最終更新日:2004年03月31日

○ 更新履歴 ○

○ 中文(簡体字)簡介 ○

○ お問い合わせ ○


 中国帰還者連絡会とは?
 中帰連関連文献集
  バックナンバー
 
定期購読はこちら
 季刊『中帰連』の発刊趣旨

 戦場で何をしたのか
 戦犯管理所で何があったのか 
 お知らせ・活動紹介
 証言集会を開催します
 受け継ぐ会へ入会はこちら
 受け継ぐMLへのご登録

 


表紙 > バックナンバー > 第2号 > 撫順戦犯管理所長を勤めて

 

撫順戦犯管理所長を勤めて

孫 明斎

 


■本文の初出は中国帰還者連絡会訳『覚醒‐撫順戦犯管理所の六年』新風書房、『季刊 中帰連』においては、第2号・第3号に分割して掲載されました。


《著者紹介》

 著者は1913年11月山東省海陽県に生まれ、1941年中国革命に参加したが、50年6月撫順戦犯管理所の初代所長として着任した。現場の最高責任者として、中国政府の寛大な政策と工作員たちの感情との矛盾を克服しながら、日本戦犯の管理と指導、認罪の援助にあたった。
 1988年75歳で病没されたが、この遺作は、管理所が日本戦犯に施した工作のありのままを、余すことなく読者に伝えてくれるであろう。


 歴史は不断に発展変化し、時にはその中にいる人さえ、自分が信じきれなくなることがある。私は「日本を打倒し、中国を救え」の目標を胸にいだいて抗日戦争に参加し、日本侵略者を国家と個人の仇敵と見なしていた。ところが、私は意外にも、日本戦犯を改造する管理所の所長になった。

 1984年10月、私は彼らが帰国後設立した「中国帰還者連絡会」の招請により、撫順戦犯管理所元職員の身分で、日本を訪問し、これらの日本の友人およびその家族の方々の、熱烈な歓迎と心のこもった接待を受けた。その忘れ難い10日間に、私たちが至る所で目にしたものは、情熱に溢れた笑顔であり、耳にしたものは、心のこもった感動させられる話であった。

 溝口嘉夫氏は、感激して私にこう言われた。

 「管理所生活をふりかえれば、皆様方が貴重な青春を犠牲にして、我々のために10年の心血を注がれた往時のことが思い出され、感激と感謝と申し訳ない気持ちで一杯であります。先生方、本当にありがとうございました」

 私たちの訪問が終って帰国するとき、78歳の高齢で半身不随の三田正夫氏は、娘さんに支えられて、自ら空港まで見送りに来て下さった。彼は私の手を固く握って、

 「どうも有り難うございました。ありがとうございました!日中友好!日中友好!」

 と言われ、90歳の岐部与平氏は、喜び勇んで歓送の言葉を述べて下さった。これらの情け深い思いのこもった言葉を耳にし、このような心から感動する場面に接して、誰か感銘しない人がいるであろうか!

 これらの日本の友人は、過去を思い起こす度に、いつも戦犯管理所の職員を「恩師」と呼び、「管理所」を「再生の地」だと見なしている。実際は私たち管理所の職員が果たした作用は取るに足らないものであって、ここで起こった一切の「奇跡」は、すべて中国共産党が決定した正確な政策によって得られたものである。


指導業務を担当する

 1950年5月はじめのある日、私は東北公安部からの一通の公文書により、すみやかに出頭するよう命ぜられた。東北公安部に行くと、私を出迎えた政治保衛処の処長 王■と副処長 解衡の二同志は、椅子にかけさせてから、真剣で厳粛に、私に対してこう言った。

 「中ソ両国政府の協議に基づき、日本戦犯と偽「満州国」(注1)皇帝溥儀を含む偽「満州国」戦犯が、近く我が国に移管される。このため、中央では東北戦犯管理所の設立を決定し、東北公安部、司法部、衛生部と公安三師団より一部の同志を選抜して、組織の編成を行うことにした。部内では、すでにあなたを撫順戦犯管理所に派遣して、指導業務を担任するよう決定した」

 この降って湧いたような話に、私は愕然とした。日本戦犯、偽「満州国」戦犯、それに偽「満州国」皇帝、これは並一般の人間ではない。私にこれらの人をうまく管理出来るだろうか?一旦管理がうまく行かなければ、党の事業達成に損失を与えるだけでなく、国際的にもよくない影響を生み出すことになる。この責任は私にとっては重過ぎると思ったが、二人の指導者の面前では出来ませんとは言えず、任務を引き受けた。

 撫順に戻ってからも、私の気持ちは安らかではなく、思わず日本帝国主義が中国を侵略したあの忘れ難い歳月を思い出した。私の故郷・山東省の海陽県では、家は焼かれ、物は奪われ、村人たちは殺され、叔父は日本の軍用犬にかみ殺され、ある英雄的な母親は日本兵の銃剣で突き殺され、心臓を抉り出されて食われてしまった、などなどの悲惨な場面を思い出したのだった。これらの極悪非道の強盗を、意外にも、私に責任をもって管理せよと言われている。私はどのように彼らを取り扱ったらよいのだろうか。

 私は、東北公安部へ着任報告に行った。部長の汪金祥同志が、事務室で私を接見し、すぐに「孫同志、どうですか、仕事に自信がありますか?」と尋ねた。彼は、私の言葉が曖昧で、自信なさそうなのを見てとって、私に中央の指示に基づき、あらゆる方法を講じて戦犯の管理がうまくやれるよう、多くの道理を話してくれた。彼は、

 「魯迅先生には『もともと地上には道がなかったが、通る人が多くなったので、道が出来たのだ』という名言がある。日本戦犯の管理教育も、先人の例はなく、現在の人にとっても模範例はないが、党はすでにこれらの戦犯の改造任務を我々に与えられた。このことは、我々が戦犯の管理教育を、うまくやることができると信じているということです」と諭された。

 汪部長の話は、私に明るい指針を与えてくれ、同時に、私の自信と勇気も強まった。談話が終ると、私は急いで撫順戦犯管理所へ行き着任した。私は管理所に着任して間もなく、日本および偽「満州国」戦犯の改造は、確かに困難な任務であると痛感した。ある日、一人の戦士が不満げに、「孫所長、私は従来過ちを犯したこともないのに、なぜ私に殺人狂を看守させるのですか?」と質問した。もう一人の山東出身の同志は、カッカしながら大声で、「畜生め!こいつら悪魔には、憎たらしくて歯がむずむずする。あいつらが来たら、絶対おれが、機関銃弾を何人かの心臓へぶち込んでやるぞ」と叫んだ。

 一人の日本語のできる同志は、気分が良くなさそうに、「私は元の職場では仕事もよくやっていたのに、よりによってここへ転勤し、日本鬼子の通訳をさせられるなんて考えもしなかった。本当になさけない」と言った。

 戦犯管理所の幹部と戦士は、皆臨時に選抜されて転勤して来た人で、少なくない人が仕事に不安感を持っていた。上意下達の任務遂行を保証するためには、思想を統一し、情緒を安定させなければならない。そこで、私と副所長の曲初及び、王楓林、張実の所務会のメンバーは、それぞれ分かれて下部組織に入り込み、小組会議を開いたり、個別に腹を割って話し合う方式で政治思想の工作を行った。


日本戦犯の到着

 1950年7月21日の未明3時、日本戦犯を護送した専用列車が撫順城駅に到着した。これらの戦犯は合計969人で、4日前にソ連政府が綏芬河の駅で、我が国に移管した者である。

 列車がゆるやかに停車すると、戦犯たちは次々に窓を覆った新聞紙をめくり、不安そうに車外を伺っていた。外は薄暗く、淡黄色の電灯の灯りの下で見えるのは、駅付近の建物とプラットホームを動く私たち職員だけだった。突然、誰かが大声で「撫順市だ!」と叫んだ。この3文字は、極めて普通の字だが、逆に車内の何人かの戦犯をひどく驚かせた。

 柏葉勇一は、慌てて顔を窓に張り付け、びくびくした眼差しでしきりに外を伺っていた。彼が大難がふりかかる思いを持ったのも、決して不思議なことではなかった。なぜなら、彼は以前撫順警察局長に就任していた時代に重大な罪行を犯したので、撫順の人民が彼を処罰するだろうと恐れたからだ。戦犯たちは順次に車外に出、列を組んで駅から出て行った。彼らの大多数は頭をうなだれていたが、中には首を上げ胸を張って戦犯管理所に入って行く者もいた。彼らのこのような醜態は、見る人の憤りと憎しみを煽り立てた。

 これらの日本戦犯の中には、日本軍の高級将校、陸軍師団長の鈴木啓久、藤田茂、佐々真之助などの将官級の軍官がいた。また偽「満州国」政府を操り支配していた日本人の文官、偽「満州国」国務院総務庁長官武部六蔵、次長古海忠之、各部、省、市、局の長官などがいた。偽「満州国」警察総局警務処長の今吉均、撫順警察局長の柏葉勇一、偽「満州国」憲兵訓練所長少将の斉藤美夫などの日本特務関係の中心人物や、日本特務華北交通防衛本部「富永機関」の首領の富永順太郎などがいた。かつて匹敵するものがない程の軍国主義分子であった彼らが、中国の愛国の志士を虐殺するために使われていた「撫順監獄」と称する高い塀の奥深く、今度は囚人として収監されたのである。

 これらのファシスト分子が撫順に来た当初は、ある者は依然として傲慢で、その上取りとめもない思考を巡らし、次々に懸念が重なり、自分は処刑されるだろう、といつも心配していた。所内にボイラー室を建設して、彼らが冬を暖かく過ごせるように整備していると、「殺人室」を作っているのだと疑い、所内に医療施設を備え、健康診断や治療をしてやろうとすると、細菌の「試験」に用いようとしていると思ったりした。

 所内で登録させ、関係事項をありのまま記入させようとすると、彼らはいよいよ死が面前に迫ったと考えたりした。偽「満州国」の警務庁長梅村円次郎と柏葉勇一は、実名を記入せず、自分は「会社役員」である、と偽って報告した。このような状態であるにもかかわらず、自分は「世界の優秀民族」の軍人であることを忘れず、いつも挑戦的に騒いでは、不満の気持ちを発散させている者も多かった。ある者は、きちんと盛って来たご飯を便所の中へわざと捨ててしまい、「食い足りない、虐待されている」と大声でうそぶいていた。

 日本戦犯のこのような故意で悪辣な騒ぎに直面すると、一部の管理員は、素朴な気持ちで、拘留している戦犯を優待している党の政策がますます分からなくなってきた。ある看守長は、7人の家族が日本侵略者に虐殺され、日本を打倒し家族の仇に報いるために、八路軍に参加した。今彼は、敵が囚人となっているのを目の前にしているのに、上級は戦犯を殴ってはならない、彼らと話す場合は態度を穏やかにしなければならないと要求している。彼は、腹立たしさの余り全身がぶるぶる震えて、思わずベットに伏して泣いた。ある炊事員は、戦犯の食事を作る気になれず、時には米を洗わずに釜に入れ、野菜も洗わずにきざんだこともあった。食事を運ぶ看守員も気がたって、飯桶を各監房の入り口に置いて、故意に足で蹴ることもあった。

 直面した状況は、複雑で、他方面にわたっていた。私は、日本と偽「満州国」の戦犯を管理、改造する任務を担ってゆくには、所内の管理人員の思想認識問題をきちんと解決することが必要だと感じた。私たちは所内の職員を組織して、上級の指示と方針・政策を真剣に学習し、批判と自己批判を展開し、出てくる問題の原因を分析して、問題を解決する方法を操り返し研究することにした。みんなが一つ一つの問題をテーブルの上に並べて分析し、研究した。戦犯の管理教育をよくすることは、党が我々に与えた光栄で困難な任務であり、個人の恨みや憎しみとは切り放して、すべてを党の利益に置き、戦犯の人格を尊重し、感情に走らず、厳格に党の政策に基づいてことをやらねばならない、という共通の認識に到達した。

 それからは炊事員も、衛生に注意を払い、米をきれいにとぎ、野菜をきれいに洗い、食事も味よく口に合うように作り、衛生に注意するようになった。看守員が食事を運ぶときにも、言動に注意し、戦犯を教育感化して、彼らがおいしく食事するようにした。

 私たちは、日本戦犯に対して、革命的人道主義の原則を堅持した。副所長の曲初同志が戦犯に対し、監房規則と規律を厳かに宣布して、監房内で挑発的に騒ぎ立てたり、大声で喧嘩したり、連絡を取り合うことなどを厳禁した。一通りの応酬があって、日本戦犯は、中国政府の厳正な立場と人道主義の原則を感じ取り、すぐには処刑されそうにないことを見て取るようになった。彼らの情緒も落ち着き始め、苛立ちや不安もなくなっていった。


北へ移動した以後

 1950年10月、朝鮮戦争(注2)の勃発により、上級のすべての戦犯をハルビンへ移動させることを決定した。ハルビン到着後、私たちは当時の形勢と戦犯たちの思想状況に照らして、真正面から彼らに必要な情勢教育をした。松江省公安庁長趙去非、東北公安部の董玉峰などの同志は、戦犯たちに情勢を説明した。戦犯を組織して、人民日報の社説「アメリカ帝国主義の侵略戦争は必ず引き続き失敗する」や「当面する国際情勢について、スターリンのプラウダ記者に対する談話」などの重要文献を学習し、適時補習と討論を行なった。管理所の職員たちは、戦犯たちに事実を述べて道理を説明し、帝国主義の侵略的本質を解剖分析して、不正義の戦争は必ず恥ずべき失敗に遭うと解き明かした。

 教育を通じて、一部の戦犯が「朝鮮戦争」にかこつけて再起を計ろうとする妄想は破滅し、反動的気分は弱まり、思想認識もある程度変わった。五一年の元旦、有田香などの人々は、管理所長に一通の長文の手紙を書き、中国政府と中国人民の彼らに対する寛大さと、管理所の人道主義の待遇に対して感謝を示し、引き続き学習に努力し、真心から罪悪を懺悔します、と述べた。

 同年2月、福島巳之進など7人は、日本の吉田政府が松川事件(注3)の中で、鈴木信氏など20人の進歩的労働者を迫害したことに、抗議文を提出した。

 依然として反動の立場を堅持する一部の戦犯もいた。勾留中の改造に不満で、機に乗じては挑発していた。このような人には、私たちは厳正な立場を堅持し、理を踏まえて彼らの誤った理論に反論し、真っ向から対決してその反動思想を改めるように促した。

 ある日、一人の幹部が私に、ある戦犯がどうしても面談したいそうです、と告げてきた。私はすぐその戦犯を事務室に連れてくるよう命じた。

 間もなくその戦犯が、連れられて部屋に入ってきた。彼の身長は高くなく、身体はがっちりしていて、ふっくらした頬に黒ぶちの眼鏡をかけていた。部屋に入ると、彼はゆっくり部屋の中央に進み、私に向かって頭を下げると、小声で、「所長さん」と一声出した。

 私は彼のそばの椅子を指して座を掛けさせようとした。彼は、私の言ったことが聞こえなかったかのように、依然とそこに棒立ちで、

「所長さん、あんたたちは表門と見張り台の上に、あんなに大勢の銃を持った兵士を立たせている。これは不要です。我々にとって本当に刺激が大き過ぎます。私はこの中に収監されている罪なき日本人を代表して、あんたたちが直ちに歩哨を撤収するよう要求します。俺たちは、所長さんが必ず俺たちの要求に満足を与えてくれるものと信じています。さもなければ……」

 と固い口調で言った。

 彼がまだ言い終わらないうちに、私は彼にできるだけ自分の感情を抑えて、

 「あなたはここに収監されている罪のない日本人を代表してと言うが、誰があなたに代表格を与えたのですか?
 あなたがたは中国の国土の上で焼き、殺し、略奪の悪事の限りを尽くしたのに、どうして罪のない人間になれたのですか?歩哨をおくことが、あなたがたを刺激したと言うのですか?しかし、あなたがたは、あなたがたが犯した滔天の罪行は、どのように中国人民を『刺激』したか、を考えてみたことがありますか」と尋ねた。

 そうして私は、戦犯側から見て、私たちの管理所が行なっている「刺激」らしきことは、すべて合法であり、必要であることを、条理をつくして彼に告げたのであった。

 この戦犯は、私の態度が真面目で道理があり、言葉も厳しかったのを見て意気消沈し、頭を垂れ、口をつぐんで、つい先ほど部屋に入って来たときの高慢な、自信めいた気色を失ってしまった。彼は私の話が終わったのを見て、私に丁寧にお辞儀をして、しおしおを連れられて行った。

 もう一人の日本戦犯は、偽「満州国時代」の警正で、警務科長を勤めたことがある。彼は、管理所に来て以来その管理に従わなかった。朝鮮戦争勃発後、いつも私たち職員に挑発的で、大声で怒鳴り、叫んだりして、他への影響を非常に心配した。一部の戦犯たちからは「大和魂の模範」とか、「ずば抜けた民族の英雄」とか煽られていた。

 ある日、私は中庭を巡視していると、この戦犯がげんこつを振り回し、物凄いけんまくで、職員に怒りをぶっつけていた。私は後で聞いて知ったことだが、この戦犯は以前から監房内で、手で鉄格子を殴打したり、大声で「俺たちを自由にしろ!国へ帰せ!」「俺たちを出せ!」と叫んだりし、室内の一部の戦犯も掛け声を上げて、彼に声援を送っていたのだ。職員は、彼を教育室に連れて行き教育した。名前を尋ねると、彼は大声をあげて、「馬鹿野郎!おまえなんかに俺の名前を聞く資格はない!」と罵った。

 職員はかっとならずに心を落ちつけて、人を罵ることは間違いであると指導した。しかし、この戦犯は、全く聞こうともせず、ついにヒステリックに、

「俺は日本の一庶民だ。中国の治安維持援助のために来たのだ。お前たちはどうして俺を勾留するのだ?」と叫んだ。

 職員の報告を聞いて駆けつけた私は、極力気持ちを落ち着かせて、この戦犯をじっと見ていた。

 このとき室内は、静まり返って、吐く息の音さえ聞こえた。この戦犯は、私の厳しい目付きを避け、そこに立ったまま口をつぐんでなにも言わないが、依然として頭を上げ胸を張って、屈服なんかするものか、という態度を装っていた。

 私はしばらく考えてから、平常と違った固い口調で彼の名前を呼んだ。すると彼は、突然刺激を受けたように一礼して、日本語で「はい!」と答えた。

 私は少し声を高くして、

「あなたは、先ほどとった態度がどんな行為か分かっていますか?」と尋ねた。

 彼は私の質問に答えず、またも彼の使い古した論調で、「私は中国の治安維持を援助するために来たのに、お前らはどうして俺を勾留するのだ。帰国させるべきでないか?」と操り返した。

 私は椅子から立ち上がり、彼の面前に行き、声を高くして、「中国人民はいつあなたに治安維持の援助に来て下さいと要請しましたか?」と問い詰めた。

 彼は、私の質問に対して明確な回答ができないながらも、やはり承服せず、「俺は天皇の命令を奉じて未たのだ」と答えた。

 私はこれに反駁して、「天皇は日本の人です。あなたがたの日本の天皇が、なぜ中国に勝手なふるまいをするのですか?あなたは正に侵略戦争の中で、日本天皇の侵略政策を忠実に執行したために、戦争犯罪分子となったことを知るべきです」と言い聞かせた。

 彼は肩をすくめていたが、なお依然として悪賢く弁解し、「お前らの国家は戦後に成立した新国家だ。俺たちを勾留する権利などない。お前らは国際法に違反している」と怒鳴った。

 彼が言いだした「国際法」のこの三文字を耳にして、私は腹が立つやら、あきれるやら!日本帝国主義は、勝手気ままに国際法を踏みにじり、中国の領土上で横暴な振る舞いをし、悪の限りを尽くし、重大な罪行を犯した日本戦犯が、なんとここで国際法を持ち出してきた。全くでたらめにもほどがある。私は極力声を抑えて「あなたは国際法が分かっていますか?国際法の第何条に、一つの国家が他の一つの国家を侵略してもよい、という規定がありますか?国際法に違反しているのは、あなたたちであって、我々ではないことを知らなければなりません。新中国は人民が主人公の国家で、あなたたちを勾留し、処罰する権利があります。我々がこのようにすることも、戦後の国連の協議と国際法に合致しているのです。現在、あなたたちの前に広がっている唯一の出路は、必ず罪を認め、法に服することです。そうでなければ…」と彼に問いかけた。

 私は、彼が何もいうべきことがなくなったと見てとって、根気強く我が国の政策を説明し、彼が本当に真面目に管理に服し、教育を受け入れることが必要であることを、多くの道理をもって説得した。彼は目を閉じて、語らなかったが、依然として頭を垂れて、荒い息遣いで腰掛けていた。彼に自己の誤りを点検させるために、私は彼を独房に勾留することを即決した。

 2日後この戦犯は、再度「所長先生」に面会したいと求めて来た。私は彼の「反省書」を見たが、書き方が非常に不真面目で、くにゃくにゃした数十の文字が書いてあるだけだった。私は彼に会わずに、再度深刻に検討するように命令した。彼は、ごまかしでは関門は通り抜けることはできないと見てとって、漸く真面目に三度書き直し、自己の実際の思想に触れたので、そこで私は、彼が公開放送で誤りを反省し、公然と誤りを承認するよう、言い渡した。

 彼はこの決定を聞き、額に青筋を立て、脂汗が今にも落ちそうになった。同僚や部下の面前で「面子」を失っては大変だ、と思ったのだ。しかし、後に職員の教育を通じて、彼は漸く痛みに堪えて決心し、必ず深く検討して、心から罪を認めることを明らかにした。

 それから7日後、彼はマイクの前で、戦犯全員に向かって、自己の反省書を読み上げた。その中で彼は、自分は反動的日本軍人であって、かつて数多くの中国人を虐殺した犯罪者であり、その罪行の重大であることを認め、また今後は必ず管理教育に服し、正道に立ち返り、真人間になることを表明した。

 この態度は、彼自身の心を深く触発しただけではなく、その他の日本戦犯に刺激と教育を与えた。それ以後、彼らは皆、自己の罪悪をどのようにして認罪するか、そして今後の活路と前途について考えるようになった。


生産労働への参加

 朝鮮戦争の情勢が好転したことによって、戦犯管理所が1951年と53年の10月、2回に分かれて、撫順に戻ってから、戦犯たちは悔悟教育を深く進めた結果、情緒が以前に比べて穏やかになった。しかし長期の勾留によって、彼等の体力は衰え気味だった。東北公安局の李石生副局長は、ハルビンを視察した際、この問題を非常に重視した。彼は我々に対し、党中央と毛主席の、労働を通じて犯罪者を改造することに関する重要な指示を伝達し、併せて周総理の、戦犯に対して「一人の逃亡者も出さず、一人の死亡者も出さない」という指示を、全面的に理解すべきだと説明した。彼はまた、管理所の任務は戦犯の改造をすることであり、死なせることではない。正常でない死亡は避けねばならない。この任務を完遂するための鍵は、あらゆる方法を考えて彼らの体力を向上させることであると言った。

 上級の指示した精神に基づいて、私たちはハルビンにいたとき、当地の政府と協議して、当地の一工場のために、紙の小箱の糊付けをすることになり、そのための作業場を作った。撫順に戻ってからは、また瓦の生産工場を造り、戦犯を組織して、できる範囲での生産労働に参加させ、収入はすべて彼らの生活を改善するために当てた。

 大多数の日本戦犯は、特に年の若い、身体強健で元来中、下級クラスの者たちは、進んで生産労働に参加した。戦犯の思想改造を有利にし、彼らの労働の情熱を鼓舞激励するために、管理所はさらに彼らを組織して、労働模範者を評定選抜する活動を展開した。各生産グループの総括と評定を経て、最後に10名の「労働模範者」を決定し、彼らに一着ずつ半袖のスポーツシャツを贈って表彰した。評価労働を展開したことは、彼らに深い影響を与えた。彼らは、労働に参加することは、罪の償いと体を少し鍛えることだ、と考えていたが、労働の中で態度のよい者は、中国当局の表彰と激励を受けた。このことは、彼らが思ってもみなかったことだった。

 但しこの期間、一部の「衣服が来れば手を伸ばし」、「飯が来れば口を開ける」だけという生活を、長い間過ごしてきた元日本軍の上層階級の者は、逆に労働を嫌悪していた。彼らは既に「囚人」の身であるが、依然として「官僚」振りを捨てられなかった。そこで、様々な口実を作って病気を装い、頭が痛いとか、腰が痛いとか言っていた。

 腰痛を理由に労働から逃れようと考えた日本の偽「満州国」ハルビン高等裁判所次長の横山光彦は、突然我々管理教育者に対して、「我々に労働させるのは自発的意志なのか、それとも上級の命令なのか」と質問をして来た。

 管理員は、一時その意図がわからなかったが、労働は彼の身体にとって有益であると考え、決然として、「命令です!」と答えると、横山光彦は、これを聞いて目をぱちぱちさせ、何も言わず、お辞儀して、すぐ仕事に出て行った。

 横山光彦がなぜこの質問を出したのかを調査した。彼は法律を研究したことがある者で、仮病をつかって出労しなかった間、退屈に任せてとんでもない考えを巡らした。国際法に規定されている、戦犯は命令で使用することができるが、戦争捕虜に対してはできない、ということに思いついたのだった。

 彼は中国に来て以来、自分は戦犯なのか、それとも戦争捕虜なのか、ずっとはっきりしなかったので、労働に参加するのが命令なのか、志願方式であるのかを探って、我が方の態度をつかもうとしていたのであったことが、私たちにようやくはっきりと分かったのだった。

 我が管理員の回答が、極めてきっぱりしていたので、彼は我が方で既に明確な態度を決めているのだと見て取り、労働に参加しないわけにはいかなくなった。私は彼の所へ行き話をして、彼が罪を認め、罪を悔いることに精力を注ぐべきであって、戦犯かそれとも捕虜であるのかの問題についてのとりこになってはいけない、と教育した。教育を通して、横山光彦は、その他の戦犯と同様に、管理所が組織する各種の活動に自覚的に参加するようになった。

 戦犯の体力を強化するために、私たちは彼らを組織して、各種の体育活動を展開した。活動の場所がなかったので、私たちは比較的年の若い戦犯を連れて、管理所の中にあった小高い山をシャベルで平らにし、短時間に約1500平方メートルの運動場を作った。続いてバスケットボール・バレーボールのコートを作った。

 それから間もなく、運動会を挙行した。この運動会は非常に盛会で、関係機関の人々も招待に応じ見物に来た。

 入場式が開始されると、関勲が指揮するブラスバンドが、勇壮な「解放軍行進曲」を吹奏した。戦犯の隊伍が主席台の前を通過するときには、私たちは皆拍手を送り、彼らも皆高々と手を上げ、感動して涙を浮かべる者もいた。運動会の開催は戦犯たちに大きな教育を与え、新生への希望をもたせることが出来た。

 このすぐ後、私たちは戦犯を組織して広場に野外舞台を作り、そこで野外音楽会を挙行した。音楽会が終了した後、私はまず話をして、彼らが引続き努力して、徹底的に罪を悔い、自ら新しい人間になるよう希望した。

 私の話が通訳されると、ひとしきり拍手がわいた。楽団の吹奏が終り、拍手も止んだとき、凡山という元日本の下級軍人の一人と、もう一人来島という戦犯が興奮して発言した。この二人は、「音楽会に参加して非常に感激した。過去中国でひどい罪悪を行ったにもかかわらず、中国人民が私たちに与えているこのような待遇を考えると、本当に恥ずかしくてたまらない、今後必ず、努力して学習し、頭を垂れて罪を認め、悪を改め、実際行動をもって中国人民の恩情に報いなければならない」と表明した。

 音楽会解散後、多くの戦犯は頭を垂れ、ある者は涙を流し、ある者は声を立てて泣き、ある者はむせび泣きしていた。彼らは、反省し、自ら後悔し、自分がどのようにして古い思想から抜け出し、改めて新しい人間となるかを考えていたのだった。

 戦犯たちの健康のために、私たちはそれぞれの食事基準に基づいて、毎日食事の手はずをし、栄養に注意をはらった。更に周総理の「彼らの民族の特長、生活習慣に配慮しなければいけない」という指示に従い、彼らの好みに基づいて常に方法を考えて、日本食を作って彼らに与えた。日本の風俗習慣に基づいて、毎年の正月に、関係部門と連係して餅米を買い、戦犯たち自身の手で正月の餅を作って食べさせた。こうした配慮も、非常に大きな教育になった。

 私たちは、経常的に戦犯のために健康診断をした。あるとき中国医科大学から十余名の名医を呼んで「戦犯健康診断小組」を編成し、戦犯に対して全面的な身体検査をやった。病のある者には、医務員たちが誠意をもって治療し、念入りに看護してやった。覚えているが、ある一人の戦犯が腸カタルに罹り、大小便をズボンの中とベッドの上に漏らしてしまい、同室の日本人はみんな反対側に逃げ、ある者は彼を責めたてた。私たちの女性の医者は嫌がらずに彼を治療してやっただけでなく、更に彼の汚れをふき取ってやり、彼に格別な感動を与えた。事後彼は、管理所に、自分が過去二人の中国帰女子を強姦し殺害した事実を自白した。


罪を悔い罪を認める

 戦犯たちに罪を悔い、罪を認めさせる教育を一貫して続けてきたが、計画的に、方針を立てて進めるようになったのは、1952年の春、周総理が、「これら戦犯に対して適切な、罪を悔いる教育を行うこと」という一連の指示をだしてからである。その後、朝鮮戦争の戦局は好転して、尉官級以下の大部分の戦犯は撫順へ戻ったが、ハルビンにいる将・佐官級の戦犯と撫順へ戻った尉官以下の戦犯に、罪を悔い罪を認める教育を深く展開した。手順としては、基本的に三段階に分けられた。

1、反省学習の段階。先ず低いところから高いところへ、小さなことから大きなことへ、という段取りに基づき、点から面へ、期間を区切り、分割して戦犯を組織して『帝国主義論』『日本資本主義発達史』などの理論書を学習させ、彼らが自覚的に、基礎から反省していけるよう指導した。

2、罪行を自白する段階。戦犯の反省学習を基礎に、彼ら自身が、なぜ戦争犯罪の道に走ったか、なぜ日本天皇の犠牲になったのか、突っ込んだ討論をするよう組織した。大多数の戦犯は政策に感動して深い教育を受け、罪を認める態度を示し、大量の罪行を正直に告白するようになった。

3、尋問の段階。管理所は戦犯が正直に告白した材料を系統的に整理して、尋問の重点を定める一方、他方では将・佐官級及び尉官級以下の戦犯に引き続き教育を行い、その罪を認め、更に告発する運動が深く発展して行くよう促した。同時に将・佐官級と尉官級以下の戦犯の教育を分けて行い、警察、憲兵、特務、その他の高級軍官に対しては、専門の取り調ベグループを組織し、内と外から調査を進めて罪行の自白を促す方法をとった。尉官級以下の戦犯は次々と罪行を自白し、高級戦犯も前後して頭を下げて罪を認めるようになった。戦犯中の下級の者たちは、教育を通して、自覚的に、自己が中国侵略期間に犯した罪行を自白しただけでなく、さらに進んで、面と向かって、彼らの元上司の罪行を摘発した。

 一人の元日本軍の中尉が、あるときの会合で、彼の元上司であった元日本軍の少佐に、「私は候補生のとき、少佐の訓練を受けたことがある。当時、あなたは訓練大隊の副官で、自ら私たちを指揮し、捕虜を生きた標的として刺突する訓練をさせた。それなのに、あなたは未だに、なぜ、自ら進んで罪を認めようとしないのか?」と言った。

 少佐は睨みつけ、「何を言うんだ。全く覚えのないことだ!君なんか見覚えもない」と反問した。

 この中尉は、少佐の口を尖らせた言い振りを聞くと、顔色を変え、激高して、「あんたが未だにこんなに頑固だなんて、思ってもみなかった!あんたは、俺たちを指揮して、あんなに大勢の人を刺し殺させたではないか。それも覚えがないと言うのか、それでも、良心があるのか?」と言い、続いて彼は、中国人を刺殺した当時の日時、地点と参加者などを告白した。

 最後に、彼は涙を流しながら、「被害者の中国人民が、このように寛大無限にしてくれ、私たちが一日も早く新しい人間に生まれ変るよう、心から期待してくれている。それなのにあんたは。もしあんたが、本当に自分が教官だった責任を負わなければならないと感じるなら、自ら進んで罪を認め、中国人民に処罰を申し出て、部下である我々に、罪を悔い、罪を認める模範を示すべきである」と言った。

 少佐は、中尉の言っている一言一言が本当で、一件一件が事実であるのを聞いて、心に触れ、これ以上言い逃れや頑固な態度をとり続けていくことはできなくなった。彼は深く頭を下げ、過去を恥じて、「私は有罪です。私は候補生たちを使って、捕虜の刺殺訓練をさせただけでなく、私自ら中国人を殺害する模範を示しました」と述べたのだった。

 日本軍の下級戦犯の行動は、将・佐官級の軍曹と高級文官に対し非常に大きな推進作用をなし、彼らを深く教育した。

 一部の極悪重大な罪を犯した者は、これ以上固執して悟らず、罪を認めず、罪を悔いなければ、確かに下級の者たちが言っているように、中国政府と中国人民に対して、申し訳が立たなくなってしまうと感じた。そこで、一部の元高級軍人、文官たちも、次々に自己の罪行を告白することを表明した。この中で突出した人物は古海忠之だった。


再び私が罪悪の道に走らないよう

 古海忠之は、かつて偽「満州国」国務院総務庁次長で、日本侵略者が偽「満州国」に配置した最高の代表人物の一人である。傀儡皇帝溥儀の直接操縦者で、抑留されている日本戦犯の中で最も影響力のある人物の一人であった。

 古海忠之が認罪大会上で模範的発言をしようとしていることが伝わると、勾留されているあらゆる戦犯は驚いた。彼らの中の一部の者は、古海忠之は日本天皇の代理であり、「大和魂」の具現者で、日本の中国侵略戦争政策決定者の一人である、その彼が本当に天皇に反逆し、中国人民の面前で頭を下げ、罪を認めるようなことがあれば、それこそ日本人の面目は丸つぶれだと思った。ある者は、古海忠之は会場で「身を殺して忠誠を尽くす」という一か八かの賭けに出て、部下に格好をつけようとしているのかも知れない、と憶測していた。

 当日、戦犯は並んで席に着いた。会議が始まると、古海忠之はゆっくりとマイクの前に立ち、台上の席にいる管理所の幹部に向かって深々と一礼をしてから、向きを変えて、ステージの前にいる人たちに向かって一礼した。

 彼は原稿を取り出すと、瞬きし、発言を開始した。声をふるわせながら、「私は極めて重大な滔天(天にまであふれるはなはだ大きい)の罪行を犯しました。私は中国人民に対し真心から謝罪します。私は、ご指導によって私に反省させる機会を与えて下さり、私を人間に立ち直らせて下さった中国人民と管理所の各位の先生に、心から感謝を申し上げます」と言い、何回も礼をした。

 このとき会場は静まり返り、「過去私が、中国人民に数々の災厄を与えたことは、日本の利益と自己の祖先の名を輝かせるためであったことを認めます。私は、全く人間性を失っていた恥知らずの悪魔であり、許すことのできない戦争犯罪人であります。同時に、偽『満州国』の多くの日本の官吏は、私が制定した法令を徹底して執行し、各種の罪行を犯しました、これに対し、私は重大な責任を負わねばならないことを、今はじめて認識することができました。私は、幾千万の中国人の尊い生命を奪い、中国の幾百億ドルの財と富を略奪した重大な責任から逃れることのできない者であることも認識することができました」という古海忠之の慙愧にみちた痛恨の声だけが、会場一杯にこだました。

 続いて彼は、自分が中国で行なった一件一件の恥知らずの罪行を告白した。彼の顔は麻痺していて、声は話すにつれ、自己の罪行のひどさ、許すことのできないことを感じて、かすれていき、ついに泣き出した。

「今私は、中国政府と中国人民に対して、心から謝罪します。私は、中国で、人間として許すことのできない罪行を犯しました。中国が全部の罪行責任を追及して、正義の制裁によって私を死刑に処し、そして日本の後世代が、再び私が歩んだ罪悪の道に走らないよう、教育して下さいますことをお願いします」

 古海忠之は、罪を認め罪を悔いた後、腰を深く曲げ、両手をたれ、黙って立っていた。会場にいる日本戦犯は、この情景を見て、みんな頭を垂れ、懺悔の念に駆られていた。

 古海忠之の罪を認め罪を悔いる姿勢は、戦犯の中の元の職位が比較的高かった者の心を大きく動かした。「死んでも悔いはしない」「身を殺して忠誠を期す」という精神をいだいている者たちも、次々と進んで自己の罪行を告白し、甘んじて中国政府の懲罰を受けることを願い出た。このようにして、戦犯の間に急速に、罪を認め、罪を悔いる高まりが盛り上がってきた。

 最高人民検察院の東北検察団が行った精密な調査は、戦犯たちの罪行が事実であることと確認し、戦犯を裁判するため準備を整えた。

社会参観

 1956年2月、私たちは周総理の指示に基づき、戦犯を3団に分けて編成し、教育のための社会見学を行った。日本戦犯は、このニュースを知って、驚いたり、喜んだりした。驚いたというのは、中国政府が管理所で極めて良い人道主義の教育を与えただけでなく、彼らを社会に出して、中国人に接触させ、自分の目で社会の現実を見させるという、心遣いについてであった。

 ソ連が彼らを中国に移管してから、既に5、6年経った。この社会見学に出る前、彼らは新聞や刊行物、放送などで、新中国が成し遂げた偉大な成果を理解してきたが、事実は一体どうだろうか、と大多数の人は半信半疑で、中には信じない者もいた。

 今、外へ行って、自分の目で視察することができる機会が来たのである。しかし、外の社会に行かなければならないと思うと、一部の戦犯には、またいくらかの心配があった。彼らは過去中国において、中国人民に限りない災厄を与え、中国人民の心の中に怒りと報復の種を蒔いていたので、中国の一般大衆が、彼らが日本戦犯で、凶悪な死刑を執行した首切り人だと知った時、軽い者でも面前で叱責や辱めを受けるだろうし、重い者は自己の血債を求められるだろう、と心配で落ち着いていられなかった。

 しかし、事実が彼らを教育した。心配は余計だった。彼らに社会見学をさせたのは、中国政府の一つの大胆な決定であり、これは中国にも外国の歴史上にも先例がないことであった。

 撫順の西にある露天掘りの炭鉱で、戦犯たちは、託児所の方素栄所長が、平頂山大量虐殺事件(注4)時の生き残りであると聞くと、全員揃って、彼女に面会してその面前で謝罪したい、と求めた。方素栄は、日本侵略者の暴行を話すとき、一言一言血を吐くような声で語った。

 戦犯たちは、最初精神を集中し静粛に聞いていたが、目を見開き口もきけず、後悔にかられて身の置きどころに苦しんでいた。ある戦犯は、感情を抑え切れず、彼女の面前に跪き、泣き伏して声も出なかった。続いて何人かが跪いた。帰り道、一部の者はすすり泣きが止まらなかった。管理所へ戻ってからも、依然として泣き声が絶えず、みんな食事をする気にもならなかった。

 偽「満州国」警察署長の江見俊男は、後悔して、「私は過去平頂山事件に参加したことを認めようとしませんでしたが、今、無条件に自己の罪行を認めます。私は面目なくてこのまま生きていけません。ただちに身を八ツ裂きの刑を受けるのは当然です」

 と言い、元日本軍の中将で師団長だった佐々真之助は、涙を浮かべながら、「方素栄女史の話を聞き、私は心から中国人民に対して罪行を清算します。今、私を銃殺して下さるなら、甘んじて従います。そして日本の後代に私の教訓を語っていただき、彼らに私が歩んだ罪悪の道を再び歩ませないよう希望します」と言った。

 戦犯たちは、鞍山鉄鋼所の巨大な高炉群が、火のような溶鉱を吐き出しているのを見た。工場の責任者は、彼らに向かって、解放後満身傷だらけだった工場を僅か3年間で修復し鋼の生産量は、偽「満州国」と国民党時代の31年分の総計に等しい、と説明した。かつて偽「満州国」時代、自ら鉄鋼生産計画を制定したことのある古海忠之は、自分の目と耳が信じられなかった。

 その当時、鞍山の「昭和製鋼所」は、かつて偽「満州国」の「誇り」と自負していたもので、彼は偽「満州国」皇帝と日本関東軍司令部を代表して、自らここを「視察」したことがある。しかし今「昭和製鋼所」の跡形さえ何一つ見当たらない。彼は参観しながら、回りの人とともに、その発展ぶりに「驚いた」「驚いた!」と賞賛していた。

 数百名の日本戦犯は、管理所職員に引率されて、撫順と鞍山へ参観に行った。前後して、瀋陽、長春、ハルビン、天津、北京、南京、上海、杭州、武漢などを参観し、その行程はたいへんなキロ数であり、一か月近くの日数を要した。彼らは強い熱意をもって、中国の美しい大地、麗しい山河を存分に見て回り、非常に大きな興味をいだいて、工場、農村、学校、商店などを参観した。

 多くの一般大衆の家庭を訪問し、中国の数多くの職業の人や普通の民衆と語り合い、普通の市民の生活、仕事ぶりや学習の状況を直接目の当たりにした。彼らは至る所へ行って、何でも見て、時を移さず尋ねていた。ある者は、人が注意しない場所に行ってこっそり覗き、甚だしきは、人々に対して刺激を与えるような幾つかの問題までも提出した。しかし事実を目の前にして、彼らはついに、中国は確実に変わった、活気に満ちあふれている新国家になった、と心から真面目に認めるようになった。

 戦犯たちは、行った先々で、彼らが犯した極悪な犯罪現場を目の当たりにすると、穴があったら入りたいような思いに駆られた。南京では、国内外を驚き揺さぶった南京大虐殺(注5)を思い、ハルビンでは、悪名高い日本帝国主義の細菌部隊−七三一部隊(注6)を思い出した。過去の地を再度見学したことによって、彼らは涙が尽きず、内心忸怩たるものがあった。

 認罪を拒み続け、挑戦的に監房を乱してきた鹿毛繁太は、見学から帰った後、深く感散して、

「この果しなく広い中国の土地で、殺害された中国愛国志士の鮮血が染み透っていない所は、一寸の土地もなく、どこにも、惨殺された中国人民の白骨が埋葬されていない土地はありませんでした。そのことは、私に過去の罪行の重大性を一層認識させ、悪魔のような帝国主義に対して無限の怒りと僧しみをもたせてくれました。私は自覚的に帝国主義思想をきれいに洗い去る努力を続けて、改めて新しい人間になります」と決意を述べた。


正義の裁判の開始

 1952年8月、アメリカを頭とする「国連軍」が、中・朝の軍隊に散々に打ち負かされた。多くの日本戦犯が罪を認め罪を悔い始めている頃、最高人民検察院は馬光世、趙維之など9名の同志で組織した日本籍戦犯重点調査小組を派遣し、以後の審査の準備をするため、戦犯の罪行調査を開始した。

 54年1月、私は撫順戦犯管理所所長の身分で、北京に行き、最高人民検察院に総括報告を行った。高克林と潭政文の両副検察長から、日本戦犯と偽「満州国」戦犯に対して審理を行うという中央の決定を伝達された。3月、最高人民検察院から派遣された東北調査団が撫順に来てから、日本戦犯に対する内外両面からの調査業務が、全面的に開始された。

 56年4月25日、第一期全国人民代表大会常務委員会第34次会議で「目下勾留中の、日本の中国侵略戦争における戦争犯罪分子の処理の決定について」が通過した。当日の晩、管理所は命によって大会を開き、戦犯全員にこの重大な決定を伝達した。

 この決定が公布されるや、直ちに戦犯の間に、強烈な反響が引き起こった。多くの者は、「主要でないか、あるいは罪を悔いる態度が比較的良い、日本の戦争犯罪分子に対しては、寛大に処理し、起訴を免除することができる」というこの決定について、声を上げて泣き、涙を流していた。一部の罪行の重い者は、「決定」の中の「罪行の重い日本戦争犯罪分子に対しては、各犯罪分子が犯した罪行と拘留期間中の態度に照らし、区別して寛大に処理する」という語句について、特に重視した。

 戦犯たちの思想状況には、次の何種類かがあった。

一、一部の戦犯は、すでに罪を悔いていて、死んでも罪は拭い切れるものではなく、中国政府のどのような処分も重すぎるものではない。従って、甘んじて裁判を受け入れると認識していた。三輪敬一、小山一郎など30余名の戦犯は、口頭または書面で、自分を死刑に処してくれるように求めていた。

二、大部分の者は、もともと職務が比較的低く、認罪も割合に良い戦犯で、自分は軽い処罰が受けられるだろうと思っていた。しかし、中国当局は一体どのように彼らを処分するだろうか考えが及ばず、楽観の中にも焦りを感じていた。

三、罪悪の重い者、職務の高い軍隊・警察の者たちは、自己の運命について異常に心配していた。彼らも、戦犯管理所のこの生活に満足を感じているけれど、しかし法廷で裁判に上がり、罪の程度に基づき刑が下されると、死刑かあるいは長期の懲役に処せられることは免れない。心配と不安が彼らの気持ちの上にすっぽりと覆い被さっていて、絶望して自殺しようとする考えさえ起きていた。元憲兵大佐の平木武、警佐の小笠原兼治、特務満保健三らは、シーツ、タオルなどを細長く裂いて紐にし、首にかけて自殺を企てたが、幸い、管理所の職員に発見されて死を免れた。

 同じ監房に起居していた、偽「満州国」憲兵少佐の金子克己、歩兵少佐の遠間公作、保安局特務科長島村三郎の三人が集団自殺を企てたこともあった。所の職員が発見し、適切な処置をして彼らの生命を救ったが島村三郎はこのことについて、

 「私たちは自己の罪行の重大さを認めましたが、しかし、いくら正直に白状し、罪を認めたとしても、未だ不足ですので、私たちは自殺をして罪の償いをしようと考えたからです」と打ち明けた。

 戦犯たちが裁判を待っている間に現れて来た問題を検討して、私たちは適時それを有利に導き、彼らに対し、我が党と政府の一貫した方針を宣伝し、彼らが罪を認め、罪を悔い、日本帝国主義侵略の罪行を告白しさえすれば、寛大な処理を受けることができるということを教育した。そして中国政府の言うことには、これまで一貫して嘘がないことを説明した。

 裁判は、厳格に、法律に基づく順序で進められた。開廷の9日前、最高人民検察院は、先ず鈴木啓久など8名の戦犯に起訴状を送り、あわせて弁護する弁護士を指定した。その中の上坂勝など4名の戦犯は、自己の罪行は世人周知であることとして、弁護士の弁護は必要でないことを明らかにした。

 1956年6月9日午前8時30分、世を挙げて注目している日本の中国侵略戦争中での戦争犯罪分子の公の裁判が、瀋陽に設立した特別軍事法廷で開廷した。日本侵略者に蹂躙された中国の20余りの省市の代表、各民主党派と各人民団体の代表など合計1400余名が列席し、傍聴した。

 この日は、永遠に記憶に値する日となった。これは、日本の侵略者に対する中国政府と中国人民の裁判であり、真理と正義の邪悪に対する裁判であり、ファシストの野獣性に対する人類の良識の裁判である。

 場内の傍聴人の一人は、被害にあった自分の親族をひそかに慰め、感動して涙を流している人もいた。私も厳粛かつ喜びの眼差しで、これら往時の強盗の当然の末路を見ていた。歴史の発展は、まさに毛沢東主席が、「人民は必ず勝利し、侵略者は必ず敗北する!火を弄ぶ者は必ず自ら焼け死ぬであろう!」と論断した、その通りであった。

 裁判は順調に進められた。法廷上で裁判を受ける戦犯の大部分は、自己の中国侵略戦争中の罪行について自白するのを拒まず、ある者は泣き崩れて声も失い、懺悔に駆られていた。

 特別軍事法廷は、彼らの罪行と認罪の態度に基づいて判決を下した。元日本軍中将で師団長の藤田茂、鈴木啓久、少将で旅団長の上坂勝、偽「満州国」国務院総務庁次長古海忠之など、撫順に勾留中の36名の戦犯に対しては、それぞれ20年以下の懲役に処した。これ以前に、最高人民検察院は、6月21日に、335名(内撫順295名)の日本戦犯に対し、起訴を免除し、即時釈放を宣告した。

 7月15日、第2回目の328名(内撫順296名)の戦犯に対して、起訴免除、即時釈放を宣告、8月21日には第3回目の354名(内撫順306名)の戦犯に対して、起訴免除、即時釈放することを宣言した。

 次々と続く裁判と決定は、勾留中の日本戦犯に大きな激励を与えた、彼らは中国政府の判決がこのように寛大で、一人として死刑に処せられないばかりか無期懲役者もなく、最長の刑期でもただ20年で、そのうえ捕虜になった日から通算されるということは、本当に信じられなかった。

 彼らのなかの少なくない人は、興奮のあまり、声を上げて泣き出してしまった。喜びは感激に変わり、中国政府と中国人民の彼らに対する寛容と人道主義の待遇に感激し、中国共産党の英明な政策が、彼らを「鬼」から人間に変えてくれたことに感激した。

お別れの会

 戦犯管理所が彼らの帰国のために歓送会を挙行した会場では、笑い声と泣き声が入り交じっていた。彼らは言えども尽きない感激の話だけでなく、少なくない人は、なお気持ちが納まらず「中国万歳!」「中国共産党万歳!」「日中友好万歳!」とスローガンを叫び、同時に『東京−北京』『全世界の人民の心は一つ』などの歌曲を高らかに歌った。

 私たち職員も名残惜しい思いで、抑留されていた日本人と別れを告げた。私たち双方はかつては仇どうしだったのに、幾年かの交際を通じて、双方の思想感情に非常に大きな変化が発生するなどとは、誰もが思いもしなかった。敵対感情は消え去り、友情と信頼が日増しに高まったのだ。心暖かい思いやり、情熱のこもった励ましは、一人一人の心の奥に溢れていた。

 釈放されたこれらの日本人が中国を離れるとき、いろいろの形で中国政府と中国人民に対して「言葉で表わすことの出来ない感謝と感激」の気持ちを表したのを覚えている。第2回目に寛大に赦免された日本の戦犯たちが、中国を離れる前夜、戦犯管理所へ熱情溢れる一通の感謝の手紙を差し出した。この手紙は、彼らが過去中国にいたあの頃の面目ない歴史と、管理所にいた6年間の平凡でなかった歴史とを回顧し、帰国後の心積もりと決意とを表わしたものだった。手紙には、

「今私たちはまもなく故郷に帰り、幼い頃から住み慣れたあの美しい土地で、家族と一緒に団欒の日々を過ごそうとしています。しかし、私たちに殺害された中国の人たちは、永遠にこの豊かな土地に戻ってこられないし、皆様といっしょに再び語ったり、笑い合うこともできなくなってしまったのです。このことに思いをいたせば、私たちの心の中は、申し訳ない気持ちで一杯で、身のおきどころがないほどの恥ずかしさです」と書かれてあった。手紙はさらに、中国人民の山のごとき恩に感謝し、「中国人民こそが、私たちの再生の恩人であり、命の恩人であります。私たちは、皆様方から預いた二つの宝−新しい命と真理を、後半生の中で人民のため、社会と平和のために捧げて奮闘いたします」と書かれていた。

(そん めいさい 撫順戦犯管理所初代所長)

 【解説】


(注1)「満州国」

1931年9月18日の「満州事変」直後、関東軍の計画に従い、32年3月に成立した傀儡国家。旧清朝の宣統廃帝・溥儀を執政に迎え、さらに1934年に帝政をしいた。31年に日清議定書を締結し、日本軍の永久駐屯、関東軍司令官の監督、日本人官吏の政府機関の要職就任を規定した。それは、日本の対中ソ作戦の基地、軍需工場、恐慌のはけ口の役目をはたす植民地にほかならなかった。

皇帝・溥儀は、関東軍司令官と総務庁長官によってその行動を支配された存在であったが、それと同時に、自らの帝政復活のために日本軍に協力したのであった。

(注2)朝鮮戦争

1950年3月以来頻発する韓国軍の38度線での攻撃に脅威を感じた朝鮮民主主義人民共和国(北朝群)軍は、1950年6月25日の未明総反攻に出て韓国内に追撃した。これが、朝鮮戦争の発端である。当初、北朝鮮軍が圧倒的優位にたち、韓国の軍隊を半島南端まで追いつめたが、50年9月、アメリカ軍が国連軍の旗のもとに仁川に上陸すると形勢が逆転した。アメリカ軍は、10月には、38度線を突破して北上し、やがて中国国境まで迫った。

10月25日中国は、「抗米援朝」の人民義勇軍を参戦させ、朝鮮戦争は第三次世界大戦への危険を含みながら、1953年7月27日の休戦まで三年あまり、38度線周辺で一進一退を続けた。

この戦争は、狭い地域で行われたが、これにつぎこまれた両軍の兵力は国連軍90万、航空機1800機、中、朝軍100万、航空機2500機と大規模であった。また三年間の損害推定は、中朝軍の共同発表によれば、アメリカ軍の直接戦費200億ドル、殺傷と捕虜39万7000、韓国軍の殺傷と捕虜66万7000、撃沈破されたアメリカ艦艇257隻、追撃破されたアメリカ機1万2200機となっている。

なお、この間国連軍は北朝鮮に対して無差別爆撃を行い、52年2月には、細菌戦まで行ったといわれ、国際的問題となった。

(注3)松川事件

1949年夏、下山・三鷹・松川と国鉄をめぐる三つの怪事件が相次いだ。7月4日、国鉄当局は3万7000人の人員整理を通告、組合が反対闘争に入ろうとする矢先、下山国鉄総裁が、常磐線でれき死体となって発見された。7月15日夜、中央線三鷹駅車庫から無人電車が暴走し、人家を粉砕し、死者6名、怪我人を出した。「不安を煽る共産党」という吉田首相の談話があり、多くの組合員が逮捕され10名(うち共産党員9名)が起訴された。

次に起こったのが松川事件である。8月17日午前3時9分、東北本線金谷川と松川の間で、福島からきた上り列車が脱線して、機関車は転覆し、機関士と助手三名が即死した。増田官房長官は、共産党の犯行であるかのような談話を発表し、労組員でもない、赤間勝美(当時19歳)の自白(後にひるがえす)によって、国鉄から9名、東芝労組から10名等計20名が逮捕・起訴された。翌年1月6日、仙台地裁は赤間自白は信頼できるとして、死刑5名、無期5名などを宣告した。

被告たちはただちに控訴して、無実を訴えつづけ、その文集などの出版を通して、日本各地に無罪釈放運動がひろまった。中でも広津和郎ら文学者は、4000枚にも上る真相究明の論文を発表し、ついに1951年8月の仙台高裁で全員無罪を勝ち取ることが出来た。

そして五三年最高裁での再上告審において、無罪確定を勝ちとったのである。

(注4)平頂山虐殺事件

 関東軍の謀略で起した満州事変は、一九三一(昭和六)年九月であったが、このとき以降、中国の愛国者たちは至る所で武器をとり、抗日義勇軍を組織し、総反攻に立ち上がっていた。三二年八月、撫順に駐屯する日本軍警備隊がその襲撃を受けて被害を被った。調べてみると、この襲撃部隊は前日郊外の平項山鎮という部落に泊まって、襲撃の準備をしたということが分かった。守備隊長は、「部落全員が匪賊(実際は抗日軍)に通じている」として、憲兵隊と打ち合せ、部落民全員の虐殺計画を立てた。

一九三二(昭和七)年八月十六日、日本の警備隊、憲兵、警察は、平項山鎮を包囲し、部落民全員約三千人を「写真を撮るから集まれ」と広場に駆りだし、重機関銃を発射して皆殺しにした。部落には火をつけて無人部落にしてしまった。

これが平頂山事件である。現在、平頂山には当時の遺骨が掘り起されて、「平頂山殉難遺骨館」となり、侵略戦争の残虐な行為を後世に伝える教育の場として保存されている。

 

(注5)南京大虐殺

日中戦争の起こった一九三七(昭和十二)年、南京を占領した日本軍が、戦闘員・非戦闘員を問わず大虐殺を行い、「日本軍の乱行」として世界に伝えられた。この事件は、東京裁判を通じて初めて一般の日本人に知らされたが、そこではつぎのような暴状が認定されている。南京占領後の二、三日間に一万二千人以上の非戦闘員が殺害され、占領後三十日の間に約二万件の強姦事件と五万人以上の捕虜の殺害が行われた。日本軍の暴行が激しかった最初の六週間に、南京とその周辺で殺害された一般人と捕虜の総数は、二十万人以上と見られている。

この大虐殺は決して偶発的な事件ではなく、現地の物資調達(略奪)と、捕虜は殺せ、を常道としていた当時の日本軍隊のあり方と戦争の仕方そのものに、深く関係していたことである。

 

(注6)第七三一部隊

一九三八(昭和十三)年、日本軍は、ハルビン郊外に平房特別軍事地域を設定し、そこに四〇(昭和十五)年に細菌戦、毒ガス戦の研究と実行を目前とする石井部隊(長・軍医中将石井四郎)の新本部を完成させ、それを「第七三一部隊」と呼称した。

この部隊は、一九二五年の「ジュネーブ協定」で禁止されている生物兵器・化学兵器の研究と製造、さらにはそれらを人体で試すおそるべき実験を繰り返し、この非人道的な行為の犠牲者となった中国人、ロシア人の数は数千人にのぼった。これらの人々は、細菌実験の材料、あるいは毒ガス、凍傷、飢餓、高熱などの実験材料にされたばかりか、生きながらの解剖の犠牲者にもされたのである。

この第七三一部隊は、東京の陸軍軍医学校防疫給水部の指導下にあり、京大医学部・満州医科大学などどの強い連携のもとに運営されていた。敗戦直後、石井らはこの施設を爆破し、監禁中の人々全員を虐殺して、日本へ逃亡した。彼らは米軍ヘの資料提供と引き換えに、戦争犯罪の責任を免れ、以後口を固く閉ざしてその真相を闇に葬ろうとしている。

現在、ハルビン市平房には、「侵華日軍七三一部隊罪証陳列館」があり、七三一部隊の非人道的な戦争罪悪の実像が暴き出されている。なお、日本の民主団体は、九三年からこの陳列館の資料と連係し主要都市で「第七三一部隊展」を開催している。


表紙 > バックナンバー > 第2号 > 撫順戦犯管理所長を勤めて

 

●このサイトに収録されている文章・画像・音声などの著作権はすべて季刊『中帰連』発行所に属します。
 無断転載を禁じます。
●ご意見・ご感想は
tyuukiren(アットマーク)yahoo.co.jpまでお寄せください。
●迷惑メールを防ぐため、上記「(アットマーク)」部分を「@」に変えて送信してください。