長崎・被爆者2世:母が残した無念の詩 ノート大切に保管

毎日新聞 2014年08月04日 23時43分(最終更新 08月05日 03時39分)

祖父母宅があった場所の近くで、母の詩を読む小杉さん=長崎市で、樋口岳大撮影
祖父母宅があった場所の近くで、母の詩を読む小杉さん=長崎市で、樋口岳大撮影
小杉さんの母八重子さん(前列左)と祖父本田重次郎さん(同中央)、祖母のフクさん(同右)。後列は八重子さんのきょうだいたち=小杉さん提供
小杉さんの母八重子さん(前列左)と祖父本田重次郎さん(同中央)、祖母のフクさん(同右)。後列は八重子さんのきょうだいたち=小杉さん提供

 ◇「炎天に汗出でずして骨拾ふ」被爆死の祖父母遺骨拾う場面

 長崎市の被爆2世、小杉実知子さん(66)は、1993年に85歳で亡くなった母八重子さんが残したノートを大切に保管している。ノートには、母が45年の被爆から間もなく記した自作の詩があった。<炎天に汗出でずして骨拾ふ>。爆心地から約200メートルの旧駒場町(現長崎市松山町)で被爆死した祖父母の遺骨を拾う場面だ。小杉さんは7月26日、祖父母の最期の地に初めて母のノートを持参し、ベンチに腰掛けて詩を読んだ。

 祖父の本田重次郎さんと祖母のフクさんは、爆心地から約3・5キロ離れた長崎市江戸町で暮らし、船舶などで使うカーバイドの製造販売業を営んでいた。だが、原爆投下時は、空襲を受けた際に延焼を防ぐために家屋を壊す建物疎開のため旧駒場町へ転居させられていた。

 八重子さんも一緒に暮らしていたが、8月9日の原爆投下当日は用事で佐世保に行っていたため、原爆の難を逃れた。八重子さんは17日に長崎へ戻って、自ら両親の遺骨を拾い、入市被爆した。

 <原子爆 唯(ただ)灰色茶色の世界なり 白々と頭の骨の四ツ五ツ>

 八重子さんは焼け野原で見た光景をそう表現した。

 <ふた親の骨をたずねてたそがるる こえかく人もなく只(ただ)一人なり 父らしき骨見あたりて持ち来る お茶を供へて瓦に打ち伏す 半焼の母見出せどなすすべを知らで 日暮を立ち退りがたく とぼとぼと骨を抱きてあるくなり リュックの重み肩に喰(く)い入る>

 ノートにしたためられた詩に、たった一人で両親の遺骨を拾った八重子さんの悲痛と無念がにじむ。

 小杉さんは小学校のころから折々に、八重子さんから原爆の話を聞いた。「疎開せんならよかったのに」と悔やんでいたという。八重子さんの死後、遺品から出てきたノートを小杉さんは大切に保管し、何度も母の詩を読み返した。

 強制疎開先で被爆死した祖父母の家があった場所は、米軍に接収されて飛行場となり、現在、周辺は市営陸上競技場や市民総合プールとなっている。祖父母が生きた痕跡は何も目にすることができないが、小杉さんはベンチに座り、会うこともできなかった祖父母に語りかけるように母の詩を読んだ。

 「ここで詩を読むと感慨深いものがある。核と地球は共存できない。原爆のことを後世に語り継いでいきたい」と語った。【樋口岳大】

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