長崎原爆の日:「ここで働いていた」…吹き飛んだ製鋼所

毎日新聞 2014年08月09日 20時31分(最終更新 08月09日 20時49分)

被爆した三菱製鋼所跡(後方)付近で、当時を振り返る瀧野佐和子さん=長崎市茂里町で2014年8月9日、金澤稔撮影
被爆した三菱製鋼所跡(後方)付近で、当時を振り返る瀧野佐和子さん=長崎市茂里町で2014年8月9日、金澤稔撮影
現在の茂里町交差点付近。鉄骨だけが残った三菱製鋼所の工場が見える=長崎市で1945〜46年ごろ撮影(米国立公文書館所蔵)
現在の茂里町交差点付近。鉄骨だけが残った三菱製鋼所の工場が見える=長崎市で1945〜46年ごろ撮影(米国立公文書館所蔵)

 9日、69回目の「原爆の日」を迎えた長崎は、原爆犠牲者への鎮魂の祈りに包まれた。被爆の実相を次代へ伝えようと、初めて被爆体験を語り始めた人もおり、人々は平和への願いを新たにした。

 ◇88歳女性「語らねば」

 長崎市の瀧野佐和子さん(88)は7月、毎日新聞に載った1枚のカラー写真にくぎ付けになった。長崎原爆の爆心地から約1キロで爆風に吹き飛ばされ、鉄骨だけの無残な姿になった三菱製鋼長崎製鋼所。69年前、瀧野さんが働いていた場所だ。「ここにいて、今も生きている人はほとんどいないはず。私が語らねば」という思いが湧いた。

 写真は、長崎平和推進協会写真資料調査部会長の被爆者、深堀好敏さん(85)らが今夏、米国立公文書館で収集した約2000枚のうちの1枚。撮影場所は長崎市茂里町近辺で、現在は大型商業施設などが並ぶ。

 「ちょうどここにあった事務所で被爆しました」。瀧野さんは9日午後、現在は民放の本社が建つ製鋼所跡で言った。庶務係として製鋼所の事務所3階で勤務していた。「その時にね、ピカッと見たわけ。黄色い塊を」。とっさに机の下にもぐり込み、気を失った。数時間後、意識が戻ると周りの書棚が倒れていた。右脚が挟まれていたが、何とか引き抜いて立ち上がった。

 防空壕(ごう)に避難しようとしたが、死者と重傷者で埋め尽くされて入れなかった。

 母が疎開する大村を目指して救援列車の先頭車両にしがみつき、大村に着いたのは深夜だった。真っ赤な長崎の空を見ると涙がぽろぽろとこぼれた。放射線障害のため10日間寝たきりで過ごした。

 翌年、長崎医科大(現長崎大)の職員となり、定年まで付属病院に勤務した。被爆から約10年後の健診で「眼底が焦げている」と言われた。病気のことは多くを語らないが、開腹手術を3回受けた。被爆時に挟まれた右脚の股関節の手術を約10年前に受け「骨にいっぱいひびが入っている」と言われた。

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