最終更新日:2004年03月31日

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撫順は続く世代に何でありうるか

梶村太一郎

 




 ひとが身近な歴史について想いをめぐらすときに、「時代」とか「世代」といった時間の区切りの概念が、ふと頭をかすめることはよくあることだ。それはしばしば考え方に血を通わせ、それを生きたものにしてくれる。

 私の父は1917年生まれだから、最も多くの戦死者を出した年代だ。彼が何かにつけて、ふと、「優秀な人間から先に死んでいった」ともらすのを、私は幼いころより何度も耳にした覚えがある。

 そんな時の彼は、いつになく、なんともいえず寂しそうで、「損な世代だ」とつけ加えることもあった。大学を繰り上げ卒業して戦地に向かい、帰ってこなかった友人は忘れようにも忘れられないものらしい。「死んだやつらが損をした」と言うときは、実に苦しそうであった。

 大阪港防備の高射砲部隊の小隊長として「ドレスデンに次ぐ集中爆撃」下で九死に一生を得た彼が8月15日直後にポツダム少尉(敗戦時に昇級した階級)として内地除隊となり、早々と生還できたおかげで、私は1946年に生まれた。

 その私が齢五十を越えた今ごろになって、亡父のこの何げない言葉を想い出すことがよくある。その意味の途方も無い重さが、やっと解りかけてきたからだと思われる。戦争を生き延びた父の世代の、免れようもない寂しさと苦しさが、彼らが過ぎ去ってしまいつつある現在になって、私たちの世代の上に、そのまま置き去りにされてしまっていることに、気がつきはじめているからであろう。

 私たち敗戦前後に生まれた、いわゆる68年世代(全共闘世代)は、父の世代の正反対ですらあるかのような恵まれた青春時代を送った。幼児期の物資の貧しさの記憶はあるとしても、新憲法下で育った私たちは、どこまでも自由で、批判的で、個性的で、身体を賭けて世界の権威に挑戦したのであった。いまでも、「世界は我らを中心に回っている」と思い込んだ傲慢さから、すっかり抜け切れていないほど幸せな世代であった。しかも、これは欧米の「先進大国」の同世代に共通している。私がこれまでの半生を遇ごしている(西〉ドイツでは、日本よりももっと顕著だ。ここでは日本の同世代が、いまや体制に埋没して青息吐息であるのに比べれば、「体制はいずれ我がものだ」と内心で疑っていないほどである。この世代が持つ自信はまだ強い。だがこの世代が社会の中枢から、いま指導的位置につく時代を前にして、一方で、内心に深い不安があることも事実である。

 言うまでもないことだが、ここ百何十年のドイツと日本の近代史はよく似た経過をたどっている。また日本の近代化からドイツ文化の影響を除去して考えることは全く不可能である。逆に言えば、ドイツ文化は日本人が意識しようがしまいが、日本社会にそれなりに血肉化されてしまっているということだ。今でも日独の同世代は内面で双子の兄弟のように似て、悩みの面でも深く共通するところが多い。私が父の言葉を想い出すとき、ドイツの同世代の「私」と「父」を反射的に連想できるのもそのような共通性のためであろう。

 「優秀な人間から先に死んでいった」と父は言った。

 「ここドイツでは優秀な人間は大半が死んでいるし、ナチスは優秀な反体制者も無残に殺してしまった。日本よりも損失は大きいはずだ」と私は考える。戦時に父親を失った友人は回りにいくらでもいる。

 「父親の影の薄い社会だ」と思う。

 そして、私たち日独の68年代の、前代未聞の反権威主義は、実はこの「父の不在」によって引き起こされ、また許されもしたのではないかと思い当たるのである。

 「世界には嘘が多すぎる」と私たちの誰もが感じていた。世界に対して、やたらに不満で怒っていた。アメリカのベトナム侵略戦争は、冷戦下の超大国の許しがたい代理戦争であった。その後、アメリカはベトナムで敗れ、ソ連邦は崩壊した。若い私たちの主張が正しかったことは歴史が証明した。だからといって、私たちが勝利者となったわけでは決してない。「父の不在」が歴史の大河の行く手にその全貌を現すのはこれからではないのか。はたして私たちはこの淵を乗りこえることができるのであろうか。日本の社会は、その手前で座礁しているのではないのか。ドイツにもその危険はある。私たちは深い不安に怯えているのである。

 私がベルリンから昨年末、撫順を初めて訪ねた理由はこのような難問の解決の糸口でも掴みたいという思いが大前提としてあったからである。

 私が「三光」を読んだのはまだ高校生の頃であった。侵略戦争の残虐さが強烈に印象に残っている。だが、私が中帰連の会員の証言にじかに接したのは最近のことである。私たちが日本とドイツの市民運動の交流機関として続けている「日独平和フォーラム」のドイツ人の友人の一団が、広島県福山市の友人を訪ねた際、同地のキリスト教会で、藤井秀夫氏が証言をしてくださった時だ。通訳を介しての氏の話にドイツ人たちは息を呑んで聴き入った。機関銃で中国人をなぎ倒すように虐殺した場面があった。証言が終わったとき、一人のドイツ人友人が立ちあがり、「このような証言はドイツではなされることは皆無です。藤井氏の勇気に感動しました」とお礼を述べたことを氏は覚えていらっしゃらないかもしれない。

 この友人は1944年12月生まれであるが、彼の父親はその年の七月に東部戦線のベラルーシで戦死している。後に彼は私に打ち明けて「父が前線から母に送った手紙が何通か残っており、成長してから読んだが、その中には『ロシア兵は、撃ち殺しても撃ち殺しても突撃してくる。我々は機関銃で兎のように彼らを始末するだけだ』と、得意げに書いてあるのだ。この手紙が、私が戦争を考える原点になった」と話したのである。この友人は証言する藤井氏に、見ることができなかった、しかし、在りうべき彼の父親の姿を見たに違いない。感動の熱を込めた感謝の辞を述べる彼の姿が私には忘れられない。その時に「侵略戦争に敗れるとは、続く世代にとってどんなことなのか」と私は思い知らされたのである。

 それは「不在の父の在りうべき姿を訪ね当て、心の中にしっかりと確認する作業」ではないのか。あの時、友人は計らずも、異国の地でその姿を確認したのである。

 それ以来、中帰連は私のなかで、深い広がりを持つ規範となった。友人の述べた通り、よく似た歴史のドイツにも「中帰連」は無いし、世界史でも見当たらないのである。これは何だろうかと私は考えはじめた。

 先の年の変わり目に、撫順の中帰連の揺籃の現場を訪ねる機会を得て(注)、それに、お元気な金源先生という生き生きとした歴史の創造者に直々に接して、「撫順の奇跡」は日中だけでなく、世界の将来にとっても忘却されてはならない無二の「宝の体験」であることを確認したのであった。先生には大変ご迷惑に違いないのだが、私はそれでも、ここで公言したいのである。「金源先生は私の父のもうひとりである」と。

 中国の友人諸氏の温かいおもいやりに包まれて、管理所の元病棟の一室で、今年の新年を迎えて、実に幸せであった私の頭から溢れ出たことは、とても短文では書き尽くせない。いずれ本格的に再訪し、じっくりと貪欲に「私の撫順」を書きたいと思っている。そこで、これだけは早急にと考えていることのひとつを、ここに提案して読者各位のご意見をうかがいたい。あらかじめ、これは私のひとりよがりの夢であることを申し上げておく。

 管理所を見学しながら、昨年の夏、久しぶりにポーランドを訪ねたときのことを思い出した。冷戦終結後初めての訪問であったため、印象深い旅となった。特に嬉しかったのは、各地で見かけるドイツ人の若者の姿であった。ドイツがこの国に残した傷跡を訪ねると、必ず彼らがいる。例えば、ナチスがほぼ完全に虐殺してしまったため守るべき人さえいない、ワルシャワのユダヤ入の広大な草地の一角で、汗を流しながら草を刈り、極右の狼藉者に荒らされた墓石を修理しているのは、ドイツ各地から夏休みにやってきた男女の若者たちであった。アウシュヴィッツの強制収容所は、彼らの清掃と整備によってゴミひとつ落ちていない。ガス室のそばで黙々と雑草をむしりながら、彼らは自分たちの過去と対話をしている。この若者たちの歴史理解には指先から土の臭いが染み込んでいる。声をかけ、言葉を交わすと「やはり考え深くなります」といった謙虚な感想がもらされる。彼ら一人一人は、ここ歴史の現場で単に過去を学んでいるだけではない。このようにして自らを未来の礎として鍛えているのだ。このような若者が多ければドイツの将来はしっかりとしたものとなり過ちは繰り返さないだろう。

(写真説明)ワルシャワのユダヤ人墓地の清掃保全にはげむドイツ人の若者たち。手前の墓石はポーランドの極右に破壊され、二つに割れている(写真は梶村氏提供)。

 撫順の管理所はかなり荒れ始めている。なんとかしなければならない。中国の新しい経済政策のなかでは、あれだけの規模のものを維持するだけでも大変なことだ。所長先生たちの話を聞けば、難しさは誰にでも解る。中帰連の謝罪碑は中国の若者たちが清掃推持してくれている。だが管理所本体が荒れてしまっては、中庭の立派な碑が居ずらいのではあるまいか。これが私の印象だ。

 ここから私の夢が始まる、歴史を創るには先立つものは金ではない。何よりもまず人的資本だ。その最良で、かつ不可欠であるのは若者だ。これを集めることはできまいか。アウシュヴィッツには、十年前から「国際交流の家」と呼ばれる、「贖罪の証」というドイツのカトリック系の団体が建てた施設がある。そこには欧州各国の若者が集まり、互いに学びあいながら、収容所での奉仕活動にでかけている。撫順管理所ならばそのような施設自体も内部に併合できる。自主的に集まった日本と中国の若者たちが、例えば夏休みに管理所に泊まり込み、合宿生活をしながら、建物のしっかりとした保全修理を計画的に少しずつでも進めることはできないものか。例えば元戦犯の孫たちは、2000人はいるだろう、その内のまず20人が集まらないものだろうか。中学生から大学生まで、身体を動かすことが何より好きな若者はいるはずだ。また、訪れた元職員や会員の方々の話を聞いて、討論もする。これほど本格的な勉強は今の日本ではどこでも出来ないのではあるまいか。そのように本誌で呼びかけはできまいか。20人が30人となり、質量ともに充実を続ければ、10年後には、立派な建物になっているだけでなく、日中の人材を排出して、必ず日中友好の重要な施設に発展するはずだ。

 これは夢かもしれない。だが、旧撫順監獄は戦後、実際に人間の奇跡が起きた場所である。これからすれば、これしきの夢の実現は取るに足らないものではないと考えるのだが。いかがなものであろうか。

(かじむら たいちろう ジャーナリスト)
日独平和フォーラム・ベルリン代表

(注)この時の報告は、『週刊金曜日』1997年7月18日号「人間に戻った元将兵たちの声を聴け」を参照

 

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