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倉庫のお姫様 作者:Miel

2.スケジュール

 神埼伊織が初めて高橋さくらの存在を認識したのは、研修五日目だった。
 入社したての新入社員は皆が似たようなスーツ、似たような髪形、似たように抑えた化粧に、緊張した面持ち。
 それらに変化が現れるのは、研修や社風にも慣れ始めた頃。
 KANZAKIは、基本私服で仕事をする。秘書課や営業、受付などは制約はあるが、そんな中でも髪色を少し明るくしたり、それなりに自由な社風を謳歌しているようだった。
 そんな空気はすぐに新入社員に伝染する。
 研修三日目あたりから、彼女達も自己主張を始めた。
 切欠は、目鼻立ちのはっきりした美貌が既に噂となっていた女性新入社員が髪色を明るくした事だった。
 すると、すぐにそれは伝染していって、五日目ともなるとそのお陰で随分教育係となった先輩社員は顔と名前が一致するようになったものだ。

「今年は案外早かったんじゃないか?」
「だな。いつもは一週間位は皆大人しいからな」
「そんな中でもまだ地味だと、余計目立つよな。あの子」
「あの子?」

 同じグループを受け持った同僚が指差した先に居たのが、さくらだった。

 小さい顔に、少し大きく感じるクリアブラウンのフレーム眼鏡。真っ黒なストレートの髪を一本に縛り、額に厚く被さる前髪からは白い額が少し覗いていた。
 いつも黒のシンプルなスーツをきちっと着て、その姿は確かに周りが華やかになった今では逆に目立っていた。

「誰? あのちっこいの」
「珍しいんだよ。地方のB大学出身だ。それでかな、少し気後れしているように見えるけど……どうかな。配属先によっては苦労するかもな」
「まぁ、研修もまだ五日目だしわかんねーぞ? 女は化けるからな」
「お前、相変わらず女にゃ厳しいな……」

 伊織は苦笑する同僚の言葉を無言で流したが、さくらも研修が終わる頃には華やかに色づいたグループに加わり馴染んでいるだろうと思っていた。
 が、彼の予想は見事に外れた。
 同じ電車に乗っているのか、会社が近づくにつれ薄れて行く人ごみの中から毎日決まってひょっこりと黒くて丸い頭が現れる。
 真っ直ぐな髪はいつも頭の真後ろで一つに纏められ、規則正しい歩みに合わせて右へ左へとぴょこぴょこと動く。
 周りが伊織の姿を見とめ、次々声をかけてきてもその黒丸が振り返る事は無い。
 目立つ容姿とKANZAKIの御曹司であるという看板は否応無しに人々の興味を惹く事を、伊織は自覚していた。
 別にナルシストでも何でもない。むしろ今までの生活で自覚せざるを得なかったというのが正しい。
 でも、少し先を歩く黒髪は伊織の視線を弄ぶかのように左右に揺れ動くだけで、研修終了までの期間、明るく染められる事も無ければとうとう振り返る事も無かった。
 研修で接点はあるのだから、追い越して伊織の存在が視界に入れば挨拶はするだろう。
 が、なぜかそれは負けた気がする。そんな一方的な意地っ張りにも似た感情は現在まで続いていた。

(たまに『倉庫』まで出向いて構うのは別だ)

 なんでもないちょっとした会話も、さくらの声色が熱を帯びる事は無い。
 伊織がそれが新鮮だったし、面白かった。本当に変わらないのか――ほんの少しだけ、意地悪な感情があったのも確かだ。

 それが変わったのは、五月並みの暑さになると朝の情報番組で伝えられたあの日――四月十八日の月曜日。

『そんなやり方でこの会社がここまで大きくなるわけないじゃないですか』

 相変わらず淡々とした声で放たれた言葉に、気付けば涙が出る程笑っていた。
 皆が歪んで見るそんな当たり前の事を、彼女はちゃんと知っている。そして当然にように言葉にする。

(面白いな、本当に。ずっと意地を張っていてもきっとあの後姿は変わらないんだろうな)

 その時、後方から甲高い声が飛んできた。

「せぇんぱーい。社食なんて、珍しいですねー。隣、いいですかぁー?」

 甘ったるい声と共に、返事を待たずして女は伊織の隣に腰を下ろす。
 同時に思考を止められ、伊織は不機嫌を隠す事なく周囲を見渡した。
 そこそこ席は埋まっているものの、空席が無いわけではない。
 だが、女達はそんな伊織の様子に気付く事なく口論を始めた。

「ええっ、エミずるぅい!」
「いーじゃない。空いてたんだもの。ね? せんぱぁい?」

 伊織は初めて隣の女に視線を向けると、にっこり笑ってその表情から出たとは思えないほど冷たい声で言い放った。

「いいんじゃない? 俺もう行くし。ごゆっくり?」

「えっ、せんぱぁい!」
「行っちゃうんですかぁ?」

 なにやら後方からネトネトした声がまとわりつくが、伊織はそれをスッパリと断ち切ると、社員食堂の出口にある自販機に社員証をかざし素早くブラックコーヒーを取り出すと、足早に出て行った。
 KANZAKIでは飲料メーカーという事もあり、社内に設置された自販機は社員証をかざすと無料で飲物が出てくるシステムになっている。

(こんな時この会社は楽だな。さて……どこに行こう)

 時間を確認すると、まだ昼休みには余裕があったので春の陽気に誘われて中庭に出る事にした。
 KANZAKI本社自慢の広い中庭には沢山のベンチが置かれており、弁当派の社員達はよく中庭で昼休みを過ごす。そんな中にも穴場がある事を知る伊織は、掛けられる声に愛想良く応えながらも足早に建物の裏へと急いだ。

「んー。分かった。七時にFullMoonね。はぁい」

 穴場でもある建物の裏のスペースは日当たりが良くなく、更に入り口から遠い為かあまり人が来ない。
 伊織は一人で一息つきたい時などによく使っていたのだが、この日は話し声が聞こえて思わず立ち止まり様子を窺ってしまった。

(ん? この声は……)

 伊織が傍に居る事にも気付かず、電話をしているのは予想通りさくらだった。
 毎朝見る黒くて丸い頭が見え、伊織の頬が無意識に緩む。
 声を掛けようとしたその時に聞こえた言葉に、伊織の足が一歩踏み出したところでピタリと止まった。

「今回の合コンは五対五なのね。お相手は全員弁護士さん?」

『合コン』
『今回』
『弁護士』

 その単語が伊織の顔から表情を消す。

(大人しく見えて合コン常連って事か?)

 合コンの打ち合わせの電話中、自分が突然現れたらどんな表情をするだろう?結局はさくらも他の女達と一緒だった。そんな小さな落胆が伊織の悪戯心を刺激し、彼は何事も無かったかのように歩みを進めて向かいのベンチに腰を下ろした。
 そのままプシュッとプルタブを開け、さも今気付いたと言わんばかりにさくらを見て軽く缶を上げた。
 突然の登場に、電話中だったさくらは一瞬会話を止めたが、軽く頭を下げるとそのまま会話を続けた。
 驚かせてその反応を楽しもうと思った伊織だったが、反対に驚いたのは彼の方だった。

「うん。向こうは相原さんて方が幹事さんなのね。どんな人? あ、そうなんだ。うんうん」

 目の前に伊織が居ると分かっててもそのまま会話を続ける。声を顰める事もない。そのまま相手側の情報を全て聞きだし、スケジュール帳に書き込んでいく。
 さくらは頭の中で当日の服装のシミュレーションをしていた。近くでさくらを見詰めている伊織の視線になど気付いていないかのようだ。
 大きな目がくるくると表情を変えるさまを見ていても、そこに自分が映る事がないのは当然面白くない。
 通話が終わってもさくらの視線はスケジュール帳の上だ。「清楚系か? うーん。ミントグリーンのスカートかな……」などとぶつぶつ呟いている。
 そのまま傍らに置いていたペットボトルに手を伸ばしたが、中身は既に飲み干した後だった。キャップを開けてから気付いたさくらは残念そうにキャップを閉め直した。

「一口飲む?」

 伊織は組んでいた長い足を解いて立ち上がったかと思うと、ほんの数歩でさくらの目の前までやって来た。そしてそのままさくらの目の高さに、持っていた缶コーヒーを差し出した。

「ありがとうございます」

 素直に受け取り、伊織が口をつけた飲み口に躊躇なく口をつけた事も驚きだったが、さくらの手元で開かれたままだったスケジュール帳に伊織はもっと驚いた。
 そこにはびっしりと予定が書き込まれていた。文字が細かくて全ては読めなかったが大体の内容は解かった。

「ありがとうございます」

 受け取った時と同じ台詞で返された缶コーヒーを、伊織は上の空で受け取った。

「合コンとか、行くんだ?」

 思わず口を付いて出た言葉に、伊織もそれを言われたさくらも目をぱちくりさせた。

「はい。結構行きますね。服とか考えるのちょっと苦手なんですけど」

 嘆息するさくらに、伊織は意地悪な言葉を投げかける。

「お持ち帰りとか、しちゃったり?」

 だがこの言葉さえもさくらの感情に波を立たせる事は出来なかった。

「ええ。勿論です。それが最終目的ですから」

 それが何か? そう続けてコテンと首を傾げるさくらに返り討ちにあったように伊織の心は抉れた。ショックを受ける程に、いつの間にかさくらを気に入っていたようで、そんな自分にもショックだった。

「ふぅん……。ま、上手くやれば?」
「ありがとうございます? あ、大変。こんな時間! 私、もう行きますね」

 さくらが慌てて荷物をかき集め小さなランチバッグに詰め込むとそのまま立ち去った。
 いつも見詰めていた黒いポニーテールが左右に揺れていたが、伊織の視線が追いかける事はなかった――。


 そのまま一週間が何事もなく過ぎた。
 一緒にランチをした商品開発室の同期の里美さとみが、神崎チーム長がなんだか不機嫌で部署の空気がピリピリしている、と疲れた表情で話していたが、仕事で関わる事の無いさくらにとっては所詮他人事だ。「大変ねー」と言いながらも箸は止まらない。
 実は『倉庫』勤務になってからの三年、三日と空けず伊織は備品管理室に通っていた。その足が一週間遠のいている事にもさくらは気付いていなかった。

「だからストレス溜まっててさー。ね、今日飲みに行かない? 愚痴聞いてよー」
「ごめん、今日はだめ」
「アレか。今日はどんなの?」
「主催は総務の千絵。相手は弁護士だって」
「んー、じゃあまたの日にする。さくらはほんっと予約すんの難しいわぁ」

 事情を知る里美はあっさりと引き下がると、さくらの空いているスケジュールを確認し、「それまでは頑張るから、溜まりに溜まった愚痴ちゃんと聞いてよね!」と脅し、仕事に戻って行った。
 それを見送ったさくらの頭の中は、もう今日の合コンにシフトしていた。

(千絵が狙ってるのは、幹事の相原さんが連れてくる予定の後輩弁護士井上さん。でも、相原さんはどうやら千絵狙いらしい、かー)

 さくらは手にした缶コーヒーを飲み干すと、少し離れたゴミ箱に向かって投げた。
 空き缶は縁に一度当たると、弾かれてそのままゴミ箱に飲み込まれる。

「よし! うん、まぁ何とかなるでしょー」



 その日の合コンは成功だったと思う。
 千絵は井上さんと連絡先を交換していたし、それを苦い顔で見ていた相原さんの趣味がゴルフだと聞きつけたさくらが、最近ゴルフを始めた千絵の後輩の詩織に話を振ったら、二人でゴルフ話に花を咲かせていた。
 チラリと視線を横に向けると、二人の男性が総務のマドンナ佐伯さんを取り合っていたが、これは個々に頑張ってもらおう。なにしろこの場にさくらが居る限り、男性陣は一人あぶれてしまうのだ。
 その横では大人しそうな眼鏡コンビが近からず遠からずの距離で話をしている。その会話も聞き耳を立ててみると、盛り上がりに欠けるものの会話は止まらない。

(まぁ、これはきっと彼らのペースなのだろう)

 さくらは千絵の「デザート食べたくない?」の言葉を合図に、一言断って化粧室に立った。
 勿論、黒子に徹していたさくらが席を立つのを誰も気にしなかった。

 さくらは勿論小さく纏めた荷物も持ってきていた。そのまま化粧室にいると、パタパタと足音が聞こえ千絵がやって来た。
 ほんのり酔っている千絵は頬がピンク色に染まり女のさくらが見ても色っぽい。

「さくら、今日は本当にありがとうね」
「うん、いいよ。井上さんと上手くいきそうで良かったね」

 千絵は更に頬を赤らめて嬉しそうに微笑むと、さくらを店のカウンターに連れて行く。
 すると、カウンターの中から人の良さそうな笑顔のオーナーが紙袋を差し出してきた。

「こちら、お持ち帰りのお品です」
「ありがとうございます」

 千絵はにっこり笑ってその紙袋を受け取ると、さくらに渡した。

「このお店のスモークチキンとスモークチーズ。あと特製の玉ねぎドレッシングよ。すごく美味しいから!」
「わー。ありがとう!楽しみ!」

 こうしてさくらはタダメシにお土産のお持ち帰りという目的を達成し、軽やかな足取りで帰路に着いた。
 反対に、伊織が重苦しい気分でヤケ酒をあおっていたなど、やはりさくらは知る由も無かった。

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