SNSという機能が社会から必要とされる時代は、もう終わったんじゃないかと、感じています。
SNSに適した一言居士とか無双みたいなスタイルも、社会に必要とされなくなっているような、そんな気がします。いまSNSで数年前と同じように物申している人たちも、結局は固定客相手の話芸にしか過ぎないような気がするし。
それでメシが食える人がいるというのは、確かに素晴らしいことです。だけど「それはよかったね」以上のことではないようにも思えます。実際、それでメシが食える人が、それ以外の世界に羽ばたいていったかというと、ゼロではないけどねえ…という話。
cakesがプラットフォームとして登場した時、うまくいくといいなとは思っていました。ただ正直、「あーいつもの面々ですね」という感じが否めなかったのは、ぼくだけじゃないでしょう。そしてこれは、Yahoo!個人もしかり、ハフィントンポストもしかり。
かくいうぼく自身、Yahoo!個人もハフポも、立ち上げ当初からお誘いいただいていて、自分自身がその「いつもの面々」の末席になっているわけか、と感じました。ただ、本業のコンサルティングが忙しいこともあって、ダイヤモンド・オンラインの連載の更新さえもままならず、そもそもお引き受けできずにここまで来ました。
そうやって微妙な立ち位置で眺めて思うのは、結局インターネッツって何なんだろうな、ということです。特に「インターネッツの箱庭」ともいえるSNSって、これは一体何なんだろうと。cakesもハフポもSNSも、「あーいつもの面々ですね」感は共通していますし、SNSの方が個人のキャラが際立つ分、むしろ結晶化しているようにも思えるわけです。
いつもの面々が一言居士として君臨し、罵倒したりされたり。そういう光景をぼくらは延々と眺めてきました。ええ、ぼく自身も、その一言居士の一人ですからね、よく分かりますよ。
で、結局何なのか。ぼくなりに出した答えは、「これは出来損ないの増幅装置だ」ということです。
そもそも増幅装置だから、ネタ元がないと、何の役にも立たない。そういう意味で、ぼくらの生活に、あったら便利かもしれないけど、なくてもいい。そして、うまく作動することもあるんだけど、不調でノイズを撒き散らす頻度の方が高い。
だから「SNSがなくても生きていける」というのは、実はちょっと言い足りない。「こんなポンコツなら、ない方がマシ」というのが真実かなという気がしています。実際、SNS使わない(ろくに使っていない、少なくとも発言しない)人の方が、おそらくはマジョリティでしょうね。
もちろん、これだけSNS(というか特にツイッター)に失望するようになったのは、かわいさ余って憎さ百倍、みたいなことでもあります。なにしろぼくはツイッターに期待してましたからね。そうでなければ、熱心に取り組んで1.2万人のフォロワーさんなんて、集められなかっただろうし。
ツイッターの何に期待していたのか。これが普及するプロセスで、人間中心の社会が実現するんじゃないかという、そういう期待をもっていたんですね。ルネサンスじゃないけど、そんな感じ。でも実際は、SNSは人間のことを何も見ていなかった。
だからSNSは、デリカシーのない言葉で罵られたり、根拠のない中傷がまかり通ったり、そうやって傷ついた人が放置されたり、という修羅の世界になってしまった。そりゃみんな逃げ出すよね。こんなものに時間やカネを費やすのが馬鹿馬鹿しい。
結局のところ、SNSは、人間一人一人に対する配慮が、ものすごく足りないんだと思います。SNSという機構の関心の対象は、人間ではなくて、人間同士の関係性だけ。関係性は大事にするけど、その主体である人間一人一人は放置されてしまう。傾向としてはツイッターが顕著だけど、facebookも似たようなもの。
増幅するネタ元が必要で、かつ人間一人一人は放置される。そう考えれば、SNSが「いつもの面々」に支配されるのは、自明というものでしょう。彼らにはそれなりのネタを発信する能力があるし、かつ放置されても勝手に生きていく、というより放置はむしろ好物、みたいな感じです。ええ、かつての私も、そんな感じでしたよ。まあいまもそういう気質は残存してるでしょうね。
しかし、そんなSNSって楽しい?そんな時期もあったけど、もうマンネリだよね。あるいは、もうウンザリ。
そういう感覚を一度でも覚えると、たとえば「バーで隣り合わせた(オトナの諸条件を満たした)人との会話の方がSNSなんぞよりよほど楽しい」という、いわばSNSの限界に、あっさり気づくことになります。
そりゃそうです、SNSは人間のことを、「言葉を受発信する装置」としか、認識していないんだから。バーが提供する「オトナの諸条件」なんて、SNSでは満たしようがない。そしてバーのやりとりが心地よいんだとしたら、SNSはつまらないに決まってる。
SNSは、ネタを発信する人間を、いつでも手ぐすね引いて待っています。そしてその報酬も、人間に拠出される。SNSというシステムは、それをただひたすらに、増幅しつづけるだけ。それでいいじゃないか、と思える人だけが、SNSの「勝ち組」として残っていく。勝ち組になれなかった人はどうする?そんなの知らないよ、いやなら使わなきゃいいじゃないか、とSNSは言い放つのでしょう。
勝ち組にせよ負け組にせよ、SNSは人間をスポイルしている。そう気づいた瞬間、少なくともぼくにとっては、ああこのシステムは限界だな、と感じるようになりました。そして、こういう限界をSNSは克服できるのか、それこそ1年以上考え続けてきました。
結論としては、たぶんぼくは無理だと思っていて、それゆえに「あーSNSもこれまでか」っていう思いが、このところものすごく募っています。
ここ数ヶ月、ツイッターのタイムライン上で、ツイッターを小馬鹿にするようなシニカルな物言いを続けてきました。それは「いや、SNSも、まだまだおもしろいよ」という反論を聞きたいという思いもあったんですね。でも結局は限界がよりはっきり見えてきただけで、何もならなかった。
その一方、いまぼくは、新しい会社を立ち上げて、新しいサービスを開発しています。そこでは「人間を支援するための道具」を作りたいんですね。そのサービスに、ソーシャルという要素がどれくらい必要かというと、実はあんまり必要なかったんです。ゼロじゃないんだけど、どうやらほんのわずかでいい。
そして周囲を見渡すと、「ソーシャルという機能や機構ってあんまりいらない/むしろできるだけ排除したい」ということに気づいた人たちが、楽しそうに仕事したり、活き活きとしていることに気がついたんですね。
もちろんぼくらは、社会の中でしか生きていけない生物なので、人間同士の関係性は大事なものなんだけど、それは一人一人の人間の尊厳を上回るものじゃないんですよね。だって、尊厳が認められた人間同士じゃないと、無理のない人間関係って形成できませんからね。
そんなことをぼちぼち考えています。とりとめのない駄文ですみませんが、ツイートしたことをまとめて手を加えたら、こんなふうになりました。これもツイッターとかでテキトーに弄んでもらって構いませんよ、はっはっは。