最終更新日:2006年04月01日

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中国人民の寛大政策について

藤田茂


■1974年7月7日、日中戦争開始の原因となった盧溝橋事件37周年に中帰連が主催した「日本軍国主義を告発する」報告集会において為された藤田茂・初代会長の講演内容です。
 この文章は藤田茂氏の生前の文章のうちもっともよく知られている文章であるとともに、日本人戦犯の「認罪」について、その状況をよく説明しているものです。『季刊・中帰連』第2号にも収録されていますが、多少の異同があるため、本文は、中帰連編『私たちは中国で何をしたか』より転載いたしました。



 山東省で「労工狩り」などを実行した第59師団の最後の師団長が私であります。
 中国人民からすれば、憎むべき大罪人である戦争犯罪人に対して、中国政府はどのように扱ってくれたかについて、私が体験した事実について申し述べたいと思います。

戦犯管理所の生活

 日本が敗戦して5年過ぎた1950年7月下旬、私たちはソ連から列車で中国の東北にある撫順につきました。

 日課は起床、食事、就寝の時間は決められていましたが、それ以外は極めて自由でした。午前中は学習で午後は屋外での運動、夕食後は自由娯楽の時間です。学習も強制的なものではなく、読みたい本を読むといった程度です。

 なんとかこの機会を有意義に過ごしたいと考えましたので、この機会に今まで一度も勉強したことのない経済学を学ぶことにしました。幸い仲間の中によい指導者もおりましたので、一年経ったころには資本主義経済、社会主義経済、マルクス経済学を一通り理解するようになりました。さらに日本経済の発達の歴史に興味を持つようになりました。

 私はすべての社会の基盤は経済であるということが、理解できるようになりました。経済学の基盤の上で歴史を学習する中で、特に日本の近代史学習の中で、私は大きな疑問を持つようになりました。若いころ習った日本の歴史は、この経済学から見て大いに食い違う点が出てきました。

 満州事変、日支事変についてはどうしても腑に落ちない。満州事変当時私は、将校教育の教官として東京におりましたので、事実の経過についてはほぼ知っているつもりでした。中国軍の鉄道爆破があり、日本軍の反撃によって事変が勃発したことになっていますが、経済の面から見ますとそれが原因とはいえません。事変前に田中上奏文が発表されましたが、それには「日本国防の第一線は中国の東北である。東北を征し、中国を手中におさめることが肝要・・・・・」と述べられています。また昭和2年以来 世界的恐慌の中で、日本も経済的ゆきづまりが背景になっているのであり、日本の経済的矛盾の打開策としての満州侵略がその原因であり、満州事変は、日本軍が発動した中国に対する侵略戦争であることは明らかであります。

 日中戦争の原因となった蘆溝橋事変もまた、日本の経済的背景と侵略拡大の経済的要求がその原因でありましょう。しかし、ただ、軍事的な見方からだけいたしますならば、北清事変後 条約によって、在華日本居留民保護を名目に、天津・北京に各1ヶ大隊の日本軍を駐屯させていましたが、昭和12年初期、日本国民の誰一人知らないうちに北京・天津の2ヶ大隊は、完全武装の各1ヶ連隊に改変され、旅団に編成されていたのです。その部隊の一中隊が同年7月7日、夜間演習を行ったのです。しかも戦意に燃えている宗哲元軍の目と鼻の先で、他国の領土で、夜間演習を行うこと自体まことに不謹慎の極みです。中国軍の攻撃に対して反撃したのが日支事変の始まりといわれていますが、本来日本の軍隊では、演習には実弾を携行してはならないのが鉄則であり、直ちに反撃できるのもまことに準備のいいことと言わざるを得ません。

 これが正義の戦争といえるでしょうか? 聖戦だと賛美されたこの戦争もまた、中国の資源の略奪とその市場を独占するための日本が計画的に発動した侵略戦争でありました。

 私は、経済学と日本近代史の学習によって、戦争の原因とその戦争の内容を正しく理解するようになりました。そして私は、これらの学習を通じて、自分の前半生について割り切れないものを抱くようになりました。

 私はいろいろ学習し、かつて私が実行してきた中国での戦争は、侵略戦争であったということも分かってまいりましたし、これまでの中国側の私たちに対する処遇についても頭の下がる思いで、私の思想も変化を起こしつつあるときではありましたが、15歳のとき幼年学校に入学してよりの天皇崇拝の軍国教育によって、私の頭の中にこびりついている軍国主義思想はまだなかなか清算することができませんでした。

 私は、今までの生活体験、学習、所長の話などを考えているうちに、私の頭の中は錯乱が生じ矛盾撞着が起こり葛藤が起こってまいりました。何が正義なのか、何が日本のためなのか、何のための戦争だったのか、私はついに強いノイローゼになってしまいました。

 食事も喉を通らず、夜は眠れない日々が続きました。班長さんが心配して睡眠薬を持ってきてくれましたが、それでも眠れませんでした。こんな状態で運動の時間、屋外で体操をしていたときには急に頭がふらつき、気を失ってしまいました。気がついたときは、診察室のベッドの上でした。

 長い時間かかってやっと元気を取り戻したころ予審が始まりました。

軍事裁判

 この五年間のあいだに、私の中国での足取りの調査は詳細に進められていたことは充分察知できます。私が作戦を実行した地域の住民からは、数多くの告発状が寄せられておりました。

 予審判事は「あなたは、住民が訴えているような事実を認めますか」と私に質問しましたが、私は作戦のことは思い出しましたが、当時住民をどこで何名殺したかなどは問題にもしていなかったし、何の報告も受けておらないので、まったく知らないことでした。

 「当時、住民を殺したことなど覚えていないし、知らない。しかし指揮官として、そのような事実があるなら道義上の責任は取ります」と答えました。

 1956年6月、私たちに対する軍事裁判が始まりました。正しくは中華人民共和国最高人民特別法院軍事法廷であります。

 私は6月3日、仲間8名とともに瀋陽に送られ、軍事法廷の独房に入れられました。

 この裁判は2回に分けて行われたのです。第一次が私たち師団長2名、旅団長2名、連隊長1名、情報将校1名、軍医1名の計8名です。第二次は28名で、満州国の行政官・警察・憲兵・特務機関・その他機関の主な責任者たちでした。

 当時、撫順管理所の他に、太原にも戦犯管理所がありまして、そこから9名の主だった者と当法廷で合流いたしました。

 裁判が始まりますと、一人一人に起訴状が手渡されました。この起訴状の中に不審な点があれば申し出るようにとのことでした。私の起訴状を読んでみますと、連隊長・旅団長・師団長当時の罪行が7項目に分けられてありました。

 その罪状は軍事上のことはほとんど述べられていません。もっとも大きな問題は、平和住民の虐殺、平和住民の酷使、家屋の破壊と焼却、食料と家畜の略奪、婦女子の強姦、捕虜の殺害などであります。

 私は日本から送られてきた週刊誌を読んだことがありますが、その記事の中に各国の軍事裁判の様子が載っておりました。ポツダム宣言第9条には、捕虜を虐待した者は厳罰に処すとあります。これによって1200余名の日本軍将兵が死刑に処せられているのです。私が師団長のとき行いました秀嶺1号作戦というのがあります。この作戦だけで私は捕虜86名を虐殺したという一項が起訴状に載っております。この一項だけでも私は当然死刑だと覚悟を決めたのであります。

 いよいよ6月9日より軍事裁判が開かれました。法廷はちょうどヒナ壇のように高い所に裁判長が、その両脇に裁判官、一段下がって右側に検事、左側に弁護士が居並んでいました。また右の席には証人、その中央に被告8人が並んだのです。

 検事が、私たちの罪状についての起訴状朗読を行い、午前中はこれで終わりました。
 午後、裁判は続行され、被告第一号に対する証人の証言が始まったのです。この証人たちの証言の一言一句は本当に怒りと憎しみに満ち満ちておりました。その一人一人の眼光と一句一句の憎しみが、私の胸に突き刺さる思いでした。次から次へと立つ証人たちは異口同音に私を極刑に処すよう証言の最後を結んでおりました。

 その中でもっとも印象に残る証言について述べます。
 それは私が連隊長の時代、山西省安邑県に上段村という村がありますが、その部落に共産軍がいるという情報が入りましたので、「直ちに補足せん滅すべし」という師団命令をうけて、私は部下を指揮してその部落に向いました。夜明け前、折りしも移動しつつある敵50名と遭遇、ただちに戦闘に入りました。白々と夜が明けるころ戦闘は終わりましたが、私はまだ部落の中に敵が潜んでいるかもしれないと思い、部落の掃討を命じました。

 私は部落の城門付近に腰をすえて部落内の様子をうかがっておりました。あちらこちらで火の手があがる、単発的な銃声が聞こえる。私は「また何かやってるワイ」といった程度にしか思っていませんでした。

 しかし、このときの罪状によりますと、住民の老若男女140名を殺害したうえ、井戸に投げ込み、捕虜12名を殺害し、100余軒の民家を焼失させたのです。

 この時の証言に立った張葡萄という62歳になる老婆は、このため一家が皆殺しにされ、ただ一人生き残ったのです。老婆は当時の情況を話しているうちに段々興奮してきて、怒りのために体が震えだし、顔は汗と涙と鼻水とよだれでクチャクチャで、それは物凄い形相でした。老婆の白髪まじりの頭髪は憎しみで逆立っていました。

 私は元来、人の喜び、怒り、悲しみ、苦しみの表情を何度も見たことがありますが、この老婆のような凄い形相を見るのは初めてであります。なんと言いますか、怒り、憎しみ、悲しみ、苦しみ、恨み、これらの感情が一時に爆発したという表情であります。

 この老婆は髪を逆立てて、テーブルを乗り越え私に飛びかからんばかりの有り様なのです。証言という生やさしいものではありません。裁判長が幾度もなだめ、看守が、元の席へ引き戻してもすぐに私に飛びついてくるのです。また連れ戻す。また夢中で飛びかかってくる。

 私は本当にそこに立っていることができなくなりました。つらい、苦しい、まさに断腸の思いであります。心から呵責の念がわいてまいりました。もうどうでもいい、ひと思いにこの老婆に蹴るなり、噛みつくなり、打ち倒すなりして欲しいという気持ちで一杯でした。そこにからくも立ちすくんでいることで精一杯でした。

 私はこの老婆の怒りと憎しみでくしゃくしゃになった顔がまぶたに焼きついていて、生涯消えることはないでありましょう。

 このような証言を26人から聞きました。丸一日半、私はただ立ちすくんでおりました。その時間の長かったこと、これはとうてい言葉では表現できるものではありませんでした。

 私はいちおう死刑の覚悟をしておりましたが、証言を聞き終えたとき、心の底から死刑は当然だと思うようになりました。

 裁判長は「今の証言に対して被告はどう思うか」という質問をしましたが、私はもう弁解無用と感じておりましたので、「まったくその通りです。本当に申し訳ないことをいたしました」と素直に答弁いたしました。

 このようにして10日間で8名の軍事裁判は終わりました。そして6月19日、判決が言い渡されました。私に対する判決はまったく予想外でした。なんとただの18年の禁固刑だというのです。しかもこの18年は抑留の全期間を通算するというのです。日本敗戦後、ソ連での5年間、中国での今までの6年間を通算し、すでに11年が経過し、あと7年間の禁固刑というのです。7年たてば、この私を日本に帰すというのです。なんと夢のような話なのです。

 裁判長の「今の判決に対して被告は申し述べることがあるか」という質問に対して、私は「まったく予想外の寛大な判決でありただ感謝のほかございません。しかしながら、ここにおられる26人の証人は皆、極刑を望んでいます。こんな軽い刑では納得されないのではありませんか」と偽らざる心境を述べました。

 その後、弁護士が私の部屋にまいりました。「藤田さん、今日は本当に良かったですね。貴方が人民の立場に立たれたことを感謝します」というのです、それは証人の心情を充分汲みとり心から自分の罪行を反省し、判決に感謝していることを、喜んでくれているのです。

 この軍事裁判により、もっとも長い者で20年、短い者で13年の判決を受けたのです。

中国の寛大な政策について

 判決があった翌月の終わりごろでした。班長さんが散髪に行くようにと連絡してまいりました。

 「ちょっと早いのになんだろう」といぶかしく思いながら理髪を終えて、案内された部屋に入って私は本当にビックリいたしました。そこに思いがけない私の妻がいるではありませんか。私もビックリ、しかし家内の方もビックリした表情でしばらく声も出ません。

 家内ははるばる面会のため日本から撫順へやってきたのですが、この部屋に通されしばらく待っているようにと言われて待っていたのです。

 普通、囚人との面会は、別の部屋で金網越しに十五分ぐらいの話ができるものと、想像しながら家内が待っているその部屋で、突然私が入っていくと、看守は「どうぞごゆっくり」と言い、サッサと外へ出て行ってしまったのですから、まったく勝手の違うのにビックリして口もきけないでいるのです。

 家内は、面会ができると聞いて日本を出発するときは、戦犯の家族として中国では罵られ、時には石を投げつけられるかもしれないとかなりの覚悟を決めて来たようですが、中国へ参りますと、それはそれは丁重なもてなしを受け、各所を案内され見物し、想像とはまったく逆の暖かい歓迎に面食らってしまったのです。まったく日本人の常識では考えられない状態の連続です。

 中国の人々の寛大で暖かい処遇にはただただ頭のさがる思いでした。
 先般、中国を訪問した知人が私に申しました。「中国の人々は、過去の戦争のことは忘れましょう、将来の平和と友好のため話し合いましょうと言いました。さすが中国人は大国の人民だ。あの日本軍の侵略による損害を水に流そうというのです」と。私はこの言葉を聞いて大変情けなく思いました。誰が親兄弟を殺され、先祖伝来の家を焼かれてこれらを忘れられましょうか。私は「過去のことは水に流そう」と言っておられる中国人民の奥深い心情を、正しく理解する必要があると痛感いたしました。

 先年、中国帰還者連絡会の代表団が訪中した際、平頂山を訪れました。前回1966年訪問したときにはありませんでしたが、その小高いところに立派な記念館が新しく建てられておりました。この記念館に一歩足を踏み入れると、館内におびただしい白骨があります。説明を聞きますとこの山の中腹を掘り起こし取り出したものです。子どもに覆いかぶさったままの姿の親子の白骨もあります。土がついたまま累々たる白骨の山です。

 この平頂山の事件というのは、抗日愛国軍がこの平頂山部落にいたという理由で日本軍が部落を包囲し、三千名の住民を広場に集合させ機関銃で全員射殺し、一人一人を銃剣でとどめをさし、さらにガソリンをかけて焼却し、山を爆破して死体を埋めたという恐るべき日本軍の蛮行であります。

 平頂山には石碑が立っています。その石碑には「血と涙と恨みを心に刻み、階級の苦しみを銘記せよ」と刻まれています。侵略戦争の苦しみを忘れるどころではありません。この記念館は戦争を知らない若い世代を教育する貴重な学習の場なのです。

 広州で、あるレセプションに出席いたしましたとき、その席上で広州市革命委員会の副首席の方の挨拶がありましたが、その一節で「私の故郷は河北省であります。そこでは軒並みに日本軍によって殺された人がたくさんいました。私は日中問題について長い間悩んでいました。毛沢東思想の学習と党と政府の辛抱強い指導によって、ようやく日本人民と日本軍国主義を区別することができるようになりました」と言っておられました。

 中国の東北から海南島に至るまで、かつて日本軍が侵略した地域には、中国人民の血の跡が残っているのです。このことを私たちは銘記しなければなりません。日本が中国を侵略したことは拭い去ることのできない歴史の事実であります。

 私は、侵略戦争の実態をよく見つめて侵略戦争を心の底から憎むとき、はじめて「過去のことを水に流して日中友好を願う」中国人民の心情を理解することができるのだと考えています。過去の侵略戦争を反省し、日本軍国主義の告発こそ、日中友好の基礎であると私は確信しております。

 訪中した際、周恩来総理は私に対して次のように述べられました。
「今度、日中両国の間に国交が回復したことはまことに喜ばしいことです。これは経済的基盤の異なる両国の総理が紙の上で約束したものであります。しかし、本当の友好はこれからでありましょう。中国人民と日本人民がお互いにもっともっと理解を深め、その相互理解の上に信頼の念が深まってこそ、初めて子々孫々に至るまで変わることのない友好関係が結ばれることでしょう。これにはまだ永い年月がかかることでしょう。日中友好のためお互いにいっそう努力しましょう」

 私はこの言葉こそ今日、中国人民の心情であると感じております。
 私は老骨に鞭打って、侵略戦争反対、軍国主義の告発、日中友好のために今後も邁進する覚悟です。

(ふじた しげる 中国帰還者連絡会初代会長)

 

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