寮にて
お久しぶりの環です。
ようやく学園に帰ってきたよ!
「うん。ようやく熱は下がったわね」
体温計の数値をじっと見ていた寮母さんが、嬉しそうに笑った。
ベッドの中で半身を起こしていたあたしはその顔にほっとした。
裏戸学園の女子寮の自室。
あの双子と聖さん誘拐事件から五日ほど経っていた。
あの事件の後、助けを求めて伸ばしたあたしの手を自称神様が取ったと感じた後、その後の記憶はあたしにはない。
次に気がついたときにはあたしは自室のベッドの上にいた。
「よかったわ。本当に。
……まったく、玄関に倒れてるのを見たときは、心臓が止まるかと思ったわ」
少し眉間を顰めた寮母さんの姿にあたしは申し訳なく思い、視線を下ろした。
どうやらあの場所からあたしを連れ出した自称神様は意識のないあたしを荷物と一緒に寮の玄関に放置していったらしい。
忽然と現れたあたしを寮母さんが見つけてくれて、あたしはすぐさま部屋に運ばれ寝かしつけられ、保険医が呼ばれた。あたしは高熱にうなされていたのでその辺の記憶にないけど。
裏戸学園は山奥にあるため、有事の際すぐに駆けつけられる医師免許持ちの保険医が常駐している。
保険医の診察結果は、風邪のための高熱とのこと。しかも肺炎を起こしかけていたらしい。
まあ、もともと風邪気味にあれだけ雨に打たれて、何も対策しなかったのだ。どれだけあたしが丈夫でも、悪化する。
しかし、不思議なことにあの場で負ったはずの傷は綺麗さっぱりなくなっていた。
会長に噛まれた首の傷も綺麗になっていたし、それに何よりあれほど雨に濡れてドロドロになっていた制服もまるでクリーニング後のように綺麗になっており、血の後すらなかった。これは嬉しかった。神様特典だろうか?制服の替えがないあたしには涙が出るほどありがたかった。
とは言え、風邪の方はなんともできなかったらしく、五日間寝込む羽目になった。
今はようやく体調も落ち着いて、少しだるいと感じる程度まで回復していた。
(…それにしても)
今思い出しても不思議な体験だった。
あたしは確かにあの事件の現場にいたのに瞬時にあの寮の玄関に移動していた。
あの場所がどこなのかわからないが、寮母さんがあたしを発見した時間はどう考えてもあの場所から人工の手段であたしを運んだとは思えない時間だった。
それに未だにあたしに吸血鬼側からあの事件についてなんの問い合わせも入っていない。
寝込んでいたというのもあるけれど、寮母さんに聞いてもここ数日あたしを訪ねてきた人間はいない。
あたしがあの場所にいた可能性を知る人間は何人もいる。
会長はあたしを幽霊だと思っていたから除外していいとして、まず聖さんと双子はあたしがあの車に乗っていたのは知っているはずだし、犯人グループもあたしの存在を知っている。
しかし、誰の口からもあたしの存在は外部に漏れていないのだ。
最初の三日ほどなら現場の人間が混乱して、言うのを忘れていた可能性があるが、流石に五日も過ぎてなんの音沙汰もないというのは不気味すぎた。
自称神様はあたしを助けるため、何をしたのか今のあたしに知る術はない。けれど不気味な焦燥感だけが胸に残る。
あの自称神様にあの時やむを得ず縋ってしまったけれど、一体何者なのだろう。
本当に神様?
(いや、そんな無害な感じじゃない…)
思い出しながら、背筋が寒くなるのを感じた。
彼はあたしの味方と言っていたけれど、その視線はまるで虫けらでも見るような酷薄なものに感じた。
神様というよりまるで悪魔だ。願いを叶える代わりに理不尽な対価を要求する。
あたしは彼に一体何の代償を払う羽目になるのだろう。
「…きさん?多岐さん?」
突然呼ばれた名前に思考の海から引き上げられた。
目を瞬かせれば、寮母さんの心配そうな顔があった。
「顔色悪いようだけど、大丈夫?また熱でも上がったのかしら?また測る?」
再び体温計を渡そうとする寮母さんにここ五日間で感じた彼女の過保護ぶりを思い出す。
夜中に目が覚めて、喉が渇いて食堂に水を飲みに行っただけなのに、あたしを寮中探し回ったり、少しでも外に出ようとすると飛んできてベッドに叩き込んだ。
トイレに行くのも彼女の許可なしに行けなかった。
ここ五日間あたしはマトモにこの部屋を出られなかったのだ。
これで、また熱が上がったとか言えば、あと何日閉じ込められるかわからない。
「あ、いえ。だ、大丈夫です。元気ですから!ぶり返したわけではないです」
あたしの言葉に疑わしそうに睨んでいたが、寮母さんは納得したのか体温計をケースに収めてくれた。
「だったら測らないけど、きつくなったら絶対に言うのよ?」
気遣いはとても嬉しくて、あたしはベッドの上で頭を下げた。
「…すみません。ご迷惑おかけして」
「まったく、本当よ?体調悪いのに無理して帰ってこなくても良かったのに。
きっとそこで悪化したんだわ。
いくらお友達の家に行っていたとは言え、無理して戻ることもないでしょう?
届けではあと一泊するつもりだったのでしょう?」
寮母さんの咎めるような視線に、あたしは何も言い返すことはできなかった。
だからといって、本当のことは言えない。
「それは、友達に迷惑かけられませんし、出るときには倒れるほど体調が悪かったわけでは…」
「それを過信というのよ?他人に迷惑をかけたくないのはわかるけど、それで倒れたら意味はないでしょう?自立心は大切だけど、体調を自己管理できるようになってから言いなさい。わかった?」
くどくどと母親のように言われて、あたしは苦笑しながら頷いた。
本当にわかってるのか、とでも言うように眉をひそめる寮母さんの姿に心が温かくなるのを感じる。彼女はこの学園で数少ないあたしを心配してくれる人だ。
もちろん彼女は全ての寮生の母親なので、あたし一人を特別にしてくれているわけではないけど、毎日「おかえり」を言ってくれる彼女の存在はあたしにとって救いだった。
「それにしても本当に熱が下がってくれて助かったわ。あたしも仕事があるから付きっきりになれなかったし」
「…それは本当に申し訳ありません」
「あら、やだ。そんなつもりで言ったわけじゃないのよ?むしろ付いていてあげられなくてこっちがごめんなさいなのよ。
病気している時に一人でいるのがどんなに心細いか。ルームメイトがいれば安心して任せられるんだけど」
寮母さんの言葉に、あたしはげんなりする。
やめてくれ。聖さんなんかに看病された日にはむしろ悪化する。
そりゃ彼女の女子力を考えれば、多分完璧に看護してくれるだろうが、その前に胃に穴が空いて、血反吐吐きそうだ。
実は今、聖さんは寮にいない。というより、もう二度と帰ってこないだろうな。
「…まさか聖さんが特別寮に突然引越しなんて、ねえ」
長い間、寮母しているけど、こんな短期間にあちらに移る女子生徒は初めて、とどこか感慨深げにため息をつく寮母さんにあたしは内心の笑みを押し殺すのに必死だった。
そうなのです!とうとうやったのだ!
あたしは今や聖さんのルームメイトではないのだ!
あの事件の後、双子と共に救出された聖さんは一度も寮に帰ってきていなかった。そしてついさっき知らされたことなのだが、彼女はこの寮から特別寮への転寮が決まったのだ。
特別寮とは月下騎士、及びその親衛隊である近衛階級のみが入ることを許された寮だ。階級が上がるだけでなく、月下騎士にも近い。一般女子にとって名誉ある大出世というわけだ。
おそらく聖さんは今回の件で吸血鬼サイドに『吸血鬼の花嫁』ということがバレたのだと思う。<古き日の花嫁>とはバレていないとは思うけどね。あれを知るのはそれに関わった緑水自身とその叔父だけだ。
ゲームでも彼女は途中から寮から特別寮に移るストーリー展開はあったから間違いはないだろう。まあ、ここまで早いとは思っていなかったけど。
まだようやく四月が終わろうとしている頃だ。
ゲーム中では共通ルートから個別ルートに移る際に発生するイベントだったし、大体二学期頃の予定だったから、聞いたときは本気で驚いた。
だが、そんなことは些細なこと。
重要なことは、今あたしが生きてこの日を迎えたことだ。
やった、やってやったぞ!これであたしは聖さんのルームメイトなんぞという死亡フラグ満載の立場から解放されたんだ!
とはいえ学園壊滅エンドなど、皆殺しエンドは健在なので、完全に我関せずを通すわけにもいかない。ほどほどに聖さんを観察し、変なルートにいかないよう見張らなくては。
それでも寮が違えば、これまでのようにベッタリと接することはなくなる。
なにより、これであたしに月下騎士との繋がりがなくなる。
ここ最近の彼らとの接触を思いだし、一抹の寂しさが胸をよぎるが、その思いこそが苦かった。
(…聖さんが来てから、一月弱か)
聖さんが来てまだ一ヶ月も経っていない。
それなのにその短い間にあたしは聖さんを通して月下騎士会に近づき過ぎた。
腹立たしかったり、気に食わなかったり、苛々したり。
彼らの金持ち特有の傍若無人さに振り回されながらも、ゲームの知識から知れる彼らの過去と想いにあたしは知らない間に同情に似た想いを抱き始めていた。
たったひと月前には雲の上の人、とただ画面を通してみる芸能人に対する意識で見ていた人たちなのに。
しかも、それはあたしなんかが知っていてよいことではない。明らかに彼らのプライベートに踏み込みすぎている内容だ。
彼らの想いも彼らの苦しみもその原因となった存在も何もかもあたしは知っている。
だが、知っているだけだ。知っているだけで何もできない。
実際に数日前の事件など、あたしにはどうすることもできなかった。
一度だけ役に立ったゲームの知識だが、結局それも会長の力を借りただけだ。最後など得体のしれない自称神様の力を借りて一人だけ逃げ出した。
誰も救わない、誰も救われない。あたしが動いてもただ自分が死なないようにするくらいしかできない。
彼らをあの酷い過去と未来から救うことが出来るのはただひとり、ゲームの主人公だけだ。これ以上あたしは自分の無力さを思い知りたくない。
「…多岐さん?大丈夫?」
突然寮母さんの心配そうな顔が目に入り、思考に一瞬沈んでいたあたしは目を見開いた。
「え?なにがですか?」
「なんだか泣きそうな顔していたから。…熱、また上がってきた?」
心配そうな寮母さんの顔にあたしは慌てて首を振った。
ううう、変な心配させちゃったな。なんだか熱が下がったとはいえ、まだ完全じゃないから神経質になっているようだ。
心配させないように、できるだけ声だけでも明るく微笑んだ。
「いえ、大丈夫です」
「…本当に?最近の多岐さんは心配だわ。何度も倒れているし。一度病院で精密検査を受けたほうがいいんじゃない?」
心配性の寮母さんにあたしは首を振った。
流石にそんなことになれば、心配性の母に強制入院させられてしまうかもしれない。
それにそんな余裕は家にないことをあたしは知っている。
ついでに学校でのことがバレたら退学に追いやられる。
それはごめんだ。
「原因はわかってるんで大丈夫ですよ。先生もただの風邪だって言っていたのでしょう?」
「でも心配だわ?貴方これからまた一人なのよ?なんでよりにもよって聖さんなのかしら。せっかくできたルームメイトだったのに」
寮母さんの心配そうな顔に、あたしはむしろ罪悪感を感じた。
あたしは内心大歓迎なのだ。盛大にお祝いを開いて喜ぶべきことです。なんなら自腹きってデパートでターキー買ってお祝いしたって良いくらいだ。
だが、病気のあたしにここ数日仕事の合間に色々世話を焼いてくれた彼女にそんなことを言えなかった。
「大丈夫ですよ。これまでも一人でしたし、慣れてますから」
笑って答えれば、ますます寮母さんに憐憫の視線を向けられた。
「そんな、強がらなくてもいいのよ?あなたたち私から見ていても本当に仲の良いルームメイトだったもの」
寮母さんの言葉に顔が引き攣りそうになるのをあたしは必死で抑えた。
いや、寮母さん。それ見る目ないです。どの辺を見て仲がよかったと?
完全にあたしは聖さんに振り回されていたし、あたしは彼女から逃げ回っていたと思うのだが。
あたしは内心を必死でごまかすため、視線を伏せた。
「…確かに彼女はうざ…いえ、賑やかで存在感ありましたから。
しばらくいないことに違和感を感じるでしょうし、寂しいとは思いますけど。
聖さんのことは名誉なことですし、喜ばしいことでしょう?」
死亡フラグとかそれは総無視して、本心からそう思う。
一般の生徒が近衛階級に上がるのはひとつの奇跡だ。
実は現在特別寮にいる女子生徒は全て月下騎士にとって親同士が決めた許嫁だったりする。過去のほとんどはそうで、彼女たちは生まれながらに特別寮入りが決められている。誰でもなれる地位と謳っているが、どの家に生まれたかですでに決まっていると言ってもよい身分なのだ。そのため特別寮は、月下騎士に似合うだけの地位の親を持つお嬢様が入る寮と言うイメージが強い場所なのだ。
もちろんそうじゃない女子もいるが、過去の例を見てもごく少数だ。
それ故に、市民階級上がりの親衛隊は特に学園女子から特別視される。月下騎士に見初められ、上級社会の仲間入りをするシンデレラガールとして羨望と嫉妬の視線に晒される。
ううう、考えただけでも自分でなくて良かったと思う。
だが、聖さんならやれるとも思う。あのKYっぷりならその視線にも堂々と耐え抜くだろう。
さらば聖さん。あたしは貴方の背中でも遠くから生暖かく見守っていくよ。
「あたしはそんな聖さんを、ルームメイトとして誇りに思います」
「…環ちゃん。そんなにあたしのこと…」
突然聞こえたよく知る声に、あたしの心臓が嫌な音を立てた。
あれ?なんだろう?この声。もう二度とここで聞くことはないって思ってたのに。
…ああ、幻聴だな。幻聴。幻聴に違いない。
だが、幻聴は止まない。
「や、やっぱり、あたし引っ越すのやめる~!環ちゃんと一緒にいたいよ~!」
幻聴の主は呆気にとられるあたしと寮母さんを無視して、ベッドで体を起こしていたあたしに飛びついた。病み上がりの体が支えきれず、ベッドにまとめて倒れ込んでしまった。お、重い苦しい…。
だがその感覚が、これが現実だと思い知らせてくる。
「…ひ、聖さん。どうして…?」
「わああああん、環ちゃん!会いたかったよぉ!」
彼女の下から聞いても、彼女は泣きじゃくるだけで答えてくれない。
そんなあたしたちをなぜか寮母さんは微笑ましそうに涙ぐんでいる。
いや、助けてくださいよ!
死亡フラグ再び?
ってなわけで、次回あの人登場でさらに場が大混乱。
-------------------------------
-------------------------------
[拍手してやる]
7/20 新しいSS拍手公開。但し鬱系になりますのでご注意を。(7/27全五話アップ)拍手2回すると出ます。
+注意+
特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。
この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。