監獄の過去と現在
川村忍
■川村忍氏は、撫順戦犯管理所が「満州国」の支配のもと「撫順監獄」だった時代、その監獄吏として働いた経験を持っています。
私は偽満当時、10年余りも監獄吏として、日本帝国主義の中国の東北支配の一環としての残虐な政策を行い、敗戦時には、いまこうして私のいるこの撫順監獄の典獄であった。実際上は、監獄長として全権力を握り、横暴の限りを尽くしていた。
その私が、万悪の罪行を重ねてきたこの監獄に、戦争犯罪分子として今収容されている。昔私が典獄として収容していた中国の人々は、皆祖国を愛し、労働を愛し、平和と幸福を求めていた人たちであった。その美しい心の持ち主を、奴隷として牛馬以下に取り扱ってきた。その私が、今の同じ場所で、被害者である中国人民から人間として待遇され、本当に親にも勝る暖かい配慮のもとに、ようやく善悪がわかり、平和を愛する人間に生まれ変わろうとしている。
昔私は、在監者に、ろくろく精白もしない高粱飯に、塩煮の大豆か、菜っ葉の浮いた、顔の映るような塩汁をやっただけで、肉や魚はせいぜい月に一回、それも一切れか半切れで、みんな空腹に悩んでいた。
倉庫係が、高粱を五屯も腐らせてしまった時などは、「仕方がない。帳簿尻を合わすまで、当分の間一人1日50匁宛減らしてやれ。もし飯が少ないと文句を言う奴があったら、徹底的に懲らしめろ」と、私は事もなげに言い放ち、減食させた。そして、倉庫係の失策を解決した。また、身体の具合が悪くて半分も食べられない人から、その残りを貰って食べた者を、看守が見つけて報告してきた時など、私は即座に、その人に3日間の減食罰を与えた。その時その人は言った。
「少しは殴られてもよいですから、減食だけは勘弁してください。お腹が空いてやり切れません」と。だが、かんかんに腹を立てた私は、その人を蹴飛ばして追い返したことを覚えている。
獄衣‐赤い着−は、冬でもボロボロの薄い綿入れ一枚やっただけで、それも他人の着古しを洗濯もせずに支給し、皮膚病患者の膿や、意識を失った重病人の汚物の痕が、そのまま残っているものさえ珍しいことではなかった。
居室を消毒したことは一度もなく、蚤、虱、南京虫の巣と同じで、夏になると蝿が天井から窓から床まで真っ黒に群がり、労働に疲れた人々が眠れなかったばかりか、赤痢やチフスが常に蔓延していた。在監者2000人(分監をあわせて)のうち、常に病人は300人以上もあり、毎月30人位死んでいたのである。また真冬でも、ろくろくペチカも焚かなかったので、室内温度が零度以下になり、凍傷になったものも少なくなかった。
水は食事の際、飲用としてコップ一杯やっただけで、顔など洗わせなかったし、入浴はもちろんさせず、散髪は2ヵ月に1回、髭はバリカンで刈っただけで、顔剃りなどやったことは一度もなかった。石鹸、タオル、歯磨き粉などの日用品はおろか、塵紙一枚やらなかった。だから用便の時は着物の端を破って使い、飲用として貰った水を飲み残しては、注いで乾かし、次にまた使っていた。ある時破れ布団から綿を引きぬいて使ったのを、看守が見つけて殴った。その人は悔し涙を流して、「私の家は貧乏で、面会や差し入れにきてくれるものはありません。監獄では紙もくれず、手を洗う水一滴くれない。便所へ行っても紙はない。いったいどうしたらよいのですか?」と反問したという報告を受けた。
私はすぐその人を連れてこさせ、「この野郎太ぇ奴だ、そのふてくされた態度は何だ。『どうしたらよいですか』とはよくもぬかしやがった。ここを何と心得ているか?犯人のくせに、人間らしいことをぬかしやがる。よしっ。俺がわからせてやる」と罵り、殴った上、看守に、「おい!こいつは反満抗日分子だ、うんとこらしめろ」と命じて、昏倒するまで殴らせてから、手錠と脚錠をかけて暗室に放りこんだ。それが因になって、その人は病気になり、間もなく死んでしまった。そして医者に命じ、心臓麻痺ということにして処理した。
また、この監獄には900人の在監者がいたが、100人は病人であった。働けるもののうち、400人はミシン工場に、150人は鉄工場に、残りの250人は外役作業に出して、一日14時間から15時間労働を強制し、一か月に2日休ませただけだったが、賞与として、賃金のわずか一割を与えただけだった。
私はこのように、在監者を残虐に扱いながら、私自身は監獄作業の収入をごまかした金で、腐ったぜいたくな生活をし、また在監者を奴隷として外役作業に出した代償として、外部の資本家から饗応をうけ、夜ふけまで、街の料理屋で遊興し、二日酔いでふらふらしながら、いつも出勤は9時過ぎであった。
これが過去の私の監獄長としての姿である。そして偽満監獄の文字通り『生き地獄』さながらの実態でもあったのだ。この私が今万悪の罪行を犯してきたその同じ場所で、被害者である中国人民から、毎日何の心配もなく、愉快に生活させてもらっている。
食事は管理所の工作員の方々よりも良いものを、毎日腹一杯食べさせてもらい、衣服は一人一人身体に合うように寸法までとって仕立ててもらった新品を、毎年取り替えてもらい、6年来、まだ一度も他人の着古しなど着たことはない。日用品も必要なだけ、いくらでも支給され、洗濯はいつでもできる。
居室は徹底的に消毒してくださるので、虱、蚤、南京虫など一匹でも見たことはない。零度以下二十何度という厳寒の日でも、シャツ一枚で汗を拭き拭きこってりした甘い汁粉に舌鼓を打ち、夏は窓に網戸が入れられ、庭一面に咲き乱れている色とりどりの草花を眺めながら、野菜サラダの御馳走をいただいている。
私どもは全然労働をしていない。炊事や理髪などの生活上の仕事を願い出ても、許されず、すべて工作員の方がやってくださるのだ。だから私どもは、毎日清潔で一日中開け放たれている部屋で、午前中は自由な学習、午後は楽しい体育と文化に当て、自主的な、健康で明朗な生活をしている。いつでも自由にクラブへ行って、本や雑誌を読んだり、くわえ煙草で麻雀、トランプ、囲碁、将棋、歌、踊りに興じている。
昔は野菜畑であり、豚小屋であった場所が、運動場に変わり、そこには数個のバレーコートが作られ、午後になると庭中あちらこちらで、ボールが屋根より高く飛んでいる。私たちのほとんどの者が、バレーかバスケットの選手で、六十を超えた老人までも、球を追って身体を鍛えている。なんと、大きな変化だろう。構内至る所に作られた築山や花園では運動に疲れた身体を休める人たちが、三三五五とベンチに腰を下ろして、世界の平和、日本の将来、人類の幸福を語り合っている。
かつて私が、得々として日本民族の優越を説き、日本の侵略戦争を聖戦と押しつけ、苛酷な労働を強要した教誨堂は、今私たちの大クラブとして、毎週映画を見せてもらい、楽しい文化祭をやり、大会食の食堂に当てられている。
かつて、私が中国の愛国者を苦しめた懲罰室は取り除かれて薬局となり、また汗と涙を流させ、膏血を搾りとったミシン工場や鉄工場は、今住み心地の良い住居に改造されている。
昔衛生設備として2000余名の本監、分監の在監者に医師一人でろくろく薬もなかったものが、今は1000名に足りない私たちに対し、先生が4人、看護婦さんが十数人もおられて、真夜中でも病気を知らせると、すぐ診断をしてもらい、ちょっとした病気でも高価な注射を惜しげもなく打っていただいている。先生方は常に私たちに「身体を大切にしなさい。ちょっとでも具合が悪いところがあったら、早く申し出て、診断をうけなさい。手おくれになると取り返しがつかないことになりますよ……」と親切に言われ、また私は、二カ月程前、腫物が出た時、ペニシリン注射を23本打っていただき、手術もせずに治してもらったが、看護婦さん方は注射をしてくださる時、いつも「痛くありませんか、もし痛かったら言ってください、やり方を改めますから……」と、自分の親兄弟にでも接するような態度である。
私は6年来随分反則したり、遊びに夢中になって、器物を破損したり、公然と工作員の方に反抗したことが何回となくあった。たとえば、今までに、3回窓硝子を割ったことがあるが、その時叱られるだろうと思って恐る恐るお詫びすると、工作員の方は、笑って「割れたものは仕方がありません。今後気をつけることです」とこごと一ついわれなかった。
また工作員の方が、私たちの健康のことを心配されて、「運動にはなるべく出なさい」と言われた時、私は「強制的に出ろと言うのですか、もしそうでないなら、出る出ないは私の勝手だから出ません」と食ってかかり、麻雀をやり続けていた。すると工作員は「そういきりたつものではありません。出る出ないは勝手ですが、身体を損ねたら自分の損ですよ」と諭されただけであった。
思えば思う程、昔の監獄は人間を虐殺する地獄であったし、私はその地獄の閻魔王であった。しかし、今この中国の監獄は、鬼を人間にする学校に変わり、人間性の一片すらもたなかった私が、人間としての感情と理性と良心を呼び醒まし、人間に害をなしてきたものが、人類の幸福のために役立つことのできる人間に成長しつつある。
同室の友人3人は、昼間の疲れですぐ寝ついた。そして静かな健康ないびきをかいている。長い建物は物音一つしない。夜は大分ふけたらしいが、私の目はますます冴えて、なかなか眠れそうにもない。
(かわむら しのぶ 中国帰還者連絡会会員)
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