発達障害が遺伝しやすいと言われるのは、まさに生まれつきの障害だからである。
そして親子で、発達障害的な振る舞いが伝染するからである。
遺伝的な素因を子どもに受け渡し、なおかつ悪いお手本まで示すのだから、がっつり再現されるのは当然なのである。
ADHDの親がADHDの子どもを矯正出来るかといえば出来るはずがない。
落ち着きということだけ考えても、「座ってろ」と叫び、竹刀で殴りつけるのがせいぜいである。
落ち着いた人間としてお手本を見せることが出来ない。
落ち着きとは、単に肉体が椅子に座っていればいいのではなく、意識がしっかり据わってなくてはならない。
椅子に座っていても、空想に耽って上の空というのでは、落ち着いてることにはならない。
落ち着くというのは、(一心不乱に集中するという意味での)集中力とは違う。
むしろ集中せずとも、ごく自然に意識がクッキリしていることである。
ADHDの親が、落ち着いて周りを見てじっくり判断しているお手本を示せるわけがない。

われわれの世の中では、他人の人格に改善を促さないことになっている。
変人を見つけたら、いじめるか、いじるか、もしくは親しみを持って面白がるくらいしかない。
(もちろん関わらないというのが一番多いであろう)。
変人を見つけたら改善に乗り出して矯正するということはあり得ない。
人格を改善指導するというのは、人間をメタ的に捉えることだから、人間関係に似つかわしくないのである。
人格の改善を促すのは、ずいぶん独善的であるし、かなりのタブーであろうと思う。
また本人に治す気がないという問題もある。
「君は落ち着きがなくて変人だから改善してあげよう」と言っても、相手は嫌がるであろう。
「上の空をやめよう」「周辺視野をうまく使おう」「衝動的な言動をやめよう」と提案したところで、ADHDの短気さで怒り狂うだけだろう。
いじめとは、相手の欠点を悪化させることだが、それは大丈夫なのである。
他人の人格を改善・指導しようという思い上がりに比べたら、まだ攻撃して悪化させるいじめの方が許される。

欠点を治したくないというのは、人間の強い願望である。
浪費癖を死んでも治したくないというADHDがたくさんいるのである。
お金を使いたいというよりは、ADHDの夢遊病者のような世界観を守りたいのである。
目を醒まして冷静に考えるのがどうしても嫌なのである。
どっちみち生まれつきだから(リタリンやコンサータはあるが)治療が困難であるし、なおかつ親もたいていは発達障害だから、悪いお手本しかない。

「欠点」と言っても、それは常識的に見た場合の話である。
常識がそんなに素晴らしいかという疑問もあるだろうし、すべての人間を無難な性格に改造するべきなのだろうか、という問題もあろう。
たとえば思い込みが激しい性格は(常識的に見れば)欠点であるが、それが仮に治療できるとしても、無難な人間にするべきではないだろう。
だから他人に人格の改善を要求してはいけないし、むかついたらただひたすら攻撃するしかないのだ。







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