「企業のアニメでは(深い)人間描写やいじめの問題が表現できない。これからは自主制作しかない」
「管理社会で欲望を表現することが疎んじられて、苦しんでいる人がたくさんいる。だまされたり、暴力的に虐げられたりしている。映画作りは内面の解放でもある」(wikipedia より)
原田浩 。1962年生まれで、庵野秀明や幾原邦彦、新房昭之などと近い世代に当たる。商業アニメーションの世界では80年代には「ドラえもん」や「めぞん一刻」などの原画や動画を担当し、00ー10年代には「星のカービィ」や「這い寄れ!ニャル子さん」などの絵コンテを務めるアニメーター・演出家の一人だ。
そんな商業アニメに関わる一方で裏の顔がある。冒頭の発言にあるように早い段階で商業アニメの世界が出来ることの限界や規制の中で表現しきれないことに対し、アニメ制作の全てを独立で行うようにしたのだ。
極めて陰鬱であり過激なテーマの作品をほとんど1人で作り上げることは無論ながら、その配給や上映にも立ち会う。ところがその上演方法すら通常の方法ではなく、アニメと鑑賞する観客という関係を歪ませるかのような方法を取るなど、日本のアニメ作家の中でも特筆してラディカルな試みをする。その作品や経歴、立ち位置を調べれば調べるほど、この作家こそ本物のインディペンデントを体現する人間に他ならないと確信を抱かせるのだ。
陰鬱の見世物小屋・アンダーグラウンド精神のアニメ
原田浩の作品は冒頭の発言からも察せられるように陰鬱であり、商業アニメでは確実に規制され抑圧される題材を商業アニメの文法によって描く。氏がそのようななぜそのような方向へと向かったかというと、その当時のアニメ業界に対する以下の理由が関係しているという。
アニメに限らずどんなモノづくりにも共通して言えることだが、モノを作る上では数字を度外視して良いモノ、面白いモノにこだわる製作セクションと、これにセーブをかけ、売れるモノ・儲かるモノづくりを実現していく営業セクションとがある。もちろん、良いモノができて売れれば問題はないのだが、往々にしてこの両者は背反する。営業セクションをいかに説得しながら良いモノを作るか、このへんが製作セクションの腕の見せ所になるわけだ。
ところが原田氏によると、アニメの場合、ちょっと雰囲気が違うのだという。営業セクションである局や代理店の保守的な姿勢に対して、製作セクションであるアニメーターはとくに異議申し立てをするでもなく、逆に「好きな仕事をやってるんだから、おカネが貰えるだけでありがたい」と感じてしまうのだ、と彼は言うのである。その結果、局や代理店に対して「主張しない体質」がアニメーターに蔓延し、そこそこのセールスは残せるものの、面白味に欠けた新味のない作品ばかりが作られることになる。そんなふうに原田氏は言うのである。
こうしたアニメ界の閉塞状況に見切りをつけた原田氏は、この世界にはびこる「主張しない体質」を変えることを決意。所属していたプロダクションを飛び出し、「企業には絶対作れない作品づくり」を目標に掲げてアニメの自主製作を開始する。
初期の代表作「二度と目覚めぬ子守歌」は東京デザイナー学院時代の卒業制作だ。そこには実写・写真・タイポグラフィの乱発など80年代当時のアヴァンギャルド手法をふんだんに使う混沌が20分強の中に刻印されている、60年代の日本を背景に、貧乏で家族を亡くしていく悲運の上に異形に生まれた子供が同級生に絡まれ、殴られ続けるという恐ろしく暗い少年時代を描く。
周りのガキに日々異物扱いされ、集団で暴力を受ける少年の鬱屈は、やがて高度経済成長する日本が過去の街並みを発展の中で書き換えていこうとする光景に重なっていく。少年の怒りが頂点に達した時、古き街並みは高速道路に分断され、飛行場が飛び回り時代が変転し過去の風景は破壊されてゆく映像が展開される。これは監督自身の子供のころの経験が関係しているらしい。
当時のぴあフィルムフェスティバルアワードでこの作品はなんと映画監督・石井聰互(現・石井岳龍)が推薦し、入選したという。これも傍目から見れば奇妙な縁としか思えない。石井聰互もまた学生の卒業制作で破壊的なカルト映画「狂い咲きサンダーロード」を制作し、名を上げたからだ。なにか破滅的なところの作家性が共振したとしか見えない逸話だ。
「二度と目覚めぬ子守歌」のこうした評価により、あらたに作品を作り始める。それが今日でもまさに伝説的とされている「地下幻燈劇画 少女椿」だ。
狂気の「地下幻燈劇画 少女椿」興行
「二度と目覚めぬ子守歌」の評価により、あらたに作品を作り始める。それが今日でも伝説的なアニメとされている「地下幻燈劇画 少女椿」だ。丸尾末広を原作とした本作はアニメとしては前代未聞となり、その内容は無論、製作から上映形態まで含め異常な展開を見せる。
製作はそう簡単には進まなかった。製作母体となる映画会社が全く見つからなかったのである。当然といえば当然の話だ。なにせ丸尾版『少女椿』である。紙芝居版『少女椿』とは違い、鼠に性器を食いちぎられる場面にはじまって、フリークスの見世物一座あり児童虐待あり、殺人事件あり強姦ありの無茶苦茶な作品なのだ。一言で言って「火中の栗」を絵に描いたような作品であって、とてもではないがメジャーな製作会社がおいそれと手を出せる作品ではない。製作母体を訪ね歩き、邦画の独立プロからAV製作会社、衛星放送までを歴訪するもけっきょく全滅。「中学生の頃から貯めた」虎の子の貯金300万とプロダクションの退職金を全て注ぎ込んだ上、サラ金からの借金まで導入し、完全自主制作で製作に取りかかることになる。
こうしてほとんど一人で5年の月日をかけて作り上げる。残るは公開するばかりだ。ところが、そこで単なる映画上映を行う選択を取らなかったのである。時はすでに1992年、ソフィスティケートされた時代にあまりにもインモラルかつバイオレンス、スキャンダラスなテーマの「少女椿」はまるで日本に点在したという見世物小屋の再生だ。なんとそこで、そのテーマに乗るように本当に見世物小屋のような形で映画を公開したのだという。
1992年、東京都内。杉並区は下井草の御嶽神社境内に、異様な建造物が出現した。マンガ版『少女椿』に登場する「赤猫座」そのままの見世物小屋が、御嶽神社境内に突如として出現したのである。『地下幻燈劇画・少女椿』は、この「赤猫座」の見世物として世に生まれ落ちたのであった。
つまり『地下幻燈劇画・少女椿』という作品は「アニメ」として単独で公開されたのではなく、「赤猫座興行」という見世物興行の演目として、その第一歩をスタートさせたのである。だが、『地下幻燈劇画・少女椿』のクロスジャンルぶりはこれにとどまらなかった。『地下幻燈劇画・少女椿』はその後も変幻自在の上映形態で、帝都の各地を席巻したのである。
公開の形態はまるで寺山修司や唐十郎のようなアンダーグラウンド演劇の手法をアニメに転化させたかのようだ。それは音楽に寺山作品にも関わっていたJ・Aシーザーが担当したことから、通常のアニメと観客の送受の関係すらも滅茶苦茶にする手法にまで及ぶ。少女に掛けられるどうしようもないくらいのエロス、四肢を失った人間や全身を焼け爛れさせた人間たちの芸事、社会から省かれいないものとして扱われる人間たちや、暗い欲望を見せる見世物小屋としての関係をアニメのジャンルにて展開し、観客たちに味あわせようとしたという。
例えば同年、東京国際ファンタスティック映画祭。ここでは『地下幻燈劇画・少女椿』は70mmスクリーンに拡大映写され、発煙筒とジェットファンで桜吹雪をまき散らして文字通り観客を煙に巻くこととなった。また同年行われた「マンション地下室興行」では、予約をした観客にのみ一般住宅地にある会場への地図を配布。あらかじめ配置された福助人形や、奇怪な人物の徘徊する夕暮の住宅街をくぐって、会場となったマンション地下室へ辿り着くという仕掛けが施された。もちろん会場へ着いてもタダでは済まない。観客はカップルで来ても1人ずつに分断され、地下室内に作られた迷路を蝋燭片手に通ってやっと椅子席へ。ラストでは爆竹が鳴り、強風や桜吹雪、スモークのほか、客席めがけて多数の木材が投げ込まれるという徹底ぶりであったという。
そう、前衛演劇が行っていたラディカルな演者と観客の関係を問いかけるかのような手法をアニメの方面で徹底して実現したのというのだ。それは見世物かそうでないのか。芸術か猥雑か。そうした揺らぎそのものが興行となる。
原田浩と近い世代である幾原邦彦の「少女革命ウテナ」、新房昭之なども商業アニメの中で演出や作劇にそうした寺山修司らのような前衛演劇の方法を導入してきた。台所事情ゆえの作画枚数を絞ったなかで有効なミニマルな演出のためだが、そうやって通常のアニメと観客の関係や解釈をぶらしてきた。
しかし、原田浩はそうした前衛演劇の影響を受けた作家の中でも製作から内容、上演の方法までも含めてアニメのレベルにてアンダーグラウンドのイデオロギーまで含めて全て実現したようなのだ。だが、商業アニメを超えた本物のアンダーグラウンドを実現したアニメには、その暗黒と相応の悲劇が降りかかってくる。
「少女椿」の規制、飛躍、再訪
アンダーグラウンドの前衛演劇的な手法を実現したこのアニメは当時の映画・アニメシーンからほぼ反発・黙殺されていく。その一方で作品が評価されていく中、海外に展開しようとする中で上映までも禁止されていくという事態にまで展開するのだ。
この演出は期せずして、映画界・アニメ界の保守的体質を浮き彫りにしてしまう。映画界からは「卑怯な手法」という批判がいっせいに浴びせられ、いっぽうアニメ界は完全にこのフィルムの存在を無視。さらには1994年、フイルム運搬会社のミスにより、上映フィルムが紛失するという災厄に見舞われたのであった。
皮切りとなったのは1994年、フランスのオルレアンビエンナーレへの招待参加。以降ノルウエー、ドイツ、カナダ、さらにはスペインの地に、『地下幻燈劇画・少女椿』は降臨する。
ところが、なんと運命とは皮肉なものだろうか。この世界への飛躍こそが、思わぬ悲劇のきっかけとなる。1999年、成田税関は『地下幻燈劇画・少女椿』のフイルムを没収。日本国内での上映禁止の指示を出したのであった。没収や上映禁止の理由は非開示。少女椿・みどりちゃんは、哀れにも国家権力の陰謀にかかり、座敷牢に幽閉されてしまったのである。
やがて映倫指定によってヤバいとされる内容のカットが行われ、もともとの60分あった内容は49分弱にまで短縮される。こうした憂き目に遭いながらも、その後2000年にアングラな音楽や演劇、サーカスなどを丸ごとぶちこんだ「闇夜幻燈逆説華祭」のひとつの演目として上映されたり、2012のカナザワ映画祭にて特別仕掛け上映という形で展開される。
1992年のより規制がかかった分、当初のラディカルさは抑え込まれてしまったと見るが、「少女椿」のもつ一回性の演劇的・見世物的体験は今でも企画されているのだ。
原田浩インタビュー 「少女椿」についてを語る
それからのラディカルな活動・そして、今製作される新作
その後の活動で分かることは、2004年に渋谷アップリンクファクトリーにて「海溝庭園」というコンテンポラリーダンスに様々な映像をプロジェクターで投射するパフォーマンスを展開するほか、北京のインディペンデント映画祭にて「妖精浮遊」を出品したという。その他に武蔵野美術大学などで非常勤講師を務めることになる。
商業アニメ界では「妖怪人間ベム」の新バージョンを監督ほかに、様々な作品の絵コンテにも関わる。そうした中でまた新作を作り続けているという。それも2本もだ。
一本目は「座敷牢 特別篇」。これもまた「二度と目覚めぬ子守歌」「少女椿」の系譜のアングラを予感させる。対してもう一本は近藤ようこの漫画作品を原作とした『ホライゾン・ブルー」だ。内容はこうしたものらしく、作家の通史として観るになにか幼少ー少年少女時代からのいじめや虐待といった背景が常に作品のドラマを駆動するテーマとなっている。
原田浩の作品からうかがい知れるのは、それはどうしようもない幼少期の屈辱や憤りの悲劇や感覚だ。だがしかしある種のカタルシスがある。それは鬱屈した感情からスタートしたものが、特に形式的でありモードであるアニメのジャンルのイメージを粉々に破壊していくラディカルな光景を見せるゆえだ。
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書評はこちらに詳しい。映画の上映中にパフォーマンスしたりなどの
仕掛けを施すことはかつてには多かったという。
原田氏の「少女椿」を巡るアニメ上映の逸話のラディカルさは
この本の歴史観に繋がる。
原田浩の商業アニメーション監督作品。
作家の通史を眺めた後で観るとまたなにか妖怪人間たちの境遇にしみじみする。
近藤ようこの原作。原田浩の次回作。完成は2019年との噂