AKB48の「心のプラカード」のPVが公開されている。
メンバーらが大勢の一般人に囲まれながら道路の真ん中を歩いているコンセプトも、一般人の踊ってる様子がわざとらしく差し込まれるのも「恋チュン」と同じコンセプトだが、恋チュンに比べると世界がグレードダウンされている。恋チュンの場合、NMBの本拠地でもある九州最大都市・福岡のそれなりの目抜き通りだったが、今回は典型的なシャッター商店街である。
そのほか、出てくる場所といえば、やはりおんぼろな公団団地だったり、漁港だったりと、ことごとく高度成長期で破綻したような世界観が広がっていて、本当に2014年の最新ヒットソングなのかと驚いてしまう。学校の体育館に出てくる高校生たちも40年前からタイムスリップしたような真っ黒な坊主頭やオカッパ女子ばかりで、管理教育丸出しのスタイルだ。
これを見ると改めて気づく。AKB48は下流社会のアイドルである。
ようするにこういう日常に住んでいる人間たちが、都会の引きこもりオタクと並ぶAKBの二大集客層を成しているのだ。
バブル絶頂期か下手すれば1960年代に繁栄のピークを迎え、その後地元選出の代議士が引っ張ってくる交付金に依存しながら凋落するばかりだったような独特な社会階層において、誰もがみな精神的支柱にしている現実がある。
本楽曲のテーマは「デモ」である。
タイトルにプラカードとあるように、目抜き通りを歩く市民たちが思い思いのプラカードを掲げている。いつものAKBらしいラブソングだけあって、掲げられる文面は恋人や家族に向けた生ぬるいメッセージばかりだがギョっとするものがある。社会の閉塞感がもろに反映されているからだ。
日本では学生紛争が下火になった40年前から、ほとんどデモ活動は行われていなかった。しかし今日では、「左」と「右」で過激な大規模デモが繰り広げられるようになっている。
やり場のない「憂さ」や「不満」を政権権力や外国人などの自分の外の存在にぶつけることでガス抜きにするようなものだ。大概、非正規雇用の氷河期世代が、3~40代となってこうしたものに巻き込まれている。唯一の強みであった若さを失ったために、将来への悲観や不安が一気に高まり、このままでは悲惨な老後が待っているだけの自分の人生を好転させるためにも、世の中をぐるりとひっくり返そうと活動に燃えたぎるわけである。
1990年代から2000年代前半までは、ベンチャー起業やNPOがちやほやされたり、自由主義的な発想が蔓延していた。非正規でも夢を見ていたし、「これからの時代はフリーターだ」と本気で考えていた人もいただろう。だが、ホリエモンが捕まったあたりからそうした人たちは本格的にハシゴが外されてしまい、新自由主義の「そこ」に押しつぶされ、アグリフーズ農薬混入事件や黒バス事件や秋葉原殺傷事件のような無敵の人になってしまう人も増えつつある。ヘイトスピーチデモの首謀者は九州の田舎から出稼ぎにやってきた40過ぎの高卒フリーターだ。
無敵の人事件やヘイトスピーチ団体のトラブルが相次ぐようになった2000年代後半から現在にかけてはまだ、おおむね「都会の"若さ"という地位を失った氷河期世代」だけが希望もなく、されども失うものは何もない無敵状態だった。
ところが、これからは、「地方都市の"中産階級"という地位を失った人たち」が無敵状態になるのではないか。そう考えてしまうのだ。小泉改革で交付税を削減されまくり、平成の合併で合理化が進められたなれの果てに生きる人たちだ。
私の地方都市の親戚や友人知人を複合すると、彼らの生活はかなりカツカツである。
リーマンショックのあおりで還暦前にして失業者になり、新聞配達バイトをした親戚。
先祖代々続く家業のお茶屋を廃業させながらも、ジャニーズやK-POPにハマっていて楽しそうに暮らす食い扶持不詳の底辺高卒男子。
地域活性系のNPOに就職したはいいが、実態はブラック企業ばりのガタガタの組織で、東京の最低賃金以下の給料で休日返上で拘束され続け、未払いに悩んでいる地元の一番の進学校卒の男子。
DVと支配を繰り返す親の言いなりで、将来の就職先を勝手に決められ全寮性の学校に通わされながら、本当は東京で学ぶことをひそかに夢見ている在日韓国人の女子大生。
財政破綻が目に見えたような過疎の自治体に就職したはいいが、大学時代の専攻や本人の素質を生かしきれない希望しない部署に配属させられた週末のオタク活動と退職金の保証だけが生きがいの若い男子。
などなど・・・
彼ら彼女らの大きな特徴は以下の通りだ。
➀今を生きるための安定した食い扶持が存在しないこと、そもそも食い扶持自体が存在していないこと
②家族関係(構造)が厄介なこと。自分や親がDVや離婚の当事者であったり、いわゆる機能不全家族であること
③自分の日常の中に接する情報や文化や機会が無意識のうちにどんどん狭まっていて、都会に離れた友人知人・親戚との距離がハンパなく広がっていること
④そのうちの半分くらいは本来ならば2000年代前半あたりまでは「よくある中産階級」として、家庭も円満で安定した雇用環境にも経済的にも恵まれ、東京の郊外とほぼ同水準に幸せを生きていたこと
⑤現状は絶望的で、将来は悲観的であるのになぜか「けろっ」としていて、外やSNSで人と触れ合うときには楽しそうに振る舞うこと
⑥彼らの友人・知人・同僚などの可視範囲のつながりがみんな自分と全く境遇が同じであること
例えば彼らは悠々とFacebookなどに「スマホで撮った発泡酒の缶の写メ」を載せたがる傾向にある。つまり、発泡酒を買って飲むという行為が友だちにわざわざ知らせたくなる特別な出来事になっているのだ。都会のワタミで飲み会をする大学生は貴族同然である。K-POPやジャニーズやAKBのCDを写メして載せるのも、それ以外に自分の小遣いで買える娯楽が何もないからである。(正規の手段ではないが)ネットで無料で音源をフルで落とせるという事実を知らないし、ネットで検索すればもっと素晴らしい音楽がいくらでもあることも知らない。
都会も格差社会はあるが、地方はもっと深刻である。
豊かな高齢者が死んでも相続される遺産は「宝くじにあたったような感覚で」一時的に消費されるだけだ。戦争体験世代の両親や祖父母の文化・生活水準は継承されない。本来は恵まれた家系であっても残った若い世代(60歳代も含めて)は厳しい人生を生きていて、その深刻さは年々増す一方だ。そんな自分で生きるのに精いっぱいな人たちが、認知症の家族の介護をやったりしているのだ。
重ねて言うが、AKB48の「心のプラカード」は社会への憂さ晴らしのようなことは一切描写されていない。しかし中産階級から転落する地方都市の人たちの現状を考えると、確実に彼らの心に到達する楽曲だと思う。
戦争前夜の貧しい閉塞感を極めた時代に「紀元2600年」フィーバーを経験した前科が日本にはある。発展途上国の歌手のPVほど楽しそうに生きる成金の暮らしを描写しているように、極限に置かれた人たちほど、自分の現状と正反対な明るい世界を夢見るのだ。
シャッター街に紙吹雪が舞い、AKBと一般市民の大勢の笑顔で包まれるPVを、中産階級から転落して必死にもがいて生きている人たちが、地元の風景や自分自身とダブらせて楽しまないわけがない。多分この曲はメガヒットを記録すると思う。
そして、それを聴いた人たちが本当に「失うもの」がなくなったら、世の中ヤバくなりそう。