原爆句:家族奪われた祖父の悲しみ…56歳の孫語り継ぐ
毎日新聞 2014年08月05日 23時37分(最終更新 08月06日 00時39分)
原爆句で知られる俳人・松尾あつゆきさん(本名・敦之、1904〜83年)の人生や作品を知ってもらおうと、松尾さんの孫で被爆2世の平田周(しゅう)さん(56)=長崎県長与町=が7月、公の場で初めて家族について語った。
松尾さんの家は長崎市城山町にあり、妻と子ども3人は原爆で爆死し、松尾さんと長女で平田さんの母、みち子さん(故人)が生き延びた。
<すべなし地に置けば子にむらがる蠅(はえ)>
<身を寄せにゆくふたりなら皿も二まい>
松尾さんは戦後、自由律俳句で原爆の恐ろしさや家族を奪われた悲しみを言葉にした。
一方、平田さんにとって、英語教員をしていた松尾さんは、毎週日曜に英語と数学を教えてくれるが、厳格な祖父だった。「口数は少なく、無言の中に厳しさがあった」。被爆体験を聞くことはおろか、私的な会話もほとんどなかった。
そうした中で目に焼き付いているのが、松尾さんや母が欠かさず続けた毎月1回の墓参りでの姿だ。松尾さんは墓のそばで、メモ帳を片手に空を眺めていたという。
数年前、遺品となった日記を初めて読み、祖父の思いに触れた。原爆投下直後から亡くなるまでつづった30冊余の中には、墓参りの時の句もあり、被爆死した妻や子どもたち、そして、彼らの血を受け継いで今を生きる孫たちへの思いを詠んでいた。
<つまよ またきたよ おまえのすきな こでまりだよ>
<子の墓、吾子(あこ)に似た子が蝉(せみ)取っている>
生前、感情をあまり表に出さない祖父だったが「心の中で可愛がってくれていた」とようやく気付いた。祖父のことを伝えたい、という思いが芽生えた。振り返れば、母が「わが子よ孫よこの悲しみを語りつげ」と題した文章を被爆体験集に残して亡くなったのは55歳のとき。その年齢を超え、自身も初孫に恵まれた。
7月、平田さんは被爆者の子や孫に被爆体験の継承を考えてもらおうと長崎市が開いたシンポジウムに発言者として参加した。日記のことや、原爆で家族を失った祖父の思いを自分なりに語った。
「祖父や母が生き残って、命をつないでくれたから自分がいる。家族として、語らなければ」。今、そう考えている。【小畑英介】