日本軍の毒ガスによる住民虐殺
−河北省老虎洞黒水坪事件−
範羊羔 他
九死に一生を得た
私は範羊羔と言います。1916年生まれです。原籍地は河北省井●県桃王庄郷胡仁村で後に菩薩崖に移ってきました。1943年日本侵略者の掃討にあい、老虎洞に避難していた老若男女150人が毒ガスにやられて命を落とし、結局私一人が助かったのです。あれからもう何十年も経ちましたが、あの悲惨な出来事はまるで昨日のことのように今でも忘れることが出来ません。
あれは1943年の農暦10月の末のことです。日本兵がやってきたので、私はまだ暗いうちに家畜を追って山へいきました。頂上に着いたとき、一面に銃声がしました。このころになると、平山から避難してきた人々も上ってきました。私は、昼間は山に隠れて夜になると家に帰ることにしていましたが、何日か過ぎた頃には、日本兵の山深しもいよいよ厳しくなってきたので、山ももう安全ではなくなったと思い、北柴溝の老虎洞に行こうと考えました。しかし、ここも何日か前に日本兵がやってきて布団や柴草に火をつけて燻し、子供が死んだということを聞いていましたから、安全とは言えなくなっていました。父が、桃林坪の「妹の家に暫く身を寄せて、様子をみたらどうだろう」と、言いましたが、桃林坪は敵の占領区です。それに、私は丁度体の具合が悪くてあまり歩けませんでしたから、この提案も実行できませんでした。空は段々明るくなってきましたし、もはや隠れる所も思いつかず気が焦るばかりでした。結局老虎洞が一番近いので、一晩だけそこに隠れていようと決めました。
朝飯を食べると、私は妻と二人の子どもを連れて老虎洞に潜り込みました。洞の中にはもう百数十人が隠れていました。私は、何とも落ち着きませんでした。妻に「出ていこうか?ここでは安心出来ない」と相談しました。しかし、彼女は「空が明るくなってしまったのに、どこに隠れるというの?出ればすぐ日本人に捕まってしまうわ。今日一日経ってから場所を変えましょう」と、言いました。
でも、昼にもならない時分に、日本兵がやってきて洞の入り口を囲んでしまいました。何人かが懐中電灯をもって洞の中に入ってきて、銃剣で脅して一人一人外に追い出しにかかりました。追い出された男は、一人一人縛り付けられ、私の番が来たときにはもう7、80人が縛られていましたが、幸い私は縛られませんでした。ただ、私には心配なことがありました。私は皮製の小さいカバンを隠し持っていたのですが、この中に4、50枚の辺区票(華北の抗日根拠地の政府機関発行の流通券)を入れていました。しかし、辺区(註・日中戦争期、西北、華中、華東その他、地方の省境地区に作った抗日根拠地)の住民が辺区の切符を持っていても何の不思議もありませんが、問題はそれと一緒に穀物券が入れてあることです。私はこの年、村の民政委員になったので、村人が人民政府に収めた穀物の「領収書」を一括して持っていました。人民政府に収めたあと、当然、各戸に配らねばならなかったのですが、その暇が無かったのです。もし、身体検査でもされて、これが見つかれば日本軍は私たちに食糧の所在を追及するでしょう。私は考えると落ち着きませんでした。体の調子が悪いこともあって地面にうずくまっていましたが、日本兵は私をけり上げて、「立て!」と言いました。私は病気だと言ったのですが、そんなことが通るわけもありません。ふらふらと立ち上がりました。
この時、日本兵は若い女性を洞の中に入れて侮辱し、男は散々殴られました。日本兵は黒水坪から避難していた二貴という者を引っ張りだし、「お前は教師だったから、八路軍だろう」と詰問しました。今にも切り刻もうとの構えです。二貴は、「私は八路軍ではない。信じないなら村の人に聞いて下さい」と言いました。二貴の父親と他の人々が立ち上がって、皆「彼は八路軍ではない」といいました。私の叔父の範富良は二貴のことなどまったく知らないのに、「あんたたち、彼を殺してはいけないよ!彼は普通の百姓で毎日山で薪をとっているし、いつも私の所で休んでいくよ」と言い立てました。
日本兵は二貴を突き放すと、李昌生を引っ張ってきました。李さんは威州の人で以前八路軍にいたことがありますが、今は胡仁村に住んでいます。敵は棗の棒で彼を殴り付け、「穀物を隠している所を言え」と迫ったのですが、彼は何も答えませんでした。敵はなおも彼に穀物を埋めてある所へ案内しろと言ったのですが、彼はがんとして応じませんでした。怒った日本兵は、彼を崖縁に引っ張っていき、石で殴り殺してしまいました。
敵がいくら脅しても拷問しても、何も得るところがありません。鬼たちは又、女性たちを洞に追い込みました。洞の入り口で私は妻とすれ違ったとき、体にかぶっていたぼろ布団を彼女に渡しながら隠し持っていた皮カバンを渡しました。彼女は私の意図を察して、カバンを受け取りましたが、私は、彼女の頬に涙が溢れ出すのを見ました。…でも、私に何ができるでしょう。私は彼女に目で早く行けと合図しました。彼女は涙をぬぐいもせずに洞の中に入っていきました。鬼どもは女性を追い込むと、男にも入れといいます。男を連れていくのでもなく殺しもしない。今回は何を企んでいるのかと訝りましたが、逆らうことも出来ません。日本兵は臭い砲弾を使って人を燻し殺すと聞いたことがありますが、今回はどうするのでしょう。妻は男の人も洞に入って来たのを知って、病気の私の身を案じて私を呼びました。
洞の中は真っ暗でどこに誰がいるのか全く分かりません。この洞は、内外二つに別れていますから、私は外側の洞に這って行き大きな石の隙間に入り込みました。私は咳がでそうでしたが、敵にみつかるのを恐れて口を手で押さえて我慢しました。
暫くすると何か「ピン」と音がすると、嫌な匂いがし、喉が詰まって息ができなくなりました。胸が苦しくて石の隙間から下に落ちてしまいました。北も南も分からなくなりましたが、ただ明るい方へ向かって這っていき、出口近くで敵が遠くへいくのを待っていました。私は洞の中の人に、早く外にでるように叫んだのですが、全く声になりません。出るのはひっきりなしに咳ばかり。そのうち鼻水が流れ涙が止まらなくなりました。私は転げながら洞の外へ出ました。ややして老人が一人出てきました。米湯崖の人で皆は彼を三貴子と呼んでいました。早く逃げろと言いたいのですが、やはり声になりません。私が早くここを離れなければと思った時、又、一人出て来ました。この人は黒水坪の人ですが、名前は忘れました。もう一人出てきましたが、この人は知らない人です。ただこの人は苦しそうに「ハァハァ」と息をし、口から鼻から絶え間なく血を流していました。這い出してきたのは全部でこの四人だけです。
私たちは、散り散りに外へ這い出しました。いくらも行かない内に日本兵に発見され、「ダン!ダン!」と銃弾が飛んできました。私は岩陰で弾に当たって死んだふりをしました。日本兵が遠くなったので私はやっと這いつづけましたが、胸が焼けるようで喉からは煙りでも出るかと思う程でしたから、ただ水を飲みたいとばかり考えていました。這っていくうちに山の仮小屋を見つけて、中に入ると釜の中に大根のスープがありました。私は一気に一杯くらい飲んで少し休むとやっと人心地がつきました。立ってみると何とか立ち上がることができましたので、早く誰か呼んで洞の中の人を助けなければと思いましたが、近くに民家はありません。周囲はすでに暗くなってしまい、何処にいくこともできません。野原で一夜を過ごし、次の日夜明けと共に胡雷村に駆け込みました。人々は私を見ると「老虎洞で死んだのでは?」と驚いて聞きました。
私は、そのまま気を失ってしまいました。聞いたところでは一緒に這い出した他の三人は全部その後死んだそうですが、結局私は六日間昏睡状態が続き、その後、やっと少しずつ物が食べられるようになりました。母親は私の枕元でずっと泣きながら見守っていたそうです。この時、真っ黒な便が何日も出て、十何日もたってからやっと歩けるようになりました。
自分が少し良くなるとあの時のことがいろいろ思い出され心が痛みました。洞に入った時は一家四人、彼女はまだ私の身を案じてくれていたのに、今、私はたった一人生き残り、妻も二人の子供も全てを失ってしまいました。洞の中では150人もの人が殺され、今、私一人……、石で作った人形だってあの時のことを聞けば、涙を流さないはずはないでしょう。
私の父方の兄弟に当たる範庚羊は、後日私に当時のことを話しました。
「あの日、様子を聞くと急いで助けに行った。黒水坪の人が先に洞の中に飛び込んだのだが、燻されて昏倒し日から粘液を吐いた。気が急いて、それでも入ろうとしたら、村人に押し止められた」。庚羊はきっと気が気ではなかったのでしょう。何故ならば中に私たちのお婆さんや彼の妻、一人息子と弟、それに弟の妻がいたからです。彼は村の人が止めるのも聞かず、中にはいりましたが、もう生きている人は一人もいなかったそうです。全部死んでしまったのです。死人の頭は柳の籠を被ったように膨れ上がって誰が誰やら見分けもつきません。しかも、洞の中はまだ煙りが充満していて、それ以上は危険です。仕方なく何日かしてから、皆は死体の処理にいきましたが、もう皮膚も肉も腐っていました。一五〇人もの罪もない老若男女が……、なんと残酷なことでしょう。
(範羊羔 一九八四年五月口述)
『日軍侵華罪行紀実』中共中央党史研究室科所管理部編
二
私たちが黒水坪で見たものは、家の梁から逆さ吊りになって焼けただれた死体。破れた壁の陰には、6、70歳の老女が衣服を剥がされ、陰部に木の棒を突っ込まれて寝かされていた。また、頭から沸騰した湯を掛けらたり、大きな石で殿られたり、軍用犬にかみ殺されたり、至る所にさまざまな死体があった。村の西側にある3つの井戸は深さが10メートル程もあるのにどの井戸もビッシリ死体で埋まっており、掘り出してみても、肉も血も一緒になって区別がつかない。老虎洞の中には百何十もの同胞が国際的に禁止されている毒ガスで殺され、皮膚は紫色に腐食して血の水が滴っていた。
中国解放区、戦時救済委員会晋察冀辺区分会編
『日本ファッショ八年来の晋察冀辺区における暴行』
三
1943年9月16日、日本軍は四万の兵力をもって、我が抗日根拠地に向かって「大掃討」を行った。
11月11日、日本軍は阜平一帯から徐々に南下し井●の一線に侵入した。この部隊は約一万余人で東は井●炭坑から、山西の平定県、盂県に、南は正太鉄道から、北は平山県からと、十四方向より、井●県路北抗日県政府に対して「分進合撃」を展開した。11月12日午前、四千余名の日偽軍が黒水坪、大洛水、米湯崖などの村々を包囲した。その時、各村の村民はすでに抗日政府の指示によって避難していた。日本軍は、村に入ってみると人っこ一人見当たらないので、腹いせに家々に火を放った。火は昼も夜も燃え続けた。14日から日本軍は大挙して山探しを始めた。黒水坪、桃王庄、菩薩崖の間の様子山は捜査の重点地区となった。この地区は縦横5キロにもならない狭い地区なので、日本軍は山、谷、洞、溝などを徹底的に捜索を行った。抗日政府の避難移転の指示に間に合わなかった病人や老人、各地に散らばっていた山民や平山県温塘一帯に避難した村人は、日本軍に捕まってしまった。
老虎洞は菩薩崖村の後、北条溝にあり、500メートル程上った山の中腹にある。洞は内外二つに別れており、外洞の長さは10メートル、幅は3から5メートルある。内外の二つの洞はやっと一人が通れる位の細い通路で連絡している。何百人もの村民は昼間は洞の中に隠れ、夜になってから外に出て食物を探していた。19日、日本軍は先ず外洞を発見して何十人かの老人と子供を捕まえた。日本軍が厳しい詮議と拷問をしたにもかかわらず、住民からは何も得るところがなく、怒った日本軍は、村民の布団や干草を洞の入り口に積み重ねて火を付けたので、中にかくれていた5歳の女の子が燻し殺された。夜暗くなって日本軍が撤退してから、人々はここも安心出来ないと、それぞれに桃樹坪村に移転を始めた。しかし、道は日本軍の封鎖にあって阻まれ、仕方なく元の北柴溝に帰ってきた。一部の人が別のところに隠れることが出来だほか、残された150人余りがまた元の洞内に入り、20日、日本軍の山深しで内洞が発見され、女性は洞の中に連れ込まれて侮辱された後、全員が毒ガスで殺された。
後に現場の調査では、日本軍の今回の暴行によって、虐殺された一般住民は千余人。その内黒水坪村48人、大洛水村42人、米湯崖一七人、胡仁村は74人であった。この地区の住居はすべて灰燼に帰し、衣料や食料は略奪に遭って絶無となり、家畜類はすべて日本軍に殺された。
『侵華日軍暴行総録』日軍在河北省的暴行 部分引用
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