蛭子能収というリアルドキュメンタリー フジ『ウチくる!?』(8月3日放送)を徹底検証!
蛭子能収がいま、アツい。テレビ東京『ローカル路線バス乗り継ぎの旅』での太川陽介とのタッグでブレークし、6月に放送された『ソロモン流』(同)では、賢人としてまさかの抜擢。この8月には、NHK総合『スタジオパークからこんにちは』やフジテレビ系『ウチくる!?』に大々的に取り上げられ、その勢いは止まることを知らない。
蛭子能収といえば、確かに長年タレントや俳優としてテレビに出演しており、かつて宮沢りえの父親役としてドラマ『いつも誰かに恋してるッ』(フジテレビ系)に出演した際は、「父親にしたいタレントナンバーワン」に輝いたこともある。だが、根本敬をはじめとする蛭子能収研究を読んだことのある者にとっては、それは明らかに虚像としてのブレークだった。だが、いま現在の蛭子能収の売れ方は、むしろ生々しい動物としての蛭子能収にスポットが当てられている感がある。
テレビというメディアの特性の一つに、「檻」という側面がある。その中で起こったハプニングや生々しい人間の姿を、檻の外から視聴者が眺めるという構図だ。たとえば大家族ものや大食い番組がそれに当たる。怖いもの見たさであったり、グロテスクなものに惹かれるという人間の本能を、テレビという「檻」の外から我々は眺める。現在の蛭子能収の売れ方はそれに近い。予定調和を一切無視し、共演者や視聴者までをもイラつかせるが、そこが魅力的でもある。言わば蛭子能収は、動物ドキュメンタリー的な楽しみ方を視聴者に提供しているのだ。
そんな中でも、8月3日に放送された『ウチくる!?』は、蛭子能収のヤバさが巧妙に引き出された良質なテレビ番組であった。思わず「マジか」と口に出てしまうような蛭子能収の生々しいエピソードと言動がギリギリの線で取り上げられていたため、ここではランキング形式で紹介してみたい。
<第10位>
番組冒頭で「長崎物語」という銘菓を紹介。MCの中山秀征、中川翔子と一緒に食べるのだが、口の中の水分を奪うバームクーヘン的なお菓子だったため、味の感想を待たずに「何か飲み物がいるような……」と、いらんことを発言する蛭子能収。
<第9位>
自身のオススメグルメ店で食レポ。食べるのに夢中になって無言がちになる一同。中山秀征が「ここまで黙々と食べてしまうってことは、相当うまいってことですから!」と蛭子に話しかけるが、完全に無視する蛭子能収。
<第8位>
自身のマンガ家としての活動を紹介する際、真面目に表現論を語り出す中山秀征に対して「スゴいキチンとしたこと言いますねえ」と、失礼すぎる感想を述べる蛭子能収。
<第7位>
定食屋でのトークに飽き始めてしまったため、突然お箸の袋をなんの意図もなくビリビリに破き始める蛭子能収。
<第6位>
ゲストとして大林素子と松岡ゆみこが出演。「美女に囲まれて……」という会話の流れで「そんなに美女ってわけじゃない」と、正直すぎる感想を口にする蛭子能収。
<第5位>
そもそもオススメのグルメを紹介するという番組の体裁なのに、「この店にはよく来るんですか?」という質問に対して「1回だけ来たことがあります」と答えてしまう蛭子能収。
<第4位>
大林素子からの証言で、初対面の際「大林さんって、男の人とエッチしたことあるの?」と質問していたことが判明。「真実をいろいろ知りたいから」と、理由になっていない弁明をする蛭子能収。
<第3位>
息子の結婚式の際に「中の下くらいの結婚式ですみません」と言ってしまい、後に新婦側から叱られたという蛭子能収。
<第2位>
「孫をかわいいと思えない」という話の流れで、孫の名前を覚えていないことが判明。何度聞いても覚えられないと白状し、しかもまったく悪びれる様子のない蛭子能収。
以上、第2位まで紹介したが、さすがにちょっとどうかしている。日曜昼間の『ウチくる!?』だから笑える作りにはなっているが、タレントとしてどうこう以前に人間としてどうなんだ、というか完全に動物である。そして恐るべきは、そこに蛭子能収のなんの意図も感じないところだ。何も考えずに食べ、しゃべり、動いている。この構図は明らかに、動物ドキュメンタリーと同じものだ。
予定調和を壊す、というのは現在のテレビ界の流れの一つとして存在している。だが蛭子能収にはおそらく、予定調和という概念すらないのだろう。だからこそ、稀有な存在であり、爆発したときの破壊力は他の追随を許さない。そしてそれはテレビ的でないがゆえに、むしろテレビ的である。蛭子能収は、テレビを壊すことによって、テレビを体現しているのだ。
とはいえ、『ウチくる!?』としても、番組として成立させなくてはいけない。最後に登場したのは、蛭子能収の地元・長崎県で、一緒に看板屋さんで働いていた同僚である。彼は唯一、蛭子能収のマンガ家としての才能を認めていた存在であり、感動的な手紙を読む。以下、その手紙から抜粋しよう。
「昔から流れには逆らわず、どこに行っても誰に対しても素のままの蛭子流。裏表のない自分をさらけ出して生きてきている蛭子さんは、その存在こそが現代の奇人なんでしょうね」
いい手紙だ。マンガ家としての才能を信じていた彼の言葉を受けて、中山秀征がまとめに入る。「これからも、マンガは描いていくんですよね?」と。そして蛭子能収は、こう答える。
<第1位>
「マンガは今も描いてるんですけど、全然見て面白くない。テレビに出始めると怠けてしまいますよ。テレビにちょっと出始めると、ギャラも良いし」
台無しだよ!
【検証結果】
このように蛭子能収は、動物としての稀有な破壊力を持つ。決して近づきたくはない。だが、その生態は見守っていたい。そんな特殊な存在をも許容するのがテレビというメディアであり、蛭子能収が共演者や視聴者をイラつかせ続けてくれる限り、テレビにはまだまだ可能性が残っているとも言えるだろう。蛭子能収という闇は、こんな文量で語り尽くせないほどには深く、そしてまた豊かなのだから。
(文=相沢直)