広島原爆の日:翻弄された人生 姉妹、被爆体験伝えていく
毎日新聞 2014年08月06日 22時18分(最終更新 08月07日 05時13分)
69回目となる「原爆の日」の平和記念式典に、遺族代表として初めて参列した姉妹がいる。木村美子さん(72)=茨城県鹿嶋市=と和子さん(70)=栃木県小山市。「限りある命だから、自分たちが体験したこと、知ったことを伝えていきたい」。被爆者でもある自分たちの役割は何かを問い直しながら、慰霊碑を見つめた。【吉村周平】
69年前の8月6日、広島に落とされた1発の原子爆弾が、亡き母・三宅道子さん(74歳で死去)と姉妹の人生を翻弄(ほんろう)した。
「上半身に大やけどを負い、包帯姿で祖父に抱かれていました」。被爆時、3歳10カ月だった美子さんの記憶は断片的だが、後に母方の叔父から「あの日」のことを聞いた。軍港を抱える広島県呉市にあった実家は1945年7月の空襲で焼け、8月6日は爆心地から約2キロの寺院に身を寄せていた。爆風で倒壊した本堂からはい出し、焦土と化した広島の街を逃げ回った。
何とか生き延びはしたが、姉妹の過酷な運命は変わらなかった。父は被爆死した伯父に代わって実家を継ぐことになり、伯父の嫁と結婚、母道子さんは離縁された。美子さんは小学校へ入学するころに父と駅で別れて以来、会っていない。「今はもう、顔も思い出せない」という。
母は原爆で受けた頭のけがの後遺症で、85年に亡くなるまで薬が手放せなかった。地域の医院で働き、娘たちを育てた。
美子さんも中学卒業後に働いて家計を支え、19歳で叔父を頼って上京。1年後に母と妹を呼び寄せ、勤め先の新聞販売店で知り合った夫と結婚した。後に和子さんも夫の弟と結ばれた。販売店の社長の助けもあり、美子さんは68年に千葉県市川市で独立し、和子さん夫婦と一緒に切り盛りした。3人の娘にも恵まれ、ようやく幸せを取り戻した気がした。
しかし、独立から9年後、美子さんの夫が末期がんだと分かり、40歳で他界した。「娘たちの前で泣くことなどできない。涙を流せるのは、台所でひとり料理をしているときぐらいでした」。3人の娘と一緒に残された自分が、母の姿と重なった。
美子さんは店をたたみ、知人の仕事の手伝いに出た。和子さん夫婦も小山市に移り住み、新たに新聞販売店を開いた。苦労だらけの人生だったが、美子さんは「生きてこられたのは娘のお陰」と話す。
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