原爆:投下の日「煙幕」…八幡製鉄所の元従業員が証言

毎日新聞 2014年07月26日 07時30分(最終更新 07月26日 17時51分)

煙幕装置の配置を図示しながら証言する宮代暁さん=大分市で2014年5月、比嘉洋撮影
煙幕装置の配置を図示しながら証言する宮代暁さん=大分市で2014年5月、比嘉洋撮影

 下関地方気象台(山口県)の記録では9日午前10時は晴れ。関門海峡を隔てた小倉方面は視界がわずかにかすむ「弱い煙霧」だった。北九州市史は、原爆投下を妨げた「もやと煙」について「雲だけではなく、前日(8日朝)の八幡空襲で生じた煙が風向きによって小倉方面を覆った」とするが、根拠は示していない。「空襲後の夕立で翌日まで煙は残っていなかった」との市民の証言もある。

 八幡空襲を調査する藤澤秀雄・長崎大名誉教授(80)は「煙幕が空襲の煙や灰、前日の夕立による水蒸気と混ざり、視界を防いだ可能性はある。広島が攻撃された情報を独自に入手した従業員たちが、警戒を強めていたという事実も注目に値する」と話している。

 ◇69年の苦悩告白

 鉄都・八幡で展開された「煙幕作戦」。小倉への原爆投下見送りにどの程度影響したかは明らかでないが、第2目標の長崎では約15万人が被爆直後に死傷した。作戦に携わった人たちは、語ることもできず、心に重荷を抱えて戦後69年間を生きてきた。

 「煙幕で長崎の人たちに迷惑をかけることになったんじゃないかという気持ちが、ずっとあった」。装置に火を付けた宮代暁さんは、つらそうな表情で話した。長女の工藤由美子さん(56)は「私たちには幼いころから煙幕について聞かせてくれたが、長崎の犠牲者を考えると公言できなかったのでは」と父の胸中を思いやる。

 製鉄所内の発電施設で働いていた福岡県福津市の田坂忠雄さん(92)は、北門付近から構内の線路沿いに並ぶドラム缶の煙幕装置を目撃していた。「日にちは覚えていないが、煙を見た記憶もある」と振り返る。

 学徒動員で構内の工場に通っていた北九州市八幡西区の山元勉さん(85)も「ドラム缶が置かれ、(燃やすための)コールタールが入っていた」と存在を記憶していた。「敵機接近を知らせる警報が鳴ると火をつける」と聞かされていたという。

 もっとも、煙幕作戦自体は「新型爆弾」投下に備え急きょ立案されたわけではなさそうだ。旧日本軍による製鉄所の防空演習文書には、空襲の際に発煙筒などを使い煙幕を張る計画が記されている。

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