最終更新日:2004年03月31日

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表紙 > バックナンバー > 第3号 >戦犯の手記はこのようにして生まれた 

 
戦犯の手記はこのようにして生まれた

国友俊太郎


 田辺敏雄氏の中国帰還者連絡会の手記『三光』『天皇の軍隊』『侵略』などに対する風当たりは厳しい。「日本軍の悪逆行為のオンパレードである」と言う。田辺氏のこれらの図書に対する攻撃とも思われる言葉を上げてみよう。

◇この図書にある「証言者の出身を調べてみた。すると予想した通り、中国からの帰還者という一点で、見事なまでに共通していたのである」「となれば証言者は共通の利益のために口裏を合わせて『ウソ』をついた。あるいは他の何者かの意志のもとに、全員が虚偽の証言を強要された。あるいは誘導されたと私が考えても、読者は『もっともだ』と認めてくれるだろうと思う」。

◇「帰還者の証言を編んだ本は、強力な影響力を持つ『決定的な一冊』なのであり、『日本罪悪史観』の根底を支えているのである」。

◇日本軍の「蛮行自体がそもそも事実かどうか疑義があるからであり、当然、行われるべき検証が見事なまでに省かれている」。

◇「結論から先に書いておこう、『三光』などの手記はもとより『天皇の軍隊』を額面迫り事実とすることは大きな誤りである。副読本にして教室に持ち込むなど、とんでもないことなのである」。
(以上『正論』1996年10月号)

◇「日本軍に『三光作戦』などという作戦が存在しなかったのは明らかだし、そのような資・史料があるはずもない」。

◇「しかし、認めた日本人というのは、ほぼ中国の抑留者であったという際立った特徴があり、彼らが撫順戦犯管理所に書き残してきた『手記』、中国の取り調べ結果の『供述書』、それに帰国後の『証言』などがその証拠とされるものなのである」。

◇「妊婦の腹を裂き肝臓などの内蔵を取り出して煮て食い、軍用犬に咬み殺させるというのは中国側証言のいわば定番で、他のいろいろ証言にもでてくる」。

◇「ありもしない『三光作戦』を教科書に記述した執筆者たちは、ただちに削除して国民に詫びるべきと思う」。
(以上『正論』1996年12月号)

◇「『手記』や『供述書』が公になる経路は、どうも特定のルートを通してのようなのです。つまり中国のおめがねにかなった個人、組織を通じてのことでしょうから、情報操作という側面もあるはずです。自由主義諸国にはない不透明さがつきまとうのです」。

◇「第一作の『三光』は絶版になりましたが、右翼等からの妨害にあったのが理由とされています。当時『洗脳』された結果で、『手記』は信用できないとの声が多く起こっていましたので、これらが背景にあったのでしょう」。

◇「中国に逮捕されたアンガス・ワード元奉天総領事の例など、『洗脳」について多くのことを教えてくれます。『なかったこと』をあたかも『あったこと』として自供する可能性についても教えてくれています。中国抑留は六年におよびました。この間『学習』と『取り調べ』が同時進行しています。『学習』は天皇制や帝国主義思想を清算すること、『取り調べ』は自供が主体となります。進んで罪を認めれば刑が軽く、認めなければ重い処分があることを陰に陽に繰り返されたといいます。そして『手記』を書く前あたりから、『認罪運動」が起こります。公表された『手記』を読むと、その多くが台詞入りで、話の展開が似通っていることに気がつきます」。(以上『正論』1997年7月号)

 田辺氏の以上のごとき追跡調査と「検証」の結果をみると、何と単純な結論しかだせなかったのだろうかと驚かざるを得ない。これでは保守政党の右派や狭隘な民族主義者、反共主義者の言い分と少しも変わるところがないではないか。これでは大向こう受けをねらう週刊誌のドッキリ記事と同じである。

 田辺氏は帰国戦犯の「手記」を取り上げてはいるが、その実、帰国戦犯たちの人格を無視している。彼らは早く帰国したいため、心ならずも中国側の洗脳教育を受け入れ、管理当局の意に添う「供述」をしたり「手記」を書かされたのである。だからその内容は作り話であり、ウソである。その類似したような文章は互いに話し合い補強しあって書いたものに違いないと強調する。

 撫順戦犯管理所に勾留されていた戦犯容疑者は、「満州国」皇帝とその政府高官を除いて、日本人は千名近い。その中には実質上の総理であった武部六蔵総務庁長官、岸信介の後に座り実権をふるった古海忠之次長をはじめ、日本政府から派遣されて「満州国」政府のあらゆる役所・軍・秘密機関の高位高官となったエリートがいた。憲兵隊や七三一部隊の高官もいた。また華北、華中で威をふるった師団長・旅団長や参謀もいた。彼らは日本陸軍の士官学校・陸軍大学を出た将軍や高級幹部である。さらに大隊長、中隊長などの将校をはじめ下士官、兵に至るまで、それこそ田辺氏の言葉をかりれば侵略者の「オンパレード」と言ってもよい。彼らは出身も違い、学歴も文化水準も大いに違っていた。ただ軍国主義思想の頑固さと、皇国史観だけは大きな違いはなかったであろう。

 こういった種々の人々が同じ環境と同じ時間さえあれば、皆例外なくおとなしくなり、素直に共産主義に転向し、「中国側」に有利で「日本側」に不利な手記を書くなどということがあり得るだろうか。もしそのように思うなら、その人は余りにも単純であり、幼稚ですらある。

 田辺氏は文章の最後に「洗脳」についてという一項をもうけ、講談社版「国語辞典」まで引きだして、「洗脳」1・(反中国の人々の用語)思想を改めさせ、共産主義に仕立てること。2・思想を改造すること、と表出し、「洗脳」という言葉は中国が造った新語なのです、と説明することも忘れない。随分念の入った調査である。

 「手記」が発表されてから45年が過ぎている。今になって田辺氏がこれに執拗にこだわる真意はなんだろうか、帰国戦犯の証言を否定することによって、中国政府による戦犯管理政策の「不当」を訴え、未だに続く日本軍国主義に対する戦争責任追及の「不当性」をも訴えようとしているのだろうか。

 田辺氏に問いたい。日本軍が中国を支配した15年間、日本軍は中国で一体何をしていたのであろうか。無数の住民を巻き込んで殺し、焼き、奪い、犯すような残虐行為や、国土と資源の破壊、貧困への抑圧、抵抗者に対する容赦のない弾圧等の事実はありえなかったと言いたいならば、では一体どんな良いことをしたのだろうか、今日、中国の民衆から一体どんな感謝の言葉が聞かれるのだろうか。先ずそれを証明しなければなるまい。それどころか事実は全く反対ではないか。中国を非難することが日本と日本人に何か有利なことでもあるのだろうか。

 田辺氏とその周辺の人々は今日「日本人が日本軍の残虐行為をあばきだして悪者のように言うことは、『名誉』ある日本の歴史的伝統や、日本人の『美しい風習』を汚す『自虐史観』であり、こんな言論は許せない」などと盛んにさわぎたてているが、この言葉こそ戦前の暗黒社会で幅を利かした言葉であったことを思い出させる。田辺氏はいつまで「皇国の臣民」なのだろうか。『正論』に掲載された三つの文章の中からは、それがさっぱり見えて来ない。

 田辺氏は、1957年光文社出版のカッパブックス『三光』に掲載された戦犯の「手記」について調査し、何時、何処で、どのようにして執筆されたかを、彼一流の感覚で紹介しているが、私に言わせれば随分無理なこじつけが多い。そこで私の知る限りの記憶にたよって、当時の事情を紹介しよう。

 私は撫順戦犯管理所に勾留されていた戦犯たちが、これらの「手記」を執筆した時期に、「学習委員会」の委員の一人として、その前後の事情をかなりよく知る立場にあったし、帰国の翌年には『三光』の出版に当たって、帰還者を代表して光文社の編集長神吉晴夫氏と直接接触した責任者でもあった。もし私の述べたことに疑いがあるならば、田辺氏一流の方法で追跡調査し「検証」されることをお願いしたい。

 ◆ ◆

 1945年8月15日の日本の敗戦を期に、中国山東省から朝鮮輿南の地に移動していた第59師団の全員は、まもなくソ連軍の捕虜として沿海州の各地に送られ、以後労働をしながら抑留の日々を送ることになった。その中に敗戦の日に兵長になったばかりの私もいた。

 私は45年末に黄疸を患い、いったん牡丹江の病院に入り、翌46年春再びソ連入りをしたが、この時から59師団の人々と出会うことはなかった。ソ連での捕虜生活は5年であった。

 1950年7月、ソ連当局は私を含めて969名の日本人捕虜を、その前年の10月に成立したばかりの中華人民共和国に移管した。969名の内訳は「満州国」の司法行政関係者をはじめ、軍・警察・鉄路軍・関東州庁関係者、関東軍憲兵など計357名と、華北、華中の戦場にいて敗戦直前に関東軍隷下に編入された39師団、59師団、117師団などの将兵計585名その他である。

 撫順の収容所は、以前日本が中国の囚人を監禁していた監獄であった。鉄格子の小部屋に入れられて錠をかけられたとき、私は初めて「戦犯」にされていることを知った。やがて同じ59師団にいた者がかなりいることに気が付いたが、顔を見知った中隊の者は一人もいなかった。不安と不満の毎日が続いた。

 既に朝鮮戦争が始まっていた。撫順にも爆撃が及ぶかもしれないという噂を聞きながら、我々はハルビンの監獄に移された。多くの者はアメリカ軍が来て「解放」されるかもしれないと、はかない願望を抱いたが、半年後にはその夢も破れた。中国人民解放軍(かつて八路軍といった)が、あらゆる近代兵器で武装されたアメリカ軍と対等に戦うとは考えられないことであった。大きなショックであった。停戦交渉の進む中で我々は再び撫順にもどってきた。

 その頃の毎日は誰もが手製の囲碁・将棋・花札・マージャンなどに夢中であった。上級者の何人かが戦犯管理の「不当」を訴え、管理所に面会を申し入れたり、断食して頑固に抵抗することもあったが、無駄な試みであった。有り余るほどの時間があれば遊びさえ退屈になる。やがて与えられた唯一の情報源である「人民日報」を熱心に読むものが何人か現れた。新聞には新中国の建設と変化の様子が日々伝えられるだけでなく、毛沢東論文が次々に連載されていた。軍隊時代の体験とソ連時代の体験をへて、過去のすべてに疑問と矛盾を感じていた私は、何か新しいものを求めて読書し、考えついたことを筆記した。

 こうして一年半ほどが経ったころ、戦犯の中に多くの自律神経失調(監獄病といわれる)の現象がでるようになった。食事は毎日腹一杯食べられたから原因など判りもしなかったが、ある日突然100名以上の医師団が派遣されて来て、数日間健康診断が始まった。管理所の指導員は我々の前で検査の結果を報告し、栄養が偏っていたこと、運動量が少なかったことなどの説明とともに、生活管理の行き届かなかったことを率直に詫びてくれた。

 間もなく食事の質がびっくりする程改善された。しかし中国監視員の食事は以前と変わらなかった。運動時間も毎日一時間となり集団体操の外に、バレーやバスケットも出来るようになった。

 おかずを隠して寝所で食べたり、白米を多量に残して遊び道具を作ったり、就寝のベルが鳴っているのにまだ遊びほうけていても、監視員は日本軍のように怒って殴ることなどは一度もなかった。

 日本軍が中国人にしたことと全く正反対の処遇をしてくれる、この「人民解放軍」とは一体どんな軍隊なのか、誰もが分からなかった。だからこそ知りたいと思うようにもなった。

 その頃管理所長がマイクを通じて、「我々は中国政府の政策によって君たちを管理している」「心身の健康のために学習することを勧める」という話が伝わって来た。やがて日本文の図書や日本の新聞が定期的に配布されるようになった。こうなると一人一人が少ない本を勝手に読むより、みんなで勉強した方が効果があった。兵隊たちには小学校だけは出ていたが、それ以後は家の農漁業を手伝ったり、都会に出て小僧になり生計を助けねばならなかった者が大部分であったから、難しい文章や言葉を理解出来る者が少なかった。こうして17〜8名の小部屋毎に半日は「学習」時間となった。

 やがて労働班が作られ、食事運搬と物品の分配などを自分たちでやるようになった。音楽班と合唱班も作られ楽器も与えられた。彼らは一部屋に生活して練習にはげみ、土日の日にはその成果を収容棟の廊下にでて発表するようになったが、これは戦犯たちの感情を和らげるのに役立った。

 『日本資本主義発達史』『帝国主義論』『抗日戦争の戦略と戦術』や「持久戦を論ず」「実践論」「矛盾論」などの毛沢東論文、戦後の民主運動や平和運動を伝える日本語新間の勉強が進むと、多くの者が今まで聞いたこともない「日本帝国主義」とか「侵略戦争」「皇国史観」などの言葉と、その意味するところを次第に理解するようになっていったのである。お互いに疑問をぶつけ合って討論する方法は大いに効果があった。数少ない文献や資料は部屋毎に回覧され、各人は気に入った文献をノートに写して何回も読んだ。こうしてまた一年余りが過ぎた。

 1953年春頃、管理所当局は収容所の庭に、我々自身の手で工場とプールを建てさせ、瓦生産の労働を課した。物事に対する新しい認識が次々と進むので勉強もおもしろかったし、運動にも精出していたので、この度の生産作業には誰もが積極的に参加した。成績を競ってカラフルな運動着をもらうのも楽しみであった。半日学習、後の半日は労働する生活が続いたが数か月ほどして終わった。

 勉強が進むと当然「理論」と「実際」の関係が理解できるようになる。明治に始まった日本の近代化政策は、農村に徳川時代と変わらぬ地主土地制度を温存することで、初期の資本蓄積をし、中小の軽工業の発達もないのに、国家の力で上から重工業や交通運輸、紡績業などをつくりだしたが、貧しい農民とそれゆえに都市に出て安い賃金で働かねばならなかった労働者には購買力がなく、初めから商品を輸出しなければならなかった。また工業化の原料・資源に乏しい日本は何としても海外に安定した、安価な輸入市場が必要であった。欧米先進国は既に多くの植民地を獲得し、その武力と経済力でアジア各国の市場を支配していた。植民地化の恐れをなくし、不平等条約を解消し、対等に先進国とアジアの市場を争うため、脆弱な日本資本主義は最初から「富国強兵」政策をとり、武力によって欧米先進国をアジアから追い出さなければならなかった。日本はアジアの原料・資源・商品市場、最低賃金の労働力を獲得するため、言葉をかえていえば植民地を獲得するため、武力を輸出したのである。

 こうして日清戦争以来十年毎に戦争する時代に入った。日露戦争の勝利は日本の軍部と国民を思い上がらせ、自らを一等国・優れた国とし、アジア諸国と国民を劣等視する誇大妄想観を生んだ。政治と神道を一体化した天皇制政府はあらゆる教育の場に「皇国史観」を持ち込み、すべての男子に兵役を義務づけ、天皇のために死ぬことが最高の名誉であり、家郷の誇りであるという一方で、実際には「天皇の命令」(上官の命令)の前にはものいえぬ奴隷とした。

 「自衛権の発動」「生命線を守る」と言って軍事占領した中国東北都には傀儡政権をつくり、口では「王道楽土」「王族協和」といいながら、実際には残酷な植民地支配を強行した。

 「暴支膺懲」を掲げて全面戦争に入り、戦線が行き詰まると「日満支提携」「東亜新秩序建設」をとなえたが、実際にはあちらこちらに傀儡政府を作り、より残酷な軍事支配と無差別的殺戮を続けた。

 対英米との開戦では「自存自衛のためやむなく」といって奇襲攻撃をかけ、占領地では「アジア諸民族の解放」「八紘一宇の聖戦」といいながら、実際には旧宗主国に勝る暴虐な植民地支配をおこなった。

 敗戦を重ね占領地を手放すと戦争目的は「本土防衛」にかわり、沖縄住民を犠牲にした。アメリカの「原爆」や無差別爆撃で本土が危うくなると、「国体護持」が目的となり一億国民の玉砕さえ顧みなかった。

 学習が進む中で戦犯たちの大部分の者は、我々の戦った戦争はなんだったのか、我々は中国で何をしたのか、の問いを自らに問いかけ、自分自身に納得のいく答えを求め苦悩することが多くなった。

 そんなとき一人の戦犯が、自ら希望してマイクの前に立った。この男は病をこじらして重症となり、町の病院に入院していた数週間、中国の医師と看護婦の手厚い看護を受け、九死に一生を得たのであった。特に看護婦さんの昼夜を分かたぬ、家にもどることもせずに尽くしてくれた、親身も及ばぬ態度に深く感動したという。そして感謝の思いが、彼に過去の侵略戦争の日々を思い起こさせ、中国で行った数々の行為が、いかに住民に大きな苦しみと悲しみを与えたものであったか、日本の戦争がいかに大きな死と破壊を中国全体にもたらしたかを、深く反省する動機になったという。自分は人としてしてはならないことをしてきたのだ、今からでも過去の侵略行為を中国の人々の前に告白して、謝罪し、許しを請わねばならないと決心した、と発言したのである。

 聞いていた全ての戦犯たちは、ただ緊張し暫くは誰も無口であった。誰にでも多かれ少なかれ胸に刺さる記憶があったからだ。その後すぐに管理所長の声が聞こえてきた。「今発言した者の態度を我々は歓迎する。君たち皆が何故ここへきたのかを考えることが大切である。実際と結合してよく学習し認識を高めることを希望する」と。

 事態は急速に展開した。何人かの者が名乗り出て同じように、侵略時代の悪行と管理所の処遇を対比し、その体験を語り、罪悪行為を犯したという現在の認識を発表したからである。今まで新しい知識の勉強会サロンでもあった部屋毎の集体学習の性質は、日本軍国主義侵略戦争とその一員であった自己との関係、その罪悪の大きさと重さ、自己の責任を追及する討論と思索の場に変わって行った。

 多くの疑問が提出され、肯定、否定の議論が噴出した。なかなかついて行けない者もいた。

 管理所当局は戦犯たちの変化をみて、個々の指導員を介して「君たちの生まれた家庭環境、社会の諸条件はどうであったか。小学校から上級学校までどんな道徳教育や、精神教育を受けたのか。何が立身出世の条件だったのか」。「日本の戦争をどのように感じていたのか、人を殺したり物を奪ったりしたことを当時どのように感じていたのか」「一人一人自分自身の前半生を見つめてみてはどうですか」という学習方法を提起して来た。多くの者がペンをとりながら考え、考えながらまたペンをとってノートに綴ったり、自己の前半生を客観的に見直すようになった。そして国家権力によって生まれながらに「洗脳」され、世界を唯一つの「皇国史観」でしか見ることが出来なかった自分を発見して驚いたり、今迄は自分でありながら自分ではなかったことを発見するようになった。

 一九五四年の春ころから、何処から派遣されたのか数百人とも思われる多数の検察関係の取調官が撫順に来て、管理所周辺の事務所や民家に宿泊し、管理所に出入りする様子が見られるようになった。やがて一人一人の戦犯を呼び出し、罪状の自発的供述を要求する仕事を開始した。この度は相手が管理所当局ではなく最高人民検察院による正式な取り調べであった。その期間は半年以上続いたと思う。

 比較的罪が軽いと見なされた者は一回か二回の取り調べだけで、深く問いただされることはなかった。私は一回の取り調べで終わった。時間は30分位だった。調査官は氏名・年齢・出身・学歴・軍歴を聞くと、思い当たる罪行の告白を黙って聞いていたが、それが終わると私にタバコを勧め家族の安否や将来の希望をきいた。それだけであった。

 だが、古い下士官や、将校にはかなり突っ込んだ尋問があったと聞いた。特に集団的な虐殺事件や大きな被害を与えた事件に関係したと思われる人物と、関係部隊の者にたいしては何回かにわたって呼び出しがあった。そして辻褄が合わないと思われる供述に対しては、同じことを繰り返して問いただし、後日再び喚問すると言い渡した。「満州国」関係の機関にいた者は一つ一つ具体的な事件や、命令の内容、責任の所在等が追及されたという。自分はそのときの事件には関係していなかったと嘘の供述をした傀儡政権のある検察官は、当時自身が署名し押印した現物の書類を突き付けられて、震え上がったそうである。関東軍憲兵隊の将校や特務機関で秘密工作をしていた者などは、多くの住民を闇に葬ったり、中国人の密偵をつかっていたので、スパイ工作の網の目を一つ一つ問いただされたという。

 検察院の追及は、総じて将官級や傀儡政府の高官の命令や政策がどのようなものであったか、結果としてどのような事態や事件を生んだのか。その責任はどこまで追及できるか、という目標におかれていたと思われる。それはやがて軍事裁判を行い主要な犯罪者を処罰するための、確実な証拠を固める工作であったとも推測される。検察院はまた、この日のために、四年にわたって全国の被害地域を調査し、被害者住民の具体的な内容を示す告発状や、多くの物的証拠品をも収集していた。その総量は大型貨車で二両分に及んだという。これは当時取調官として管理所にきていた日本人からの話である。

 半年以上にわたった取り調べ期間中を、戦犯たちは後に「認罪運動」の時期と呼んでいる。各人毎に自分自身に関する罪行の告白書を書いたものの、日時、地名、人名、被害者の人数、奪った物資の数量等の記載については、皆まちまちであり、野外運動の時間を利用して、かつての同僚や上官等に聞きながらメモを取る始末であった。当局はいつも「正確に」を要求していたからとても気になることであった。

 一方下級将校は現地での直接の命令者でもあり、それを大きく扱われて厳しい処罰を受けるかも知れないという危惧から、肝心なところで逃げ隠れする態度があった。その点最下級の兵士は自分だけの責任を認めれば他に迷惑をかけることがないから、比較的大胆であり恐れてこそこそする者はほとんどなかった。

 これらの問題を解決するため、当局は、各小部屋毎の学習から、同じ大隊、同じ部隊、同じ機関にいた者たちが一か所に集合して、グループ別に話し合う「学習」方法をとった。こうして忘れていたり不明であったりした事項が解明され訂正された。このような方法はまた思わぬ結果をもたらした。将校が隠していた事件を下士官が指摘したり、拡大、縮小して書いていたものが、何人かの証言であばかれ、訂正させられたりもした。

 だが何しろ59師団だけでも1万5000人前後いたのであり、8あまりの大隊に別れさらにその下に5〜7の中隊があったのだから、その中から任意に抽出された257名だけでは、分からないことも多かった。

 将軍たちに至っては、自分の命令が前線ではどのような実態となって現れたのか、まったくといっていいほど分かってはいない。どの部隊がどの辺にいて、どれ程の戦果を上げたか、何処の戦闘では味方がかなり苦戦したらしいという位の認識である。これに対しては末端の中隊にいた兵隊が、一定の日にち同じ部屋に寝起きして、自分たちのしたことを細々と語り聞かせて、その責任を自覚するように促すことも行われた。

 またこの間に全員が中庭に集合して、当局の推薦する模範的告白状の発表会があった。39師団の232連隊の宮崎弘中隊長、関東軍特別警護隊の憲兵植松楢数などが告白した罪行は、我々も疑うほどの残虐さで、何の疑いもない住民を人目のある前で惨殺したり、拷問したことを始め、数々の暴虐行為を暴露したもので、話し終わって涙ながらに厳重な処罰を受ける覚悟を語った。この告白の特徴は、他には言えない過去の罪行を包み隠さず暴露しただけでなく、その罪の重さを自覚し、如何なる厳重な処罰をも受け入れる覚悟であると、明言したことにあった。

 つづいて検察側の責任者が登壇し「多くの者が同じような表現をしている。これらは大変よいことである。皆は軍国主義に騙されて中国に侵略し、程度の差はあるがそれぞれ厳重な罪行を犯した。中国人民は正直に罪を認める者には寛大であり、拒み、逆らう者は厳重に処罰することを望んでいる。みなはこれからもますます学習に励み、罪悪的な侵略思想を捨てて、新しい道を歩むよう希望している」と総括した。

 最高検察院の戦犯に対する取り調べは、それ自体管理所当局の戦犯管理とは別個なものであった。取調官は工作を終えると全員が撫順を離れて行った。

 この期間の終わるころ、今度は定められた用紙に、改めて罪行を記述するよう指示が出された。これは公式的なものであり、最後の清書であった。戦犯一人一人は緊張する中で今までの告白状を思い出し、その欠点を改め、何回も読み直して納得の行くものに書き替えた。それぞれの文章は簡潔な箇条書きであり、無駄な言い訳や感想は一切省かれていた。

 このような「認罪期間」が終了した1954年の半ばごろ管理所当局は戦犯たちに、自主的に規律を定め自ら生活を管理することを促し、「学習委員会」組織を作ることを提案してきた。「学習委員会」には委員長1名、副委員長2名の外に学習部、文化部、体育部、生活部、の各部が置かれ、それぞれ部長が指名された。委員会にはその外に将官と行政官のグループから2名の委員が加わっていた。私は文化部長であった。

 委員会は各収容棟の小部量に連携し、それぞれの小部屋には互選された組長がいた。委員会の各部は独自の月間計画をつくり、会議をして調整し、決められた日程にしたがってそれぞれの目標を消化した。

 学習部の任務は各小組(小部屋ごとの)の学習内容や進み方などを調整し、それぞれ異なった意見や認識に統一見解を示したり、優れた学習方法を他の小組にも紹介するような仕事をしていた。

 半年にわたる認罪の期間、戦犯たちはみな大いに悩み、大変疲れた。管理所当局はその間にも戦犯たちの心身の健康に大いに配慮した。生活部は皆の希望を聞いて食事のメニューを作り、料理の経験者を調理場に送って、日本人好みの味付けをし惣菜を作った。体育部は大運動会や棟対抗の球技会を組織し、多くの賞品を用意した。私の担当した文化部は中庭に大野外劇場を建設し、新たに演劇隊を組織して創作演劇を演じたり、頻繁に映画会、音楽会、合唱大会などを開催した。

 1954年の終わり頃、管理所に初めての日本の国会議員団が訪れた。団長は社会党の鈴木茂三郎氏であった。私は彼らが収容棟の長い通路を通り過ぎるのを、廊下の鉄格子を通してちらっと見ただけであった。戦犯との会話は禁じられていたようで、皆黙って通り過ぎただけであった。我々より彼らの方が緊張しているように思われた。この年の10月30日、李徳全女史を団長とする中国紅十字会代表団がまだ国交のない日本を訪問し、戦犯の名簿を日本赤十字社に手渡している。私たちの家族はやっと肉親の生きていることを知らされたことになる。翌55年2月、160名ほどの戦犯は家族からの、最初の音信を手にすることになった。さらに一か月余りたつと、今度はほぼ全員が肉親の手紙に接し、小包を受け取ることになった。

 検察官の取り調べが終わり誰もが、今まで味わった事のない心の安定をもち始めていた時でもあり、肉親からの便りは特に嬉しいものであった。

 この年は日中間に民間団体の往来が、急に多くなったのであろうか、管理所を訪問する訪中団も3〜4を数えた。今度は管理所内部を見回った後に、それぞれ何人かの戦犯が呼び出され面談が許された。私の会った人は千田是也氏と石垣綾子さんであった。私は美術学校の学生時代から千田是也氏の名をよく知っていた。演劇の舞台装飾に興味をもっていたこともあって、彼の著書を愛読していたからである。そのせいか話は専ら美術のことばかりで、管理所のことは何も話題にならなかった。

 この年戦犯たちの多くは、今までの緊張を解きほぐし、以前とは別な意味で娯楽に興ずるようになっていた。特に文化活動が盛んになり、グループを作っていろいろな演劇を創作し、音楽や歌も取り入れて盛んに上演した。定期的な文化祭が企画され、ほとんど全員が演者と裏方の仕事に参加した。文化祭の準備や演技の練習には時間がかかる。この時ばかりは各小部昼の扉が解放され収容棟ごとに行き来が自由であった。罪行を供述し終わったことによって、間もなく来るであろう裁きの結果については、余り心配することがなくなったようである。ほとんどの者は中国政府の政策は信頼できるものであり、どのような裁きがあっても受け入れようと思うようになっていた。学習部の活動も平穏に進められ、新しく新中国の建設に関する論文や日本の政治・社会の動きを伝えるような文献に興味は移って行った。全神経を使って自分でも納得のいく供述を終わった後は、戦犯たち一人一人を襲っていたあの孤独感がすっかりなくなっていることを感じていた。誰もが自分自身を今迄にない新しい存在として自覚したようであった。

◆  ◆

 さて、この辺でやっと「手記」の問題に入ることができる。

 勾留生活も4年余を過ぎた1954年の末近く、学習委員会の会議に中国側から指導員が出席した。この人が言うには「あなたがたは多くの学習をへて、自分たちが加わった戦争が、軍国主義による侵略戦争であり、戦争で犯した行為は中国人民に対する犯罪であったと認識するようになった。しかしあなたがたは愛する肉親や一家の働き手を、残酷な手段で殺された人々の、悲しみや苦しみがどんなに大きく深いものであったかを知っていますか、立場を替えて、もしあなたがそのような目に会ったとしたならばどうでしょう。あなたがたの反省の心の中にそのことを忘れずに入れておいてください。被害者の心情が理解されてこそ本当の反省が出来るものと思います。私たちはこれからの学習の方法として、希望する人を募り文学的な手法を用いて、被害者から見た日本軍の侵略行為を文章にすることをお勧めしたいのです。勿論人にはそれぞれ能力とか得て不得手、あるいは才能などの差がありますから、誰にでも書きなさいということは出来ませんが」という提言であった。

 このとき私は太い注射針を心臓に刺されたような衝撃を感じた。そして全くその通りであり、我々に欠けていたのは被害者の立場にたって見ることだったことに気づいた。

 この提案には委員の全員が賛成し、その場で「創作部」の名称を決定し、これを学習部の活動と連携した独自の組織として扱うことにした。間もなく全員の中からこの活動の担当者にふさわしい人物として、比較的学歴や教養が高く、この種の活動に経験のある人が選び出された。

 学習部の呼びかけに応えて、創作活動に参加した人は前後の事情からしてせいぜい200人前後ではないかと想像している。

 「中国の戦場や後方で日本軍(自分)が犯した罪悪行為をノンフィクション文芸作品の形式で原稿にする」といわれても、ああそうですかと応えられる人が何人いるだろう。戦犯の半数を越える兵士・下士官のほとんどは、わずかに小学校の学歴しかもたない。軍隊に招集される前にも、その後についてはなおさら「小説」とか「文芸作品」など読む機会もまれであった人達である。中学校やそれ以上の学校を出た下級将校にしても、戦争時代の若者には「文芸作品」を愛読するなどということは殆どなかったであろう。当時は出版される図書の数量も金銭的な余裕の点からも今日とはまるで違った状況であったからだ。

 比較的厳重な罪行を持ち、ぜひ中国の人に反省の気持ちを伝えたいと思った者も、「作品」を書くとか「原稿」を書くということになると、誰もがためらったようだ。創作活動の部員は各部屋を回り「これは新しい学習形式であるから、うまく書けるか、よいものになるかは別問題である。ただ被害者の立場に立ち、被害者の心情を考えながら、自分のしたことを見直すことが大切なのだ」と説得しつつ、「作品」になるかならないかは創作部会で検討し選別することを伝えた。「手記」はこのような事情から出発したものである。

 そのころ盛んだった文化活動、特に演劇活動の演目内容(脚本)もまた、このような創作活動(創作学習とも言われた)の一環であった。文化部長であった私は創作活動の中からでてきた原稿をもとに、脚本を書くことに興味をもつ人に原稿を依頼したことがある。

 学習委員会の会議で報告された創作部員の話では、最初に提出された幾つかの原稿を見る限りでは、ほとんどのものが「作品」になっていないということであった。さらにまともな文章にもなっていない、感想文のようだ、語彙もきまりきっでいる、文体もおなじような傾向だと言うものであった。委員会は提出された原稿を創作部の部員が手を入れて、作者の書いた内容と趣意を尊重しつつ、文章形式、文体などに修正を加えることを承認した。

 この時点では、原稿を書いた人も、それを整理した部員も、また学習委員も、誰ひとり、後日これらの原稿が本になって、日本国内で公開されるかもしれないなどと考えた者はいなかった。

 管理所当局の指導員がこの仕事(創作活動)に口を出したり、途中で点検するようなことは一切なかった。

 創作活動は半年に満たない短い期間で終わった。理由は簡単である。戦犯たちが東北・華北・華中など全国的な見学旅行に出発する日程が組まれていたからである。

 1956年2月末、戦犯たちは3グループに別れて、中国全土の見学旅行に出発した。全員が旅行を終えて管理所に戻ったのは6月であった。

 第一回目の「起訴猶予・即日釈放」の決定を受けたのは6月21日である。8月には3回目の同様決定がなされ、軍事法廷で裁かれ刑を受けた高位高官45名を除いて、全員が日本に帰国した。

 これが戦犯管理所において「手記」が書かれるまでの経過と事情に関して、私の知るすべてである。

 帰国戦犯の「手記」を集めた『三光』が初めて出版されたのは、我々が帰国した翌年のことであった。しかもその出版は私たちが全く知らないところで世に出ようとしていた。そのうえ初版が出版されただけで、再販は出版社の一方的な都合で止められてしまった。ここまでの事情については既にのべてある。

 もともとこれらの「手記」は、その著作者が、被害者の心情を正しく理解するために、自らが犯した罪行を自らの心に問うために書き留めたものであり、いわば自問自答の結果として生まれたものであって、帰国後に日本の国民に訴えるというような意図をもって書かれたのではない。

 帰国後つくられた戦犯たちの組織である「中国帰還者連絡会」は、その後入手したこれら「手記」原稿の執筆者である人々の意志を代表して、自らの手によって出版事業を継続することを決定し、既に個人名または会の名によって少なくない文献資料を世に問うてきた。その数は田辺氏の取り上げたような特定の数冊に限られたものではない。「証言者の出身を調べてみたら、予想した通り、中国からの帰還者という点で見事なまでに共通していた」などと、探りを入れて尻尾をつかんだような言い方は、かえって田辺氏自身の人格が疑われるのではないだろうか。

 我々は世間の保守的な攻撃や重圧に屈せず、「手記」や「体験談」を世に問う目的は、自らの忌まわしい体験を通して日本軍国主義と侵略戦争の実態を暴露し、歴史の真実を人々に知ってもらいたいためであり、日本と日本人が再びあのような誤りを犯してはならないと考えるからに外ならない。通常人々は難しい理論よりも、自分たちと同じ庶民の立場にある人たちが体験した話の方に関心を持つ。「手記」を書いた帰国戦犯はみな下級将校であり、最下級にいた庶民の出身者である。出版された彼等の「手記」はそういった庶民を対象にして発表されたものである。

 また田辺氏の文章は、未だに一般の人々に悪いイメージとして影響力をもっている、「共産主義」とか「洗脳」などという言葉を多用して、感情的にも帰国戦犯をけなしているが、その実、中国の対日政策や国家権力を陰の悪者として扱うことも隠してはいない。たとえ現在の政権が如何なるものであろうとも、中国と中国の人々が豊かになることは良いことだ。同じようにアジアの国々と民衆が豊かになることも良いことである。かつてこれらの国々は貧しく遅れていたために、長く欧米列強や日本軍国主義の支配下に苦しめられなければならなかった。中国について言えば、日本と日本人に対する態度(政策)は前述してきたように、同じ侵略者であっても軍国主義に利用され罪を犯したものには寛大であり、戦争を企図し指導した責任者に対しては厳しいものであった。日本人戦犯に対する処遇がその証拠である。

 戦犯たちが帰国してから既に40余年が経過している。もし中国における罪行について告白書にしたためたり、供述書に署名した内容が強制されたものであったり、帰国と引き換えに示唆されたものであったとするならば、彼等には罪行書を否定する十分な時間があったはずであり、「洗脳」されたとされる思想意識を元に戻すにも十分な時間と環境があったはずである。

 だから何人かの者は帰国するとすぐ「強制された環境の中で洗脳教育が行われた、あのように書かなければ帰国することはできなかった」という言い訳をしながら、もとの政府役人に復職した何人かがいる。その典型は元最高裁長官の弟で裁判官となった飯盛重任である。

 また帰国すると間もなく帰国戦犯の組織(中国帰還者連絡会)から離れ、沈黙してしまったかなり多くの人もいたことは確かである。これらの人々は長期の空白をへて帰ってきたものの、日本の古い村社会のなかで「中共がえり」「洗脳された人」などのいわれないレッテルを貼られ、村八分にされることにたえながら就職もままならず、生活再建の困難な日々を過ごさなければならなかったのである。だが彼らの誰一人からも「ウソの自白を強いられた」とか、「日本軍はそんな悪いことはしていない」等という言い訳や泣き言を聞くことはなかった。

 田辺敏雄氏に言いたい。私の言葉も「ウソ」と言いたいなら、あなたの調査方法で検証してみればよい。

 帰国戦犯の大部分の者がこの40余年間一貫して言い続けている言葉がある。それは「侵略戦争反対」「日中友好」のスローガンだ。彼らは皆「日本軍国主義侵略戦争に加担して、程度の差はあれ人道に反した罪を犯した」という深い反省の上に立っているのであり、後半生の生き方を自分自身で決めたのであって、それは誰からも強いられたものではない。だからこそあらゆる非難や無理解を乗りこえて、日本国家と軍部の総無責任体制と無反省の態度を批判しつつ、歴史の真実を訴え、中国はじめアジア諸国民との友好関係の発展こそが平和の保証であり、再び誤った戦争をしてはならないと訴えつづけているのである。

 歴史は正しく教え継がねばならない。暗い過去があったからと言っても、消し去ることは出来ない。正しい歴史認識と過去の過ちを教訓として今後を歩んでこそ、中国をはじめアジア諸国と20億国民の理解と信頼を得ることが出来るというものではないだろうか。

 またこのことは日本固有の伝統と日本人独特の風俗習慣の良さを少しも傷つけるものではない。それとこれとは次元の異なった事柄である。

(くにとも しゅんたろう 中国帰還者連絡会元副会長)

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