∀ガンダムBOXのオーディオコメンタリー回は名シーンある話が選ばれた、それとぼくが一番好きな富野セリフの知らなかった別の出典を知った。 [富野関係]
今日も夜更かし。ムシャクシャしながらブログ更新。
湿っぽい暑さ。
さて先月下旬ですが、∀ガンダムBlu-ray-Box1のオーディオコメンタリー収録話数が決定しました。
公式サイトによると、下記の4話。
第1話 「月に吠える」
第8話「ローラの牛」
第10話「墓参り」
第21話「ディアナ奮闘」
公式なのに、「ディアナ奮戦」を「奮闘」って書いているのが残念ですが。
ぼくの中では、納得のセレクトでした。
∀ガンダムってぼくの中では、振り返るとしたら「名シーンの積み重ね」なんですよ。ファーストもそう。
ダンバインやザブングル、エルガイムなんかは違う。Z・ZZやキンゲも違うな。
ホラ、ファーストって「認めたくないものだな…」から始まって、名シーンや名セリフでシリーズを振り返られるじゃないですか。
∀ガンダムもそうなんです。
初回の「地球はとてもいいところだ、みんな、早く戻ってこーい!」から、数々の名シーン・しかもぼくにとってはメカ戦が全くない、ロボットアニメ? らしからぬ特異性を帯びながら、振り返ることができるんですよ。
「ローラの牛」はもちろん、ラストにおけるロランの告白ですよ。
まあこのシーンは、「朴さんが演じている」ってことも、知っていると深みが増しますよね。
確か朴さん自身もこのシーンについては、G20かNHKのインタビューで触れていたんじゃなかったかな。
「墓参り」も「ディアナ奮戦」も皆さんすぐに思い浮かべる、本当に名シーンがありますからね。
この名シーンの存在が、今回の選出に繋がったと思っています。
おそらく人気があった「アニス・パワー」なんかは、良い話だけれど印象深いシーンがなかったのが、漏れた理由かな、と感じています。
なんかのインタビューで、富野は「アニス・パワーは反応良かった」みたいな話していなかったっけ?
逆に言うと、「全てを利用させていただく!」が出た「ハリーの災難」が入っても良かった気がするけれど、まあやっぱり面白いシーンより感動場面を選ぶよね。
たぶん戦闘シーンからこの4話を選んだ人もほぼいないと思うので、そこも∀ガンダムらしくて良いです。
話題は変わって、もう1つ話しておこう。
以前ぼくは、富野が言った中で、一番好きな言葉「ニヒリズムとデカダンスに陥ることを絶対的に拒否する」を紹介したことがある。
ちょっと長くなるが、もう2年以上前の記事だし引用しよう。
全文はこちら。
「ニヒリズムとデカダンスに陥ることを絶対的に拒否する」
正確に書くと、
『ガンダム』をやるときに具体的に言葉として僕の中に出てきたのは、ニヒリズムとデカダンスに陥ることを絶対的に拒否するという、この最低限度の節度をどういうふうに守るか。(徳間文庫『ウルフ対談』36ページ)
まあ、「ニヒリズムとデカダンスに陥ることを絶対的に拒否する」、これです。
富野が作品を作る際のポリシーとして、SF作家の平井和正さんに語った言葉です。
ぼくは学生時代、「なぜ自分は富野作品が好きなのか」、理由を明確に言葉にしようと思っていました。
ただ「好き・好き」ではアホなガキじゃん、と思っていたのです。
今も思っています。だからこんなブログをやっているんです。
しかし富野作品が好き過ぎて、なかなか言葉にできません。
ちょっとキザな言葉でハズカシイのですが、富野作品はダイヤモンドに似ている、と考えていました。
多面体であり、見る角度によって輝きが違う。
だから色んな素晴らしい面を、たくさんの言葉を使って説明しなければ、と思っていたのです。
そんな時、古本屋で『ウルフ対談』を入手しました。
富野目当てというより、平井和正好きだったのです、当時は。
そこでこの言葉、「ニヒリズムとデカダンスに陥ることを絶対的に拒否する」に出会ったのです。
あ、スゴい。なんて単純明快で、核心を突いた言葉なんだ、と思いました。
なぜセイラさんがカイを平手打ちしたか。
なぜイデという無限力に取り込まれながらも、登場人物達は足掻き続けたか。
全ては「デカダンスとニヒリズムの拒否」です。
富野作品の中でも、ぼくにとってイデオンが別格なのは、この「デカダンスとニヒリズムの拒否」という姿勢が、一番鮮明に現われているからだ、と自覚できました。
ぼくは作家や映画監督の自作批評など、眉つば物だと思っています。
信用するに値しません。
優れた創作者は必ずしも優れた批評家ではなく、そして自作との距離は取りづらいものだからです。
しかしこの言葉は適格な上に簡潔です。
自作を客観的に見ています。
富野は時折、自作をけなすことがあります。その姿勢も、この客観的な視点を保っているからでしょう。
それに比べてあのアニメ監督ときたら…おっと話が逸れそうだ。
蛇足かも知れませんが、ぼくはもちろん「ニヒリズムとデカダンスに溢れた」作品を否定する訳ではありません。
ビスコンティの主だったやつは全部見ているはずだし、何より『地獄に堕ちた勇者ども』はぼくのオールタイムベスト10に入るし、パゾリーニの『ソドムの市』には衝撃を受けたしね。
まあ最後の作品は、映画を見て初めて嘔吐しそうになった、ってことだけど。
もちろん富野作品にだって、デカダンスやニヒリズムが全くない訳ではありません。
逆説みたいになっちゃいますが、ニヒリズムを否定するために、初期のカイやシロッコみたいなキャラは必要です。
そして、イデオンファンなら好きな方が多いと思いますが、ギジェとシェリルが部屋でウィスキーを飲むシーン。
あの名場面は、それこそ退廃的な雰囲気にみち満ちています。
懸命に運命に抗するキャラクター達を描きながら、しかしあのシーンのみ、ふっとデカダンな雰囲気が濃厚に表れます。
それゆえ、視聴者の心に強く残るのです。
さて、長くてスイマセン。引用はここまで。
で、引用にも書いているように、この言葉は平井和正『ウルフ対談』に書いてあったものなんですよ。
ところが先月、「ひびのたわごと」さんのこの記事を読んでいたら、同じ言葉が出てきた!
劇場版イデオンについて語っている富野が、「当世はやりのポーズとしてのニヒリズムやデカダンスは排除しなければいけない」と語っているんですよね。
80年代の富野は、「デカダンスとニヒリズムの否定」を強く念頭に置いていたってことですかね。
もちろんその後の作品でも、そのポリシーは強く貫かれているのですが。
富野を知るにはこれを買え
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湿っぽい暑さ。
さて先月下旬ですが、∀ガンダムBlu-ray-Box1のオーディオコメンタリー収録話数が決定しました。
公式サイトによると、下記の4話。
第1話 「月に吠える」
第8話「ローラの牛」
第10話「墓参り」
第21話「ディアナ奮闘」
公式なのに、「ディアナ奮戦」を「奮闘」って書いているのが残念ですが。
ぼくの中では、納得のセレクトでした。
∀ガンダムってぼくの中では、振り返るとしたら「名シーンの積み重ね」なんですよ。ファーストもそう。
ダンバインやザブングル、エルガイムなんかは違う。Z・ZZやキンゲも違うな。
ホラ、ファーストって「認めたくないものだな…」から始まって、名シーンや名セリフでシリーズを振り返られるじゃないですか。
∀ガンダムもそうなんです。
初回の「地球はとてもいいところだ、みんな、早く戻ってこーい!」から、数々の名シーン・しかもぼくにとってはメカ戦が全くない、ロボットアニメ? らしからぬ特異性を帯びながら、振り返ることができるんですよ。
「ローラの牛」はもちろん、ラストにおけるロランの告白ですよ。
まあこのシーンは、「朴さんが演じている」ってことも、知っていると深みが増しますよね。
確か朴さん自身もこのシーンについては、G20かNHKのインタビューで触れていたんじゃなかったかな。
「墓参り」も「ディアナ奮戦」も皆さんすぐに思い浮かべる、本当に名シーンがありますからね。
この名シーンの存在が、今回の選出に繋がったと思っています。
おそらく人気があった「アニス・パワー」なんかは、良い話だけれど印象深いシーンがなかったのが、漏れた理由かな、と感じています。
なんかのインタビューで、富野は「アニス・パワーは反応良かった」みたいな話していなかったっけ?
逆に言うと、「全てを利用させていただく!」が出た「ハリーの災難」が入っても良かった気がするけれど、まあやっぱり面白いシーンより感動場面を選ぶよね。
たぶん戦闘シーンからこの4話を選んだ人もほぼいないと思うので、そこも∀ガンダムらしくて良いです。
話題は変わって、もう1つ話しておこう。
以前ぼくは、富野が言った中で、一番好きな言葉「ニヒリズムとデカダンスに陥ることを絶対的に拒否する」を紹介したことがある。
ちょっと長くなるが、もう2年以上前の記事だし引用しよう。
全文はこちら。
「ニヒリズムとデカダンスに陥ることを絶対的に拒否する」
正確に書くと、
『ガンダム』をやるときに具体的に言葉として僕の中に出てきたのは、ニヒリズムとデカダンスに陥ることを絶対的に拒否するという、この最低限度の節度をどういうふうに守るか。(徳間文庫『ウルフ対談』36ページ)
まあ、「ニヒリズムとデカダンスに陥ることを絶対的に拒否する」、これです。
富野が作品を作る際のポリシーとして、SF作家の平井和正さんに語った言葉です。
ぼくは学生時代、「なぜ自分は富野作品が好きなのか」、理由を明確に言葉にしようと思っていました。
ただ「好き・好き」ではアホなガキじゃん、と思っていたのです。
今も思っています。だからこんなブログをやっているんです。
しかし富野作品が好き過ぎて、なかなか言葉にできません。
ちょっとキザな言葉でハズカシイのですが、富野作品はダイヤモンドに似ている、と考えていました。
多面体であり、見る角度によって輝きが違う。
だから色んな素晴らしい面を、たくさんの言葉を使って説明しなければ、と思っていたのです。
そんな時、古本屋で『ウルフ対談』を入手しました。
富野目当てというより、平井和正好きだったのです、当時は。
そこでこの言葉、「ニヒリズムとデカダンスに陥ることを絶対的に拒否する」に出会ったのです。
あ、スゴい。なんて単純明快で、核心を突いた言葉なんだ、と思いました。
なぜセイラさんがカイを平手打ちしたか。
なぜイデという無限力に取り込まれながらも、登場人物達は足掻き続けたか。
全ては「デカダンスとニヒリズムの拒否」です。
富野作品の中でも、ぼくにとってイデオンが別格なのは、この「デカダンスとニヒリズムの拒否」という姿勢が、一番鮮明に現われているからだ、と自覚できました。
ぼくは作家や映画監督の自作批評など、眉つば物だと思っています。
信用するに値しません。
優れた創作者は必ずしも優れた批評家ではなく、そして自作との距離は取りづらいものだからです。
しかしこの言葉は適格な上に簡潔です。
自作を客観的に見ています。
富野は時折、自作をけなすことがあります。その姿勢も、この客観的な視点を保っているからでしょう。
それに比べてあのアニメ監督ときたら…おっと話が逸れそうだ。
蛇足かも知れませんが、ぼくはもちろん「ニヒリズムとデカダンスに溢れた」作品を否定する訳ではありません。
ビスコンティの主だったやつは全部見ているはずだし、何より『地獄に堕ちた勇者ども』はぼくのオールタイムベスト10に入るし、パゾリーニの『ソドムの市』には衝撃を受けたしね。
まあ最後の作品は、映画を見て初めて嘔吐しそうになった、ってことだけど。
もちろん富野作品にだって、デカダンスやニヒリズムが全くない訳ではありません。
逆説みたいになっちゃいますが、ニヒリズムを否定するために、初期のカイやシロッコみたいなキャラは必要です。
そして、イデオンファンなら好きな方が多いと思いますが、ギジェとシェリルが部屋でウィスキーを飲むシーン。
あの名場面は、それこそ退廃的な雰囲気にみち満ちています。
懸命に運命に抗するキャラクター達を描きながら、しかしあのシーンのみ、ふっとデカダンな雰囲気が濃厚に表れます。
それゆえ、視聴者の心に強く残るのです。
さて、長くてスイマセン。引用はここまで。
で、引用にも書いているように、この言葉は平井和正『ウルフ対談』に書いてあったものなんですよ。
ところが先月、「ひびのたわごと」さんのこの記事を読んでいたら、同じ言葉が出てきた!
劇場版イデオンについて語っている富野が、「当世はやりのポーズとしてのニヒリズムやデカダンスは排除しなければいけない」と語っているんですよね。
80年代の富野は、「デカダンスとニヒリズムの否定」を強く念頭に置いていたってことですかね。
もちろんその後の作品でも、そのポリシーは強く貫かれているのですが。
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