父の遺言
倉橋綾子
憲兵だった私の父・大沢雄吉(1915年群馬県生まれ)は、1986年に肝硬変を患い、71歳で亡くなりました。その直前に私は父から紙切れを手渡されました。鉛筆書きのふるえる字で、次のように書いてありました。
「旧軍隊勤務十二年八ケ月、其ノ間十年、在中国陸軍下級幹部(元憲兵准尉)トシテ天津、北京、山西省、臨扮、運城、旧満州、東寧等ノ憲兵隊ニ勤務。侵略戦争ニ参加。中国人民ニ対シ為シタル行為ハ申訳ナク、只管オ詫ビ申上ゲマス」
父はこれを墓標に刻んでくれと言い残しました。しかし様々な事情により、その願いをかなえることができないでいます。(昨年、羽生市の翁抗日反戦美術館に、父の遺言文と写真を置かせていただき、ほっとしました。)
父は祖父の道楽のため貧しい少年時代を送り、中学校には行けませんでしたが、猛勉強して憲兵試験に合格したとのこと。高い給料が欲しかったのだと思います。敗戦を旧満州で迎え、二度逃亡して帰国できたそうです。ゼロから始めた洋品店を大きくすることに心血を注ぎ、働きづくめでした。従軍看護婦だった母もまたよく働きました。父は枕元にいつも「中央公論」を置き、林芙美子の「放浪記」、深沢七郎の「風流夢タン」などがお気に入りでした。五味川純平の「人間の條件」を読んで泣き、その映画を私たちに見に行かせました。田舎には珍しく進歩的、合理的な人間で、尊敬されたり煙たがられたりしていました。
私は父に可愛がられ、人生観、世界観にその影響をもろに受けました、やたら正義感がつよくて突っ走ってしまうのは、父そっくりです。私は子供の頃から、父があの戦争に加わったことを悔やんでいたのは知っていました。しかし一度も、父が実際には何をやったのか聞いたことはありませんでした。
父の死後、謝罪の遺言を残すほど悩み抜いたことを思うにつけ、父があわれでなりません。その苦しみを分かちあってやれなかった自分が情けなくもありました。そこでせめて、父の戦友からどんな事があったのか、話を聞いてみようと思いたちました。
戦友を探すのには大変苦労をしましたが、最終的には、憲友会の厚い名簿から、最後の任地・東寧で同じだった方をピックアップして電話をかけるやり方で成功しました。
敗戦直前の東寧のS分遣隊で父の部下だった方は、東北の田舎町に生きていましたが、アルコール依存症で、喋れないとのことでした。その方が分遣隊長の住所を知らせてくれたので、私は東海地方の隊長さんのお宅へうかがいました。御夫婦で涙を流しなつかしがって下さいましたが、父の謝罪文に対しては何も触れず、対ソ諜報活動だけで何もなかったと言い、あとは引揚の苦労話でした。
不本意な結果となりましたが、今は中帰連の方たちのお話や著書で深く学ばせていただいております。また南京虐殺をめぐる裁判でがんばっておられる、東史郎さんのお姿にも大変励まされています。
父も皆様方のように勇気を出して叫びたかったのに、それができませんでした。その分を私自身ががんばらねばと、あちこちとかけずりまわっております。戦争二世の私たちの世代はもっと手をつなげばと、心から思います。
中帰連の皆様どうぞこれからも人間の良心をともし続けて、後の世代を導いで下さいませ。
(くらはし あやこ 50 埼玉県在住・元教員)
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