長崎:15歳の被爆体験記 語り部支えるノート 中野さん

毎日新聞 2014年08月08日 13時00分

 長崎市内の兵器工場に学徒動員され、13人が原爆の犠牲になった伊万里商業学校(佐賀県伊万里市、現・伊万里商高)の卒業生、中野隆三さん(84)=伊万里市=が今も見返す1冊の古びたノートがある。1945年秋に書いた被爆体験記だ。15歳の中野さんが目にした被爆地の状況が記され、現在の語り部としての活動を支えている。

 伊万里商業学校からは約80人が動員され、三菱重工長崎兵器製作所大橋工場で働いた。中野さんは夜勤を終えて戻った寮(爆心地から約1・5キロ)で被爆し、足や手に重傷を負った。原爆投下当日の8月9日夕に汽車で長崎を離れ、10日午前には古里に戻った。体験記は体調が回復した秋、「記憶が鮮明なうちに記録を残しておこう」とつづった。保管しているノートは翌年に清書したものだ。

 建物ごと爆風で飛ばされたことや、「桃色のダルマみたいな」きのこ雲を見たことなど、体験記には当時の状況が細かく記されている。原爆投下後の様子は「爆弾の落ちた後にはおそろしく大きな穴があくものだが、それが一つもない」と書いた。

 被爆地から逃れるためにようやく乗り込んだ汽車には、窓から顔を出して「水をくれ」と叫ぶ負傷者や、死んだ子供を必死に揺さぶる女性がいた。血のにおいが充満する車内で、中野さんは涙をこらえきれなかった。汽車を乗り継ぎ家に帰り着いたのは、被爆から約24時間後。布団に横になって11日昼に目が覚めたところで、体験記は結ばれる。

 中野さんは、表紙が茶色く変色したノートを手にし、今も地元の小学校などで被爆体験を語っている。「幸運にも生き残り、当時書いたものが残っている。年をとって記憶は薄れつつあるが、ノートを読めば確実にその時のことが思い出せる」と話す。

 8月9日には、伊万里商高で同窓生らが開く追悼式に出席する。あの日から生き延びた同窓生が少なくなる中、「体力が続く限り、原爆のことを伝えるよ」と誓うつもりだ。【小畑英介】

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