広島原爆の日:ここにわが町 平和記念公園に石碑
毎日新聞 2014年08月06日 22時52分(最終更新 08月07日 06時42分)
69回目となる「原爆の日」の6日、平和記念式典が開かれた広島市中区の平和記念公園。その一角に「材木町跡」とだけ刻まれた小さな石碑が建つ。この日、式典のため周囲には立ち入りを規制するロープが張られていたが、元住民の2人が、式典を主催する広島市の配慮で立ち入りを許された。その石碑は、ここに人の営みと町があったことを示す確かな証しだ。
「お母ちゃん、来たよ」。原爆で母親ときょうだい5人を奪われた松本秀子さん(84)=広島県呉市=は、雨にぬれた石碑をそっとなでた。8月6日午前8時15分、毎年のように石碑の前で祈りをささげてきたが、数年前からロープが張られ近づくことができなくなっていた。
戦後、公園になったこの地には、かつて六つの町があった。広島原爆戦災誌によると、当時の6町の人口は4370人。映画館や旅館、商店を兼ねた家々が建ち並ぶ広島随一の繁華街だった。だが、米軍による原爆投下で建物は壊滅し、疎開していた子供たちを除き、住民のほとんどが消し去られた。
松本さんは女学校4年生の時、爆心地から約3キロの校舎内で被爆した。原爆投下から2日後の8月8日、自宅の焼け跡から2人分の遺骨を見つけた。隣町にあったカフェの跡では、母親と赤子がへその緒でつながったまま焼け焦げていた。変わり果てた姿は、臨月だった店の奥さんとおなかの子だったと思う。
「寺で鬼ごっこをしたり、桜の花びらを糸でつないで首飾りを作ったりしたの。近くの料亭には花嫁さんもみえてね」。石碑を訪れた松本さんは、あの日の朝まで材木町で暮らしていた。いくつもの寺に米屋、たばこ屋や洋服の仕立屋−−。脳裏には今も、当時の町並みが鮮明に残っている。
同級生だった松本さんとともに石碑を訪ねた畦田(うねだ)栄一さん(85)=大阪府豊中市=は、町内の酒屋が生家。両親と妹2人を原爆で亡くしたつらい記憶がある一方、「トンボを捕ったりして遊んだなあ」と懐かしむ。
「元々公園だったわけじゃない。この地面の下には、あの時のありさまが全部埋まっているのよね」
石碑を見つめる畦田さんに、松本さんは静かに語りかけた。【加藤小夜】