最終更新日:2004年04月03日

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表紙 > バックナンバー > 第3号 > 化学兵器禁止条約と日本の戦争責任


化学兵器禁止条約と日本の戦争責任

歩 平
山辺悠喜子 訳


 1997年4月29日、新しい化学兵器禁止条約が発効されたが、これは人類社会の大きな事件だ。条約の規定には「締約国は他の締約国の領域内に遺棄したすべての化学兵器を廃棄する」義務があると定めている。この規定によれば、日本は半世紀前戦争が終結した時、中国領土に遺棄した化学兵器つまり毒ガス兵器を、処理する義務と責任があることになる。これは国際的に注目される大事だ。この条約の発効は、人々に人類社会の平和と安定に対する新しい希望をもたらした。

 だが、ここ何年来、この問題を巡って私たちに不協和音が聞こえてきた。まず日本は、戦争中に化学兵器を使ったことを頑固に否定したが、もはや真実を偽り通すことができなくなって、非致死性の化学兵器を使用したことだけを認め、今だに、致死性の化学兵器を使用したことを認めていない。

 最近、日本の雑誌『正論』に、防衛大学の元教授である柿谷勲夫氏が、まったく道理に合わない論調の文章を掲載した。彼は曰く、「旧日本軍の化学砲弾は、・・・敗戦時・・・ソ連と中国に引き渡した膨大な武器弾薬の一部であって、所有権は半世紀以上も前に中国とソ連に移したものであり、わが国が中国に遺棄したものではない」。

 この元教授の発言は、実に自衛隊の将軍級の軍人の名に恥じず、なんと一門の大砲から一挺の銃、弾丸の一つに至るまでその値段を挙げて天文学的な数字を集計し、これこそは中国に対する実質的な賠償だといっている。最後にその結論は、中国はあんなにたくさんの戦後賠償を得たのに、さらに化学兵器の処理の問題を持ち出すとは、わけがわからないと言う。

 私たちは、その元教授の熟達した数学知識には感慨を覚えるが、歴史知識の貧しさと認識能力の低さには驚かないわけにはいかない。

化学兵器の使用と戦争責任に関して

 少し歴史的な知識のある人なら、化学兵器が一般の通常兵器とは異なるということと、国際条約で使用を禁止された大規模な殺傷兵器であることは知っているはずだ。

 国際社会は早くも19世紀末に、毒ガス兵器の使用を禁止する規定をした。つまり、1899年の第一次のハーグ条約、その後、1907年になって第二次ハーグ条約が結ばれ、1919年のベルサイユ条約に続いて1922年のワシントン軍縮会議で毒ガス兵器の製造と使用を禁止した。1925年になって、ジュネーブで通過した議定書は化学兵器の禁止に対してさらに明確に、窒息性あるいは中毒性の気体及び一切のこれに類似した液体、あるいはその他の物質の製造と使用を禁止すると、その骨子に述べている。

 日本は上述の国際条約文書の制定に参加し、しかも、1925年のジュネーブ議定書以外の4つの国際条約をいち早く批准した。ジュネーブ議定書は、1970年になってやっと批准したが、30年代のはじめから、日本は国際公約を積極的に履行する態度を取り続け、「一般的な催涙ガスも化学兵器の禁止対象とすべきか否か」の問題に態度表明する時、日本の態度は「当然禁止対象にすべきだ」と表明し、他のいかなる大国よりも急進的であった。しかし、軍国主義日本の言論と行為は完全に背離しており、第一次世界大戦の収束時には、すでに陸軍は専門の化学兵器研究機構を創設、のちに「科学研究所」、「第六技術研究所」と進展変化し、ジュネーブ議定書が通過した3年目には催涙性の科学兵器問題について、さも誠実そうな態度をとりながら、すでに専門の毒ガス製造の軍事工場を建設していた。これが大久野島の毒ガス工場だ。

 戦争中に日本は少なく見積もっても6616トンの毒剤を製造し、そのうちの約半分を中国の戦場で使用し、中国の軍民に厳重な傷害を与えた。

 日本は、化学兵器の使用が国際公約に違反しているということを認識しているが故に戦争中の化学兵器使用を厳格に覆い隠した。戦後になって、特に最近明らかにされた日本軍隊の戦争中の文書《大陸命》《大陸指》は、日本の軍国主義が化学兵器を使用した醜い容貌をあらわにしている。

 戦争中、大本営が発布した中国派遣軍に対する《大陸命》と《大陸指》は、すべて天皇の批准を経て、参謀総長から直接各部隊に指示されたものである。これらの命令の中で、直接化学兵器使用を命令したものは、少なく見ても15回を数えることができる。当時、毒性が最も激しい糜爛性の毒ガスの使用から、使用の事実までを覆い隠した日本の化学戦の秘密など、日本軍隊が中国で国際公約に違反して化学兵器を使用した罪行は、もはや反駁の余地もないまでに証明された。これらの命令を通じて、日本は、中国がまったく化学兵器を持っておらず、しかも化学兵器についての知識が絶無に近いことを熟知の上で、何はばかるものもなく化学兵器を使用したことが明らかになった。しかも、中国軍隊からの抗議に対しては、国際社会に向かって「中国側が化学兵器を使用したから、その報復である」と発表した。

 これを見ても、日本は、中国で化学兵器を使用していた当時から、この行為が国際公約に違反していることを認識していたことが明白である。化学兵器は通常兵器とは異なると同時に、化学戦の犯罪もまた一般の戦争犯罪とは異なるということは基本的な常識である。1945年の国際軍事法廷では、日本を裁くに当たって三つの原則を確定している。つまり、平和に対する罪、通例の戦争犯罪、人道に対する罪である。その中の戦争犯罪とは戦争法規と慣例に違反した罪を指す。1907年の戦争法規と慣例の中には、特に毒ガス兵器を使用してはならないということは主要な一項目であった。この原則は国連の1946年12月11日における会議で第95号決議の形で再確認された。戦後日本に対する裁判が終わってすでに50年が経過した。一般的な戦争犯罪はすでに裁かれたが、一般的な戦争裁判では国際公約に違反して毒ガス兵器を使用した特別犯罪に取って代わることは出来ないということは歴史的な常識であり、ご自身が自衛隊の将軍クラスの軍人である教授がご存じないはずはないだろう。

 特に、日本は第二次世界大戦において、大量に化学兵器を使用した唯一の国であることを挙げないわけにはいかない。戦後行われた国際裁判では、日本が国際公約に違反した細菌戦と化学戦は本来なら最も主要な罪として裁かれなければならないはずだ。実際には、当時すでに日本が化学戦を行ったことに対する調査がなされて起訴の準備ができていたのに、アメリカの思惑のもとに保護されて、結局は国際軍事法廷の審判と国際社会の譴責を免れた。戦後も半世紀が過ぎたが、日本はまだ正式に化学兵器の製造と使用の戦争責任を認めていないし、国際公約に違反したことについての説明もせず、さらに化学兵器と細菌兵器の使用によって傷害を与えた中国人民に謝罪もしていない。

 このような態度は政治大国と言われる外見とはまったくそぐわないだけでなく、非侵略国家の理解と了解を得ることも難しい。現実がどうあっても、1993年に調印された新しい化学兵器禁止条約では日本が戦争中に化学兵器を使用した行為に対して、特に指名して譴責することはしていない。ただ大まかに関係する国家に対して「他国の領土に遺棄した化学兵器を廃棄する」と述べているだけだ。国際社会のこのような寛容な態度に対して、当事国や関係ある人がまさか慚愧しないはずはないだろう。だが、あの元教授は極めて冷淡で心を動かすことはなく、自国のの歴史的戦争責任について言及せず、たった一言「戦争処理は全部解決した」との一言をもって覆い隠した。このような態度は国際社会という大家庭のなかへ積極的に溶け込んで行こうとする日本の国策に適応しているのだろうか? まさか、これでアジア各国や世界の国々から理解が得られるとは思っていないだろうに。

化学兵器を遺棄した責任について

 柿谷教授は文章の中で化学兵器の遺棄の問題は存在しないという。日本軍隊は化学兵器をその他の兵器と一緒にソ連と中国に渡したから、今「遺棄」したことを承認することは中国側からの圧力によるものだという。これは完全に歴史的な事実に反する狡猾な言い訳だ。

 上述のように、日本の軍隊ははっきりと国際間で化学兵器の使用が禁止された公約と協議があることを了解していたからこそ、戦争中は厳格に秘密を守っており、国際世論の批判により、化学兵器大国の報復攻撃を招くことを恐れていた。だから日本軍隊が降伏する時、武装解除する国に対して自分が所有していた化学兵器の状況を報告すること等は有り得ないことだ。私たちが手にいれた資料の中には、日本軍隊が撤退し投降する前夜に、命令を受けたのは化学兵器の処理と、隠して埋めることであり、関係資料は徹底的に焼却せよとの命令さえある。

 例えば、チチハルに駐在していた関東軍化学部(516部隊)は命令を受けてから、8月13日に毒ガス兵器と毒剤缶をトラックに乗せて近くの嫩江大橋から川に投げ込み、文献等は全部焼却処分したという。この部隊に勤務していた高橋正治さんと若生重作さんが1988年から何回もこのことについては証言している。また、チチハル市フラルキ区に駐在していた関東軍化学部の練習隊も撤退前に200個前後の毒剤缶を地下に埋めたという。1995年、当部隊に所属していた軍人・金子時二さんが、自ら現地に赴いて具体的な埋設地点を示した。

 湖南省湖潭県滴水埠にいた日本軍近衛輜重(食糧・弾薬等を運ぶ)連隊が8月20日に命令をうけ、部隊の行動を記録したものを全部焼却処理し、同時に部隊が所有していた化学兵器や毒ガスをこっそりと川の中に投棄した。

 このような証言はまだまだたくさんある。戦後は中国各地で経済建設が進み、地下や川の中から日本軍の化学兵器が発見され、前述の事実が証明された。中国東北でも松花江の中から何回も毒ガス砲弾が発見されたし、ハルビン、チチハル、牡丹江等の都市でも建設工事で地下から掘り出された毒ガス砲弾や毒剤缶によって、多くの傷害事件が発生している。

 当然の事ながら、中国にいたすべての日本軍隊が、投降に際して十分な時間があって化学兵器使用の証拠を隠しおおせたわけではない。東北にいた関東軍の状況からすれば、部隊の多くは慌てて武器弾薬を捨てて撤退し、あるいは逃げたから、それらの武器弾薬のあるものは、軍事倉庫の中に置き去りにし、あるものは勝手に放置していた。この状況については、日本軍人から、あるいは中国の軍民からも多くの事例が寄せられている。

 以上の状況下における日本軍隊の化学兵器と弾薬は、当然日本軍隊が遺棄したものである。まさかこれについて異議はあるまい。

 確かに、日本軍隊は、ソ連や中国の軍隊に武装解除された。しかし、私たちの知るところでは、日本軍隊は化学兵器の使用がばれることを恐れて、あらゆる手段を講じて隠そうとした。しかも、ソ連や中国側に化学兵器に関する文献や資料を提供したこともない。

 柿谷教授は何か証拠でもお持ちなのだろうか? 中国側には、これについての大量の調査資料がある。50年代初め、中国が日本軍隊の兵器処理に当たった時、毒ガス兵器が含まれているとは知らず、当然のことながらその処理方法も分からず、多くの人が被害を受け、死亡した。多くの毒ガス兵器が、日本が降伏した後の50年代になってもあちこちに散らばっていたため、何も知らない住民が傷害を受けた。

 このような状況にあった日本軍隊の化学兵器と弾薬が、日本軍隊が遺棄したのではないとしたら、いったい何と説明するのか?

 少しでも歴史常識のある人ならば、日本が遺棄した武器弾薬であることに疑問を提出することなどあろうはずはない。そうであっても、国際的な世論のために、ある人の提出した、中国領土にある化学兵器は本当に「日本製」であるかどうか? という疑問に対して、中国は、日本政府が何回でも調査団を派遣して実地調査を行うことに同意している。しかし、毎回の調査の結果「日本製」であることが確認され、両国の交渉は現在、どのように処理すべきかという技術的な問題になっている。見たところ柿谷先生は、これについては故意に見て見ないふりをしているか、聞いても聞こえないふりをしておられるようだ。

 さらにはっきりしておかなければならないのは、戦いに負けた日本軍隊が武器弾薬をソ連と中国に移譲することは敗戦国が必ず行わねばならない義務であり、必ず負わねばならない責任だから、これと戦争賠償とを一緒に考えることはできない。1945年7月26日、日本に無条件降伏を促すポツダム宣言の第6、7、8、9各条には、日本の戦争を作り出した力を消滅させ、日本に完全な武装解除すべきことが要求されており、第11条ではじめて賠償の問題に及んでいる。つまり、日本は武装部隊が無条件で投降して初めて、賠償の問題を提出する資格が生じるのだ。

 国際法の意義上の「賠償」とは、権利が侵犯された時、その権利を回復するために行われる救済及び国際法に関係した非法と違法行為についての損害賠償のことを指す。現代社会において、賠償は特に、交戦国が戦争によって作り出された特有の損失及び、一般的な損失と損害の損失賠償と損害補償を指す。日本が中国に対して行う戦争賠償は、中国が抗日戦争時期に傷つき死亡した3500万人と約1000億ドルの損失についてなされるべきだ。この賠償にたいする国際法による意義上の解釈では、どんなことがあっても「武器引き渡し」によって取って代えられるものではない。アメリカの後ろ盾によって通過した、日本を保護するためのサンフランシスコ講和条約でさえ、日本の武器弾薬を「賠償」のなかに計算されることなどなかった。

侵略戦争の責任をいかに認識するか?

 しばしば日本からこのような議論が聞こえてくる。“戦争が終わってからもう何十年も経っているのに、アジア各国の人々は何故いつまでも戦争の歴史問題にこだわるのか”と。だが、侵略され、奴隷のように酷使された人々にとってこそ、戦争は回顧するに堪えられないのだ。

 問題は、侵略戦争の責任を認めず、はなはだしきは黒を白といいくるめて責任を被侵略国に押しつけることにある。結局それらの人こそ戦争の歴史問題にこだわって離れられないのだ。柿谷先生もその中の典型的代表の一人だ。彼は表面では、具体的な化学兵器の問題について文章を書きながら、彼の意思は、戦争責任という最も深い点にあるのだ。続けて彼の文章の結論を見てみよう。

 「わが国は蛇に睨まれた蛙のように、いつまでも中華人民共和国の恫喝に恐れおののき言いなりになるのではなく、法にのっとり、歴史に恥じず、かつアジア諸国からも侮りを受けない、毅然とした正々堂々とした態度をとらなければならない。今のままでは、次代のわが国を担う若者の士気が沈滞し、21世紀に生き残れない」。

 「毅然とした堂々たる態度」が、つまりは柿谷教授の本当の思惑なのだ。この種の思惑は目下のところ日本社会で流行しているところの「自由主義史観」と、方法は違っていても求める結果は同じことだ。

 まず、柿谷先生の「歴史的重荷を負う必要はない」とは何を意味するのか?
 中日関係史を通して見ると、両国間には長い友好往来の伝統があるが、しかし心の痛む歴史もあった。それが1894年の日清戦争であり、1931年の「九・一八事変」、及び1937年の盧溝橋事変であった。しかも、すべて日本が軍隊を中国に派遣し残虐に中国人民を殺し、狂ったように、資源や財産を略奪したのだ。はなはだしくは1904年の日本とロシアとの覇権争奪戦争は、中国の領土の上で戦われた。当然、最終的には日本も懲罰を受け、日本人民も戦争の被害者となったが、日本人民が戦争の悪夢から覚めた時、すぐに歴史の教訓を受け入れる決心をし、永遠に戦争を放棄することを誓い、平和を追求することになった。これは、日本人民が加害と被害の歴史を忘れる事なく、歴史の総括を基礎として未来を切り開き、新しい時代に向かうことであった。このようにすることがまさか「歴史的重荷を負う」ことだろうか? まったく違うはずだ!

 柿谷先生は結局「歴史的重荷」を負おうとはしないのだ。彼は「九・一八事変」の後、中国東北の人民がどのような苦しい生活を強いられたかを眼をつむって見ようとしない。日本の植民地統制経済の抑圧のもと、中国東北の経済がひどく歪められたことも彼は語ろうとしない。彼にしてみれば、あれらはすべて「歴史の重荷」といえるのだろう。だが、彼とて決してこれを軽んじているわけではない。彼の次の発言を見れば、非常に重視していることが伺われる。
  「・・・・日本は、満州事変開始までに、中国の東北に対して昭和初期の国家予算に匹敵する程の投資をした」

 そしてこの金額は中国の戦争による損失を十分補うに足る、と彼は言う。そこで彼は面倒を厭いもせず、日本が中国領土に捨てていった武器弾薬の、その一つ一つの単価を調べて総計を出し、一個の銃弾も漏らさず、日本が残した「財産」が低く見積もられることを恐れてでもいるかのように並べたてた。その「財産」の数量についてはしばらく置いて、彼の立場だけから判断しても、彼が重い軍国主義の歴史的荷物をずっと背負っていることがはっきりと見てとれる。

 柿谷先生のいう「国の士気」について言いたい。彼によれば、日本が侵略したアジア各国への戦争責任を認めれば、蛇に睨まれた蛙のように、永遠にビクビクと、いつまでも元気がなく、永遠にアジアから侮辱をうけることになるという。彼ははっきりと「日本は敗戦意識から抜け出さなければならない」と説く。見たところ、柿谷先生は、中国やアジア各国とは対立した立場でこのような発言をしており、しかも、国民が元気を出せない一切の責任は日本の「敗戦意識」のせいだとしている。

 では、彼が満足するところの「アジア諸国から侮りを受けない」「国の士気」が揚がることとは、何だろうか? 戦争を経験したことのある日本人ならはっきりと記憶しているはずだが、軍国主義時代の日本は確かに「アジア諸国から侮りを受けなかった」。

 しかし、「アジア諸国を侮った」のだ。あの時代には上から下まで「国の士気」を吹聴した。人心を惑わすあの「愛国」のスローガンは、人々に無条件で天皇中心の「大日本」を擁護させ、人々を日本が発動した侵略戦争に献身させた。戦争中、日本軍隊が華々しくアジア各国を踏みにじったが、まさかこのようにしてのみ、日本の「国の士気」が揚がるというわけではなかろう? 日本人民を侵略戦争の戦車にくくり付け、沖縄の十数万の住民のように「玉砕」させて、やっと日本は「国の士気」が得られるというのだろうか。

 私たちは決して、日本が正常な「国の士気」を持つことに反対するわけでもないし、日本人の「愛国」に反対するものでもない。しかし、戦争を経験した日本ならば、最も重要な「国の士気」とは何か分かるのではないか。

 戦争責任を認める勇気、侵略されたアジア各国と世界の前に率直に、誠実に謝罪する行動こそが「国の士気」を持つことなのではないか?

 戦争時代の日本人は「愛国」というスローガンに弄ばれたが、人々は当然、この経験の中から何が本当の「愛国」なのかを十分に考えたはずだ。あの不名誉な侵略戦争を発動してことにより、日本の国際上の評価は地に落ちた。アジア各国の信頼を得るのは容易ではない。今、この現実の前に、真に「日本を愛する」者になるには、まず侵略戦争に対して深く反省し、被害を受けた者たちに心からの謝罪をすることではないだろうか?

 戦後何十年の間に、私たちは柿谷先生とはまったく違う多く日本人に出会った。彼らは、真面目に戦争責任について考え、率直に中国とアジアの人民に謝罪した。これらの人の中には、戦争中に重い罪を犯した元日本の軍人がいる。彼らの反省と謝罪は日本の「国の士気」を損なわせなかっただけでなく、反対に、その行動は人々に新しい日本、希望のある日本を認識させた。彼らの行動こそが、本当の「愛国」であり、「日本を愛する」ことなのだ。もとより、柿谷先生は直接過去の戦争時代を懐かしむような発言はしていないが、その発言から、近年とみに日本で流行している「自由主義史観」の学者たちの観点が連想され、柿谷先生が彼らと同じ思想体系に属していることが理解できる。

 「自由主義史観」の人々は、「愛国」とか「日本を愛する」とかの旗印を掲げ、日本軍国主義の罪行を暴露し批評し、戦争責任を追求することを「自虐」と言い立て、侵略の歴史を教え伝えることは日本の「腐食、瓦解と壊滅」を招くという。この立場から出発して、彼らは日本の侵略の罪行を記述した教科書を攻撃し、侵略の事実を証言する元軍人を攻撃し、戦後50年の重要な節目の日を迎えて、日本社会に波乱を生じさせた。彼らが、このような狭い民族主義の立場に立って、日本をアジアや世界と対立させることが、日本人民と世界の人民の警戒心を引き起こさずにはおかない。

(注)《大陸命》《大陸指》
大本営から発令された最高命令であり、天皇が陸軍に対して発する最高統帥命令を意味する。「大陸命」には必ず「奉直伝宣」の言葉が入る。つまり、天皇の命令を参謀総長が代わって伝えるという黄味である。「大陸命」は陸軍の大元帥である天皇が、大本営所属の出先の軍司令官にあてて出す命令であり、作戦の大綱を示すにとどめている。細部は、「大陸命」末尾の「細項ニ関シテハ参謀総長ヲシテ指示セシム」とあるように、参謀総長から具体的な命令書である「大陸指」として発令された。「大陸命」は大本営の設置された1937年11月より日本敗戦の1945年8月28日まで、1392件発令されている。一件の「大陸命」に複数の「大陸指」が発令されるのが通例なので、「大陸指」は約2500件が発令された。ちなみに、海軍は「大海命」「大海指」といった。

(ほ へい 黒竜江省社会科学院副院長) 

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