8月21日は元祖芸能リポーターの梨元勝さん(享年65)の命日だ。2010年に亡くなって丸4年になる。
梨元さんには本紙で長年、ご活躍いただいた。20年以上前には「トリオ・ザ・地獄耳」と題し、梨元さん、須藤甚一郎氏(75=現目黒区議)、井上公造氏(57)の3人による座談会を月に1回ペースで開催し、スクープを披露してもらった。その編集を担当していたことで、公私共にかわいがってもらった。
梨元さんがマスコミ業界入りしたのは1967年のこと。講談社の女性誌「ヤングレディ」の契約記者として仕事を始めた。76年に記者からテレビリポーターに転身。取材もできるリポーターとしては先駆者だった。しかも、筋金入りの反権力志向だったのは、接した誰もが覚えているところだ。
「ジャニーズなどの大手芸能プロ、政治家、財界はもちろん、自分が雇われているのに、テレビ局にまで、反旗を翻していた。一番嫌いだったのは“圧力”と“えこひいき”。最後まで変わらず一貫していた」とはベテランのワイドショーデスクだ。
今でも変わらないが、ほとんどの芸能マスコミは、大きな影響力を持つ大手芸能プロに所属するタレントのスキャンダル報道を最小限にしたり、蓋をして報じなかったりする。テレビ局はドラマの出演者とその芸能プロ、大手出版社はファッション誌などで起用しているモデルやタレントに、それぞれ配慮しなければならないからだ。
梨元さんはこうした芸能プロからの圧力や、メディアが大手芸能プロをえこひいきするのを“けしからん”と常々言っていた。
その点、東スポの芸能記事はタブーがない。それもあってか、約30年にわたって、東スポ紙面をスクープで彩ってくれた。肺がんとの闘病中も、病室にパソコンやファクス、携帯電話を持ち込んで、取材・執筆活動を敢行。遺稿も長年続いた「梨元勝の特捜リポート」だった。
キャッチフレーズとなった「恐縮です」をめぐっては、様々な誕生秘話がある。
記者は梨元さん本人から「夜中でも早朝でも直撃取材しなきゃいけないのは東スポもボクらも同じ。そうなると、少しでも相手に“悪いな〜”と思って行かないと。そのときにすごい便利な言葉なんですよ」と聞いたことがある。
だが、前出の須藤氏は「梨さんが大学時代のバイトで旅行添乗員をしてて、いつも客のおじいちゃん、おばあちゃんに余ったお弁当をもらって、そのたびに『恐縮です』と返してたのが最初だと思う」。
某スポーツ紙記者が梨元さんと同席した焼き肉店で、ドリンクがサービスで出てきたときに「恐縮で〜す」と発し、それを聞いた梨元さんが「それ、いいね〜」と拝借したという説もある。
今思えば、ここまで諸説あるのは、梨元さんの周囲に大勢の人が集まり、それぞれが願望を込めて様々に解釈し、拡散させたからだと思う。ベテランから新人記者まで分け隔てなく、サービス精神旺盛に付き合い、新しい話も物も大好き。その親分肌が、いくつもの伝説を生んだ。
「テレビ局の報道姿勢に激怒し、自ら降板した番組は数知れず。それくらいの信念を持っていればメディアに属するもよし、去るもよし、と教えてくれた。梨さんは最後、若手からの助言でスタートさせたインターネットに将来性を見いだしていたから、存命だったら、今頃すごい芸能サイトができていたはず」(週刊誌記者)
いまや、ワイドショーでは突撃リポートはなくなり、芸能リポーターも減った。それだけに梨元さんの偉業は何年たっても際立っている。
(文化部副部長・延 一臣)