そこは、幼い少女には広すぎる庭園。
少女は物心がついてから何年も経つというのに、未だにその全容を把握していない。
当然といえば当然である。
少女の父親……即ちこの庭園、屋敷の主さえもどこまでが自分の領地なのかを正確に把握していないのだから。
てん、てん、てん。
その広い庭園の真ん中で、一人、ぽつんと立って手毬をつく。
少女以外人影の見えぬ庭園に、小さな小さな手毬歌が響いている。
てん、てん、てん。
同年代の友人という存在など想像もつかないような、そんな環境の中にある少女にとってそれはとても楽しい遊びの一つ。
しかし、突然ふと、どうにもならないくらいに、つまらなくなってしまうことがある。
毬を抱きかかえるようにして後ろを振り向いても誰もいない。言い様の無い、唐突に押し寄せてくる寂しさ。
父親は立派な人だからとかで──自分と遊んでくれることはあまり無い。
いや、わからないフリをしているだけだということは自分でも理解している。
君のお父さんは立派な人なんだよという言葉は聞き飽きた。
でも、本当に立派だというのならどうして自分とは遊んでくれないのだろう。
子供ゆえの純粋な疑問。そんな小さなわだかまりが常々胸の奥底にあることも理解している。
当然、表に出したことは無いのだが。
──母親は物心つく前に亡くなったと聞いた。
常に自分を気にかけてくれる人もいる。が、当然、四六時中一緒に居てくれるということはない。無理な話だ。
寂しいのは嫌だったが、あまり我侭を言って周りを困らせてしまうのはもっと嫌だった。
自分は良い子で居ていられると思う。
西行寺たるもの────
小さく溜め息をつくと、再び毬を地面に落とす。
続き、だ。
てん、てん、てん。
てん、てん、てん。
てん、てん、てん。
てん、てん、てん。
てん、てん、てん。
「あっ」
てん、てん、てててっ……
突然、目の前が真っ暗になった。
毬が手を離れ、どこかへ転がっていってしまう。
が、少女の顔は嬉しそうにほころんだ。
自分の両目を覆う、大きな大きな、暖かい手の平。
少女は知っている。そう、大好きな、とても大好きな手の平だ。
「さて、自分は誰でしょう」
背後からの問い掛け。もう耳も慣れっこの、慣れ親しんだ男性の声。
もちろん少女にはその答えがわかっている。
己のことを自分などと称するのはこの屋敷に一人しか居ない。
だけど素直に答えるようなことはしない。いつものこと。
少女は嬉しそうに口の端を緩ませながら、いつもこうやって問い返すのだ。
「だぁれ?」
その問い返しを聞くと、男性は満足したように手の平を少女の両目から離した。
視界が自由となった少女の眼に、齢三十路前後かと思われる男性の姿が映る。
一層嬉しそうに笑顔を深めた少女を見ながら、同じく微笑んで一礼と共に答える。
「はい、妖忌で御座います」
そう、それは本当に。いつものこと。
「お嬢、そろそろ冷えてきました。風邪などひかぬ内に、ささ、屋敷の中へ」
一転、少女の顔が不満げなそれに変わる。
ころりと変わった表情に、妖忌は楽しそうに笑った。
「えぇ〜…せっかく妖忌が来てくれたのに、もう?」
「はは、自分の本日の勤めもそろそろ終わり。この後屋敷の中でお相手仕りましょう」
「ほんとう?」
「もちろん。さ、御菓子も御用意してありますぞ。まずは一休みしてから、ですな」
「うんっ」
軽い足取りで屋敷へ戻っていく少女の後ろ姿を見ながら妖忌は思う。
──こんな幼い少女に課せられた使命の、なんと重いことか。
少女がこの世に生まれ出でてから既に数年の月日が流れた。
それでも妖忌はあの日のことをまるで昨日の出来事のように思い返すことができる。
忘れることなどできようか。
この子を頼みます──今は亡き奥方様の一言と。
──まるで、今にも泣き出しそうな表情で娘を見つめる、我が主の表情を。
「妖忌、まだぁ?」
屋敷へと足を踏み出しながら妖忌は願う。
せめて、いつか来てしまうかもしれぬその日までは。
この愛しい少女が、一つでも、一つでも多くの幸せを掴むことができますように────
「は。只今、直ぐに」
異説妖々夢 〜西行寺〜 前篇
ちらり。障子の隙間から雪がちらつき始めたことが垣間見える。
今日は今朝からかなり冷えていた。時期的にも雪が降り始めてもおかしくは無い。
まだ昼というのにこの冷え様、このままいけば明日の朝にはたくさん雪が積もることだろう。
雪達磨、雪合戦──どの遊びから手をつけようか……
「こら、由々子」
こつんっ。
丸められた巻物で軽く頭を小突かれた。
慌てて視線を正した由々子の眼前には尊敬する父の姿。手には丸めた巻物。
西行寺現当主、西行寺忠義。
由々子は恐る恐る父の表情を伺ったが、怒っているというよりはどちらかというと呆れたといった感じで自分を見ている。
「わ……」
頭ごなしに怒鳴られるより余程恥ずかしいかも。
ちょっと、赤くなった。
「まだ最後の復唱が終わっていない。余所見をするには早すぎるぞ」
「ご、ごめんなさい……」
「……やれやれ、そんなに外が気になるか。今日は朝から散々遊んでいただろう?」
「えっと……雪が降っていて」
「ん。……ほう……もう、雪の季節か」
忠義も一緒になって障子の隙間を覗く。
最初に由々子が見たときよりも一層、しんしんと降り続けていた。
普段優秀過ぎると評しても過言ではないほどに真面目な由々子が、日課の家訓復唱を始めてからやたらとそわそわしている。
どうかしたのかと少々心配もしていたが、なるほどな、と忠義は納得した。
少しの間久しぶりの降雪を眺めていたが、直ぐに思い直して座を正す。
「復唱も残り一度だ。さっさと済ませて、それからじっくりと眺めるといい」
「うん、そうする」
忠義が巻物を再び開くのを見て、由々子も手元の同じ巻物をぱらぱらと捲った。
これは、もはや一つの姿勢というか、形式のようなものである。
然程長くも無い家訓を、毎日ように繰り返し復唱しているのだ。
もし仮に由々子が記憶力に乏しい人間だったとしても、嫌でも覚えてしまうというものだろう。
実際のところは、数回読んだだけで全文覚えてしまい、忠義を始め関係者全員を驚かせたのだが。
「しつこいようだが、重要なのはこの最後の一節。最後の復唱もここだけでいい」
「うん」
「それでは……開いたな?いくぞ」
何十、何百と繰り返された、父と娘の西行寺家訓輪唱──
父が朗読し、娘がそれを復唱する。
つらつらと、いつものように。何一つ変わることなく。感情の一つも込めずに。
──西行寺たるもの
──さいぎょうじたるもの
──己を案ずること無かれ
──おのれをあんずることなかれ
──西行寺たるもの
──さいぎょうじたるもの
──己、犠牲になれど
──おのれ、ぎせいになれど
──その御心己を頼る皆の為、捧げよ
──そのみこころおのれをたよるみなのため、ささげよ
──西行寺の男
──さいぎょうじのおとこ
──西行寺の男たること自覚し
──さいぎょうじのおとこたることじかくし
──西行寺の存続にその全てを捧げよ
──さいぎょうじのそんぞくにそのすべてをささげよ
──西行寺の女
──さいぎょうじのおんな
──西行寺の女たること自覚し
──さいぎょうじのおんなたることじかくし
──その御力をもって……人の為に……
──そのおちからをもってひとのために……
「……」
まただ。
由々子は自分の父がこの一文に差し掛かったとき、稀にその口が動かなくなることがあることを知っている。
文章を読むのがそんなに苦しいのなら読まなければ良いのに……と、常々思う。
別に忠義が読まなくとも、由々子一人に朗読させておけば済む話なのだ。
父と娘が向かい合って読み合うことに、特にこれといった効果は無いのだから。
「お父さん……」
酷い時は脂汗を垂らして苦悩するくらいの反応を見せることもある。
初めてのときは慌てて妖忌を呼びに走ったものだ。しかしその次の日には平然とした表情で再開したのだが。
自分の父親のことながら、よくわからない。由々子はそんな風に思っていたりする。
「…………由々子」
暫く無言の時間が続き、やっとついて出た言葉は由々子の名前。
「なぁに?」
由々子は微笑みを浮かべながら答える。
明らかに調子の悪い忠義が、そんな自分の反応に少しでも救われてくれれば、と。
良い子で居ようと意識しているのとはまた別に、由々子生来の性分である優しさからくるもの。
しかし忠義はそんな由々子の表情を目にした途端、更に表情を顰めてしまった。
由々子の笑顔が、ぎしりと固まる。
「雪を……見たがっていたな」
「……え?」
先程の会話のことだろうか。
確かに由々子は雪を気にしていたし、忠義もそれに気付いていた。
しかし先程この復唱が終わった後に、と、そう結論がついた話である。
どうして突然、こんなときになって終わった話などを。
「……どうも、調子が優れないようだ。中途半端だが、今日はこの辺りで終わりにすることにしよう」
「え」
「由々子。お前は気にせず遊びに行くといい。しかし、雪が降ってきたということは当然ながらかなり冷える。最低限、風邪などひかないように防寒は整えてな。恐らくそろそろ妖忌も仕事を終えるだろう。遊んでもらえ」
「お父さん?」
「良い。わたしは少し休む」
「……うん、わかった。えっと、お父さんも……病気とかだったら、遠慮せずに言って」
「……ああ」
ぴしゃり。
襖が丁寧に閉じられ、室内に忠義一人となる。
幼い子供が一人居なくなっただけで、こんなにも見慣れた部屋が広く感じてしまうものなのか。
忠義は瞳を閉じたまま、そんなことを考える。くだらない感傷だとは思わない。
……あの一文でこうなってしまうことは頻繁とはいえないものの……まあ、これはいつものことだ。
だが今日の、このどうしようも無いくらいに胸を締め付けられるような感覚は一体何なのだろう。
もしかしたら、由々子の言うとおり何か病にでもかかってしまったのかもしれない。
しかし、それも自分の本当の気持ちを誤魔化しているに過ぎないということを心の奥底では理解している。
本当にどうしようもない。どうしようもないくらいに、ぎゅう、と……心が締め付けられるのだ。
閉じたままの眼の裏には二人の女性の後姿。
必死に手を伸ばしても、もうその手が届くことは永遠に無い。
「……姉さん、由比……、おれは……」
* * *
「妖忌、今日はなにを買いにきたの?」
由々子は珍しく妖忌に連れられて人里まで下りてきていた。
食料を買いに行きたいという話だったが、里には滅多に下りられぬ西行寺令嬢、もちろん二句を告げることなく同行を願い出た。
白玉楼の屋敷には結構なんでも揃っており、こうやって里までやってくる機会はそれこそ食料の買い出しくらいしかない。
由々子はいつも不思議で仕方ない。日持ちする食料は兎も角、魚や肉といった新鮮な食料は普段どうやって調達しているのか。
妖忌も買い出しは久しぶりだと呟いていた。いちいち嘘付く理由も思いつかないので、それは本当なのだろう。
あの広大な庭園には、もしかしたら由々子の知らない色々なモノがあるのかもしれない。
「塩を。……いや、不覚でした。まさか塩なんぞをきらしてしまうとは」
「塩?お塩が無くなっちゃったの?」
「はい。言い訳をするわけではありませんが、塩は食事以外にも使用することがありますので。他のものに比べて減っていく量が多いのですよ」
由々子は西行寺の娘である。当然、その他にも使用することの意味はわかる。
「清めの塩とか?」
「流石はお嬢。大正解ですぞ」
妖忌は片目を瞑ってにぃっと笑ってみせた。
由々子はなんだか自分がからかわれているような感じがして、ぷう、と頬を膨らませる。
もちろん妖忌がそんなことをするわけが無いとはわかっているが、それでも。
「それくらい、わたしにだってわかるわ」
「いやいや、もちろん」
くすくす。
「あ……」
頬を膨らませたままにしていたら、丁度通りがかった女性に笑われてしまった。
かぁぁぁっ、と不覚にも真っ赤になってしまう。
ふと周りを見渡してみたら、あたりに行き交う人々の姿がちらほらと見えるではないか。
こんな天下の往来で頬を膨らませて拗ねている少女が居れば、それはそれは目立ってしまうことだろう。
「妖忌のせいで笑われちゃったじゃない……」
むすっと一層ふてくされてしまった由々子を横目に、妖忌は大きな声を出して笑った。
どうも由々子は行き交う人にさえ小馬鹿にされたような気分になってしまっているようだが、そんなはずがない。
色白の頬を僅か朱色に染め、膨らませている姿は──それはもう、なんと可愛らしいことか。
あまりに微笑ましくて、つい口に笑みが零れてしまうことこそあれ、小馬鹿になど出来るはずが無いのだ。
そもそも西行寺、そして由々子は有名人である。この近辺でその名を知らぬ者はいない。
多様な理由から西行寺は人々に愛されている。
中でも由々子は周りからとびきりの寵愛を受けて育ってきた。
誰もが待ち望んだ西行寺の娘。それも、とても素直で優しく、愛さずにはいられない子。
人々は皆が皆、由々子を我が子のように、精一杯の愛情と──僅かな悲哀をもって、愛しているのである。
「はっはっは!や、失礼致しました」
「もう」
「せっかくこうして里まで降りてきたのです。今日は一つ、新しい毬でも買ってみましょうか」
てん、てん、てん──
聞き慣れた毬の音が頭に響いたような気がした。
「本当っ?」
ぱぁっと由々子の表情に華が咲く。
しかし同時に──つい、と妖忌の表情に翳りが差した。
「思えば……最近こうして毬の一つ、何かお嬢の為にと思い浮かびもしなかった自分が情けない限りで……」
その言葉に嘘は無い。本当に、心底そう思っているからこそ、まるで搾り出すような苦行のそれとして耳に聞こえるのだ。
由々子は別に責められたわけでもないのに、何か自分が妖忌を苛めているような、そんな感慨に囚われる。
それを口に出したとて、それはお嬢の優しさゆえにですよ、のような答えが返ってくるだけなのだろうが。
「べ、べつにいいよ……妖忌も、おしごととか大変だってわかってる」
「いや、しかしそれは自分の────
「……妖忌?」
突然妖忌はそっぽを向いて、次の句を語らなくなってしまった。
あまりに、幼稚すぎる慰めの言葉のように聞こえてしまったのだろうか。
恐る恐る妖忌の顔を覗き込んで、そして理解した。
刹那、沸きあがる複数の悲鳴。
「お嬢!自分の傍を決して離れぬよう──……御免!」
きょとんとする間もなく妖忌に抱きかかえられた。判り易く表現するならばお姫様抱っこ。
しかし仮にも西行寺の娘。いつもなら恥じらいの一つも見せようが、今はそんな時ではない。
「物の怪!?」
「は。この気勢……あまりに強力。せめて自分が加勢せねばこの里は……」
ぞっ、とした。
どんな相手であろうと常に余裕を忘れず、悠然とした構えをしている妖忌が。
相手の実力を一切過大評価も過小評価もしない妖忌が、強力であると。
だん!と妖忌が地面を蹴る。
「少々揺れますが、申し訳ございませぬ!この事態、急を要しますゆえにご辛抱のほどを!」
「だ、だいじょうぶっ」
由々子は自分が西行寺の娘であるということを自覚している。
西行寺たるもの────
悲鳴が次々と耳に入ってくる。
事態が悪化しているということは確認するまでもない。
人々が苦しんでいるというのならば、たとえ自分がどうなろうとも助けに行かねばならないのだ。
それに、妖忌が共に居るのだ。この場においてこれ以上頼りになる存在を由々子は知らない。
「お、おおっ、妖忌さん!ゆゆちゃん!」
地面に倒れていた男性に声をかけられる。
由々子がぱっと見た限り、深い傷を負っているようには見えない。
妖忌は男性の元に駆け寄った。
「大丈夫か!被害は!?」
「もう何人か食い殺されちまった!おら達じゃ手も足もでねぇ……頼む、皆を助けてくれ!」
食い殺された……。何人か……。
由々子はごくりと息を呑む。
つまり、切り殺されたとか殴り殺されたというレベルではないということだろう。
妖忌が強力と評した物の怪が、少なくとも人を簡単に食えるくらいの存在であるということがわかる。
もしも事態が事態なら有能な術者が何人も集まり計画を立てて一戦構える程の。
だが。しかしここで動転し、混乱するほど甘いに人間に育てられた覚えは無い。
隣の妖忌もまた然り、むしろ今までよりも冷静になってきたといえる。
──ふつふつと湧き上がってくる怒りの感情が、西行寺の血に火を点したか。
「わかっている、これ以上好き勝手はさせぬ」
「おじさん、また後でね」
由々子の一言に妖忌がちらりと視線を向ける。妖忌は優秀な従者だ。
西行寺の人間を最も理解している存在は、間違いなく妖忌である。
長きに渡り、歴代の西行寺を支え、見守り続けてきた魂魄妖忌、その人。
由々子は小さく頷いて見せた。
「西行寺従者が一人……我が名、魂魄妖忌!お嬢、御命令を!」
幼い娘をお姫様抱っこしたままでは格好がつかない──かと思えば、そうでもない。
そもそも由々子は妖忌の主というわけでもないのだ。これくらいアンバランスな方がらしくて良いと、由々子は思う。
また、悲鳴が。
由々子は悲鳴の方向へ視線を向け、呟くように命を下す。
「少しでもいいから、物の怪の動きを止めて。始末はわたしがつけるわ」
「……っ」
妖忌は目を見開いた。由々子の表情、口調、感情があの日のあの方と重なる。
流石は由比様の御息女。姿、まさしく生き写しかと思っていたのは日々の常。
しかし、真に似通うはやはり内面か。血は争えぬとはよく言ったもの。
焔の点った西行寺が横、魂魄のこの血が猛らぬはずが無い──!
「……承知!」
妖忌は口の端を僅かに吊り上げ、再び地面を蹴った。
鬼。
物の怪としてはかなり有名な部類に入る存在。
しかし、馴染みの名称だからとて決してその力を侮ることはできない。
人の何倍もの腕力を持ち、厄介なことに人と同等とまではいかなくても知能も持っている。
同じ人でもその性格や能力に大きな差異があるように、それは鬼にとっても同じことが言える。
一般的には人に対して敵意を持っており、暴力的な性格をしているものが多いとされるが、
それはあくまで平均的な鬼の特徴というだけであり、その全ての鬼がそういう存在であるというわけではない。
極稀にではあるが、人に対して好意的な鬼だって存在するのだ。
その逆もまた然り。
人に対して本能というだけではとても説明のつかないような、絶大な敵意を持った鬼も、居る。
特に何があったと言うわけでも無いのに人里に下りてきてはその敵意の対象を食い殺し──暴れる。
先に述べたように、一言で鬼と言ってもその内実はピンからキリまである。
里一番の力自慢がなんとかできるレベルから、里全体が総力を挙げてやっと追い返せるようなレベルまで。
時には武器を振るい、人を嘲笑うかのような理知的な戦術を用い、人にはとても扱えないような妖術を放つ輩も存在する。
「お嬢──あやつ、妖術も用いる様子。万全を期して掛かりますぞ」
「うんっ」
また、人の悲鳴が耳に入った。
断末魔。
同時に遠目に火柱が目に飛び込んでくる。
人魂のような火の玉がそこらじゅうを飛び交っている様子も見て取れた。
これまた一番有名な妖術の一つ。少なくとも人に扱えるような術ではないことは一見して判断できる。
「ゆゆちゃん……っ!」
聞き覚えがある!
確か──そう、今日立ち寄ろうとしていた、いつも塩とかを売ってくれるおじさんの声。
慌てて振り返った由々子の目に、家の壁に寄り掛かりながらこっちに向かって声を挙げている男性の姿が映る。
里を守る兵など持たぬ人々にとって、やはり頼れるのは──
「お嬢!」
「っ……わかってる!」
もう、鬼は眼前と言っても差し支えないほどの位置にまで迫ってきていた。
まだ自分達の存在に気付いているのか、それとも気に留めてさえいないのか、ゆっくりとこっちに振り返ろうとしている。
鬼の顔を見て、由々子は自分の頭の中を血がごうごうと駆け巡るように感じた。
「我は西行寺!立ち去るがいい、鬼!」
まだ幼い娘が声を張り上げる。
本当に、まだ幼いのだ。その声も、場所が場所なら何かのごっこ遊びで叫んでいるような、それくらいに。
それでも西行寺歴代一と呼ばれるその能力の高さは、そんな他愛も無い考えを思い浮かべることを許さない。
人々は目の当たりにしてきた。
由々子という、こんなに小さな女の子が、屈強な鬼をその細腕二本で屠ってきた様子を。
ゆえに。
やはり頼れるのは────未来永劫、この地域を守り続けてきた、西行寺の血。
「さもなくば!」
由々子の一声にあわせるように、妖忌も叫ぶ。
その声を合図として、由々子はその足を妖忌の肩にかけて、宙へ跳んだ。
まるで、ふわりと、そんな音が聞こえるような軽やかな舞。
やっと鬼が二人のほうへと身体を向ける。
自らに向かって突進してくる男と、その上に、静かに舞う少女。
妖忌は鬼の注意が二点に分かれたことを理解すると、更に身を屈め、思いっきり地面を蹴った。
一足──
二足────!
一瞬で間合いを詰めてきた妖忌に、鬼は慌てたように牙を剥いた。
それでもやはりというべきか、一切迷うことなく妖忌の顔面に向かって拳を繰り出す。
斬!
突き出された拳がずるりと腕から離れた。
妖忌は僅かに身を捩り、すれすれのところで鬼の身体を交わして背後へ回る。
同時に、擦れ違い様に振り切った刀を斬り返し鬼の腹部を裂いた。
強靭な肉体を持つ鬼にとって決して致命傷と呼べる傷では無いものの、それでも当然衝撃を与えないわけではない。
片手を失い、さらには腹を斬られた鬼の注意が二点から一点へと。
それも、その注意の先は由々子でも妖忌でもなく、只、自らの失われた手の先だけ。
そんな油断を見逃すはずも無く、由々子は舞い降りるように……ひたりと鬼の額に自分の手の平を当てた。
「亡霊誘え黒死の蝶々……汝、妖の反魂となれ……亡我郷にて後悔せよ!……なきさけべ!くいあらためよ!」
ぱんっ。
冗談のような音が聞こえたと、その場に居た皆がそう思った。
顔を上げた村人達が見たものは。
鞘に刀を収める妖忌の姿と、その妖忌になにやら声をかけられ喜んでいる由々子の姿。
そして。
辺り一面に舞い散る、黒色をした──美しい蝶々の姿。
静かに静かに、蝶々はゆっくりと舞い散る。
この場で終わってしまった人々を弔うかのように。
通り過ぎていった人たちの思い出を、深い深い闇の奥底へ誘うかのように。
幻想的な、非現実的な光景。
黒色の、死を誘う蝶々が……血の匂いと共に村に舞った。
「お嬢、今日もまた御見事で御座いました」
「ん〜……うん、出来過ぎじゃないかなってくらいに上手にできちゃた」
隣を歩く妖忌を見上げながら、由々子はくすくすと笑った。
だが、その表情はやはり冴えない。
顔見知り数名を含めた多くの人間が、つい先程鬼に食い殺されたのだから当然といえるだろう。
少なくとも由々子は、この場でへらへら笑顔を浮かべ続けることが出来るような人間ではない。
流石にこんな状況下で塩を買い求めることも出来ず、一通りの後始末を手伝い二人は帰路へとついた。
ぽてぽてと歩く由々子の腕の中には、真新しい毬が一つ。
帰り際、せめてこれくらいはと妖忌が買い与えてくれたものだ。
そう、せっかく珍しい里参りを楽しもうとしていた矢先のこの悲劇、落ち込む由々子を見るのはあまりに辛い。
そんな妖忌の心遣いが嬉しくて嬉しくて……
沈む気持ちの中に引きずり込まれることなく、毬を思いっきり抱き締める。
「……お嬢」
毬を抱き締めたまま、僅かに俯きながら足を進める由々子に。
「なぁに?」
せめてもの幸せをと幾度願えども、それさえ僅かにも敵わぬこの娘に。
「帰ったら、毬遊び……この妖忌もお付き合い致します」
こんな自分でも一時の憩いの時間を作れるのならばと。
「本当!?」
妖忌は、微笑みながらゆっくりと頷いた。
* * *
白玉楼の屋敷に金色の陽光が差し込む。
その光が描き出す数々の影は、その時刻の象徴とも言えようか、どこか寂しげな雰囲気を作り上げている。
その時間、そんな夕焼けの屋敷の一室に男が三名、集まって話をしていた。
その中の一人──屋敷の主人は、その細い眼を大きく見開き……
「……も、もう一度……言ってくれ」
屋敷の主人、西行寺忠義の震える一言に、彼の眼前に座する老人が大きく溜息をつく。
ちらりと視線を横に流した先、同じく正座する魂魄妖忌も──主人と全く同じ様子。
無理も無いかと、更にもう一度溜息をついた後、ゆっくりと出涸らしの声を漏らすように出した。
「西行妖の封印が、そろそろ限界のようじゃ……と、言った」
もはや口を開けることさえも敵わぬ主に代わり、妖忌が呻く様に言葉を返す。
「それは、つまり……」
「ここ数日、この近辺の酷い有様……。耳にはしていたと思うが、おぬしは今日というこの日に実感したことじゃろう」
「……」
無言。
「西行妖はその恐るべき妖気ゆえに、数多の妖を呼び集める。それが何を意味するのかわしにはわからんし、当然西行寺のおぬしたちも、この長い歴史の中で理解することはできんかっただろう。──この物の怪の数、最早封印が解けると言っても過言じゃあるまい」
「で、ですが!」
「忠義殿。……わかって、おるな?」
腰を浮かせた妖忌から視線を逸らし、俯く忠義を真っ直ぐに見詰める。
老人は、わかっていて言っている。確信した上で、自分に問い掛けているのだ。
あの日、あの時、降り頻る雪の中で消えていったあの人の尊い犠牲。
それによって皆が得た時間が、既に尽き掛けているという事実。
そしてそれは、西行寺の歴史が新たな犠牲の誕生を証明しているということ。
──さいぎょうじのおんな
忠義は、人がこれほどの表情を浮かび上がらせることができるのかというほどの凄まじい形相のままに答えた。
「人柱、を……あれを、また……」
夕焼けの影が濃くなった室内に、一層の静寂が舞い降りる。
誰もが声を出さなかった。否、……出したくなかった。
次の一言が、何か、今まで育んできた大切なものを全て失わせることになると、その場の誰もが理解していたからだ。
「妖忌殿」
「……は」
「おぬしは、理解しておられるな」
「……」
「魂魄。人の何倍もの時を生きる、生まれつき半人半霊の一族、か……。わしもこうして、おぬしという存在を童の頃から見続けておらねば……決して信じることはできなかったじゃろう」
「……」
「幼少の頃に自ら付き従う家を定め、その長き一生涯をかけて尽くす」
「それは……」
「ゆえに、魂魄に守られし家の者は皆、魂魄を慕い、頼る。おぬしもその眼で見続けてきたはずじゃ」
もう、聞いていられなかった。
今すぐにでもこの静寂しか存在しない部屋から飛び出し、自分を待つ由々子の元へと駆け出したかった。
自分が買い与えた毬を抱き締めて、自分を今か今かと待ちわびているはずだ。
そう、こんなところで……こんな話をしている場合じゃない。
「そのようなことは……自分は、常々理解しておりますゆえ……」
「あやつも、忠義殿の姉も、おぬしを慕っておったな」
「……ッ!」
自然と立ち上がろうとしていた身体がぎしりと固まる。
動けない──動かない、何故だ。自分は由々子の元へ今すぐにでも──
老人は妖忌の表情を見て、やるせないように、ゆっくりと視線を逸らした。
……この男、自らが鬼のような形相をしておることに気付いておらぬか、と。そう思って。
「わしは、わしが憎い」
ゆるりと、本当に静かな口調で、閉じられた障子の向こうを見やるように視線を遠くし……。
間違いなくその言葉は真実。
忠義も妖忌も、その一点に関して心の底から全く疑いを持っていない。
だからこそ西行寺の全てをかけて、この老人を──村を、守り続けているのだから。
「……」
「このような、只生きているだけでしかないような老いぼれが死に、それで事が済むのなら……わしは喜んで腹を斬ろう。」
「村長殿……」
「良い。そう、わかっておる……何もかも、わかっておる。わしがくたばろうとも何一つ変わることは無い。西行妖はその封印を解き放ち、再び数多の妖を呼び寄せるだろう……。何も、変わらぬ」
忠義の脳裏に、あの日の光景が浮かび上がった。
そう。あの日は確か……まだ幼かった自分が、父と姉の背中を見て……泣いていた。
あのときも、この村長は恥も外聞も捨てて泣き続ける自分を見て、嗚咽一つ漏らさず涙を流していた。
この人も老いた。忠義は、まるでこの場に相応しくないことをふと思った。
今日というこの日もまた、村長の頬に、静かに涙の一線が流れたから──。
「西行妖が再びその力を取り戻せば……恐らくはこの一帯の集落は全滅。……いや、それだけで済むはずが無い。あれに魅了され、寄って来る物の怪どもは人々を食らい尽くし、繁栄し……この国そのものが危機に陥るやもしれん」
御伽噺のようにしか聞こえぬ、この老人の語る内容。
しかしそれが真実だとわかっているから、だからこそ忠義と妖忌はただただ辛くて苦しくて。
すまぬと連呼する村長に言葉一つ返すことができぬまま、頭を垂れ続ける。
無言の時が静かに流れる。
村長と呼ばれた老人は、小さな溜息を一つつき、緩慢な動作で立ち上がった。
そのまま同じようなペースで部屋の出口まで足を進め、障子に手をかける。
そこで、立ち止まった。
背中越しに小さく、しかし最早一切の躊躇が無い声で──。
「再び西行妖を封印してもらう」
「西行寺由々子を人柱として」
そこは……幼い少女には広すぎる庭園。
夕暮れのその場に、由々子は毬を抱き締め、立っていた。
妖忌が自分と遊んでくれると約束してくれてから、既に結構な時間が経過している。
しかし、それでも夕焼け空の下、由々子の表情はそれほど陰りを帯びてはいない。
あの優しいけれども堅物な妖忌が毬遊びを一緒にしてくれると言ってくれたのは、実は今回が初めてだ。
毬を使ってどんな遊びをしようかと、そんなことを考えているだけで嬉しくて仕方ない。
今日の辛い出来事を忘れることなど決してできないが──それでも、このときくらいはせめて。
一人では限られていた遊びも、二人だったらもっと色々なことができるはず。
由々子は自然と微笑みを浮かべながら、さらに一層、強く強く腕の中の毬を抱き締める。
「妖忌、早くこないかなぁ……」
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