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Thousands of people have come together to demand justice for Alan Turing and recognition of the appalling way he was treated. While Turing was dealt with under the law of the time and we can’t put the clock back, his treatment was of course utterly unfair and I am pleased to have the chance to say how deeply sorry I and we all are for what happened to him … So on behalf of the British government, and all those who live freely thanks to Alan’s work I am very proud to say: we’re sorry, you deserved so much better.
当時の首相ゴードン・ブラウンが、社会によって自殺に追い込まれたアラン・チューリングに政府として謝罪したのは、2009年のことだった。
天才的な数学・論理学者でコンピュータがまだ存在しない時代の計算機科学者だったチューリングが
社会的な集団サディズムの標的になって、恥辱と失意のなかで自殺した1954年から数えて55年後の、途方もなくマヌケで残忍な社会を育んでしまった連合王国からチューリングの魂に対してなされた、心からの謝意の表明です。
理研スキャンダルが起きた頃の自分のtwitterのタイムラインを眺めてみると、「みしょどん」と「もじん」さんが発言しているだけで、他の人はなにも言っていない。
ときどき誰かが、やっぱりこんな集団で非難の合唱をするのはヘンなのではないか、と遠慮がちに述べたりしているだけで、発言がない。
みしょどんは物理研究者で、もじんどんは天文研究者なので、あたりまえというか、自分が否でも応でも所属している科学コミュニティの問題なので、発言しないのは無責任というか、やや無関心すぎて、発言しないほうがヘンである。
他のひとびとは、いいたいことがたくさんあったのだとおもうが、なんとなく言わないようにしていた。
言わないようにしていた、と本人の気持ちにはいりこんで述べるのはなぜかというと、emailのようなものではいくつか来て、ここで具体的な内容は書かないが、ひどいものだ、とか理研の組織としての以前からの評判、というようなものにまで踏み込んで書いてあった。
人文系アカデミアの世界の人で言えば、学問人同士のことなので、ふつうの人よりは遙かに内情もしっているが、ここで科学コミュニティの問題について口をはさむのはカッコワルイということなのでしょう。
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笹井芳樹が自殺に追い込まれたあと、笹井芳樹さんに限らず、誰かの自殺の報道を目にしたときの、あのなんともいわれないやりきれなさ、ぬぐいがたい惨めさ、自分の魂が凍り付いていくような気持がこみあげてきて、気持の処理に困った。
teitterで、「なんという気の毒さだろう、どれほど孤独で、辛かったか」という意味のことを書いたら、「それは気持の持っていきかたが間違っている。もっと笹井芳樹を殺した社会の構造や理研をめぐる腐敗に目を向けなければダメだ」という親切な忠告がいくつか来た。
前に、やはり自殺者がでたときも、「そんなお嬢ちゃんみたいなこと言ってバカなのではないかwww」という反応が、たくさん来ていたので、予想していたことで、反応自体はどうでもいいと思ってほうっておいた。
社会的正義や政治について深刻な顔で語るのが大好きなひとびとと、世界への関心のありかたが根本的に異なる、としか言いようがない。
日本では集団的サディストが個人をつるしあげて自殺に追い込むのは、ありふれたことなんだから、そっちは仕方がない、という人も来た。
応えようがないので、応えずに、
「涙がでる」
と書いたら、
また異なる人から「年をとると涙腺がゆるくなりますねw」と言う反応がかえってきた。
ついに笹井芳樹を自殺させる事に成功して凱歌をあげる集団的サディストたちにあまりに腹が立ったので、
感心したことではないが、
「いくら何でも気の毒である。
きみたち、みんな人殺しじゃないか。
呪われればいい。」
と書いたら、
みなというのは日本人全体という意味ですか?「感情が落ち着いたら」答えてください。
という相手を傷つける皮肉に長けた人間らしいコメントが見知らぬ人から戻ってきた。
誰ももう自殺してしまった研究者個人の心には興味がないようだった。
死ぬほどのことではなかったのに、というつぶやきがあちこちでもれていた。
研究者になるような人間は、やっぱり弱い人間がおおいんだな。
「これで小保方も追い詰められたな。
笹井芳樹とは違って、女は強いもんだ」という声があちこちで木霊していた。
3
自殺した人間の個人としての心情が想像力の橋をつたって自分の魂にはいりこんでこない人間が「社会の構造」を考えることに、どんな意味があるか、ぼくには判らない。
ぼくには判らないが、最近、日本の社会はどうやら以前に考えていたよりも遙かに理解を越える、想像を絶した社会なのが理解されてきたので、なんだか、どうでもいいような気もする。
ガメ、どうした?
また日本語の世界で嫌なものを見たのか?とモニがいうので、簡単に説明したら、
まるで子供をなぐさめるように腕を肩にまわして、まだ説明しようとするぼくの唇を指で押さえて「シィィー」という。
まるまる二分くらいも、そうして抱擁を続けてから、そろそろ日本語の時間、へらしたほうがいいかも知れないぞ、と述べて、部屋から去って行った。
日本語をつたって日本社会が自分に影響するということがありうるだろうか?
としばらく考えたが、モニが一緒に遊ぼう、というので、ラウンジで、暖炉に火をいれて、ふたりで冷凍庫からとりだしたウォッカやブランデーで、朝の2時くらいまで遊んでいた。
前にも述べたことがあるが、異なる言語は異なる人格、あるいは異なる人格と錯覚するような自分をもたらす。
フランス語は、音楽のようで、端正で、安物の感情をはねつける力をもっていて、なぜモニが、その晩に、ひとことも英語を口にしないか判るような気がした。
ぐっすり眠って、起きてみると、日課の日本語インターネットを開いて日本語を見ても、ずいぶん遠くの国の言葉に感じられた。
結局、日本は遠い国で、日本語は自分にとっては、外国語にしかすぎないんだな、と、あらためて考えました。