2.13 クリムゾン・ドール(Layer:1 Main Story)
――エミリーじゃない? ……あのときの少女か。
マイケルは、かける言葉を見つけられなかった。
裏通りに踏み込んだ少女は、ぐるりとあたりを見回す。
繁華街のすぐ裏手だというのに、マイケルと少女の他に、人影は見えなかった。
少女は軽くうなずくと、右手の人差し指で空中に、長短の直線で構成された図形を描く。縦線、その中ほどから、短かく右下へ斜線を引き、そこから短く左下へ斜線を引く。
そして、闇に響き渡るような少女の声がした。
「Befehl:(命じる)Hinzufügen die Bedeutung ”Thurisaz”. Aktivieren psychologisch Vermeidung Barrier.(魂魄を忌避させる障壁よ、『抑止』の意を受けて、顕現せよ) Starten alle Schild-Generatorenlink.(あらゆる盾よ、連なりて起て)」
その声に反応したように、薄暗い路地のあちらこちらに、微かな赤光が灯る。
直後、キングスクロスやセントジェームスパークの事件のときに感じた違和感が、明確な拒絶の意思を持った存在として、マイケルに押し寄せてくるように感じた。
――嘘だろ、こんなこと……。
マイケルは、立て続けに起きる出来事に、ついていけなかった。その不安が恐怖を上回って、気付くと少女に声をかけていた。
「おい、英語で喋ってくれ。いったい、あれはなんだ?」
少女は、ちっ、と舌打ちをする。
「Verändere es für Englisch.……バリアだよ。もう、わたしに話しかけるな。詠唱の邪魔だ」
――詠唱……魔法だとでもいうのか?
ファンタジー小説のヒロインのような台詞を残して、少女は足を踏み出した。
まるで滑走路の誘導灯のような光の回廊を、白い髪とワンピースを揺らせながら少女は歩く。人の気配どころか、街の雑踏すら掻き消え、不気味な静寂だけが夜の底にたゆたっていた。
少女が、不意に立ち止まる。
真紅の瞳が向けられた先には、一人の大柄な女がこちらを向いて立っていた。
その女は、遠目でも美人とわかる顔立ちをしていた。しかし、その全身にまとわりつく狂気を表すように、顔を歪め、目を血走らせていた。
ふっ、と少女が鼻で笑う。そして、女を指差すように、その右手を空中に掲げた。
「命じる。三世六界の理よ、力となりて、顕現せよ。即ち、眼前にある敵を打ち倒す、調和の刃となりて、宿れ、我が手に。いざ……」
真紅の瞳が、光を放つ。
「来たれ、『聖杯の騎士』」
掲げたその右手に、薄緑の蛍光が宿る。
マイケルの存在など埒外とでも言わんばかりに、いきなり戦闘が始まった。
女が少女を見据えて突進してきた。まったくの徒手空拳だったが、その加速度は常識の範囲を超えていた。
二人の間合いが一気に詰まる。
交錯しようとする刹那、少女が絶妙の間合いで手刀を繰り出した。
青緑色の蛍光が、一筋の光跡を描く。
剣技には疎いマイケルですら、その攻撃の精巧さは理解できてしまった。剣技の達人であれば、それを美技と評したであろう。相手の攻撃を読み切り、わずかな反撃の可能性すら与えない。それはまさしく、必殺の一撃。相手がどんな手練であろうと、否、手練であればこそ、その攻撃は不可避のものだった。
だが……。
女の突進はあまりにもいい加減で、その足取りは自身の速度に追いつかず、自身の敵を目前にしてたたらを踏む。そして、少女の攻撃は、その精密さゆえに、女のでたらめさによって、予測し得ないかわされ方をしてしまう。
攻撃を回避した女は、その勢いのままでマイケルに向かってきた。
――チャンスだ。
あれほどエミリーから止められていたにも関わらず、その身に染み付いた警察官の習性は、無意識のうちに、相手を捕縛するという判断と行動をマイケルにさせてしまった。
女の突進は駿足だったが、マイケルのスキルで対応できないほどではない。
顔に向かって繰り出されてきた女のパンチを、ぎりぎりのスウェーでかわす。……かわした、はずだった。
女の拳はたしかに空を切ったにもかかわらず、左頬と肩口に、鈍い衝撃と痛みが走った。鎖骨のあたりが、ぎしりと悲鳴を上げる。
直後、マイケルの背後で、レンガの壁にびしりとひびが入った。続いて女の拳が命中した部分が、粉々に砕け散る。壁は破壊されたが、女の拳も腕も傷ひとつなかった。
ばかばかしいほどに、非常識な出来事だった。
「来るぞ、逃げろ」
少女の声が響く。
踵を返した女が再び突進してきた。とっさに足が動いたのは、マイケルにとって幸運だった。でなければ、次の瞬間に自身が粉砕されていただろう。
「再臨せよ、ローエングリン」
少女が、迎撃態勢に入る。
だが、マイケルにも意地があった。
パンチの応酬は危険だ。銃撃は間に合わない。ならば、背後に回りこんで取り押さえる。一瞬の決断に、身体が反応した。
駆け抜けようとする女の横から、マイケルはタックルを仕掛けた。倒してしまえば、サブミッションで極められるはずだ。
だが、意に反して、マイケルの体当たりは女を倒すには至らなかった。女がマイケルを引きずりながら、少女の間合いに入る。
「邪魔だ、離れろっ」
少女の一喝にわずかに遅れて、女のウエストにかかっていたマイケルの腕が、振りほどかれる。
それは、最悪のタイミングだった。
マイケルという足枷がなくなった女は、攻撃の間合いをなくした少女に、回避する間を与えず襲い掛かった。女の両手が、少女の首に吸い込まれる。
「しまっ……」
バランスを崩した少女は、女の圧力に押し込まれる。
ゴツンという鈍い音がして、少女の身体がビルの壁に打ち付けられた。
女がぶつかった拍子に、ジュラルミンのごみバケツが倒れて中身が石畳に散乱し、生臭い異臭が立ち込めた。蓋がふらふら転がった後で、ガラランと悲鳴を上げて石畳の路地に倒れた。
「ぐっ……」
小さなうめき声を上げて、壁を背にした少女の身体が硬直した。その白くて華奢な首が、女の両手とコンクリートの壁で締め上げられる。筋肉と骨がぎしぎしと軋む音が聞こえそうなほど、女の指が少女の喉に食い込む。
苦悶の表情を浮かべながらも、少女はかろうじて女の腕を掴んだ。しかし、その手にあの蛍光はなく、女は意にも介さない。地面を離れた少女の両足が、あてもなく空中をさまよう。二人の物理的な力の差は、その体格の差以上に大きかった。
マイケルの脳裏に、忌まわしい記憶がよみがえった。血溜まり、そして、倒れている妹。頭と身体が、一気に熱を帯びる。
ブローニングに指をかけたマイケルは、しかし、すんでのところで思いとどまる。装填されているのは、ホローポイントではなく、貫通力の強いフルメタルジャケットだ。女の身体を貫通して跳弾し、少女も傷つけてしまうかもしれない。
逡巡するマイケルをあざ笑うように、女の爪が、少女の白い肌を突き破った。
「うっ……」
一瞬だけ顔をしかめた少女の両手と両足が、力なく垂れ下がった。少女の首から、鮮血が滴り落ちる。
その『赤』を見た瞬間、マイケルのなかで、なにかが切れた。
「うおおっ!」
叫ぶと同時に、マイケルは女の足を狙ってローキックを放つ。とにかく、女を倒して少女を救い出すのだ。マイケルは、じゅうぶんな捻りと回転を加えた全力の蹴りを、棒立ちの女の太股に打ち込んだ。
ぐうっ、という呻き声とともに、女の足がぐらつき、少女ともつれ合うように崩れ落ちる。
女の身体の下で、少女の白い髪が、薄汚れた石畳の上に乱れて流れる。
マイケルは、すぐに起き上がろうとする女の腕を掴んで、捻りあげる。肘の関節をきめられた状態になり、女の動きが止まった。そのまま、背後に回りこんで押さえ込めば、終わりのはずだった。
しかし、マイケルは次の体勢に移行できなかった。いささか冷静さを失っていたこともあったが、それよりも、女の力がとてつもなく強かったことが予想外だった。
女は、背中を丸めた体勢で、捻られた腕を元に戻そうと力を込め、その力はマイケルが捻る力と拮抗していた。むしろ、上から押さえ込む形になっているマイケルの方が、押され気味だった。
マイケルは、ただ夢中で女の腕を捻り続ける。
お互いに、次の一手が出せない状態が、数秒続いた。
女の腕に、さらに力がこもる。
マイケルの腕力が、限界に達した。関節が悲鳴を上げ、肘に激痛が走る。
――まずい。
その刹那、それが聞こえた。
「即ち、万物を退けよ。来たれ、『聖杯の守護者』」
氷結したような、硬質な声だった。
そして、マイケルの眼前で、惨劇の幕が上がった。
女の背中が、ぐっとせりあがる。ばきっという音とともに、その背中が割れて、血にまみれた白い手が突き出した。
華奢で優美な造形のその指は、しかし、人差し指と中指がありえない形に折れ曲がっていた。
一瞬遅れて、女の背中から鮮血が吹き上がる。
ほとばしる真紅の湧水は、女のわき腹から下半身を濡らして石畳に流れ落ちる。女は、断末魔の声を上げる間もなく、すでに絶命しているように見えた。
そのまま、女の体が空中に浮かんでいく。
左手だけで軽々と女を差上げながら、彼女がゆっくりと立ち上がる。
マイケルは我を忘れたように、呆然とその出来事を見ていた。
真っ白だった彼女のワンピースが、みるみるうちに真紅に色を変え、白い髪を濡らす鮮血は、ヘアカラーのように髪を染めあげた。まったく表情がない顔のなかで、真紅と青のオッドアイがステンドグラスのような静謐さをたたえていた。それは、あたかも真紅の人形のようで……。
しかし、彼女は、冷徹な声で宣言した。
「リスタート、ローエングリン」
やめろ、と言う間もなかった。
彼女が、右手を一閃させて、すべてが終わった。
石畳に転がり落ちたものを形容する言葉を、マイケルは持ち合わせていなかった。
同時に、マイケルを、悪夢のフラッシュバックが襲った。
「……ソフィー」
無意識のうちに、彼女に向けて、マイケルはそうつぶやいていた。
――ソフィー、俺は、またおまえを助けられなかったのか。でも、どうして立っているんだ? まるで、生きているみたいじゃないか……。
生ゴミと血の匂いが混じった異臭が、マイケルの鼻をついた。
それでやっと、マイケルの思考が現実に追いついた。
マイケルは、足元を見下ろす。
白目を剥いた女の身体は、上半身と下半身が分断されていた。とうてい、直視できるものではない。嘔吐感がこみ上げてきて、耐え切れずにマイケルは目をそらす。
その視線の先では、真紅の人形が、あいかわらずの無表情で死体を見下ろしていた。
「おい」
マイケルは、彼女に呼びかけた。
なぜか、名前を呼ぶ気になれなかった。
返事はなかった。
喉が掠れて、声がほとんど出ていなかったのだ。
マイケルは唾を飲み込み、今度こそ声に出してその名を呼んだ。
「おい、……エミリー」
彼女は、まるで初めてマイケルの存在に気付いたように、目を上る。
途端に、少女の真紅の瞳から険しい視線が投げかけられた。
「わたしを呼んだのか?」
怒気すら含んだ少女の言葉に、マイケルは無性に腹がたった。少女のおかげで命拾いしたことも、すっかり忘れていた。ただ、彼の目の前で少女が血と罪で汚されたような気がして、それが無性に悔しかった。
「なんてこと、するんだよ……」
マイケルは、うめくように言った。
しかし、そんなマイケルの心情を知ってか知らずか、少女は冷たい声で言い放つ。
「戦闘になる、と言ったはずだ」
――たしかに、そうだった。
エミリーは、あれほど警告していたではないか。そんなに甘いものではない、と。
答えられないマイケルを睨みつけながら、少女が詰め寄ってきた。
「手を出すな、とも言ったはずだな」
少女の真紅の瞳に、マイケルは本能的な恐怖を感じた。理屈ではない。身体が、勝手に緊張してしまうのだ。それは、まるで自分より圧倒的に強いものから受ける脅威のようだった。
マイケルは、反射的に後ずさった。
「邪魔者は、排除する」
少女の瞳が、真紅の微光を放つ。
マイケルは、血の気が引いた。これは、ただの脅しじゃない。彼の理性と本能が、同時に警鐘を鳴らす。
少女が目前に迫る。
マイケルは、また一歩、後ずさった。その背中が、冷たい石の壁に突き当たる。
「リスタート……」
少女が、血にまみれた右腕を持ち上げた。
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