普通の高校生
そろそろ終電が過ぎようかという、午後十二時を少しばかり回った頃合。六本木の繁華街、その外れに位置する雑居ビルの地下、二十数坪ばかりのスペースに打たれた手狭いバーでのこと。カウンター末席に腰掛けた男が、隣の女を口説いていた。
「あぁ、なんて魅力的なんだ。今日、俺は貴方に会えて良かった」
「こんなおばさんのどこが良いのかしら?」
「いやいや、ワインと女は古いのに限るとは、まさにその通りだと俺は思うね」
「あら、ワインが好きなの?」
「ワインでもブランデーでも、酒と名の付くものは全て好きだよ」
「それならお世辞のお礼に一杯、おばさんが奢ってあげる」
口説いている男は二十代後半。肩に掛らない程度のロン毛は丁寧に染められて茶色。値の張りそうな明るいベージュのスーツには、紫色のニットタイと薄い青色のシャツ。手首には高級ブランドの時計。凡そ金持の息子かやり手の若社長然とした姿格好。
これに口説かれる相手は、三十代中頃と思しき中年女性。スーツ姿のオフィスレディ。お堅い企業の在籍か、或いは元来の性格が故か、控えめな化粧と崩れのないシニヨンにまとめられた地味な髪型。
けれど今に語られたとおり、古い女の良さを感じさせる豊満な身体つきは大したもの。顔つきもオットリとした穏やかな大人の女性を感じさせる。控えめな装飾と相まっては男好きしそうな出で立ちか。
店内に客の姿は三人。
彼と彼女を除いて他に一人。
カウンターの中程に腰掛けるのは、学生服姿の冴えない少年だ。
「……それで、報酬はどうなってるんだ?」
少しばかり声の調子を落として言う。
年の頃は十代中頃。
出で立ちは極めて普通の日本人。都内に所在する高等学校指定の制服姿。一重まぶたに不揃いの歯、やや突出した頬骨。髪型は彼くらいの年頃の男が美容室や床屋へ行き、何も言わずに長さだけ伝えたら、そうなるような髪型。
カッコ良いとは決して言えない。それでもブサイクと指を差されるほどでもない。クラスに一人と言わず数名はいる学園カーストの中層階層の担い手。ただ一つ、非凡な点があるとすれば、彼と言葉を交わす相手の存在。
「いつものところへ振り込んでおいた」
答えたのは、同店舗のオーナーであるバーテン男性。
六本木という場所柄か、日本人ではない。アメリカ出身を自称する黒人男性だ。二メートル近い巨漢の持ち主である。筋骨隆々とした肉付きは黒いスーツのジャケット越しにも在り在りと窺える。
二の腕など少年の太股にも増して太い。顔面には右目を上下に横断して裂傷跡。それは頭髪の全て剃り上げられた頭部の上の方まで伸びる。まるで洋画に眺めるアクション俳優のような出で立ち。
「分かった」
「それと、次の依頼だが……」
「しばらく休みが欲しい。お替わりは他へ回してくれ」
「……そうか」
酷く不釣り合いな両者は、例えカウンター越しであっても並び映るに違和感。特に中肉中背のアジア人少年が、ガタイの良い黒人男性へ素っ気ない態度を取る姿は、他人事ながら傍目に背筋が冷える。
事実、彼と五つばかり席を離れて愛を囁く男と、彼と四つばかり席を離れて愛を囁かれる女とは、二人のやり取りに肝を冷やして思える。チラリチラリ、時折向けられる視線は、少年がバーテンに殴られるのではないかと、心配の色が濃い。
ただ、そうした他の客からの心配など、どこ吹く風。彼は遠慮無く言葉を続ける。
「これ、もう一杯」
「お替わりは要らないんじゃなかったのか? 明日は学校だろ」
「いいんだよ。どうせ寝てても何も言われない」
「……そうか」
少年からの注文に従い、バーテンは新しい酒を作る。
今し方までお客が飲んでいたものと同一のボトルを、カウンター背面の棚から取り出してはグラスへと。トクトクと。特に何を言われることもなくダブルで。
差し出されたカウンターの上、ショットグラスに浮かぶのは手彫りの丸い氷。これを包むように琥珀色の液体が幾らばかりか。顔を近づけることなく香るのは濃いヨード臭。
「これもそろそろ次のを仕入れないとな……」
残りの少なくなったボトルを手に取り眺めて、バーテンがボソリ呟く。
内容量は四分の一ほどになっていた。
ちゃぽん、腕の動きに応じて瓶の内側に揺れる酒。
屋内の薄暗い間接光に照らされて、鈍い輝きを放つガラス越しの液体。
その様子を眺めて少年は、少しばかり語調を強くして言う。
「切らすなよ?」
「……割と珍しい酒でな。善処はするが」
「もしも無くなっていたら、もうアンタ経由での仕事はしない」
「わ、分かった。必ず用意しよう。知り合いに好きな奴がいる」
「ならいい」
作りたての酒を少年はチビリ、チビリとやる。
一連の振る舞いは、この場に酷く不釣り合いだった。これでせめて少年が顔立ちに優れていたら、或いは納得のしようもあったかもしれない。けれど、彼は普通だ。極めて普通だ。一重まぶたに不揃いの歯、やや突出した頬骨。
カッコ良いとは決して言えない。それでもブサイクと指を差されるほどでもない。クラスに一人と言わず数名はいる学園カーストの中層階層の担い手。ノーマル。酷く凡庸で、だからこそ、今この瞬間、この場所で最高に似合わない。
特にカウンターへ片肘を落として酒を飲む姿など喜劇のよう。本人は気分を出して思えるが、傍目に眺めては苛立ちとムカつきと気恥ずかしさを催さずには居られない。自分の若い頃を思い起こして、実行しなくて良かったと切に感ずるところの一つ。
ただ一つ、非凡な点があるとすれば、それは彼と言葉を交わす相手の存在。
「また週明けに来てくれ」
黒人が言う。
「……気が向いたらな」
少年が答える。
後者の振る舞いは、それこそ中学生の学芸会。
普通に似合っていない。
見る人が見れば苛立ちを覚えるだろう。
「おいおい、頼むぜ? 本当に」
不味そうに酒を飲む少年を眺めて、バーテンは酷く参った様子に呟いた。
この気持悪い少年、名前を西野五郷という。
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