長崎原爆の日:「歌なら伝えられる」…平和 声の続く限り

毎日新聞 2014年08月09日 12時12分(最終更新 08月09日 13時55分)

69回目の「長崎原爆の日」の平和祈念式典を前に、合唱する被爆者歌う会「ひまわり」=長崎市の平和公園で2014年8月9日午前10時35分、須賀川理撮影
69回目の「長崎原爆の日」の平和祈念式典を前に、合唱する被爆者歌う会「ひまわり」=長崎市の平和公園で2014年8月9日午前10時35分、須賀川理撮影
被爆者歌う会「ひまわり」の江原篤子さん(中央)=長崎市の平和公園で2014年8月9日午前10時35分、竹内幹撮影
被爆者歌う会「ひまわり」の江原篤子さん(中央)=長崎市の平和公園で2014年8月9日午前10時35分、竹内幹撮影

 ◇オリジナル曲「もう二度と」合唱、被爆者歌う会の江原さん

 9日に69回目の「原爆の日」を迎えた被爆地・長崎。台風11号の接近に伴って時折強い風が吹く中、平和祈念式典が開かれた長崎市の平和公園には被爆者や遺族らが早朝から足を運び、原爆の犠牲になった人たちを悼んだ。安倍政権が集団的自衛権の行使容認を閣議決定するなど、平和国家の岐路で迎えたこの日、長崎の人々は「平和」への思いを改めてかみしめた。【小畑英介】

 平和祈念式典で、オリジナル曲「もう二度と」を合唱した被爆者歌う会「ひまわり」メンバーの江原篤子さん(85)=長崎市=は、原爆できょうだい4人を全員亡くした。今でも被爆体験を語ることはほとんどないが「みんなと一緒なら、『核兵器をなくして』と声に出せる」と、合唱に平和への願いを込めた。

 江原さんは被爆当時16歳。長崎市立高等女学校3年だった。家は市中心部でべっ甲店を営んでいたが、父が召集されたため1945年春、爆心地から約1キロの同市城山町に引っ越した。妹3人、弟1人がおり「食べるものも満足になく暮らしに不安はあったが、仲良く、にぎやかに暮らしていた」と振り返る。

 江原さんは爆心地から約3.2キロの女学校体育館で動員作業中に被爆した。「投下の瞬間、空が真っ赤になった」。家に帰ろうとしても、各所で起きる激しい火災に阻まれた。翌日午前、家にたどり着いた江原さんを待っていたのは、倒壊した家の下敷きになったり、ガラスが刺さったりしてきょうだい4人が亡くなったという現実だった。

 けがをした母を防空壕(ごう)にかくまい、4人の遺骨を入れた花瓶を抱き3日間、焼け野原で過ごした。「悲しさや、これからどうすればいいのかという不安でいっぱいだった」と当時の心境を語る。終戦後に戻ってきた父は商いを再開したが、べっ甲店ではなく、しばらくおもちゃ屋を営んだ。「子どもがいっぱい集まるから。父も寂しかったのだと思う」

 「早く戦争が終わればよかね」と言い残して死んだ7歳下の妹のことなど、口にすれば今も涙が止まらない。知人に誘われて2010年に加入した「ひまわり」には、同じような思いを抱えた被爆者が大勢いることを知った。「大好きな歌でなら、みんなと一緒なら、『二度と被爆者をつくってはいけない』と伝えられる」

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