社会

漁師たちの戦争 徴用船の悲劇(2) 手軽に使える“便利屋”

 「軍の恣意(しい)によって、漁師の尊い命や財産である漁船が戦争に根こそぎ持って行かれた。軍のやりたい放題だった」。戦時中の小型漁船の過酷な戦いを著書にまとめた宮城県在住の船舶・海事研究家、大内建二さん(75)は、徴用の本質をこう指摘する。

 軍の求めることは絶対で、拒否するなどとんでもない-。こうした空気が社会全体を覆っていたこともあり、漁船は次々と戦地に投入されていった。

 徴用は1945(昭和20)年の終戦まで続いた。陸軍は船舶輸送司令部、海軍は経理局の代行として横須賀鎮守府などの出先機関が、船主に通告して契約を結ぶ形を取っていた。これは「中央徴用」と呼ばれた。

 一方、海軍では「地方徴用」と呼ばれる形態も存在した。各鎮守府の配下である警備隊などが地元の漁師らと契約した。このほか、漁業を管轄する旧農林省も海軍からの命令に応え、各漁協から船を集めた。いわば“海軍借用船”のような位置付けだ。

 こうして、きめ細かく「根こそぎ」召し上げる体制が整えられた。しかし「敗色が濃厚になるにつれ、しっかりとした契約が結ばれない例が増えてきた」と大内さんは話す。

 厚生労働省の調べによると、41(同16)年から終戦までに徴用された船舶数は、判明しているだけで100トン以上の大型船が3575隻、100トン以下の機帆船(小型輸送船)が2070隻、小型漁船が1595隻に上る。米軍などに沈められ、戻ってくることはなかった。

 徴用された漁師の待遇はどうだったか。大卒初任給が85円程度だったのに対し、陸海軍は徴用船船長に240円、機関長には220円を月給として支払った。ただ農林省が徴用した場合、任務のかたわら行った漁で得た海産物を同省が買い上げる名目で、漁獲1トンにつき14円65銭を毎月船主に支払っただけだった。命の危険にさらされながら監視業務などに当たっていたにもかかわらず、「漁をしている」としかみなさなかったのだ。

 「報酬なしの上、支払いが遅れる。戦死公報も遅い」。このように、農林省の対応は評判が悪かった。各地の漁業組合は「待遇改善」を軍に働き掛け、44(同19)年3月からは軍属扱いとして月140円の手当が出ることになった。

 一方、軍などから支払われた金額は、漁師の通常の収入に到底届くものではなかった。「船長の場合、平時には、一航海で800円ぐらいを稼いだこともあった。徴用の給料は全体的に抑えめになっていたといえる。契約とはいえ、安い値段で都合よく漁船を使おうとする軍の姿勢が透けて見える」とは、「戦没した船と海員の資料館」(神戸市)の大井田孝さん(72)だ。

 軍にとって“使い勝手がよい”漁船の重要性は、戦況が絶望的になるにつれ、どんどん増していく。「船の取り合いで陸軍と海軍の担当者が殴り合いになったこともあった。陸軍などは港に軍人を送り込み、その場で船や漁師を徴用した」(大内さん)

 操業中に無線連絡で徴用の事実と寄港後の行き先を指示された漁船、「秘密作戦」として家族に知らされないまま港から連れて行かれ、「お父さんが帰ってこない」と騒ぎになった家族-。軍の都合に漁師らは翻弄(ほんろう)された。大内さんは軍にとっての漁船の存在をこう表現する。「漁船は手軽に使える使い勝手の良い“便利屋”だったのです」

【神奈川新聞】