2014年08月09日

『アオイホノオ』のリアリティ

岡田斗司夫解説ツィートまとめ「アオイホノオ第3話」
http://togetter.com/li/700950

>監督に出した感想メール
> 見ていてもう本当にモユルにイライラしました(笑)
>笑いながら、ダメなクリエイター予備軍だった自分を思い出して、もう痛くて痛くて。
>その痛さを、モユルにイライラとぶつけるカタチで昇華しちゃいましたよ。 #アオイホノオ

>モユルが悩むたびに「お前が悩んでる間にも、庵野は手を動かしてるぞ!わかってるのかよ!?」と叫びたくなります。
>今日、フラッシュさんが取材に来たので、見てる人へのメッセージとして
>「焔モユルみたいには、絶対になるな!」
>と断言してしまいました(笑) #アオイホノオ

 いや、まったく同感。

『アオイホノオ』は(原作もドラマ版も)「リアル」な作品である。誇張され、戯画化されているが、「リアル」なのだ。
 実在の人物が何人も出てくるとか、時代考証がどうとかじゃない。「ダメなクリエイター予備軍」である焔モユルの言動や考え方が、ものすごくリアリティがあるのだ。
 僕は大阪芸大に行ってたわけじゃないし、マンガ家じゃなく小説家志望だったけど、焔モユルがあの頃の自分と驚くほど重ね合わさってしまう。

 たとえばドラマの第3話で、モユルは学校の課題のCM制作を、「完全でないものを世に出すわけにはいかない」とかいう(自分ではかっこいいと思っている)台詞を吐いて、リタイヤしてしまう。そして、CMを完成させた他の学生に対し、「勝った」と優越感を抱く。
 勝ってねーよ!
 これが「ダメなクリエイター予備軍」の特徴のひとつ。自分には才能があり、絶対にプロになれるという根拠のない自信を抱いている。そして、これから創ろうと思っている作品は素晴らしい傑作で、みんなから称賛を受けると、勝手に思いこんでいる。
 だが、それを完成させようとはしない。未完成で終わらせるか、あるいはそもそも手をつけることすらしない。作品の構想を練ったり、細かい設定を創る作業にばかり熱中して、なかなかスタートしない。そして、自分が完全主義者であることを、作品を創らないことの言い訳にする。
 なぜなら、実際に創っちゃうと、それは思っていたようなレベルではないことが分かってしまうからだ。
 完成させなければ、いつまでも「俺のこれから創る作品は素晴らしい」という幻想を維持していられる。

 僕もね、アマチュア時代、そうだったよ。自分が書こうと思っている小説の設定を何ページにもわたってノートに書いたり、プロットばっかり何十本も練っていた。しかし、その作品がどれほど素晴らしいかを夢想するばかりで、いっこうに書こうとしなかった。
 いざ、手をつけても、理想としているものに届かない。ちょっとしたことで悩んで、すぐに原稿用紙を破り捨てる。スランプである。
 それが10年ぐらい続いた。
 自分ではそれを「修業期間」だと思っていた。しかし、書かなければ上手くなるわけがないし、ましてデビューできるわけがないのだ。

 スランプから脱け出せたきっかけは、前にも書いたけど、グループSNEに入って、安田均氏からパソコンゲームのノヴェライズをまかされたことである。
 それまで僕は長編を書いたことはなかった。しかし、安田氏は僕が書けると信じて仕事を任せてくれた。その信頼を裏切るわけにはいかない。
 プロの仕事には締め切りがある。「完全でないものを世に出すわけにはいかない」なんて青臭いことを言っていられない。多少、満足できないところがあっても、前に進むしかなかった。とにかくがむしゃらに書いた。
 そうして僕の処女長編『ラプラスの魔』は書き上がった。
 同時に、10年も続いたスランプが嘘のように消え失せ、書けるようになった。

 だから、デビューしたければ、完全主義者であることをやめることだ。もっと正確に言えば、完全主義を言い訳にしないことだ。
 なぜなら、理想に届かなくても、とにかく書きさえすれば修業になるし、締め切りまでに完成させさえすれば得点になるからだ。もちろん、完成度があまりに低いのは論外だけど、「理想に少し届かない」程度なら十分に評価してもらえるはずだ。100点満点でなくて、90点かもしれない。それでも、書かなければ0点だ。
 僕の場合、「完成度100%でなくてもいい。90%でいい」と割り切ったとたん、それまでのスランプから脱け出せた。

 もうひとつ、共感を覚えたのは、モユルがデビュー当時の高橋留美子の作品を読んで、「今のサンデー読者にこれがわかるわけがない!」「俺だけは認めてやろう!!」などと偉そうなことをのたまうくだりである。
 まったく同じこと、僕もやった!
『うる星やつら』の連載がはじまった当初、「これは面白いけど、マニアックすぎて読者に受けないだろう」と思ったよ。せめて僕だけでも心の中で応援してやろうと。
 今思うと、恥ずかしいなあ。
 実はずっと後になって、同じ失敗をやらかした。『涼宮ハルヒの憂鬱』を出版直後に読んで、「これは面白いけど、若い読者に受けないだろう」と思ったのである。この話は僕がSFファンだからこそ納得でき、共感できるのであって、SFの素養がない人間はついてこれないだろうと。だから、せめて僕だけでも応援してやろうと、『monoマガジン』の連載で取り上げたりもした。
 その後のことはご承知の通りである(笑)。
 それ以来、自分の「これは受ける」「これは受けない」という直感は、絶対に信用しないことにしている。

 その他にも、先にデビューした新人マンガ家(僕の場合は作家)を勝手にライバル視したり、プロの作品を偉そうに批判したり、逆にすごい作品を見せつけられて落ちこんだり……もうほんとに、モユルのやってることって、あの頃の「ダメなクリエイター予備軍」だった僕そっくりなんだよ。
 そうそう、アニメを知らない一般人に「金田アクション」について説明しようとしたこともあったな。
 おそらく僕だけじゃないはずだ。他の現役クリエイターのみなさんの中にも、モユルの姿に過去の自分を重ね合わせて、「いたたたた」と苦笑している人は多いと思う。
 逆に、クリエイターやクリエイター志望でない人に、この話の面白さが理解できるのかな……と思ったりもするんだが、「これは一般人には受けない」とか言っちゃうとまた恥かきそうなのでやめておく(笑)。

 もちろん、僕もそうだけど、島本和彦氏自身も、のちにちゃんとデビューして人気マンガ家になっている。
 だからと言って焔モユルを見習っちゃいけないのだ。島本氏は、アマチュア時代の自分が何がどうダメだったかを客観的に分析して、ギャグにしているのだから。
 焔モユルはクリエイター志望者が見習っちゃいけない反面教師なんである。



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