お兄ちゃん、怒るのです!
「………ぁあ?」
万里の記憶が定かなら、先にも後にも、こんなに怖い千里はこの時だけだった。
地の果て奥底から這い出でたような低音に、万里は言葉を失った。
──にーにーは、あたしを怒ったりしない。
その認識は、コロリと覆された。
万里が中学2年生、千里が28歳。
年の離れた兄妹で、喧嘩をするほど千里が大人げなくなかった、…筈なのだが。
「却下。そんなもんやめとけ」
細かい話も聞かず、千里はテーブルの向こうに居る万里を睨みつけた。
「にーにー!?」
「なんで、なんて訊きたいか?」
「…」
なんとなく、千里が言いたいことはわかるけど。
理解したくない。
バッサリ切り捨てることないじゃないか。
「にーにーは、おねーちゃんとうまくやってるんでしょ?」
「そりゃあね。幼馴染みだし、お互いよく知ってるから」
「…うぅ」
「お前は違うだろ」
カタン、と椅子を引いて立ち上がる千里を止める言葉が見付からないで、万里はギュッとスカートの裾を握り締めた。
「外見に釣られてふらふら寄ってきた男に簡単にくれてやるほど、万里は安くないんでね」
リビングの扉が閉まる音が、いつも通りなのに、冷たく感じた。
*
「にーにー、あたし彼氏が出来ちゃった」
その言葉で、食後のコーヒーを飲んでいた千里の動きがピタリと停止した。
前髪で隠れて、よく見えない。
どうしたんだろう。
沈黙に耐えられず、万里は必死に口を動かした。
「えっとね…、今年初めて同じクラスになった男の子でね、背はそんなに高くはないんだけど、優しくって…」
千里が何も言わない。
表情が見えないのが、どうしてこんなに怖いんだろう。
「話も合うし、告白されて、その…いいかな、って」
「………ぁあ?」
ヒュウ、と冷たい風が吹き抜けた。
そんなこんなで、千里は部屋を出て行ってしまった。
あんなに怖い声は、今までずっと一緒にいて初めて聞いた。
ゾクリと、足元から崩れ落ちそうな、恐怖。
──なんで?
にーにー、どうして反対するの?
彼は…高島くんは、いい人なのに。
確かに、まだ出会って間もないけど。
話もよく聞かずに、反対するなんて、千里らしくない。
「にーにーの、バカ…!」
──高島くんが特別大好きってわけじゃないけど。
それこそ、千里と天秤に掛けた場合、どちらかを選ぶかは明白な程度なのだけど。
理解をしてくれない千里を、酷く疎ましく思ってしまったのは、確か。
派手な音を立ててリビングを出ると、玄関も突き破らんばかりの勢いで外へと飛び出した。
小雨が降っていたけれど、傘なんか要らない。
──にーにーのバカ!
初めての彼氏が出来たのに。
初めての兄への反抗へと、変貌した。
息も絶え絶えになりながら、我武者羅に駆け抜ける。
徐々に酷くなる雨に、ズルリと重たい足を引き摺っていると、気付けば見知らぬ土地にいた。
雨の音と共に、サーッと血の気が引いていくのがわかった。
「にー、にー…」
ケホケホと噎せながら、呼吸を整える。
現在地がどこなのかもわからない。
冷たい雨が、ぐるぐるとしていた頭を冷やしていく。
彼氏と別れろと、冷たく言葉を落とす千里を、見たくなかった。
大好きな兄の声を、聞きたくなくて。
そうして勢いに任せて飛び出して、迷子になった、と。
「バカはあたしじゃんか…」
近くに、寂れた電話ボックスが見えた。
周りには、民家と、これまた寂れた売店しかない。
ポケットを探っても、小銭は出て来ない…つまり、売店で何かを買うのは無理だ。
ついでに携帯電話も家に置いてきてしまったらしい。
つくづくツイてない。
「はあ…」
既に濡れ鼠だけれど、これ以上濡れているのもバカらしい。
電話ボックスで雨宿りをさせてもらおうと、キュッと扉を開けた。
誰も使っていないらしく、空気が悪い。
しかも誰かがタバコを吸ったのか、煙たい。
ケホケホと噎せながら、電話ボックスの中でしゃがみ込んだ。
ぐるぐると思考が定まらない。
雨で濡れて寒いのに、走ったせいか身体が熱い。
「はあ…」
自分の溜め息が、狭いボックスの中で大きく響いた。
──高島くんは、いい人だよ。
友達として、今はとても親しい位置に居ると思う。
一緒に話していて楽しいし、安心出来て、勉強がわからなくなったら相談し合える。
きっと告白されなかったとしても、一緒に居る人間だと思うんだけど。
確かに万里は千里に似て、比較的目立つ容姿をしているから、それがきっかけだったかもしれない。
──だからって。
彼を弾く理由には、ならないんじゃないかなぁ。
千里の怒った声を思い出す。
心臓を握り潰されたような痛みと、氷水の中に突き落とされたような衝撃。
──寒い。
どうしよう、苦しい。
にーにー、助けて。
千里から逃げてきたのに、千里に縋るしか出来ない自分の無力さに、自分を嘲笑しながら、フッと眸を閉じた。
*
遠くで声がする。
熱い。
それでいて寒い。
──どうしたんだっけ。
身体が重い。
目を開けるのも、瞼が言うことを聞いてくれない。
「──万里!!」
甲高い声に、耳がキーンと鳴る。
うっすらと開いた視界に、さらさらとした金色の髪の毛が見えた。
──誰、だっけ…。
ぼんやりと考えながら動けずにいると、強い力で引かれたような気がした、けれど。
そこまでで、万里は力尽きたように瞼を閉じてしまった。
「ば、万里? 万里!?」
声の主が焦って呼ぶ声が、どこか遠かった。
*
再び目を開けると、そこは見覚えのある天井だった。
いつの間に瞬間移動したのかとふと見ると、机の椅子を引き摺ってきたのか、ベッドの横で幼馴染みが眠っていた。
金髪で猫目の、美琴だ。
「みぃちゃん…?」
「…万里!」
ガバッと顔を上げる彼女は、熟睡していたわけではなさそうだ。
ちょっとうっつらとしていただけのようで。
よいしょと身体を起こすと、目の前にズルリと何かがずり落ちてきた。
「…冷えピタ?」
「あ、温くなってはげちゃった? ちょっと失礼」
ぴとっと彼女のてのひらが額に触れた。
冷たいそれが、なんだか気持ちいい。
「んー、まだ微熱。千里さん呼んでくるね」
「え、待って…あたし何、え、どうしたの、これ」
「熱。朝からあったんじゃない? 千里さんも心配してたよ」
「……」
身体が熱くて寒かったのは、雨に濡れたからじゃなくて風邪だったのか。
「呼んで来るね」
パタンと扉が閉じた音が、大きく聞こえた。
──みぃちゃん。
彼女が座っていた椅子の横にある、くまのぬいぐるみを引き寄せた。
“せんちゃん”と名付けたそれは、幼少の頃、千里がクリスマスプレゼントとしてくれたものだ。
千里からだと理解したのは、もう少し大きくなってからだったけど。
その頃から、ずっと一緒に居る美琴が、電話ボックスに居る万里を見付けてくれたのだろう。
おぼろげな視界で見えたのは、彼女の髪で間違いなさそうだ。
真っ黒な髪の毛の万里は、色が染まりにくいよと美容院で言われたから、染めていない。
だから、綺麗に金色に染まっている彼女が少しだけ羨ましい。
彼女は、きつめな顔をしていて強気でも、優しいってことを知っている。
──そっか、あたしに熱があったから、探しに来てくれ…、
「…違う」
彼女が自主的に探しに来るわけがない。
だって家を飛び出したことは知らない筈だから。
と、いうことは。
「……お前バカか」
千里が頼んだ以外に、何があろうか。
扉をカチャンと閉める音がした。
そして先程と変わらない、低い声。
──怒ってる。
それだけが、ひしひしと伝わる。
おまけに、万里はベッドの上だから、まさにまな板の上の鯉。
「飛び出すのは自由だけど、雨降ってんのに傘ささないとかバカか」
またバカって言った。
ぷぅ、と唇を尖らせながら“せんちゃん”をギュウっと抱き締める。
「知ってるか。バカは風邪引かないんじゃない。風邪を引いている事に気付かないんだ」
「…バカバカ言わないでよ」
「バカなことするから」
目を合わせようともしない。
というよりも表情が見えない。
どうやら本気で怒っているようなんだけど…、
──どれに対して?
「…お前さ」
ため息混じりの声が怖くて、そちらを見れない。
カタンと、美琴が居た椅子に腰を掛けたようだ。
「自分の見た目を客観的に考えてみろ」
「…何それ」
「一目惚れってのがあっても不思議は無いんだよ」
「わかんない」
ぶすっとした答え方になったけど、なんとなく、言っていることはわかる。
それを素直に受け入れられる性格はしていないけども。
「わかんないよ。にーにーが言うのは、身内の欲目でしょ」
「客観的に見てんだよ、俺は少なくともお前よりは世間を知ってる」
「……」
「それを踏まえて言ってんだ。道行く人全員が振り返るほど、ってほどじゃないけど、集団のその他大勢のカテゴリに入れておくほど平凡な見た目でもない」
褒められているのか貶されているのかわからない。
「そんな妹を首が据わらない時からずっと見て育ててきたんだ。ポッと出のどこの馬の骨かもわからない男にやりたくない、っていうのが本音」
──高島くんは、そんなんじゃ…。
ない、と言いきれない自分に気付いて、言葉に出来なかった。
いい人。
優しい人。
話していて安心する──けど。
「万里は、そいつを男として見てる?」
核心を衝かれて、返事をせずにぬいぐるみを抱きしめる腕に力を込めた。
好きか。
そう訊かれたら、好きだよ、と答える自信はあった。
それがどういう“好き”か。
──わからない。
「…付き合うって、どういうことかわかる? ──中学生が」
あたまが、まっしろに、なる。
「──そいつの名前は?」
低く、潜めるような、それでいて色気のある声に、本能的に逃げたくなる。
何をして、いるんだろう。
どういう、状況なんだろう。
目の前に広がる天井よりも、視界を埋め尽くすほど近距離に居るのは、万里を育ててくれた兄で。
顔の真横に置かれた骨張った手が、ゆっくりと髪を梳いた。
「何ていうの」
「…た、高島、くん」
「そいつとこういうこと出来んのか」
理解が追い付かない。
髪を梳いていた腕は、そのまま万里の腕の自由を奪った。
こういうことって何。
彼と出来るのかと訊く行為を──どうして、にーにーがしてるの?
「そうやってポカンとした顔してるうちに、身ぐるみ剥がされて素肌撫で回されて突っ込まれて終わっても、“付き合ってるから”って免罪符で周囲には同意だと思われたりすんだぞ」
千里が居る位置を。
この至近距離を。
あけすけに、ぼかさずに告げられた行為を。
漫画の知識だけで、知ってはいるけど、実際にはまったく知らないそれを。
──彼に置き換えた瞬間、目の前が真っ暗になった。
「高島相手に、それをされて、耐えられんのか」
怒ったのは、万里が大事だから。
妹である万里が、女として傷付くには、早いと思うから。
過保護と思われてもいい、シスコンだと言われてもいい。
「…にーにー」
「……お前に彼氏はまだ早いと思う。…恋愛の一つくらい、覚えてからにしろよ」
「にーにー…!」
「…え?」
「ち…かい…」
か細く、声が震える。
千里がハッと我に返って、そのまま固まった。
妹を押し倒して。
腕を拘束して。
触れそうなくらいの至近距離で説教…って、
「──!」
──何をしてんだ、俺は。
掴んでいた腕を離し、人間業とは思わぬ動きで距離を取ると、千里は万里に背を向けた。
「……忘れて」
「…え、っと」
「ごめん、痛かったか」
「ううん、だ、大丈夫」
「そう…」
よそよそしく、背を向けているのに落ち付かなそうに、あちこち向く。
その様子から、千里も余裕ではないんだとわかり、不思議な気持ちになった。
「……こういうこと。高崎に置き換えて嫌だったら、さっさと別れた方がいいと思う」
「にーにー…!」
パタン、と扉が閉まる。
今度は、そんなに冷たくは感じなかった。
──んだけど、
「高崎じゃなくて高島だよ…」
どんだけ興味無いの。
そう口の中で呟いて、クスリと喉を鳴らした。
だって、見てしまったから。
妹相手にやりすぎたと思いつつ、照れたように少し頬を染める千里の横顔を、見てしまったから。
「やっぱ、ダメだわ」
ひとつのことでこんなにも一喜一憂させるような兄を越える男なんて、探したって見付かりっこない。
大好きな兄と同じくらい、男の人を好きになるのは、多分まだ万里には早い。
だから今は、
「…にーにーが居れば、いいや」
*
薬を飲んで一晩ぐっすり眠ったら、熱はすっかり下がって。
突然二人きりになりたいと呼び出した彼に、本題をさらりと落とした。
「ごめんね、高島くん」
「…えっと…、安藤は、その…俺じゃ、ダメってこと?」
「高島くんが悪いんじゃないよ」
でも、だから。
「ごめんね。あたし、暫く恋愛は出来そうにないから」
「言い方がアレだけど…その、酷い失恋でもしたの?」
「違うよ」
そんなわけないじゃない。
恋愛なんて、生まれてこの方したことがない。
だけど、それに似た感情ならずっと抱いている。
「強過ぎる憧れが、身近すぎるところに居るから」
「…どういうこと?」
「内緒!」
大好きな育ての親は、大好きなお兄ちゃんであり、大好きな異性でもある。
きっと、もう少し経って恋愛をしたら、千里に似た人が相手だろう。
少なくとも彼は、そうでないから。
「あのね、友達として、これからもよろしく!」
これが精一杯、一晩考えた結論。
それ以上もそれ以下もない。
「……ああ」
──そうだ、帰りににーにーの会社に寄ろう。
一緒に夕飯の買い物をして、のんびりと家までの道を歩きたい。
──別れたよ、って言ったら。
千里はどんな顔をするんだろうか。
喜ぶか、ホッとするか。
多分、両方なのだろう。
彼には悪いが、万里の最優先事項だ。
千里の低く怒る声は、高島に別れを告げるよりも、怖くて、冷たくて、寂しい。
優しく笑って頭を撫でてくれる千里が、大好きだから。
それをいつか自然と手放す日まで。
甘えた妹でも何でもいいから、それに縋り続けて、怒って、泣いて、笑って。
そんな時間を過ごすのが、万里の選んだ道。
「え…万里? 何で会社まで…」
早く、早く、欲しい。
優しく目を細める、その笑顔が欲しい。
──ねえ。
「にーにー、帰ろーっ!」
Fin...
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