最終更新日:2004年03月31日

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撫順戦犯管理所の体験

―侵略戦争の反省と学習による自己改革―

国友俊太郎


 中国に抑留された日本人戦犯が、天皇制軍国主義の「忠実な手先」日本軍国主義思想の「とりこ」の立場から、侵略思想と自己の罪悪行為を全面的に否定するようになるには、一人一人が深刻に自己を見つめる葛藤と反省の長い年月が必要であった。それが6年にわたる撫順戦犯管理所における勾留生活である。

管理所生活の初期

 勾留生活は勿論強制的な意味をもっている。勾留の初期においては「監禁への不平」と「処刑の不安」が渦巻いていた。高いレンガ塀と鉄格子によって隔離された生活を余儀なくされたことは、このような戦犯にたいする第一の打撃であった。

 次に何故俺たちが戦犯に問われなければならないのか?何万・何十万の日本人が戦争に参加したのに何故俺たちだけが勾留されなければならないのか?と。だがこれに対しては各人が多かれ少なかれ身に覚えがあるのでそれなりに胸がいたむ。これが第二の打撃であった。

 戦犯が撫順管理所に収容されて間もなく朝鮮戦争が始まった。米軍の仁川上陸、中国人民志願軍の参戦、中国国内の「抗米援朝運動」と戦争はエスカレートし、戦線が中朝国境に迫るニュースが新聞紙上に現れはじめた。

 戦犯たちの関心はこの問題に集中した。彼等はもともと日本軍は中国共産党軍に負けたのではなく、アメリカ軍の強大な軍事力に敗れたのだと信じていた。だから今度は共産主義に反対する米軍がやってきて「我々を解放」してくれればと密に期待する思いもあった。だがわずか半年後に朝鮮戦争は停戦交渉に持ち込まれ終ってしまった。これが第三の打撃であった。

 一体「中国人民解放軍」とはどんな軍隊なのか?「中国共産党」とは何なのか?という疑問が大きく広がっていった。

 新しい疑問はさらに新しい疑問と不安を生んだ。我々は何時迄勾留されていなければならないのだろうか?果たして無事に日本へ帰ることができるだろうか?であった。明日が分からなけば不安は拡大してゆく、その一方では過去を想うことが多くなる。監視員と鉄格子に囲まれた部屋の中で想うことはどうしても戦争の日々と日本軍の軍服を着た自分のことである。

 目の前で肉親をむごたらしく殺された人々。家を焼かれ食料・衣服を奪い尽くされた人々。農作業中に有無を言わさず連行された人々。逃げ遅れて銃剣術の肝試しに刺殺された人々。勝手な疑いをかけられて死ぬほどの拷問を受けた人々。泣き叫ぶ家族や子供たち。……その悲しみの声、僧しみの顔、その涙などなど。もし自分がこの中国の、これら被害をうけた人々の立場でありその家族であったなら…。この日本軍の兵士をどう思い、解釈し、弁明することが出来るであろうか。この日本軍兵士の行為はたとえ直接の被害者でなくても、誰がみても誰が聞いてもあまりにも残忍であり、理不尽であり、醜悪であり、とてもまともな人間のやれることではない。俺たちのやったことはまさに「鬼」の行為ではなかったのか。これが第四の打撃であった。

 この戦犯管理所は戦時中は中国の抗日分子や容疑者を入れるために日本侵略者が造った監獄であった。だが日本の戦犯が入ると医療施設・浴場・理髪所・暖房設備があらたに完備された。日本の支配の時代には貧しい暖房施設がつくられてはいたが燃料の石炭はほとんど与えられなかった。紙さえも与えられなかったから便所に入っても服の一部を破いて幾度も使用しなければならなかった。食事さえろくに与えられず労務は苛酷であった。少しでも反抗すれば激しい鞭打ちと独房での鉄鎖が待っていたのである。この話は当時この監獄の獄吏であった者の話であり、この獄吏は今戦犯として管制されていた。

 さらにかつて勾留されていた中国人が、今監視員の一人であることも分かった。

 中国の監視員は中央政府の方針と指示にしたがって戦犯の管理に当たっていたので、管理所長は常に「政府と党の方針」を強調した。監視員は戦犯たちの前では個人的感情を表すことはなかった。戦犯の方がどなり声をあげても監視員が怒ったり殴ったことは一度もなかった。食事は初期はあまり良いものではなかったが、腹一杯を保証しいくらでも追加要求に応じ、ときには新しく炊いて補充した。管制の初期には中国全体が大変貧しかった。十五年の日中戦争、その後の国内戦争、新中国建国直後の朝鮮戦争などと打ち続く戦乱の中で国土のすべてが荒廃していた。だから日本戦犯をとくに優遇することはできないし、またそうする理由はさらになかったことは言うまでもない。

 だが戦犯の方は腹一杯食べながらも不平不満をかこつ生活でありすべてに怠惰であった。やがて多くの者に手足のしびれや局部の麻痺症状がではじめた。管理所当局は「我々は管理されたことはあっても管理したことがなく不慣れであった。自分たちと同じ食事を与えておればよいと思っていたが、皆の健康状態がよくないのでこれから改善する」と伝達した。直ちに多数の医師を派遣してくわしく診断し、運動時間を大幅にふやした。看護婦は毎日健康状態を聞き薬をくばって回った。食事は大幅に改善され戦犯の中から経験者をえらび炊事場での調理に参加させた。三度の食事は白米となり魚・肉・野菜は豊かになり、うどん・まんじゅう・くだものとどうしてこんなにも丁重にするのかと思うこともあった。炊事場に参加した者の話では管理員の食事は以前戦犯に与えていた時のままであると言う。これはかつて日本人が中国人にしたのとは全く反対の姿勢であり態度である。管理所当局はこれも「政府と党の政策」であると説明している。一体どうしてこのようにするのか?どうしてこんなことが出来るのか?今までの戦犯たちの常識では考えられないことである。これが第五の打撃であった。この打撃は大変痛いものであり、恥ずかしささえ覚えた。

 第一、二、三、四、五と連続的に打撃を受けた戦犯たちは、次第に「俺はどんな人間なのか」「俺がこの人たちにしたことはどんな意味があったのか」「俺たちの今までの考え方や価値観は本当に正しかったのか、間違った考え方ではなかったろうか」「子供のときから受けて来た教育はどんな人間をつくってきたのか」「あの戦争は本当に聖戦だったのだろうか」…正義とは?戦争とは?平和とは?それにしても「新中国とはどんな国なのか」「中国共産党とは何か」「人民とは何か」これらの政府・党・人民の思想、政策は一体どうなっているのか?それはどこから来るものなのか?すべてが巨大な疑問であり重い疑問であった。だがそれは戦犯たちがそれからの一日一日を過ごすためにはどうしても解決しなくてはならない問題であり、一人一人が自分の力で突き崩さねばならぬ大きな壁であった。これが第六の打撃であった。


学習への目覚め

 管理当局はこのような時期に戦犯たちに「学習しお互いに討論しなさい」と呼びかけた。多くの図書・新聞が定期的に配布され自習用の用紙・筆記具が支給された。人民日報・中国共産党の歴史・矛盾論・実践論・文芸座談会の講話・抗日戦の戦略と戦術…帝国主義論・資本論・政治経済学…新聞「あかはた」・日本プロレタリア文学・日本資本主義発達史等である。これらの新聞や図書はつぎつぎと回覧された。

 食っては寝る。寝ては食うだけの生活は楽しいものではない。管制の初期には自家製のマージャン牌や花札、碁石、将棋を作って遊びほうけていた戦犯たちも、時が過ぎ個人個人のなかに多くの疑問が生まれ、それを解決しなければ明日を考えることが出来なくなったとき、本を読むことは今までにない楽しさに変わった。どれも難しい内容であったが同僚に助けられて何度もくりかえして読んだ。同居する者たちの間でも話題は急に広がった。時間は十分あった。

 与えられた資料はどれをとってみても生まれて初めて接する見方、考え方、理論ばかりでありすべてが驚きの連続であった。これらの文献は戦前の日本の社会では発行を禁止されていたものであり、もし持っていることが見つかれば「危険思想」の持ち主として特高警察に引っ張られ、非国民のレッテルを張られたものである。だが戦犯たちは学習をつづけるうちに今までの自分の知識や事物認識があまりにも片寄ったものであり、ときには妄想的なものであり虚構なものであったことを次第に気付くようになった。そしてそこでまた疑問が生まれ、新しい解釈が生まれ、互いに討論せずにはいられなくなっていった。

 更に長い時間がたった。皇国史観・武士道・愛国心・資本家と労働者・地主と小作人・民主主義・自由主義… 天皇の軍隊・大東亜共栄圏・日本の生命線・五族協和・王道楽土・神風… 植民地支配・民族の解放と独立・帝国主義侵略戦争・ファシズム… 弁証法と唯物論・観念論と形而上学等など。知ろうとすれば問題はいくつでも見つかった。

 各人の知識水準や能力の差によって程度の違いはあったが、誰にとってもすべてが新鮮な事物であり新しい知識の発見であった。同時に今までの自分の無知と盲目さに情けない思いを禁じ得なかった。これが第七の打撃であった。

 しかしながらそれは打撃ではあったが、反面大きな喜びでもありやがて学ぶことが一層の興味ともなっていた。

 

文化活動と自主生活

 管理所当局はさらに戦犯たちの心身の健康のために一定の自主活動を許可した。所内の広場に瓦の生産工場をつくり全員を二つのグループに分けて生産活動を行わせた。それは「強制労働」どころか愉快な競争となった。彼らはいきいきとして組織的な生産労働にはげみ質量の向上をめざして競い合った。

 当局はさらに「学習委員会」活動を許可して学習部・体育部・文化部・生活部をつくり自主計画による全体の生活規律をつくらせた。

 生活部は炊事場に入りメニューをつくり食事を配送した。また衣服・寝具・日用品などの配給管理を行った。体育部はバレー・バスケットチームをつくり、体操を指導して、運動会を組織した。文化部は音楽班や合唱班をつくり各種の楽器をもらって練習にはげみ、定期的に各住居棟を巡回して演奏会を開いた。バイオリンやフルートなどはじめて楽器を手にした者も次第に上達した。演劇班が生まれ大掛かりな文化祭が行われるようになり全員が参加した。しまいには野外大劇場をつくり長時間の大文化祭に発展した。「草原の踊り」「原爆の子」「日本鬼子」などの演劇が創作され、黄河大合唱が響き、数々の日本民謡や踊りが上演された。また月に一度程の割合で映画が上映された。中国旧社会の矛盾、抗日戦争、新中国の建設のほかイタリア・インド・ソビエトの作品などバラエティーは豊かであった。日本の「二十四の瞳」「混血児」その他の作品もあった。

 映画・演劇・歌唱など文化活動が人にあたえる影響は大きい。それは図書資料による学習とことなり人の感情を直接に刺激する、戦犯たちは学習による理性的な理解と文化活動による感情への刺激をつうじ、これまでの知識を吸収する一方の方法だけでなく次第に自己の体験と結び付ける学習・思考方法へと進むようになっていった。

 学習部は各室における討論会にたいして統一解釈をだしたり、より効果的な学習方法を提案した。その一つが「創作活動」である。創作活動とは被害者の立場に立って自己の罪行を客観的に記録することであり、その記録形式は文学的手法をとるように指導された。その原稿の多くは各室ごとに批判が加えられ、学習委員会の指名した創作グループが文体を調整した。創作活動には多くの希望者が参加し「手記」を書き留めた。これが帰国後に出版されて「三光」「侵略」などになったものである。

 学習委員会には五所・六所棟に居住していた元高級軍人や「満州国」関係の高級官僚もそれぞれの組織をつくって参加していた。

検察官による取り調べと「認罪」

 監収されて四年の歳月が過ぎていた。戦犯たちの生活は充実し毎日が忙しいと思うようになっていた。彼らは現実に「生きている」ことを実感していた、生きている実感があれば「明日」を思うようになる。

 その時点でさらに大きな打撃がやってきた。そして今度は決定的な打撃となった。検察官による罪状の取り調べである。

 数百人ともいわれる調査官が派遣され管理所内外に居住して戦犯を一人一人呼び出し、戦争中に犯した罪行について審問にあたった。四年にわたって被害現地の事情を調査し、被害をうけた住民の告発状や関係資料を収集、その数量は貨車数台分はあったと言われた。審問は半年以上に及んだ。

 戦犯として管理されたからには何時かは裁かれる日がくることは自明の理である。そうは言ってもこれは大きな問題である。国際的には勝者が敗者をどのように裁くかであり、中国政府にとっては日中十五年戦争の処理にかかわる問題であり、中国人民にとっては被害者として恨みに思う加害者を断罪する問題であり、戦犯にとっては人生の岐路に立たされるわけである。

 戦犯が管理されてからすでに五年が経過していた。時間の経過の中で彼らは前述したように幾度かの打撃をうけ、その度毎に自問自答し、学習し、互いに討論し、程度の差はあったもののそれぞれに深く悩み反省の時間を過ごした。国のために、親兄弟のために、正しいと信じ死を覚悟して参加した戦争が侵略戦争であり、自分の行為が罪悪であり犯罪であったと認めることは、いかにも辛いことであり、嫌なことであり、恥ずかしいことである。だが五年間の時間の経過は彼等を次第に変化させていた。日本軍国主義が中国を侵略した戦争は正義に反した罪悪的戦争であり、その手先となっていた自分の行為は平和と人道を踏みにじった犯罪であったという思いを、次第に共通の認識として醸成させていた。

 しかしすべての戦犯が同じであったわけではない。全体の変化の動きに逆らって過去に固執する何人かの戦犯もいた。彼等は打ち続く打撃に負け所内で自殺することになった。

 検察官による審問が開始されると管理所当局は戦犯全員に対し、各人毎に戦争期間中に犯した罪状について供述書を作成するように命じた。この度は今までのように優しい態度だけではなかった。当局は取り調べの方針として「担白」(自白)するものには軽く、逆らい拒む者には重く臨む」「罪行は事実のみを正確に記述し拡大や縮小、虚偽の供述は許されない」と告知した。このとき戦犯たちは改めて現実の社会に引き戻されたのである。

 戦争が終われば勝者が敗者を裁く。アジア太平洋戦争の終了後東京軍事法廷やアジア各地の軍事法廷で多くの日本人戦犯が処刑された。BC級戦犯でも銃殺刑、絞首刑をうけたものが多くいる。中国の国民党政府(蒋介石政権)も北京・南京・上海など10カ所で裁判を行い、605件883人を裁き149人を死刑に処している。

 撫順戦犯管理所に収容された日本人は1000余名であったが、元々その出身はまちまちである。年齢、職業、学歴がことなり戦時中の階級身分も皆ちがう。将官から下級将校、下士官、兵士の違いがあり、植民地支配者であった官僚の身分もまたまちまちである。高級官僚、検察官、警察、憲兵、鉄道部隊、公安部隊などがいる。このように各種各様の人々がいることは、そのまま日本軍国主義の中国にたいする侵略態勢の縮図を示すものといえる。戦犯一人一人の身分のちがいは大きな意味をもっている。そのことは罪行の性質と責任の多少の差を示すものでもある。

 その一方五年間の管理所生活の時間的体験と学習による事物認識の変化からいえば、現実的には罪行の重い者に変化が少なく罪行の比較的軽いものが早く変化したわけではない。誰が深く悩み誰が比較的少なかったか、誰がよく学習し反省を深めたことができたのか、誰があまり学習に真剣でなく反省することも少なかったのか、それは一人一人の問題であり、一人一人同じではなかった。だが戦争犯罪にたいする検察側の追求は過去の侵略時期の戦争犯罪のみが対象であり、現在の戦争認織や反省の程度を加味するものではない。この時点で戦犯たちは一人一人孤独であり誰もが「自分自身の罪行」という重荷を背負って逡巡した。

 各人は供述書を書くに当たっていろいろな態度を示した。初年兵の中には書く内容がないと思う者もいた。古参兵は軍隊の通常の規則にも違反するような破廉恥な行為を書くことが出来なかった。下級将校は上級者からの命令をそのまま下達したことが兵士が罪行を犯す原因となったとして自分の責任を曖昧にした。高官たちはどのように書けば自分の立場を理解してもらえるのかとためらうばかりであった。

 最初に提出された供述書は多くが当局の要求とは大きな隔たりがあった。再び同じ告知があった。「坦白する者には軽く逆らい拒む者には重く臨む」「罪行は事実のみを正確に記述し拡大や縮小虚偽の記述は許さない」と。今度はその後に「もっと良く学習し認識を高めなさい」の言葉が追加されていた。既に十年以上前の出来事であり日時、場所、地名、人命など正確な記憶が定まらないこともあり、戦犯たちは同じ部隊、同じ職場にいたものでグループをつくり、管理所の告知の意味を討論し、罪行にたいする責任のとりかた(記述すべき内容と記述方法)を語り合い、また互いに悩みを聞き、意見を出し合った。これが「認罪連動」「認罪学習」と呼ばれるものである。

 認罪運動は八ケ月に及んだ。その過程で当局は幾人かの供述と感想を全員の前で公表させ、正しく罪を認めたものを歓迎し「この様な者の前途には光明がある」と評価を与えた。これは大きな刺激となり次々と自己の罪行を公表する者が出てきた。

 その間にも検察側は引き続き一人一人を呼んでは審問を続行していた。検察官の戦犯を審問する態度は一面厳格ではあったが、一般的には極めて丁重で寛大であった。タバコと茶を勧めながら時には日本にいる家族のことも話題にした。そのうえ十分な調査が出来たと思われる者には力強い激励を与えた。何かを隠そうとしているときには「よく考えてみなさい」といって二度三度と呼び出すこともあった。さらに納得出来ないときには、収集した告発状や物的資料を突き付けて追及することもあった。告発状には日時、場所、人名まで明らかにされていた。その資料にはかつて戦犯自身が署名捺印した書類や、カバンその他の物品までが持ち出された。一方戦犯にとっては十数年前の記憶は定かでないものが多い。今「罪行」と言われているものは戦時中ごく当たり前のこととして行われていたからである。これに対し検察官は「人を殺すような重大な行為をして忘れることがあるだろうか、被害者やその家族は永久に忘れることはありえない」と迫ったこともあった。

 早い遅い、また程度の差はあったが、やがて供述書は受理され審問調査は完了した。供述を終えた戦犯たちは皆おおいに疲れた。大きな疲労の後には爽やかさがある。戦犯たちはこの認罪運動を終えて大きく重い肩の荷を降ろした感覚であった。暗いトンネルをやっと抜け出たような思いがした。後は中国政府の処置にまかせるだけである。多くの者はたとえどの様に処理され、どんな処罰が下ろうと素直に受け入れることが出来ると思った。

 また幾らかの日々が過ぎた。学習は一層進み文化活動もさらに活発になった。それは今までにない新鮮な感慨となって後まで忘れ難いものとなった。


新しい中国と見学旅行

 1956年(昭・31)春から夏にかけて管理所当局は戦犯を3つのグループに分けて、東北地方(旧満州)の各地、続いで北京・天津・漢口・南京・蘇州・上海の「参観」旅行を組織した。

 旅行は楽しいものであった。それは6年目の外出であり11年目に見る中国であった。「参観」は修学旅行の意味である。戦犯たちは多くの歴史旧跡を回り美しい山河を見た。また新しく出来た多くの工場、巨大な鉄橋、学校、文化施設、老人ホームなどをみた。何処へ行っても新中国になってからの建設ぶりがまぶしいように感じられた。まだ過去の様子をのこすものも多く見られたが、それらは皆日本侵略軍の罪行の爪痕でもあった。

 戦犯たちはどの訪問先においても現地住民の思いもかけない歓迎を受けた。だが中国住民を前にした戦犯たちの頭は重く、自然に涙があふれ深い懺悔の念にかられざるをえなかった。彼等は時には人々の前で頭をたれ、ある者は土下座して立ち上がれないでいた。そして過去の罪行を詫びた、中国の人々もまた苦難の日々を思い出し口々にその心情を訴えた。しかしその後では異口同音に「戦争が悪いのです、これからはお互いに平和であるよう努力しましょう」と激励の言葉を返すのであった。

 戦犯たちはまた参観中に映画・演劇・曲技を楽しみ、温泉につかって中国人から肩もみのサービスを受けた。彼等はまた撫順郊外や南京の雨花台の地で、日本侵略軍によって集団虐殺をうけた現場を訪れ、生き残った被害者の悲痛な告白の声を聞いた。それは戦犯たちの心だけでなく体に対しても直接襲ってくるような打撃であった。彼等はただ深くうつむきただ涙する外にどうしようもない自分を見いださなければならなかった。その被害者さえ「再び戦争をしてはなりません、わたしたちは決して過去のことを忘れません、どうか皆さんも平和のために努力してください」の言葉を与えた。これが最後の打撃であった、しかしこの打撃のなかには今まで味わったことのない感動と暖かい激励を感じとることができた。戦犯に対する被害者住民のこのような態度は中国政府の賢明な平和教育と民衆の生活が次第に向上し安定した日々を送れるようになった事実があった。

起訴免除、即日釈放

 前後一カ月に近い参観旅行が終わると、新しい指令があり、3回に分かれて臨時に設けられた法廷に呼び出された。戦犯に対する判決が下された。「起訴免除、即日釈放」であった。

 その日各人が受け取った書類「中華人民共和国最高人民検察院の決定書」には次のように記されている。(第一回目のグループに対するもの)

 「……日本戦争犯罪分子に対する捜査をすでに完了した。捜査によって立証されたところによれば、上記の335名の日本戦争犯罪分子は、日本帝国主義がわが国を侵略した戦争の期間に、国際法の規範と人道主義の原則を公然とふみにじり、わが国の人民にたいしさまざまな異なった程度の罪を犯した。そのうち上中正高、大矢正春ら三八名の戦争犯罪分子は、日本の降伏後、またもや閻錫山の反革命集団に参加して、日本軍国主義の復活をおしすすめ、おろかにもふたたびわが国を侵略する基地を山西にうちたてようとする犯罪的活動をおこなった。もともとこれらの犯罪分子がおかした罪からすれば、公訴を提起して裁判に付し、しかるべき処罰をあたえるのが当然である。しかし、日本の降伏後十年来の情勢の変化と現在の状態、ならびにここ数年来における中日両国人民の友好関係の発展にかんがみ、またこれら戦争犯罪分子は勾留期間中の悔悟の状態が比較的良好であるか、あるいは主要でない戦争犯罪分子であることを考え、本院はここに「日本が中国を侵略した戦争中の戦争犯罪分子で目下勾留されているものの処理に関する中華人民共和国人民代表大会常務委員会の決定」の、日本戦争犯罪分子をそれぞれ寛大政策により処理するという精神と第一条第一項の規定にもとづき、第一回分として上中正高ら335名の目下勾留されている日本戦争犯罪分子を寛大に処理し、起訴を免じ、ただちに釈放することを決定する」

1956年6月21日 検察長 張鼎丞

 判決を受けた戦犯たちは直ちに身柄を中国紅十字会に引き渡され、新しい衣服・革靴・毛布その他日用品と小遣い銭50元の支給を受けた。管理所からは楽器一式が贈られた。その夜管理所は職員全員による送別会を開いて旅の安全を祝った。十数年ぶりに飲む一杯の酒に多くの者が顔を染めた。

 釈放された戦犯たちは壊かしい学校を卒業するような思いにかられた。先生は中国政府・中国共産党・中国人民であり、生徒は管理所職員にさんざん手をやかせた戦犯であった。彼らは皆中国政府の寛大な政策をからだ一杯に感じていた。

むすび

 戦犯たちは高いレンガ塀と鉄格子のなかで六年の歳月を送った。それは強制された生活であり一歩も外に出ることは許されなかった。しかしこの強制は彼等の再生には必須の条件でもあった。それは「鬼から人間へ」の手続きであり法則にかなったものとも言えるであろう。

 こうして戦犯たちは自ら軍国主義思想の前半生を否定し、新しい後半生を迎えた。それは自分自身で切り開いたとも言えるし、中国人民から貰い受けたとも言える、両方が必要不可欠な条件であった。

 敗戦後アメリカ、イギリス、フランス、オランダなどの連合軍、蒋介石軍、ソ連軍に捕虜となった日本軍人は100万を越えるであろう。BC級戦犯に問われたものも数千人に及んでいる。ただ中華人民共和国に勾留されたものだけがこの様に「転変」したのである。

 日本に帰って来た戦犯たちはもはや中国国家権力からの如何なる強制を受けるわけではない。だからここでもう一度自分を見つめ、後半生をどのように生きるかを自由に決めることができる筈だ。帰国後40年、日本社会も大きく変わり、世界の情勢にも巨大な変動が見られた。このような時代の変動とそれにともなう価値観の多様化の中では、帰国戦犯といえども一人の自由人としていくらでも世界観・歴史観・戦争観を再考する十分な時間と余裕を持ちえたのである。だから「戦犯」として勾留された日々を否定し再び過去を正当化することもたやすいことであったし、軍隊時代の同僚と同じように振るまい彼等に同調することも可能であった筈である。だがどのように時間が経ち年月が経過しても、日中戦争が日本軍国主義の侵略戦争であったという歴史的事実が変わることはあり得ない。何れにしても一人の人間である以上その前半生は死ぬまで引きずって行かねばならない。中国から帰ってきた戦犯たちはその多くが既に過去の人となり生存する人も平均75歳を越えた。それでもなお彼等の大部分の者は帰国後40年を越える後半生を生きる中で、一貫して戦争責任を自覚しつつその責任を果たそうとしている。

 彼等にとっての戦後責任とは、後半生の正しい生き方とは何か?「けして再び日本軍国主義の復活を許してはならず、再び他国を侵略してはならず、日本国民と中国人民とのゆるぎない友好関係のために貢献すること」である。

(くにとも しゅんたろう 元中国帰還者連絡会副会長)

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