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SNSの終わり

2014-08-07 21:00:00
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プロフィール

クロサカタツヤ / KUROSAKA, Tatsuya

インターネットや通信、放送サービスが大きく変容する中、産業、政策、技術開発等の最新動向や、情報通信サービスと社会の関係性を考える上での「新たな視点」を、同分野のさまざまなレイヤーでコンサルティング活動をしているクロサカタツヤ氏がお届けします。
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SNSという機能が社会から必要とされる時代は、もう終わったんじゃないかと、感じています。


SNSに適した一言居士とか無双みたいなスタイルも、社会に必要とされなくなっているような、そんな気がします。いまSNSで数年前と同じように物申している人たちも、結局は固定客相手の話芸にしか過ぎないような気がするし。


それでメシが食える人がいるというのは、確かに素晴らしいことです。だけど「それはよかったね」以上のことではないようにも思えます。実際、それでメシが食える人が、それ以外の世界に羽ばたいていったかというと、ゼロではないけどねえ…という話。


cakesがプラットフォームとして登場した時、うまくいくといいなとは思っていました。ただ正直、「あーいつもの面々ですね」という感じが否めなかったのは、ぼくだけじゃないでしょう。そしてこれは、Yahoo!個人もしかり、ハフィントンポストもしかり。


かくいうぼく自身、Yahoo!個人もハフポも、立ち上げ当初からお誘いいただいていて、自分自身がその「いつもの面々」の末席になっているわけか、と感じました。ただ、本業のコンサルティングが忙しいこともあって、ダイヤモンド・オンラインの連載の更新さえもままならず、そもそもお引き受けできずにここまで来ました。


そうやって微妙な立ち位置で眺めて思うのは、結局インターネッツって何なんだろうな、ということです。特に「インターネッツの箱庭」ともいえるSNSって、これは一体何なんだろうと。cakesもハフポもSNSも、「あーいつもの面々ですね」感は共通していますし、SNSの方が個人のキャラが際立つ分、むしろ結晶化しているようにも思えるわけです。


いつもの面々が一言居士として君臨し、罵倒したりされたり。そういう光景をぼくらは延々と眺めてきました。ええ、ぼく自身も、その一言居士の一人ですからね、よく分かりますよ。


で、結局何なのか。ぼくなりに出した答えは、「これは出来損ないの増幅装置だ」ということです。


そもそも増幅装置だから、ネタ元がないと、何の役にも立たない。そういう意味で、ぼくらの生活に、あったら便利かもしれないけど、なくてもいい。そして、うまく作動することもあるんだけど、不調でノイズを撒き散らす頻度の方が高い。


だから「SNSがなくても生きていける」というのは、実はちょっと言い足りない。「こんなポンコツなら、ない方がマシ」というのが真実かなという気がしています。実際、SNS使わない(ろくに使っていない、少なくとも発言しない)人の方が、おそらくはマジョリティでしょうね。


もちろん、これだけSNS(というか特にツイッター)に失望するようになったのは、かわいさ余って憎さ百倍、みたいなことでもあります。なにしろぼくはツイッターに期待してましたからね。そうでなければ、熱心に取り組んで1.2万人のフォロワーさんなんて、集められなかっただろうし。


ツイッターの何に期待していたのか。これが普及するプロセスで、人間中心の社会が実現するんじゃないかという、そういう期待をもっていたんですね。ルネサンスじゃないけど、そんな感じ。でも実際は、SNSは人間のことを何も見ていなかった。


だからSNSは、デリカシーのない言葉で罵られたり、根拠のない中傷がまかり通ったり、そうやって傷ついた人が放置されたり、という修羅の世界になってしまった。そりゃみんな逃げ出すよね。こんなものに時間やカネを費やすのが馬鹿馬鹿しい。


結局のところ、SNSは、人間一人一人に対する配慮が、ものすごく足りないんだと思います。SNSという機構の関心の対象は、人間ではなくて、人間同士の関係性だけ。関係性は大事にするけど、その主体である人間一人一人は放置されてしまう。傾向としてはツイッターが顕著だけど、facebookも似たようなもの。


増幅するネタ元が必要で、かつ人間一人一人は放置される。そう考えれば、SNSが「いつもの面々」に支配されるのは、自明というものでしょう。彼らにはそれなりのネタを発信する能力があるし、かつ放置されても勝手に生きていく、というより放置はむしろ好物、みたいな感じです。ええ、かつての私も、そんな感じでしたよ。まあいまもそういう気質は残存してるでしょうね。


しかし、そんなSNSって楽しい?そんな時期もあったけど、もうマンネリだよね。あるいは、もうウンザリ。


そういう感覚を一度でも覚えると、たとえば「バーで隣り合わせた(オトナの諸条件を満たした)人との会話の方がSNSなんぞよりよほど楽しい」という、いわばSNSの限界に、あっさり気づくことになります。


そりゃそうです、SNSは人間のことを、「言葉を受発信する装置」としか、認識していないんだから。バーが提供する「オトナの諸条件」なんて、SNSでは満たしようがない。そしてバーのやりとりが心地よいんだとしたら、SNSはつまらないに決まってる。


SNSは、ネタを発信する人間を、いつでも手ぐすね引いて待っています。そしてその報酬も、人間に拠出される。SNSというシステムは、それをただひたすらに、増幅しつづけるだけ。それでいいじゃないか、と思える人だけが、SNSの「勝ち組」として残っていく。勝ち組になれなかった人はどうする?そんなの知らないよ、いやなら使わなきゃいいじゃないか、とSNSは言い放つのでしょう。


勝ち組にせよ負け組にせよ、SNSは人間をスポイルしている。そう気づいた瞬間、少なくともぼくにとっては、ああこのシステムは限界だな、と感じるようになりました。そして、こういう限界をSNSは克服できるのか、それこそ1年以上考え続けてきました。


結論としては、たぶんぼくは無理だと思っていて、それゆえに「あーSNSもこれまでか」っていう思いが、このところものすごく募っています。


ここ数ヶ月、ツイッターのタイムライン上で、ツイッターを小馬鹿にするようなシニカルな物言いを続けてきました。それは「いや、SNSも、まだまだおもしろいよ」という反論を聞きたいという思いもあったんですね。でも結局は限界がよりはっきり見えてきただけで、何もならなかった。


その一方、いまぼくは、新しい会社を立ち上げて、新しいサービスを開発しています。そこでは「人間を支援するための道具」を作りたいんですね。そのサービスに、ソーシャルという要素がどれくらい必要かというと、実はあんまり必要なかったんです。ゼロじゃないんだけど、どうやらほんのわずかでいい。


そして周囲を見渡すと、「ソーシャルという機能や機構ってあんまりいらない/むしろできるだけ排除したい」ということに気づいた人たちが、楽しそうに仕事したり、活き活きとしていることに気がついたんですね。


もちろんぼくらは、社会の中でしか生きていけない生物なので、人間同士の関係性は大事なものなんだけど、それは一人一人の人間の尊厳を上回るものじゃないんですよね。だって、尊厳が認められた人間同士じゃないと、無理のない人間関係って形成できませんからね。


そんなことをぼちぼち考えています。とりとめのない駄文ですみませんが、ツイートしたことをまとめて手を加えたら、こんなふうになりました。これもツイッターとかでテキトーに弄んでもらって構いませんよ、はっはっは。

※このエントリは CNET Japan ブロガーにより投稿されたものです。朝日インタラクティブ および CNET Japan 編集部の見解・意向を示すものではありません。
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