田辺敏雄氏の反論に応える
富永正三
■本文章は産経新聞社『正論』97年11月号に掲載されたものです。
『正論』六月号に掲載された私の「田辺、藤岡両氏の挑戦に応える」に対し、早速田辺氏が七月号で反論を展開された。
さきに、このお二人の「戦争に関する知識…単なる伝聞事項にすぎない」と書いたことが、大分お気に障ったようだが、私は伝聞事項一般についてではなく「戦争に関する知識」と限定した。もっと分かり易く「戦場の実体に関する知識」とした方が、より適切ではなかったかと思う。
戦場の実体は戦場を体験した者でなければ分からない。田辺氏は私が引用した佐々木中将、松井大将の言葉も「伝聞」ではないか、と反論されるが、佐々木旅団長の「……激昂せる兵士は上官の制止をきかばこそ、片っ端より殺戮する。…兵隊ならずとも『皆やってしまえ』と言いたくなる」という表現は、私が別の戦場で体験したことであり、形は伝聞であるが、内容は私の体験そのものである。松井大将の「高級将校の程度が悪い」という表現についても同様である。
これも前に述べたことだが、戦場は人間が人間であることを拒否する場である。人間のままでは戦闘はできない。人間が人間でなくなる状況を私の体験で話そう。
1941年7月、見習士官になると同時に私は熊本の歩兵第13連隊補充隊から、中支派遣第39師団歩兵232連隊へ転属した。8月、四川省に接する湖北省の宜昌(三峡の嶮の入口)、当陽、荊門の線に13師団と共に展開する師団の位置に到着、さらに奥の連隊本部で第10中隊第2小隊長を命じられた。中隊長と共に中隊の位置に着き、私の部下となる第2小隊員に紹介された。そのとき彼らの目つきの鋭さ、殺気を帯びた猛獣の目というか、幾たびか弾雨をくぐり抜けた歴戦の勇士を前にして、実践の体験のない私の自信がグラついた。
翌日から連隊本部で私たち22名に対して野戦小隊長の実地教育が始まり、その最終日に見習士官の「度胸試し」と称する捕虜斬殺のセレモニーが行われた。連隊長以下古参将校の居並ぶ面前で、田中教官が「人間の首はこのようにして斬る」と模範を示し、首が飛んだ瞬間私たちの体は硬直状態になった。並んだ順に一人ずつ出たが私は4番目だった。そのとき「こんなことが許されるのか」といった気持ちが頭をかすめたが、「無様な態度はとれない」といった気持ちがより強く働いて、模範通り実行した。首を斬り落とした瞬間、下っ腹にズシリとした重みを感じた。
このセレモニーがすんで中隊に帰り、夜の点呼で兵士諸君の前に立つと、何とこれまで感じたヒケ目を全然感じないのである。そして彼らの目つきが悪い、とも感じなくなっていた。恐らくあの瞬間、私の目つきが変わったのである。兵士諸君はすでに弾雨の中で流血の体験を重ね、鬼畜集団を形成していたが、私はそのらちがいにいて違和感があった。それがあのセレモニーによって鬼畜集団の仲間入りをしたということである。
間もなく9月から10月にかけ長沙作戦が始まり、連夜戦闘に明け暮れたたが、自信をもって小隊の指揮が執れるようになり、小隊長が先頭に立ち、最後の砲弾と共に軍刀を振りかざし敵陣に突入する突撃も何回か体験し、一人前の野戦小隊長となった。
間もなく連隊長が交代して私たちが体験したセレモ二ーはなくなったが、新任将校の「腕試し」は作戦・討伐の過程で必ず行われ、兵士諸君には初年兵教育の最後の仕上げで、生きた人間を刺突させ、人間性を圧殺することが戦闘部隊(歩兵)の慣習となっていた。
『三光』を始め中帰連の出版物には、残虐非道の行為が次々に出て来て、戦争を知らない、戦場の体験のない人々にはこんなことがあり得るか、人間として考えられない、と思う人が少なくない。しかし戦場では人間であることが許されない。戦場における軍隊は人間の集団ではなく、鬼畜の集団であることを忘れてはならない。戦場は人間を鬼にする。それが戦争の違法性、犯罪性である。そして鬼畜集団の中で犯した犯罪行為は、除隊後は口が裂けても話さない、というのが鉄則である。
衛河の決壊とコレラ作戦
田辺氏はこの事件について元59師団44大隊の所属者で、大隊戦友会長千葉信一氏を中心とする15名の集まりを取材、その結果を『正論』(96年10月号)に発表、「衛河の決壊は自然決壊」、コレラ菌散布は「荒唐無稽」という証言を紹介しておられる。そして今年7月号の『正論』で「59師団の人たちの証言を無条件で信じたわけでは無論ありません。…意図を持っての証言も考えられます。…それらの証言に整合性があるかを検討して小論を書きました。全員が口裏を合わせてウソの証言をしたなどとは考えられません」、と述べておられる。
これは先にも述べた通り「戦場で犯した犯罪行為は口が裂けても話さない」の鉄則通り、千葉氏を中心に「口裏を合わせ」ウソの証言をしているのである。戦場体験のない田辺氏にはそれが分からない、ということである。
衛河の堤防決壊については、当時53旅団司令部の情報担当難波少尉の供述によれば、43年8月衛河の増水に際し、師団の折田参謀が旅団司令部に派遣され、旅団長田坂少将と検討、津浦線と石徳線(津浦線の徳県と京漢線の石家荘を結ぶ線)を護り、併せて八路軍支配地域を壊滅させる目的で、臨清附近の堤防決壊を決定した。決壊命令は53旅団長田坂少尉から44大隊長広瀬少佐に下達、大隊本部に近い機関銃中隊の小島少尉が大隊命令に基づき破壊作業を指揮したことを認めている。
この件については89年7月NHKが中帰連を取材した際、撫順から臨清まで足をのばし、小島、金子君を含む5名が同行、山東省人民政府外事弁公室馬秀郷処長の案内で現地を訪ねた。馬処長はその前日「明日は堤防決壊の場所へ案内します。証人も待っています。もう一つ私の方で準備した場所があります。44年の正月日本軍が来て、八路軍80名を殺しました、45年の正月にも日本軍が侵入し、村民数名を殴殺しました」と話し、現地に案内され、被害者の訴えに心底から謝罪の意を表した(89年8月15日NHKスペシャルで放映)。
コレラの菌散布の問題については高度の秘密事項のため不明な点がすくなくないが、59師団54旅団長・長島勤少将の自筆供述書によれば「1943年9月−10月、観城、范県、陽穀、東昌、曹(朝)城などの地区で、私は12軍の画策した魯(山東省の古名)西作戦に参加した。私は111大隊を12軍に配属させ、109、110、45の各大隊を53旅団に配属して作戦に参加させた。作戦の目的は111大隊が伝染病(コレラ)の調査、そのほかの大隊は八路軍の掃討と穀物の略奪であった」(長島少将は禁固16年の刑で59年釈放)。
また59師団高級副官広瀬三郎中佐の供述書によれば「1943年8月に『コレラ』作戦を発動したとき、作戦計画は参謀が起草し、私は検討に参加して、派遣部隊と作戦期日についで具体的意見を出した。この作戦は山東魯西地区において、細菌兵器の効力を実験し、同時に日本軍がコレラ伝染地域で作戦を行う上での防疫力と耐久力を試すことを目的としていたと述べられている。
この作戦は正式には「一八秋魯西作戦」(いちはちあきろせいさくせん)通称「コレラ作戦」と呼ばれている。12軍が計画し59師団が総力を上げて参加した作戦=コレラ作戦を、将校以下周知していることを、44大隊の中隊長達が「知らない」、「荒唐無稽」というとは何事か。ウソをついているのである。
太田寿男少佐(のち中佐)の総結書
太田氏の総結書は、満州事変から45年8月樺太の豊原で、88師団の副官として武装解除を受けた時までのことが述べられている。南京の碇泊所司令部で死体処理をおこなった部分は、南京の紀念館(侵華日軍南京大屠殺遇離同胞紀念館)でコピーしたものを設立初期の頃手に入れることができた。ところが90年12月14日の毎日新開夕刊(静岡支局版)に「太田寿男罪行総結書」が発表され、関係者の間に強い反響を惹き起こした。とくに職業軍人の間で当然のことながら大問題となり、機関誌「偕行」(91年4月号)で取り上げ、毎日新聞のコピーを掲載、論評を加えている。実は「偕行」は前年の9月号に太田総結書を否定する梶谷日記を発表していた。両者を比較すると太田総結書は次の通りである。
十二月十五日朝、将校二、兵三と許甫鎮より輸送船で下関に到着、十四〜十五日は先着の安達少佐が三十隻の小船(一隻当たり五十体積載可能)を使い、死体処理に当たり十六〜十八日の三日間は、安達少佐が東部地区、太田少佐が西部地区を担当、五日間にわたる処理死体は十万(焼却埋葬三万、揚子江投入七万、重傷者若干)、地上部隊の処理五万、合計十五万。
これに対し梶谷日記によると、十二月十一日無錫に於いて命令を受け、十二日午後安達少佐と先発隊として出発、十四日正午中山門より入場、城内を抜けて午後下関変電所に宿舎を求め、夕刻、司令官鈴木中佐が本隊と共に到着、十六日まで司令部開設準備、十七日に入場式に参加、十九日より業務開始。二十五日太田少佐以下残り人員が到着、二十六〜二十八日にかけ死体処理にあたり、兵十、苦力四十、機舟(エンジン付)五隻、急造のトビクチで死体を引っかけて沖へ流した。死体処理数一千体。
梶谷氏は安達少佐の部下で軍曹である。
両者の相違点の主要な部分は、太田少佐の下関到着の時期、従って死体処理の期間が、十二月十四〜十八日と十二月二十六〜二十八日ということ、最も大きいのは死体処理数が十五万体と一千体、ケタはずれの差である。
梶谷日記は「騎兵第四連隊史」に掲載されたもので、「証言による南京戦史」の執筆者畝本正巳氏(46期)が発掘、保存者という。
「偕行」は梶谷日記により太田寿男総結書は「間違いだらけで、戦犯管制下に書かれた創作にすぎない」と論断している。田辺氏もそれに同調されたわけである。
要は梶谷日記の信憑性である。南京碇泊所司令部の行動について、同じ司令部にいた二人の供述が食い違う際、その何れが正しいか、の判断は司令部の他の同僚、この場合は安達少佐、鈴木司令官などの証言が決定性を持つ。そのような証言者がいない以上、真実を求める研究者の態度としては、どちらか一方が正しいと論断することは慎むべきで、二つの意見があることを認める外ない。
「偕行」はこの問題に先立ち、84年から85年にかけ一年がかりで南京虐殺は「まぼろしか否か」、について会員の証言を集め、「証言による南京戦史」を編纂したが、その執筆担当者が梶谷日記の保存者畝本氏で、編集責任者が四期先輩の加登川幸太郎氏(42期〉であった。二人とも陸大卒の元軍参謀だが、畝本氏はどちらかと言えば「まぼろし派」に近く、加登川氏は「シロではない」の立場であった。
呼びかけの初めの頃は「まぼろし論」が多かったが、だんだん「まぼろしではない」の証言が多くなり、編集委員会で慎重な検討を重ね、最終的結論として「虐殺(不法処理)はあった。その数については畝本氏の三千乃至六千、板倉由明氏(非軍人研究家)の一万三千人、共に推定概数であり、編集部として異論を立てる余地は何もない。これを併記して結論とする」と述ベ、編集責任者加登川氏は最後に「中国国民に深く詫びる」と題し、次のように謝罪の意を表した。「重ねて言う。一万三千人はもちろん、少なくとも三千人とは途方もなく大きな数である。……戦場の実相がいかようであれ、戦場心理がどうであろうが、この大量の不法処理には弁解の言葉はない。旧日本軍の縁につながる者として、中国人民に深く詫びるしかない。誠に相すまぬ、惨いことであった」と。
これに対しては会員の中から激しい不満の声が上がったが、偕行編集担当常任理事高橋登志郎氏(55期)から適切な総括的説明が行われた。「証言による南京戦史」の執筆者畝本氏は「修史作業を終えて」の感想の中で「詫びる」ということについて次のように述べている。
「会員諸兄の中には『なぜ中国国民に対して詫びる必要があるか。事は戦争である。アメリカの原爆投下、東京の無差別爆撃、あるいはソ連の満州侵入時の行為など、日本に詫びた国があるか。卑屈になるな』という強い意見がある。……米ソがその非人道的行動を謝罪しないことはさておき、われわれが率直に非は非として詫びることは、何ら卑屈な態度ではあるまい。彼らに勝る道徳観であると思うが如何?……蒋介石総統は終戦にあたり『仇に報いるに徳をもってす』と東洋道徳をもって我らを遇した。戦争という異常な事態とはいえ、その非道は武士道に照らして率直に中国国民に詫びるべきである。
中国側の過大と思われる告発に対して言うべきことは言うが、われわれの非は非とすることが隣人に対する紳士の態度であろう。私は詫びられた加登川先輩の心情をこのように理解するものである」と。
この不法処理の数については異論があるが−戦闘中の殺戮は犯罪にならず、南京戦の終結をいつにするか、便衣に着替えた兵士をゲリラとして捕虜扱いにしない等、不法処理の数はいくらでも絞りこめる−加登川、畝本両氏の「あやまちを率直に認め詫びる」という姿勢は、我が中帰連精神と一致するものがある。田辺、藤岡氏らはそれを「自虐史観」と言われるのか。それこそ恥知らずの態度ではあるまいか。
かつて西独のブラント首相がワルシャワのゲットー(ユダヤ人地区)で被害者の霊に土下座して謝ったが、これこそ田辺氏らには「自虐」の典型であろう。ところがこれによってドイツ国民に対する国際的評価は大いに高められた。
第二次大戦の火付け役を手を組んで担い、自国民を含むアジア、ヨーロッパ諸国民に空前の損害を与えて無条件降伏した軍国主義日本とナチスドイツ。ドイツは苦しい財政の中から周辺諸国民に納得のいく戦後処理を果たし、かつての凶悪なる敵から信頼される友人へ自己改造をとげた。日本は周辺諸国民に納得のいく戦後処理を怠けたり、ブラントの後を継いだシュミット首相から「日本は今なおアジアに友人を持っていない」と言われる状況である。田辺、藤岡氏らはこれをどう見られるのか。
木村憲兵大尉(のち少佐)について
田辺氏は「姫田光義・陳平共著、もう一つの三光作戦」(青木書店)で紹介された木村憲兵大尉の供述書の犯罪内容が「過大」であることに疑問を持ち、旧満州におけ「万人抗」の調査の過程で承徳(旧熱河省)を訪ね、その結果を「『朝日』におとしめられた現代史」(全貌社)に発表しておられる。
中帰連の私たちに対する取り調べのあり方は「お前はこれ、これの犯罪を犯している」というのではなく、私たち自身が自分自身で告白する、といった方法で、それが供述書となった。佐官クラス以上の人は何回も書き直し、最後に「総結書」として提出している。
私の手元に旧満州国関係28名(関東軍憲兵を含む)の判決文の写しがある。被告木村憲兵少佐は14番目に出ている。取り上げられている犯罪の骨格をまとめると次の通りである。
1.1941年6月から1943年8月まで被告人は承徳日本憲兵隊特高課長として在職中、もっぱら計画に従事すると共に隊長を助けて承徳、古北口、喜峰口などの憲兵分隊を指揮し、わが人民をほしいままに拉致、逮捕、拷問、惨殺した。
2.1941年6月25日から7月25日まで被告人は喜峰口憲兵分隊を指揮、青竜県大屯郷峪口村で前後2回、平和住民52名を拉致逮捕、拷問、2名(氏名略)死亡、50名送検、5名死刑、45名懲役、うち39名獄死。
3.1941年8月2日、被告人は古北口憲兵分隊を指揮、懐柔県湯河口区小黄塘村で平和住民32名拉致、逮捕、27名送検、5名死刑、22名懲役、17名悲惨な獄死。
4.1941年10月13日、被告人は古北口憲兵分隊を指揮、懐柔県大水峪村で抗日活動家と平和住民204名を拉致、逮捕、165名を送検、7名死刑、158名懲役、内130名悲惨な獄死。
5.1942年7月4日、被告人は喜峰口憲兵分隊と寛城憲兵分隊を指揮し、青竜県九虎嶺村で抗日救国活動家と平和住民100余名を拉致、逮捕し拷問を加え12名送検、11名獄死。
6.1942年12月4日、被告人は喜峰口憲兵分隊と寛城憲兵分隊を指揮し、青竜県第11区竜須門郷徐家店村で平和住民18名を拉致、逮捕、拷問のすえ送検、10名死刑、3名は悲惨な獄死。
7.1943年1月17日、被告人は喜峰口憲兵分隊を指揮し、青竜県九虎嶺村大野鶏峪で平和住民19名を拉致、逮捕、殴打、火あぶりにし1名死亡、7名射殺又は刺殺、1名は氷の穴に投棄死亡、1名は両眼をえぐり、心臓をえぐられ惨死、生後8ケ月の幼児は母親にふところからもぎとられ、地面に叩きつけられ殺された。
8.1943年1月21日と2月1日、被告は古北口などの憲兵分隊を指揮、承徳県の胡杖子、鷹手営子などで抗日救国の活動家と平和住民239名を拉致、逮捕、2名を斬殺、148名を送検、15名死刑、130名は残酷な虐待で獄死。
以上各項の終りに被害者の氏名、証拠資料、証言者の氏名が上げられている。1〜8は筆者がつけた。田辺氏の著書(姫田氏からの引用)には、木村氏の犯罪の期間が「1941年8月〜1944年10月」となっているが、判決文では「1941年6月〜1943年8月」となっている。そして田辺氏が、大きくとりあげている承徳西郊の水泉溝のことは出ていない。
中国側は供述書の中から証拠の確実なもの、責任関係の明確な件だけを起訴している。木村氏の次に起訴されている島村三郎氏は中国側を最も長くてこずらせた人で、これだけは絶対に言えない、と自殺まではかった「三肇惨案」−41年2〜3月、ハルビン西北、現在の大慶油田の周辺の肇州、肇東、肇源の3県にまたがる地区の抗日救国活動家、平和住民175名を逮捕、72名を死刑、103名を懲役、島村氏は取り調べの段階で2名を自らの手で斬殺−は起訴状から削除され、これを計画し、指揮したハルビン高等検察庁次長杉原一索氏がその責任を問われ、禁固18年(63年釈放)、実行者の島村氏は禁固15年(59年釈放)となった。二人とも釈放後中帰連の副会長、会長を勤めた。木村氏は禁固16年、病気のせいか57年に釈放された。田辺氏は木村氏の供述の内容が過大すぎる、ということから承徳憲兵隊の戦友会、承憲会を取材し、柴田冨士雄氏から「承徳隊に8年居りましたが、憲兵隊の現地人虐殺など聞いたことがありません」、との証言を得、もう一人宮原二郎氏は「中国人に対する殺傷事件など一件たりとも起きたことも聴いたこともない」と証言する。そんな平穏な所に警備隊、憲兵隊が駐屯する必要はないのではないか。中帰連には木村氏の罪行に加担した元憲兵が四名現存している。さきの衛河の決壊、コレラ問題に対する44大隊の戦友会の対応も、そうであるように戦友会は外部に対して犯罪行為は一切口外しない、というのが鉄則である。
こうして田辺氏は木村供述書の証拠能力を検討し「なかった」ことを「あった」として供述されていれば「なかった」ことに物的証拠はないのだから立証は至難である。…だがつい最近、木村大尉と同じ撫順管理所で書かれ、また日付も4か月しか差のない元少佐(太田寿男氏のこと)の供述書が、実は虚偽の供述と立証された好個の例がある」と述べられる。つまり太田供述吉がウソだから、同じ状況下で書かれた木村供述書もウソである、という論法である。さきの44大隊戦友会、承徳憲兵隊戦友会の証言を正しい、と判断し、太田供述古がウソだから木村供述書もウソだという判断、これこそ私に向けられた「今こそ理性による判断を」の要求を、そっくりそのままお返しする外ない。
(とみなが しょうぞう 中国帰還者連絡会会長)
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