別府温泉:被爆者療養施設の足跡残そう 記録集編さんへ
毎日新聞 2014年08月07日 14時30分
大分県別府市に被爆者の体と心を癒やした温泉施設があった。原子爆弾被爆者別府温泉療養研究所(通称・原爆センター)。全国初の被爆者向け温泉療養施設として1960年に開設され、主に広島の被爆者らが湯治のため通った。51年に及ぶ歴史は2011年に閉じられたが、その足跡を残そうと、元所長の埴谷(はにや)正法さん(82)=別府市=が記録集編さんに乗り出した。
「利用者にとってセンターは『家』だったんです」。段ボール2箱分の資料を自宅の机に並べ、埴谷さんは言った。数百枚の写真にはセンターでくつろぐ被爆者たちの笑顔が見える。ケロイド状のやけどを負った被爆者も、ここでは周りの目を気にすることなく湯船につかることができた。
センターが開設されたのは、広島市で原水爆禁止世界大会が初開催されて5年後、血液の造成機能に障害が出るなどの原爆症に関心が高まった時期と重なる。原爆で負ったやけどなどへの温泉の効能にも注目が集まり、日本一の湧出(ゆうしゅつ)量を誇る別府温泉には、多くの被爆者が湯治のため訪れるようになっていた。
これに注目した別府の九州大温泉治療学研究所が原爆症の研究を開始。関係者から「被爆者のため恒久的な施設が必要だ」との声が上がり、県議らが資金集めに奔走、市民も募金活動に加わった。
当初、広島と別府を結ぶ定期航路があったため、利用者の大半が広島の被爆者だった。広島市安佐北区の農業、佐々木芳光さん(84)は地域の被爆者たちと毎年通った。「センターは家、職員は家族だった」と懐かしむ。
生後3カ月で被爆した同市佐伯区の元教諭、川本正晴さん(69)は、背中にケロイドを負った母が生前に父とよく訪れたことを知り、閉鎖の数年前から通った。「海水浴に行かなかった母がセンターの温泉は利用したがった。損得で存廃を決める施設ではなかったと思う」と振り返る。
センターは平和活動の拠点でもあった。埴谷さんは利用者に依頼し、地元の小学生らに被爆体験を話してもらった。広島原爆に遭った元教諭の男性は、がれきに阻まれて動けない友人を助けられず自分だけ業火のなか逃れた、悔恨の記憶を語った。