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本展のみどころ

84点

至高の名画

パリオルセー美術館を代表する至高の名画84点が来日

エドゥアール・マネ

マネに始まり、マネに終わる

近代絵画の立役者マネの貴重な作品11点を一挙公開

印象派

印象派が誕生した時代に迫る

19世紀後半、伝統と革新が交錯したフランス美術を一望

各流派を代表する巨匠たち

印象派、レアリスム、アカデミスム

各流派を代表する巨匠たちの個性が、様々なテーマを通して浮き彫りに

日本初公開

モネの記念碑的大作、ついに日本初公開!

これまで、フランス国外に出ることがほとんどなかったモネの大作を、本展にて日本初公開いたします。木々の細やかなタッチや、女性たちがまとった流行の服に落ちる木漏れ日…モネは戸外でくつろぐ人々という近代的な主題のもと、光を捉える自由な筆致を試み、本作品をもって印象派の誕生へとつながる重要な第一歩を踏み出したのです。

クロード・モネ 《草上の昼食》

クロードモネ 《草上の昼食》
1865-66年 油彩/カンヴァス 418×150 cm(左) 248.7×218 cm(右)
© Musée d'Orsay, Dist. RMN-Grand Palais / Patrice Schmidt / distributed by AMF

展示構成

エドゥアール・マネ《笛を吹く少年》

エドゥアールマネ 《笛を吹く少年》
1866年 油彩/カンヴァス 160.5×97cm
© RMN-Grand Palais (musée d'Orsay) / Hervé Lewandowski / distributed by AMF

 19世紀のフランスでは、芸術家の発表の場は官営の展覧会「サロン」にほぼ限られていました。マネによる絵画の刷新もサロンへの挑戦から始まります。彼がサロンに送り込もうとした2点の作品、《草上の昼食》(1863年のサロンの落選者展出品)と《オランピア》(1865年のサロン入選)は、立て続けにパリにスキャンダルを巻き起こしました。これらの作品には、歴史的人物ではなく、一般市民の男性や娼婦など同時代の人々の赤裸々な姿が描かれていましたが、これは当時の人々には受け入れがたいことだったのです。また、陰影の表現を最小限にとどめ、平面的に仕上げる斬新な描き方も、非難を招きました。しかし、マネの「新しい絵画」は、のちに印象派を主導するモネやルノワールら若き画家たちの指針となり、アカデミスムやレアリスムなど立場を異にした画家たちにさえ、少なからぬ影響を及ぼしました。

ジャン=フランソワ・ミレー《晩鐘》

ジャン=フランソワミレー 《晩鐘》
1857-59年 油彩/カンヴァス 55.5×66cm
© Musée d'Orsay, Dist. RMN-Grand Palais / Patrice Schmidt / distributed by AMF


ギュスターヴ・カイユボット《床に鉋(かんな)をかける人々》

ギュスターヴカイユボット 《床にかんなをかける人々》
1875年 油彩/カンヴァス 102×147cm
© RMN-Grand Palais (musée d'Orsay) / Hervé Lewandowski / distributed by AMF

 1848年、二月革命によって第二共和政が成立したフランスでは、芸術においても社会の現実を直視するレアリスムの動きが現われます。その旗手となったクールベは、無名の村人や農民、労働者たちの日常の一コマを大画面に堂々と描き、しばしば激しい物議を醸しました。一方、レアリスムのもう一人の重要人物ミレーは、社会や美術界への批判精神に根ざしたクールベの辛らつな写実性とは趣きを異にし、農村の厳しい労働生活に共感を寄せながら、貧しい農民たちを力強くも美しく描き出しました。また、ミレーが定住したパリ南方の小村バルビゾンには、のちにバルビゾン派と呼ばれる画家たちが集い、田園風景をみずみずしく描写するようになります。レアリスムの主題の現代性や戸外の風景描写は、印象派の登場に大きな役割を果たしました。

エリー・ドローネー《ローマのペスト》

エリードローネー 《ローマのペスト》
1869年 油彩/カンヴァス 131.5×177cm
© RMN-Grand Palais (musée d'Orsay) / René-Gabriel Ojéda / distributed by AMF

 聖書・神話・古代史を主題とする歴史画は、伝統的に最も高貴な絵画とされてきました。しかし、19世紀にはアカデミスムの歴史画にも次第に変化が現れ、普遍的意義をもつ過去の物語だけではなく、同時代の出来事や文学作品のエピソードも主題とされるようになっていきます。また、交通手段や写真術が急速に発達し、芸術家たちが遠い異国の風土や習俗についてより多くの知識を得られるようになったことも、この時代の特徴です。その結果、北アフリカや中東などのいわゆる「オリエント」由来の物語や風物に想を得た歴史画が描かれるようになり、サロンでも好評を博しました。保守派とされるアカデミスム絵画も決して一枚岩ではなく、社会の動きや新しい芸術動向に呼応しながら、多様な表現が展開されていました。

アレクサンドル・カバネル《ヴィーナスの誕生》

アレクサンドルカバネル 《ヴィーナスの誕生》
1863年 油彩/カンヴァス 130×225cm
© RMN-Grand Palais (musée d'Orsay) / Hervé Lewandowski / distributed by AMF

 理想化された裸体表現は歴史画に不可欠な要素でしたが、19世紀半ばになると裸婦のみをクローズアップした作品がかつてなく描かれるようになります。サロンでは、1863年のカバネルの《ヴィーナスの誕生》をはじめ、裸婦を前面に押しだした歴史画が高く評価されました。これらアカデミスムの裸婦の身体は、甘美なまでに理想化されています。これに対してクールベは、あるがままの生々しい裸婦を描き、古典的な美の規範に挑みました。さらにマネは、《草上の昼食》と《オランピア》に現実の裸の女性を持ち込むことによって絵画の刷新を図り、ルノワールやセザンヌらも裸婦を通して技法や造形上の実験を展開していきます。正統な歴史画のモティーフでありながら、現実の女性とも結びつく裸婦は、伝統と革新の狭間で葛藤する画家たちにとって、新たな創意を試みるのに格好の媒体となったのでしょう。

クロード・モネ 《かささぎ》

クロードモネ 《かささぎ》
1868-69年 油彩/カンヴァス 89×130cm
© RMN-Grand Palais (musée d'Orsay) / Hervé Lewandowski / distributed by AMF


アルフレッド・シスレー《洪水のなかの小舟、ポール=マルリー》

アルフレッドシスレー
《洪水のなかの小舟、ポール=マルリー》
1876年 油彩/カンヴァス 50.4×61cm
© RMN-Grand Palais (musée d'Orsay) / Hervé Lewandowski / distributed by AMF

 印象派の画家たちにとって、何よりも重要な主題となったのが戸外の風景でした。田舎の家並みや畑、光を反射する雪景色、緑豊かな葉を茂らせる木々、刻々と表情を変える空、ときに燦然と輝き、ときに静けさを湛える水面―現在の私たちの眼には魅力的に映るこれらの風景画も、理想美を追求し入念に仕上げられた伝統的な絵画とはあまりにかけ離れていたために、発表当時は理解されず、散々に酷評されました。しかし、彼らは生涯をかけて自然と向き合い、その印象を絵画に描き出す術を模索し、やがて人々の眼差しを、新しいものの見方へと解き放ってゆきます。田園と水辺の2つのセクションで構成される本章の展示は、1世紀以上前の人々を驚かせた作品の数々に、もう一度新鮮な眼で向き合う機会となるでしょう。ル・アーヴルで出会い師弟の絆で結ばれたブーダンとモネ、画架を並べて制作に励んだピサロとセザンヌの作品が一堂に会するのも見どころです。

ポール・セザンヌ《スープ入れのある静物》

ポールセザンヌ 《スープ入れのある静物》
1873-74年頃 油彩/カンヴァス 65×81.5cm
© RMN-Grand Palais (musée d'Orsay) / Hervé Lewandowski / distributed by AMF

 生命なき事物を描く静物画は、伝統的に低く位置づけられてきました。しかし1840年代頃から、主題の身近さや、サイズと価格の手頃さによって、静物画はパリのブルジョワの間で人気を得ます。また、身近な現実に目を向けるレアリスムの流れに沿って、サロンにも静物画の出品が増えていきます。そこで急速に再評価されたのが、前世紀の画家シャルダン(1699-1779年)でした。対象の本質に肉薄する真の意味での写実性をシャルダンの静物画から汲みとった画家たちは、教訓や寓意をこめるよりも、物そのものを描くことに関心を寄せました。また、事物の配置を何度でも自在に変えられる静物画は、画家が構図の可能性をさまざまに追求できる題材でもありました。「りんご一つでパリを驚かせたい」と意気込んだセザンヌは、静物画を通じて独自の絵画空間の描出を追求していきます。

フレデリック・バジール 《家族の集い》

フレデリックバジール 《家族の集い》
1867年(1869年に加筆) 油彩/カンヴァス 152×230cm
© RMN-Grand Palais (musée d'Orsay) / Hervé Lewandowski / distributed by AMF

 19世紀後半、肖像画のモデルは王侯貴族からブルジョワ階級へと移行していきました。毎年2千点から3千点にも及ぶサロン出品作のおよそ4分の1を肖像画が占め、モデルを同定し批評することが人々の関心事となり、その評価が画家としての成功をも左右しました。写真というライバルが登場しても、芸術作品としての肖像画は市場での人気が衰えることもありませんでした。モデルに忠実に、ときに優雅さを加えたアカデミスムの画家の作風は、肖像画によって自らの威信を高めたいと望む注文主に好まれた一方で、印象派の画家たちは家族や親しい人々をモデルに肖像画を描いています。とりわけルノワールは、人物の肌やドレスの質感をやわらかに描き出す画法を究めてサロンでも成功を収め、晩年まで人間を描くことにこだわりました。家族の集団肖像画が多く描かれたのも、この時代の特徴です。

エドガー・ドガ 《競馬場、1台の馬車とアマチュア騎手たち》

エドガードガ
《競馬場、1台の馬車とアマチュア騎手たち》
1876-87年 油彩/カンヴァス 65.2×81.2cm
© RMN-Grand Palais (musée d'Orsay) / Hervé Lewandowski / distributed by AMF


クロード・モネ 《サン=ラザール駅》

クロードモネ 《サン=ラザール駅》
1877年 油彩/カンヴァス 75×105cm
© RMN-Grand Palais (musée d'Orsay) / Hervé Lewandowski / distributed by AMF

 産業革命による技術の発達と、ナポレオン3世の命でセーヌ県知事オスマンが遂行したパリ大改造は、人々の生活を一変させました。交通網の整備、広い道路の貫通、鉄製の建築や橋の建設、オペラ座をはじめとする劇場やカフェ、デパートの誕生、モードの旋風、ガス燈の普及、スポーツやピクニック、競馬といったレジャーの流行、子供を中心に愛情で結ばれた新しい家族モデルや、親密な室内空間の出現。私たちが呼ぶ「近代」とは当時を生きた人にとっての「現代」にほかならず、19世紀半ばに詩人ボードレールが「現代」を生きる画家たちに求めたのは、「一時的なものから永遠的なものを抽出すること」を目指す態度でした。同時代の人々の営みを絵画として結晶化させることを選んだマネや印象派の画家たちは、この課題に否応なく向き合うことになったのです。

エドゥアール・マネ 《アスパラガス》

エドゥアールマネ 《アスパラガス》
1880年 油彩/カンヴァス 16.9×21.9cm
© RMN-Grand Palais (musée d'Orsay) / René-Gabriel Ojéda / distributed by AMF


エドゥアール・マネ 《ロシュフォールの逃亡》

エドゥアールマネ 《ロシュフォールの逃亡》
1881年頃 油彩/カンヴァス 79×72cm
© RMN-Grand Palais (musée d'Orsay) / Hervé Lewandowski / distributed by AMF

 保守的なサロンにおいて自作を認めさせることに終始こだわったマネは、モネやドガからの再三にわたる誘いにもかかわらず、1874年から断続的に開催されていた印象派展に参加することは一度もありませんでした。しかし、マネは印象派の画家たちとの交流を絶やすことなく、荒い筆触を大胆に残す描き方や戸外制作を彼らから取り入れるなど、新たな試みを重ねていきます。1880年以降は著しく体調が悪化しましたが、それでもマネが筆を折ることはありませんでした。しかし、病魔から逃れることはできず、1883年4月、壊疸の進んだ左足の切断を余儀なくされ、高熱に苦しみながら、51歳で早すぎる死を迎えました。展覧会を締めくくる本章では、1873年から1882年までの間に描かれた6点の作品によって、円熟期のマネの画業を紹介します。

エドゥアール・マネ《笛を吹く少年》

エドゥアールマネ
《笛を吹く少年》

1866年 油彩/カンヴァス 160.5×97cm
© RMN-Grand Palais (musée d'Orsay) / Hervé Lewandowski / distributed by AMF

奥行きの曖昧な背景の処理などはスペインの画家ベラスケスによる肖像画にヒントを得たといわれていますが、平面的な描き方には浮世絵の影響が指摘されています。

ジャン=フランソワ・ミレー《晩鐘》

ジャン=フランソワミレー
《晩鐘》

1857-59年 油彩/カンヴァス 55.5×66cm
© Musée d'Orsay, Dist. RMN-Grand Palais / Patrice Schmidt / distributed by AMF

農民だったミレーの祖母は、夕刻、祈りの時を告げる鐘が鳴ると、皆に畑仕事を中断させ、死者のために祈らせたといいます。

ギュスターヴ・カイユボット《床に鉋(かんな)をかける人々》

ギュスターヴカイユボット
《床にかんなをかける人々》

1875年 油彩/カンヴァス 102×147cm
© RMN-Grand Palais (musée d'Orsay) / Hervé Lewandowski / distributed by AMF

近代都市パリの労働者階級の人々が主題とされた最初期の作品。視点を高くとった斬新な構図や描写の生々しさが反発を招き、1875年のサロンに落選しました。しかし、これを機に画家は印象派への参加を決意し、その後、一躍注目を浴びることになります。

エリー・ドローネー《ローマのペスト》

エリードローネー
《ローマのペスト》

1869年 油彩/カンヴァス 131.5×177cm
© RMN-Grand Palais (musée d'Orsay) / René-Gabriel Ojéda / distributed by AMF

主題はキリスト教聖人伝である『黄金伝説』の一節に基づきます。アカデミスムの画家ドローネーの代表作で、天使のダイナミックな動きが特徴的です。

アレクサンドル・カバネル《ヴィーナスの誕生》

アレクサンドルカバネル
《ヴィーナスの誕生》

1863年 油彩/カンヴァス 130×225cm
© RMN-Grand Palais (musée d'Orsay) / Hervé Lewandowski / distributed by AMF

ギリシャ神話の女神を描いた絵画が何点も出品された1863年のサロンは、批評家ゴーティエにより「ヴィーナスのサロン」と呼ばれました。最も人気を博した本作は、ナポレオン3世が買い上げました。ヴィーナスのなまめかしいポーズは新古典主義の画家アングルの作品から着想を得ています。

クロード・モネ 《かささぎ》

クロードモネ
《かささぎ》

1868-69年 油彩/カンヴァス 89×130cm
© RMN-Grand Palais (musée d'Orsay) / Hervé Lewandowski / distributed by AMF

白い雪で一面覆われた北フランスのエトルタ近郊の野原。光の効果を追求したモネの野心作。雪に反射する日光と、雪の上に落ちる影が画面を構成しています。

アルフレッド・シスレー《洪水のなかの小船、ポール=マルリー》

アルフレッドシスレー
《洪水のなかの小舟、ポール=マルリー》

1876年 油彩/カンヴァス 50.4×61cm
© RMN-Grand Palais (musée d'Orsay) / Hervé Lewandowski / distributed by AMF

青空と雲、栗の木の並木、広がる水面は、シスレーが光の効果を追求する格好のモティーフでした。1876年にセーヌ川で起きた大氾濫を主題にしています。

ポール・セザンヌ《スープ入れのある静物》

ポールセザンヌ
《スープ入れのある静物》

1873-74年頃 油彩/カンヴァス 65×81.5cm
© RMN-Grand Palais (musée d'Orsay) / Hervé Lewandowski / distributed by AMF

セザンヌの師であり友であったピサロのポントワーズのアトリエで描かれました。背景左の風景画は1873年にピサロが描いたものです。リンゴやスープ入れのどっしりとした量感や堅固な構成には、印象派と決別することになったセザンヌならではの表現志向を垣間見ることができます。

フレデリック・バジール 《家族の集い》

フレデリックバジール
《家族の集い》

1867年(1869年に加筆) 油彩/カンヴァス 152×230cm
© RMN-Grand Palais (musée d'Orsay) / Hervé Lewandowski / distributed by AMF

普仏戦争(1870-71)により29歳で夭折した画家の代表作であるモニュメンタルな戸外の集団肖像画。人物のポーズや全体の構図は、入念なスケッチに基づいています。

エドガー・ドガ 《競馬場、1台の馬車とアマチュア騎手たち》

エドガードガ
《競馬場、1台の馬車とアマチュア騎手たち》

1876-87年 油彩/カンヴァス 65.2×81.2cm
© RMN-Grand Palais (musée d'Orsay) / Hervé Lewandowski / distributed by AMF

ブローニュの森にあるロンシャン競馬場は、着飾ったパリの紳士淑女が集う社交の場でした。ドガは競馬の場面を多く描いていますが、とりわけ本作は10年にわたって手が加えられた労作です。

クロード・モネ 《サン=ラザール駅》

クロードモネ
《サン=ラザール駅》

1877年 油彩/カンヴァス 75×105cm
© RMN-Grand Palais (musée d'Orsay) / Hervé Lewandowski / distributed by AMF

鉄とガラスの駅舎に、産業革命を象徴する蒸気機関車が入ってくる様子をとらえた本作は、第3回印象派展に出品されたサン=ラザール駅の連作のうちの1点。

エドゥアール・マネ 《ロシュフォールの逃亡》

エドゥアールマネ
《ロシュフォールの逃亡》

1881年頃 油彩/カンヴァス 79×72cm
© RMN-Grand Palais (musée d'Orsay) / Hervé Lewandowski / distributed by AMF

マネは、ナポレオン3世の体制に抵抗したジャーナリスト、アンリ・ロシュフォールの逃亡劇に触発され、2度にわたって絵画化しています。海で画面を覆い尽くす構図の大胆さや、最晩年のマネ特有の荒い筆触の美しさも見逃せません。

エドゥアール・マネ 《アスパラガス》

エドゥアールマネ
《アスパラガス》

1880年 油彩/カンヴァス 16.9×21.9cm
© RMN-Grand Palais (musée d'Orsay) / René-Gabriel Ojéda / distributed by AMF

限られた色づかいや大胆な筆さばきに、晩年のマネの洒脱さが際立っています。

オルセー美術館とは

構想から開館まで

オルセー美術館 外観

オルセー美術館 外観
© Musée d'Orsay dist. RMN - Patrice Schmidt

オルセー美術館の構想は1973年にさかのぼります。当時、印象派をはじめとする19世紀後半から20世紀初頭の芸術作品は、ルーヴル美術館、ジュポーム美術館、国立近代美術館の3つの機関に散在していました。そこで、これらの作品を一堂に集める新しい美術館の必要性を主張したのが、時の大統領ジョルジュポンピドゥでした。折しも、1900年のパリ万国博覧会の際に建てられた旧オルセー駅の建物が、老朽化のために取り壊しの危機に直面していましたが、ポンピドゥ大統領は、近代パリを象徴するこの旧駅舎を美術館として蘇らせる構想を打ち出しました。この改修計画は、次の大統領ジスカールデスタン、ついでフランソワミッテランの時代に具体化されます。そして、1986年12月9日、セーヌ川右岸にそびえるルーヴル美術館の対岸に、オルセー美術館が誕生しました。


オルセー美術館 館内

オルセー美術館 館内
© Sophie Boegly

コレクションの特徴

オルセー美術館が収集展示の対象とするのは、二月革命により第二共和政が成立した1848年から、第一次世界大戦が勃発した1914年までのフランスを中心とする西洋美術 ―― 絵画、彫刻、装飾芸術、写真、版画素描、建築資料 ―― です。その豊かなコレクションは、印象派をはじめ、革新的な表現が次々に生まれたこの時代の多様な芸術動向を、パノラマのように提示してくれます。数々の名品と充実した展覧会は世界中の美術ファンを魅了し、年間の来館者数は350万人以上に及んでいます。


オルセー美術館 館内

オルセー美術館 館内
© OPPIC Thierry Ardouin

新しい(ヌーヴェル)オルセー

年々増加する来館者によりよい鑑賞環境を整えるため、2009年末より展示室の一部が閉鎖され、初めての大規模な改修工事が行われました。2011年秋、工事を終えて全館オープンしたオルセー美術館は、展示スペースが大幅に拡張されたほか、大きな見どころである印象派とポスト印象派の作品群を明確に区分する順路がとられたり、異なる流派や技法の作品が共鳴しあうような展示構成が実現されるなど、「新しい(ヌーヴェル)オルセー」の名にふさわしいダイナミックな変貌を遂げました。展示室の内装についても新たな趣向が凝らされ、それぞれの絵画の特徴や持ち味をいっそう引き立てるような色の壁紙と照明が選ばれています。

関連年表

1848

二月革命により国王ルイ・フィリップが退位し、第二共和政が始まる。

1849

ミレーがバルビゾン村へ移住。ルソー、ディアズ、トロワイヨンら、後にバルビゾン派と呼ばれる画家たちが集まる。

1850

ブグローとボードリーがローマ賞を同時受賞。

1852

ルイ・ナポレオンがナポレオン3世として即位し、第二帝政成立。

1855

パリ万博の開催。クールベが「レアリスム館」と称した仮設会場で個展を開催する。

1857

ミレーが《落穂拾い》と《晩鐘》を制作。

1863

カバネルの《ヴィーナスの誕生》がサロン(官展)で好評を博し、ナポレオン3世が買い上げる。サロンの審査に拒否された作品を集めた「落選者のサロン」が開催され、マネの《草上の昼食》が物議を醸す。セザンヌ、ピサロ、ファンタン=ラトゥール、ヨンキント、ホイッスラーも出品。

1865

サロンにマネの《オランピア》が出品され、スキャンダルとなる。

1867

パリ万博の開催。クールベとマネが万博会場近くのアルマ広場でそれぞれ個展を開く。

1868

バティニョール大通り(現クリシー通り)のカフェ・ゲルボワに芸術家・批評家たちが集まる。マネ、ファンタン=ラトゥール、ドガ、ルノワール、バジールは頻繁に訪れ、モネ、セザンヌ、ゾラ、シスレー、ピサロも顔を見せた。

1870

普仏戦争が勃発(-1871)。バジールが戦死。

1871

ティエールが共和国大統領に就任し、第三共和政の開始。

1874

第1回印象派展。モネが《印象、日の出》を出品する。マネは不参加。

1876

デュラン=リュエル画廊で第2回印象派展の開催。

1877

ル・ペルティエ通りで第3回印象派展の開催。展覧会は財政的に失敗する。

1879

第4回印象派展。サロンに参加したことでドガに批判されたルノワール、シスレー、セザンヌが抜け、新たにカサット、ゴーギャンが加わる。

1880

ピラミッド通りで第5回印象派展の開催。ドガと意見が対立したモネ、ルノワール、シスレー、セザンヌは 不参加。ラファエリ、モリゾ、カサットが出品。

1881

キャプシーヌ大通りで第6回印象派展。ドガを中心とするグループが主体となり、展覧会はレアリスムの傾向が強まる。

1882

サン=トノレ通りで第7回印象派展の開催。ドガの一派が抜ける。モネ、ルノワール、シスレー、カイユボットの作品が展示され、印象派の傾向が復活。スーラ、シニャックが鑑賞した。

1886

デュラン=リュエル画廊で最後の第8回印象派展開催。モネ、ルノワールは不参加。ドガ、ピサロが中心となる。スーラ、シニャック、ルドンが出品。印象派、新印象派、象徴派の作品が隣り合って展示される。

相関図