゲリラやソ連に対し、毒ガスを使用する想定だったのでは」と分析。調査に加わった軍事史研究家の辻田文雄さん(64)は「衛星写真で場所を調べる手法が有効だと証明できた。別の調査にも生かせるはずだ」と話した。
中国では過去にも、旧日本軍の毒ガス兵器の演習場跡や、遺棄した跡などが10カ所以上で見つかっている。(東京新聞 2012/08/13)

自衛隊が毒ガス製造
周辺に学校・保育所、説明せず
化学学校でサリンなど7種類
防衛省認める
大宮駐屯地

陸上自衛隊化学学校(さいたま市北区日進町、陸自大宮駐屯地所在)がサリンなど殺傷能力が高い7種類の毒ガスを製造・管理していることが分かりました。日本共産党の塩川鉄也衆院議員の聞き取りや本紙の取材に対して、防衛省が認めました。
学校や保育所などが周囲に建つ首都圏の住宅街のまん中で、周辺住民はおろか国民には一切説明しないまま、化学兵器として各国が開発してきた毒性化学物質が製造されていることになります。
防衛省が製造を認めたのは、神経系統を破壊するサリン、タブン、ソマン、VXガス、皮ふのただれを起こすマスタードガス、窒素マスタード、ルイサイトの7種類。いずれも致死性があります。
1997年に発効した化学兵器禁止条約はこれらの物質の製造・使用を原則として禁止しましたが、研究・防護を目的とした製造は例外扱いとなっています。防衛省は「毒性から人の身体を守る方法に関する研究のため」と説明しています。
毒ガス製造をめぐっては、「週刊金曜日」(5月17日付から6回連載)が、64年にサリン合成に成功し、自衛隊内部でも極秘扱いの下、毒ガスの製造と研究が続いていたとの元化学学校長の証言をスクープしています。
84年に日本共産党国会議員団が防衛庁(当時)に化学兵器の有無について聞き取り調査を行った際、同庁は「毒ガスは実験を含め、一切していない」と述べ、否定しています。
防衛省は製造開始時期について、確認する意向を示しました。

国会・地元に情報の開示を

塩川議員の話 研究が目的とはいえ、首都圏の人口密集地で周辺住民になんの情報提供もないまま毒ガスが製造されていたことは、重大です。政府は製造量などを国際機関である化学兵器禁止機関(OPCW)に報告しているといいますが、その情報は開示されていません。災害時の安全対策を担保するためにも、政府は最低限、管理の実態について国会・地元自治体に説明する責任があります。

<陸上自衛隊化学学校> 防衛相直轄の機関で、核・生物・化学兵器(NBC)からの「防護」のための教育訓練が主任務。定員は100人程度で、1957年から大宮駐屯地に所在。近年は約11億円の年間予算が投じられている。(しんぶん赤旗 2013/07/06)



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