中帰連の勇気こそ日本の誇り
小島清文
小島清文氏略歴
1919年台湾台北市生まれ。慶応義塾大学卒業。43年海軍兵科予備学生隊入隊。44年海軍少尉、戦艦「大和」乗組暗号士。45年ルソン島で米軍に投降、ハワイ捕虜収容所に送られ、46年復員。88年「不戦兵士の会」創立。現在「戦争体験を掘り起こす会」代表。著書に「栗田艦隊」「投降」「悲劇の半世紀」「守るべき国家とは何か(上下)」他。
侵略戦争に対する戦争責任とは、未来の人類に向かっての我々の将来責任であり、そのための過去の反省である。戦後五十有余年を経た今日、ドイツ・ナチスが犯した侵略戦争におけるもろもろの加害行為の罪に対して、今なお国民自らの罪として反省の念を被害国民に対して表明し続けているのもそのためである。
ところがこの日本では、戦争被害者に対して謝罪するのは自らを卑しめ、国民としての誇りを傷つける行為だ、と声高に主張する輩が大学教授の肩書きを持つ人たちの間から出て来ている。戦争体験者たちには周知の事実である南京大虐殺、マレー、シンガポール、マニラ等での市民虐殺事件、中国戦線でのいわゆる「三光作戦」、731部隊の生体実験、毒ガス戦、従軍慰安婦、強制連行等々、かつて日本軍が犯した数々の加害行為に対して彼等はその罪を認めて謝罪するどころか、それらの事実そのものを否定しようとしているのである。
これまでも戦後ひそかに、こそこそと遠慮がちに、かつての戦争は侵略戦争ではなかった、自衛戦争だったと、聖戦化しようとする戦前からの生き残りの政治家たちや軍人、その亜流の者たちは確かに存在していた。しかし彼等でさえ、さすがに個々の残虐な事実までは否定しなかった。同じ世代に生きた彼等は、それらの事実を実際に見たり、聞いたりしていたからである。そこで彼等が言えることといえば、せいぜい「あれは戦争だから仕方がなかった」「日本だけではない。どこの国でもやっていることだ」と、その罪の相対化を図るのが関の山であった。
しかし、南京大虐殺はなかった、三光作戦は誇張だ、従軍慰安婦はいなかった等と、過去の事実を事実として認めようとしないどころか、それを言う者は「反日」的日本人であり、自虐史観の持ち主だとか言うに至っては、いくら当時、彼等が戦争中まだ生まれたばかりの幼児であり、判断もつかぬ年端の行かぬ子供の頃のことであり、彼等の全く知らないところで起こったことであったとしても、そして一部のマスコミ受けを狙ったものとしても、その無知、無責任さは許されることではない。
彼等は自らの罪を隠蔽することが、次代の若者たちにとって望ましく、誇り高い日本人の教育に役立つと思っているようだが、前記日本軍の犯した加害行為は世界周知の事実であり、知らないのはお人好しの、そして戦争を知ろうとしない世代の日本人だけである。国際的には隠し立てる方がみっともないし、恥の上塗りになるだけである。なぜ日本はドイツのようにアジアの人たちに謝罪しないのか、なぜ被害補償をしようとしないのか、と首を傾げているのが米国やアジアの一般の人たちの素朴な疑問である。
戦争の実態を知らず、ただこうあって欲しい、そんなことはある筈がない、というような願望だけから、都合のよい文献だけを漁って「そんな事実はなかった」と主張する輩の病んだ頭脳にとっての解毒剤は、多くの戦争体験者たちが語る戦争の実態証言である。戦争体験者たちの勇気ある証言は、この国の過去を知らない人たちの歴史観を正し、これからの政治を変え、教育を変え、そして未来を変えるであろう。
今回発足した日本平和学会の「戦争と平和の歴史」コミッション(内海愛子・恵泉女学園大学教授担当)では、戦争体験の収録に当たって「戦争体験者へのお願い」として、次のように訴えている。
「この度、日本平和学会では、思想信条を問わず、ありのままの日本人の戦争体験を各方面に亘って収集することを目的として、『戦争と平和の歴史』コミッションを設立しました。
諸外国には、いわゆるウォー・メモリアル、戦争資料館があり、そこには戦争体験者たちの詳細な記録が取められ、それらは戦争と平和に関する科学的、客観的な研究の資料として大切に保存されております。
しかし日本にはこのような施設はなく、このまま放置しておけば、貴重な歴史的所産ともいうべき戦争体験資料は風化し、やがて永久に失われてしまうでしょう。
すでに戦争を体験した人たちは今日、老齢化し、相次いで死没して行くのが現状です。そして一方には、かつてどのような戦争があったか、ということすら知らない世代が急増しております。今、急がなくてはならないのは、戦争を体験した人たちの記録を残すことです。特に『平和』を考える時、戦争を抜きにしては何も考えられませんし、日本だけでも、かつて二百万人以上の戦死者を出し、何千万人の人たちが不幸に見舞われた戦争の実態を学ばずに、将来の平和を語ることはできないでしょう。
日本人は、『あの戦争から何を学んだでしょうか』。
この問題は戦後五十年で一段落するようなものではありません。
日本平和学会『戦争と平和の歴史』コミッションでは、十五年戦争の時代を生きた人々(男女を問いません)の歴史を記録することに力を注いでいきたいと思っております。戦争体験を語って下さる方、それを記録する活動に参加して下さる方のご協力を得て、コミッションでは全国各地でその活動を展開しております。この調査は、面接に当たって聞く方、語る方の便宜のために一定の質問項目を定めて実施しております。何卒ご協力の程お願い申し上げます。」
なおコミッションでは活動の別動隊として、ボランティアによる「戦争体験を掘り起こす会」(仮称)を結成して、積極的に戦争体験者とのインタヴュー活動を展開し、活動資金の募集にも当たっている。(連絡先電話0424‐82‐7098・事務局長・徳崇力)
さて、私が内海教授とともにこの運動を始めた時に、真っ先に頭に浮かんだのが中帰連の皆さんの日頃の活動ぶりだった。戦後一貫して、どんなに言いにくいことでも、事実を事実として、大勢の聴衆の前で率直に自らをさらけだし、戦場で犯した自らの加害行為に対し深い反省の念を示し続ける中帰連の人たちの勇気ある行動こそは、数少ない日本人の良心として、日本人の誇りとして、すべての人が受け継がなければならないことだと思っていたからだ。
そして、日本人に一番欠けているのが、この勇気だと思っていたからだ。正義に殉ずる勇気、悪に立ち向かう勇気、人間の良心に従う勇気、自らの情念を訴える勇気、そして自らの罪を認める勇気、これであります。
「日本の方は、一人一人と話すと、皆さんよく分かっておられるのに、なぜそれを言わず、行動に移せないのだろうか」これは、中国から日本の大学に留学して、先般あるメディアに就職した青年の日本社会に対する疑問であるが、私自身、戦争末期にハワイで終戦運動に携わっていた頃に感じたこともその点であった。
イタリアでは学生や農民、労働者、老人も婦人たちも一丸となってパルチザンを結成してムッソリーニを倒し、ドイツでも反ヒットラーの運動が起こっていたが、日本ではそのような気配すらなく、誰もが沈黙し、ただ肩を寄せ合っているだけだった。
「なぜだろうか」
私は歯がゆくてたまらなかった。夏目漱石は「知に働けば角が立つ。情に棹差せば流される。とかく人の世は住みにくい」と言ったが、日本人は国家存亡の時でさえ、いつも自らの考えを表明する勇気を持たず、ただ情勢に流されるだけの魂なき集団だったのか、そして一握りの権力者の利害得失だけが国民全体の命運を左右する、日本国家とは彼等のことだったのか、彼等のために皆死んだのか、と私は残念でならなかったことを今でもはっきりと覚えている。
そして戦後も、こうした一握りの権力者、それも免れて恥なき戦争責任者たちの集団がそのまま政治の中心に生き残り、戦争責任は「一億総懺悔」の名の下に、あっさりと不問に付されてしまった。誰もその戦争責任を追及するものはいない。それどころか、本来なら戦犯として処刑されても仕方がない戦争指導者たちに戦後もなお国民は一票を投じていた。こうしたことが戦後のこの社会における無責任さ、自分の利害だけが関心の的、この世は金次第といった風潮を生みだし、それは日を追って深まるばかりである。最近の例だけ挙げても、野村証券、第一勧業銀行の不祥事、神戸の小学校児童殺人事件等々、枚挙に暇もない。この国は一体どこまで堕ちて行くのであろうか。戦争責任に頬被りし、加害行為には顔を背ける反省無き国民には将来はないが、残念ながらすべてはそこから始まっている。
かつて中帰連の皆さんが、当時の偏狭な日本人には想像もつかないような中国人の人道主義と寛大な情に救われたとはいえ、撫順戦犯管理所での苦悩、呻吟の末に、それこそ命がけで自らの加害告白を行ったその勇気こそが、自らの人生を変え、今日の日本を変える勇気であり、原動力でもある。私と同じ世代の日本人の中にも中帰連の皆さんのような勇気ある人たちが存在し、今なお困難な社会情勢の中にあってもその勇気を持ちつづけでいることは、日本にとって大きな救いであり、将来を照らす光明でもある。戦争の語りべを止めた兵士は、ネズミを取らぬ猫であり、権力に跪く学者たちは羊を襲う野犬の群れである。
私は富永正三会長を始めとする中帰連会員の皆様のご健康と、ご健闘を心からお祈り申し上げるとともに、中帰連が今後ますます野犬の群れから恐れられ、この国から野犬を追い払って頂くことを願って、筆を置きたいと思う。
(こじま きよふみ 不戦兵士の会顧問)
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