広島原爆の日:憎しみ越え前へ…米に嫁いだ娘へ託す

毎日新聞 2014年08月06日 11時40分(最終更新 08月06日 18時30分)

原爆ドームの前で話す美甘進示さん=広島市中区で2014年8月5日午後3時14分、宮武祐希撮影
原爆ドームの前で話す美甘進示さん=広島市中区で2014年8月5日午後3時14分、宮武祐希撮影

 「憎しみからは何も生まれない。憎しみを乗り越えて前に進もう」。米国が広島に投下した原爆や戦争で家族を失い、自身も死のふちに立った美甘進示(みかも・しんじ)さん(88)=広島市東区=は、戦後そう言いながら3姉妹を育てた。美甘さんは戦時中、父から「戦争はくだらん。互いの立場を考えよ」と教えられた。その精神は世代を超えて受け継がれ、米国に住む美甘さんの次女は毎年8月6日になると、現地で慰霊の式典を開き平和を祈っている。

 ◇家族を失い、形見も盗まれた

 美甘さんが被爆したのは、爆心地から1.2キロの自宅だった。当時19歳で、引っ越しのために屋根の上で瓦を外す作業をしていた。全身に大やけどを負いながら、父の福一さん(当時63歳)に連れられ、がれきの街をさまよった。美甘さんは痛みから「死なせてくれ」と訴えたが、福一さんは「お前は若い。痛みは必ず取れる。意志を持って生き残れ」と何度も励ました。

 原爆投下から5日後、美甘さんが病院に収容されるのを見届けると、福一さんは行方不明に。それ以来、消息が分かっていない。広島を離れて病気療養していた母も、翌月病死した。三つ違いの兄がフィリピンで戦死していたことは、終戦後に知った。美甘さんは1人になった。

 戦前、福一さんは郷里の岡山県を離れ、写真家になった。広島で家族を持ち、美甘さんにとっては頼れる父だった。原爆投下の3カ月後、自宅の焼け跡から見つかった福一さんの懐中時計は、唯一の形見だった。時計の針は無くなっていたが、文字盤には原爆が落ちた時間の「午前8時15分」を指す針の影が焼き付いていた。

 だが、この形見も盗まれてしまう。1989年5月、核廃絶を訴える展示のため、米ニューヨークの国連本部に貸し出していたが、訪れた美甘さんの次女、章子さん(52)が盗難に気付いた。章子さんは憤ったが、それでも美甘さんは「人を憎んでも何も生まれない」と、静かに現実を受け入れていたという。

 美甘さんは電機会社を経営し、章子さんは米国人と結婚してサンディエゴに移り住んだ。章子さんは、2010年から8月6日になると現地で式典を開いている。参列した人たちは折り鶴を持ち寄り、被爆者を慰霊する鐘をつく。

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